第15話 恋人、登場。

「君の研究に活きるのは第六章、『まなざしの病理』だな」

「『まなざしの病理』」


 何が書かれていたっけ? と首を傾げる私に、先生は、

「ほら、全部読んでしまったから必要な時に必要な情報が思い出せない」

 と笑った。


「えーっと、『メドゥサ・コンプレックス』!」

 何とか本にあった言葉を引っ張り出してくる。けれど、それが何を意味するのかは分からない。


「そう。著者の福井康之氏の造語だね。『エディプス・コンプレックス』から来ている言葉だろうけど……この辺の解説は省略。興味があったら心理学部の講義を受けに来てくれ」


「『エディプス・コンプレックス』、聞いたことあります!」


 確か、基礎教養の心理学の講義で聞いたんだっけな? 文学部に来ている心理学講師は変なおじさんで、「男根期」という言葉をしきりに強調していたから気持ち悪く思っていたのを覚えている。


「有名な言葉だからな。心理学の父、フロイトが編み出した言葉だ。フロイトの提唱した説には批判も多いが、脳科学の立場から見るとなかなか前衛的ともとれる意見も多い。例えば……」


 名木橋先生は息を継ぐと自分の脚をぱんぱん、と叩いた。


「脚、だ」

「脚」私は鸚鵡返しする。


「そう。脚。触られるとどう思う。嫌だろ? それと例えば、変なおっさんに『綺麗な脚だね』って言われるとぞっとするだろ?」


 する。だから頷いた。


「脚は性的な情報と結びつきやすい。その理由を、フロイトは『脚は男根の象徴だからだ』としたが、脳科学的に見てこれは部分的に正しい」


 同じ「男根」でも先生が口にすると不快感ないな。不思議。なんてことを、思いながら私は首を傾げる。


「部分的に?」

「ああ。脳地図、って知ってるか」

「知りません」


 名木橋先生は口元をきゅっと結ぶと先を続けた。


「簡単に言うと、脳の部位が体のどこを担当しているか、とか、脳の部位がそれぞれどんな機能を持っているか、を模式的にあらわした図のことだ。この脳地図によると、脚の皮膚感覚を担当する脳領域と、性器の皮膚感覚を担当する脳領域は近い」


 言いたいことが朧げながらに分かってきた気がする。


「……つまり、脚を刺激されると、近くにあった性器の脳領域も刺激される?」


 名木橋先生はにやりと笑った。


「察しがいいな。その通り」

 だから足が男根に近い、というのはある意味で正しかったことが証明される。

 先生の言葉に納得した私は「なるほどぉ」と頷いた。


 まぁ、脳科学の講義はこのくらいにして、と、先生は閑話休題する。


「『メドゥサ・コンプレックス』とは、他者のまなざしの前で、緊張の極致に達するのではないかという対人不安的青年心理のあらわれのこと、だったかな。私も随分前にこの本を読んだきりだから忘れてしまった」


 本をめくる名木橋先生。私は質問を投げかける。

「その『メドゥサ・コンプレックス』が私の研究に関係あると?」

「いや、関係ない」


 ……ないんかい! 


「君が第六章の象徴的な言葉として『メドゥサ・コンプレックス』を引き合いに出したから少し解説しただけだ。私が思う君の研究に活きる部分は、視線恐怖について」


 視線恐怖。確か、他人の視線を気にするあまり適切な対人関係が結べなくなっている状態、のことだったかな。他人の視線を恐れる他者視線恐怖と、自分の視線が他人に不快感を与えてないか気になる自己視線恐怖、の二つを筆者は提唱していた気がする。


「章の中で引き合いに出されている、視線恐怖や対人恐怖の患者の症例もしっかり読んでおくといい……症例『ナディア』と、症例『ツュント』だったかな」


 本をめくりながら先生は続ける。


「そうだな、後は、注察妄想に関する記述も、読んでおくといいかな」


 注察妄想。自分が他者から観察され、監視されているのではないかという不安的妄想のこと、だったかな。

 私は一生懸命記憶の中から言葉の意味を引っ張り出す。


「君が言った第八章『まなざしの文学』の記述も全く意味がないわけではない。特に、この記述は注目すべきだな。引用文だが」


 そこにはこうあった。


 ――地獄とは、他人のことだ。


「第八章で言うと、さらに安部公房の『箱男』に関する記述はきっと活きる」


 私はここに来て、自分がメモを取っていなかったことに気づく。慌てて荷物の中からノートを取り出し、メモる。


 視線恐怖。

 注察妄想。

 他人、地獄。

 『箱男』。


 後、何となく、「脳領域、脚と性器が近い」もメモを取っておく。


 そんな様子を見て、先生が笑う。

「『箱男』で特徴的な記述はこれだ。『まなざされずにまなざせるか』」


 どきりとした。昨日私がお風呂で思った言葉だったからだ。何だか先生に裸を見られているような気分になって、胸が狭くなった。私、頬赤くなってないかな。そんな、『まなざしの心理学』で言う赤面恐怖に似た感情を抱く。


「以上の箇所を集中してもう一回読み直してみろ。そして、乱歩の『覗き見』という描写にどういう意味があったのか、考えてみるんだ」

「……はい!」一生懸命メモを取る。


「そもそも『覗き見』という行為自体が、先程も言った『まなざされずにまなざせるか』を追求した行為なんだ。そこに着目すると、乱歩のしたかったこと、乱歩の心理が見えてくるかもしれない」


 それと……。と、先生は続けた。


「君がもし、『覗き見』されていたらどう思うか。君は女性だから多分、『見られる』ことには慣れているはずだ。違うかね?」


 ……実はこの時、先生の目線が一瞬、私の胸元に寄せられているのを私は感知していた。私は少し姿勢を正す。少しでも、大きく美しく見えるように。


「序章の『まなざしの意味』も読んでおくとまとめやすいかもな。あそこにはまなざすことの意味がまとめられて……ん?」


 不意に、先生が研究室の入り口に目線を移す。私もつられて振り返った。二人の視線の先で、研究室の入り口のドアが、開かれた。


「明……?」女性の声だった。


「いるの……?」ドアをうす開きにして、訊いてくる。名木橋先生が答える。

「いる」

「入るよ」

「うん」


 入ってきたのは、女性だった。すごくかわいい。びっくりしてるのか、っていうくらいパッチリした目に、色白な肌。厚いけどいやらしくない、セクシーな唇。ロングの茶髪。首元にはネックレス。すらりと伸びた脚は黒のスラックスに包まれている。上品かつクールな白のジャケットを着ている。片手には畳まれたコート。そんな女性が、研究室に入ってきた。


 ひと目で思った。私と違う次元にいる女性だ、と。


「……学生さん?」

 女性が訊いてくる。名木橋先生は答える。

「そうだ。卒論指導をしている」


「ああ、もうそんな時期だね」女性が笑う。

「懐かしいなぁ。私も明に指導してもらったっけ」

 女性は、自分が着ていたジャケットを脱いで、コートと一緒にハンガーにかける。


 その手つきが、妙に手馴れている気がした。この人、この研究室に来るの初めてじゃない……。そう、判断できた。


「明、私もコーヒー、もらいたい」


 先生のことを、「明」って呼ぶ。

 それに、コーヒーもらいたいって……。


「あかり。今来客中で……」

「えー、いいじゃない」

 

 先生も下の名前で呼んでいる。すごく、親しげ。それにこの美しさ。

 

 もしかして……。

 その予感が、何故か私のお尻を浮かせた。


「あ、あの……」気づけば私は口走っていた。

「私、帰ります……」


「あら」女性が口に手を当てる。「もう?」

「はい」私は慌てて荷物を手に取った。


「名木橋先生、卒論指導ありがとうございました。あの……失礼します!」


 先生はぽかんとして私のことを見ていた。そんな視線を尻目に、私は大慌てで二〇三号室を飛び出した。


 速足で、心理学部棟から離れる。


 唇を一生懸命結んだ。目が潤んでくるのを一生懸命我慢した。

 赤いワンピースを着ている自分が馬鹿みたいだった。

 何よ、私、スカート嫌いなのに。


 そう、思った。

 そして自分の本心に気づく。

 心理学の講義なんて受けたからだろう。自分の心を一生懸命分析する自分がいた。


 私が嫌いなスカートを着たことは、おそらく男性の注意を惹きたいという願望があったからで、そしてその男性とは、他の誰でもない、名木橋先生のことで……。


 う、うええ。


 気づけば泣き出しそうになっていた。モノレール駅の方に向かって歩き出す。

 途中、駅の近くを走る道路が見えたのだが、そこで私は、猫の死体を目にした。


 多分車に轢かれたのだろう。ぐちゃぐちゃになったその死体は、何だか私の気持ちをあらわしているみたいで見ていられなかった。

 

 私は一生懸命に歩いて改札へと向かった。多分、朝の八時過ぎだったからだろう。駅からは大学に向かうたくさんの学生がいた。


 私は人の波を縫って歩いていった。ヒールローファーがかつかつと悲しい音を響かせていた。

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