第14話 第八章と、ビリー。
朝七時ってまだ正門開いてないじゃん!
午前六時五〇分。大学の正門前に来た私は思った。うちの大学の開門は午前八時だ。そんな事実に……知ってはいたのだが……今更気づく。
え、どうしよ。一時間も待つの?
お気に入りの真っ赤なワンピースにばっちりメイクの私は腕時計を見て狼狽える。手には卒論資料が入った紙袋。よりによって足元はヒールローファー。歩くことに向いていない。
うちの大学は構内にモノレール駅が接続している関係で、駅を出てすぐ正門がある。駅の中にあるのはファミリーマートが一軒。さすがにコンビニじゃ一時間は潰せない。
「えー、どうしよう……」
と、迷っているといきなり背後から肩を強く叩かれた。
なになに? ナンパ? こんなところで?
そう思って振り返ると、そこには名木橋先生がいた。
「わ! びっくりした。いつの間に」
先生はにやりと笑う。
「人の背後に回るの、得意なんだ」
「何ですかその殺し屋みたいな能力」
先生は笑ったまま続けた。
「こっちだ。職員専用通路がある」
先生に連れられ、モノレール駅を降りて、歩道を歩く。
車用の出入り口の脇に、職員用出入り口はあった。名木橋先生は門の近くに立ち尽くしていた守衛さんに挨拶する。
「おはようございます」
「おや、今日はお連れさんがいるようですね」
守衛さんはにこやかな顔をする。すると名木橋先生は冗談っぽく笑う。
「彼女です」
ぼかん。
頭が爆発しそうだった。
そんなちょっとしたイベントの後、私は名木橋先生にくっついて心理学部棟を目指した。
結局先生に連れられるなら、部屋番号教えてくれる意味なかったじゃん。
そんなことを思う。
まだ心理学部棟も開いていない時間だったのだろう。名木橋先生は、棟入り口のドアに鍵を差し込むと解錠し、中に入った。棟内は明かりもついていない。
まるで暗い洞窟のような廊下を、名木橋先生と二人で、歩く。
それだけで気持ちはドキドキしていた。
「ここだ」
心理学部棟、二階、三号室。
名木橋明の研究室があった。
「靴は履いたままでいい。荷物はそこに置け。私はコーヒーを飲むが君は?」
早口でそうまくしたてられる。私は慌てて返事をする。
「わ、わ、私もコーヒーを……」
「ミルクは?」
「い、いりません……!」
まるで初めて彼氏の部屋に来た時みたいだ。そんなことを思う。先生は全然彼氏なんかじゃないし、私なんかが付き合おうなんておこがましい話なのだが。
でも、先生、さっき私のこと「彼女」って……。
言われた場所に荷物を置く。私は名木橋研究室の中を見渡した。
広さは六畳ほど。部屋に入ってすぐ、両サイドを大きな本棚で囲っていた。
本棚の中には、脳科学の本、心理学の本、社会学の本、色々あった。
そして、骨格標本。
首から「ビリー」という名札が下げられた骸骨が本棚の脇に置かれていた。
デスクは、部屋入って真正面にある窓のすぐ近くに置かれていた。デスクトップパソコンが一台と、モニター。それから、妙なしっぽのようなものがついた毛だるまがひとつ。
「何ですかその毛だるま」
「撫でてみろ」
言われるままに、毛だるまを撫でる。するとしっぽが動いた。ぴょこぴょこ。かわいい仕草だ。
「かわいいだろ」
そう、言われる。何だしそれ。そんなこと言ってる先生の方がかわいいし。
「椅子はそこにある。適当に座れ」
ごぼごぼとお湯が沸く音がする。先生がコーヒーを淹れてくれているのだ。私がぼけっと椅子に座っていると、先生がコーヒーとお茶菓子……ティムタム……を出してきてくれた。ちらりと私の方を見て、確認する。
「甘いものは平気か」
「大好きです!」
「私もだ」
へぇ、甘党なんだ。そんなことを思う。むしろ辛党で、コーヒーもがんがんブラックで飲んでいそうな雰囲気あるのにな。そんな私の感想をよそに、自分のコーヒーにミルクを注ぐ先生。
「先生はお酒、飲まれないんですか?」
甘党であることから類推を働かせる。しかし先生は、ちらりと窓際に目をやる。
ウィスキーの瓶がひとつ、置かれていた。
「学部長には内緒だ」
にやりと笑う先生。私もつられて笑う。
「さて、今日君をここに呼んだのは他でもない。君の卒論についてだ」
名木橋先生は不意に立ち上がると本棚に近づき、一冊の本を手に取った。
『まなざしの心理学』だった。
「私のモットーは、『やるなら最後までやる』だ」
本を片手にクールに言ってのける先生。
「私は君の卒論指導をしてしまった。だから、最後までやる。いいな?」
どうやら私の卒業論文に介入することへの同意を取っているらしい。むしろありがたいので、私はぶんぶんと頷いた。
「よろしくお願いします!」
「よろしい。まずはこの本についてだ。どこまで読んだ?」
「全部です!」
「全部」
先生は鸚鵡返しした。
「はい。中でも、第八章の『まなざしの文学』は読んでいて面白い章でした。多分、私の研究にも……」
「いやいや、君、やりすぎだ」
先生は首を横に振った。
「国文学科……いや、文学部の悪い癖かもな。本は全部読まないと意味がないと思っているだろ?」
「へ? そうじゃないんですか?」
すると先生はまた悪そうな笑顔を浮かべた。
「本は古のデバイスだ。スマホと同じ。スマホによる情報が取捨選択が必要なように、本による情報も取捨選択が必要だ」
そして先生は、『まなざしの心理学』の目次を開いて、告げた。
「私の考えでは、君の研究に活きるのは第六章、『まなざしの病理』だな」
「『まなざしの病理』」
……何が書かれていたっけ?
一生懸命記憶を辿る私を、ビリーが眺めている……気がした。
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