第16話 恋を、学ぶ。
二月。
あっという間に時間は過ぎた。
私が口頭審問で教授たちに反対を受けてから、院進を決意して、さらに名木橋先生に卒論指導をしてもらっている内に、一月は過ぎ去っていった。
受けている講義の期末テストや課題もそつなくこなし、無事、春休みに入った。
バレンタインが近づいてきた。
去年は、彼氏がいた。だから上げた。手作りのチョコレートを。お菓子作りは料理と違って本当に技術が必要だから、あまり好きじゃないけれど、まぁ、好きな男子のためだし、一生懸命やってやった。
今年は……とカレンダーを見て、ため息が出る。
多分、何も知らなかったら、私は名木橋先生にチョコを上げていたんだと思う。
お世話になっているお礼と、好意も込めて。
もしかしたらチョコに乗っかって告白なんてこともしたかもしれない。
けれど先生には「明」「あかり」なんて呼び合えるような女性がいて、私なんかが入る隙なんかどこにもないのが現実だった。
あの女性のかわいらしいことと言ったら。
私なんか、何だ。ただ乳がでかいだけの乳袋女だ。
あの女性に勝てるところなんて何もない。
嫌になっている内にバレンタインデーが来た。バレンタイン当日の三日くらい前に、「これはゼミの方々へ、これはゼミの方々へ」と自己暗示をかけながらチョコを一〇袋くらい作って、持っていった。
実際、椎名ゼミ含め国文学科のゼミは毎年二月の半ばになると、新しい三年生のゼミ選びの為に春期講習会を開くので、春休みと言えどもゼミの活動はあるのだ。
強制参加ではないが、ゼミによる活動は成績判定の基準になるので、新四年生は就活の隙間を縫ってこの活動に参加する……もっとも私の場合は就活をやめたので暇と言えば暇だったが……。
新三年生がきょろきょろしながら椎名先生含め、国文学科の教授たちの特別講義を受けるのを、手伝う。
やることはレジュメを配ったり、ディスカッションに参加して議論を先導したりと、TA(Teaching Assistant)みたいなことをする。
多分、あの粟島先生に噛みつき返したからだろう。
椎名先生の特別講義の後、私のところには新三年生の質問が殺到した。
「どうして乱歩に決めたんですか?」
「すごい覚悟でしたね。どうやって腹括ったんですか?」
「粟島先生と仲悪いんですか?」
「えーっと……」
私はそうした質問に、結構適当に答えた。本当は乱歩に決めた理由も、粟島先生と喧嘩してまでテーマを変えなかった理由も、ちゃんとあったのだが。
しかし私は、怖かった。
その決意の理由に、あの名木橋准教授が絡んでいることを話すのが。
名木橋先生のことを話題に上げるのが。
何だかもう、届かない存在になってしまいそうで。
せめて私の記憶の中だけでは、あの先生は、私に優しく心理学的知見を教えてくれて、学びの世界へと導いてくれる……そんな存在でいて欲しかった。
それでもやっぱり、思い出してしまう。
ツンデレなメール……今時、メールだよ? LINEやTwitterじゃなくて……、かわいい趣味、クールな仕草、にやりと笑った悪そうな顔。
春期講習会が終わった後、新四年生に向けた簡単な打ち上げがあったのだが、私はその席で一人、孤立していた。
椎名ゼミで……というか、私の代の国文学科生で院進をするのは私だけだったし、他の子たちは皆就活の話で盛り上がっていた。
「ちょっと。何暗い顔してんの」
里見だった。打ち上げも半分くらい時間が過ぎた頃。発泡酒片手に私の席の近くに寄ってくると、里見はにかっと笑った。私は薄っすら笑い返した。
「やっほ」
「最近LINEしても返事ないし、Twitterもほとんどつぶやかないし、心配してたんだから」
ぐい、とお酒を飲む里見。
「あんた、院行くんだって? どうして私に話してくれなかったの」
どうやら大事な進路選択について里見に話さなかったことが心外だったらしい。彼女はちょっと頬を膨らませると私の隣に座った。
「どうした? 何かあった?」
私の表情が暗いことを察知してくれたのだろう。里見は私の顔を覗き込んできた。
あ。今、私、まなざされている。
そんなことを思ってしまう自分が嫌だった。
「里見……」
思わず、泣き出す。多分お酒が入って感情の抑制がきかなくなっていたのだろう。涙が溢れて止まらなかった。
「あらあら、どうしたの……」
里見が胸を貸してくれる。他の人には見えないように、自らの体で私のことをかばってくれた。その優しさもまた嬉しくて、私はポロポロ泣いた。ひとしきり泣いて感情がすっきりしたところで、私は口を開いた。
「失恋しちゃったぁ」
「失恋? あんた恋してたの?」
誰に? と訊いてこない辺り、里見も気を遣ったのだろう。そんな里見に、私は作ってきたチョコを上げた。
「これあげるぅ」
「チョコ? ありがとう」
それからしばらく、女二人、体を寄せ合って過ごした。
打ち上げも終わり、三々五々帰り支度を始めると、私は里見に、「ちょっと付き合って」とつぶやいた。里見はすぐ、「いいよ」と返してくれた。
奇跡的に、だろうか。
偶然に、だろうか。
それとも無意識下で用意していたのだろうか。
チョコが一個余っていた。
私は鞄の中のそれを意識しながら、里見を連れ、心理学部棟の方を目指した。
里見は黙ってついてきてくれた。
心理学部棟の前で、立ち尽くす。春休みでも院生や教授たちは研究をしているのだろう。部屋に明かりがついていて、私たちのいる地上に光を落としていた。
「そういや、あんたの卒論、心理学絡んでたね」
里見がつぶやく。それで全てを察してくれたのだろうか。彼女は黙って私の頭を押さえると、自らの肩に寄せた。
「私の知らないところで心理学部のイケメンと恋したな……?」
「うわーん」
しばらく、そうして過ごす。里見はじっと肩を貸してくれていた。
鞄の中のチョコを思い出す。
最悪、これを二〇三号室の前に置いていこう。
踏まれてもいい。誰かに取られてもいい。置いて行くことに、意味が……。
と、心理学部棟のドアが開いたのは、その時だった。
きい、という音で気づいた。慌てて私は里見の陰に隠れる。
ドアから出てきた人物。それは、あの名木橋准教授だった。
すっと背筋の伸びたいい姿勢で、片手にタブレットを持ち、歩いている。着ているスーツは相変わらず上等そうなもの。真っ直ぐ前を見つめている。
私のことには……、と考え、ふと、里見の後ろから身を乗り出す。
多分、今しかない。
この恋に、決着をつけるのは。
「先生……!」
声をかける。立ち止まる先生。
「おや、君は……」と口を開いた先生の手に、チョコを押し付ける。
「ありがとうございました!」
我ながら意味不明なコメントを残す。が、それ以上言葉が出てこなかった。
ひったくりの逆バージョンみたいな勢いで先生の手にチョコを押し付けた私は、すごい速さで里見の元へと戻り、彼女の手を引いて心理学部棟の前を離れた。
里見は黙ってついてきてくれた。
うちの大学は、冬季限定で、大学からモノレール駅に向かうまでの道をイルミネーションで飾る。
まばゆい光の中、私と里見は夜の闇を割くように歩いていった。
駅に着いてから、里見が口を開いた。
「失恋したね」
私は笑った。
「うん。失恋した」
モノレールが滑り込んできた。私と里見は人の波をやり過ごすと、黙って、それに乗った。
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