第13話 お風呂に、沈む。
口頭審問で教授たちにこてんぱんにされたその日、私は父に進路相談をした。
はねっ返り。ただ教授たちに挑発されたから勉強したくなっただけ。単純過ぎ。単細胞生物かよ。
私にかける言葉は山ほどあると思う。
けれど今は、そんなことは一切忘れて、お風呂に入るのである。
父と酒を飲んだ都合で、その日はかなり遅い時間にお風呂に入った。二三時。もう少しで日付が変わりそうだ。
服を脱ぐ。丁寧に、慎重に。
それは、服を大切にする、という意味を込めるのと同時に、自分を大切にする意味もある。
考えてみてほしい。大切なものって、パッケージを開ける時も丁寧にするでしょう?
それと、同じ。私は自分を丁寧に扱う。
寒さに縮こまりながらシャワーを使って体を洗う。私は洗顔料で落ちる化粧品を使っているので、クレンジングはほとんど使うことがない。
シャンプーをして、リンスをして、顔を洗って、体を洗って、二、三分シャワーを浴びて体を熱に慣らすと、私は湯船に沈んだ。
ふわ。
思わず、そんな声が出る。
私はお風呂でもスマホを弄る。ビニール袋に入れたスマホを洗面器の中に入れて、浮かべる。
お気に入りのYouTuberのチャンネルをチェックして、タイムラインにピックアップされた動画の中から面白そうなものを見つけて、眺める。
時々、もしこのスマホがハッキングされて、私のあられもない姿が全世界に配信されたら、と思うことがある。
……まるで、まなざされたいみたいじゃん。
『まなざしの心理学』を読んだ今、そんなことを考えて笑ってしまう。全世界配信、とは、まさに全世界の人間に「覗き」を許可しているようなものだ。何せ、「こちらはまなざせないのに向こうはまなざせる」という状態を作り上げるのだから。
美容系YouTuberの動画を眺めながら、ふと、この人たちは自分の姿を全世界に晒すことに抵抗はないのだろうか、と考える。
ないんだろうな。そうじゃなかったらこんなことできない。
私は、と考える。私は自分の容姿を全世界に配信する度胸はない。そりゃ、どこかしらのパーツで見ればそれなりに目を引くのだろうけど……特に、胸とか……、でも全世界の方々に比べたら大したことはない。むしろ、私程度の人間なんて山ほどいる。
と、軽い自己嫌悪に浸っていたところで着信音が浴室の中に響いた。スマホの中でもポップアップが表示され、メールの着信を告げる。
〈口頭審問、今日だろ?〉
そんな件名でメールを送ってきたのは、他でもない、あの名木橋先生だった。
〈どうだった?〉
件名より短い本文の内容に、思わず笑いそうになる。私は浮き浮きとメールに返信する。
〈大変でした。粟島教授と仁科教授っていう人に、『乱歩なんか扱うのか』って反対されて。でも、めげずにやっていきたいと思います!〉
そう、打ってから、私はあの名木橋先生にメールを打っている自分が裸であることに気づく。
もし、今この場面を名木橋先生に見られたら……。
ぶるり。身震いする。スマホを洗面器の中に置いて、思わず自分の体を抱く。
豊かな胸が、私の腕の中で潰れる。手首の辺りで、自分の乳頭が固く尖っているのを感じた。
しばし、自分を抑える。
やがて気を取り直すと、私はこんな一文をメールに付け加えた。
〈心配してくださって、ありがとうございます!〉
送信。お風呂の温度はぬるく、名木橋先生からの返信を待つのはそう苦じゃなかった。
〈別に心配した訳じゃない〉
そんな、どこのツンデレだよ、と思う返信が数分後に来た。私は微笑んで、返事を打つ。
〈先生は、お仕事終わりですか?〉
すると今度の返信には少し時間がかかった。一〇分くらい待っただろうか。先生から、やや長いメールが送られてくる。
〈卒論指導担当教授は? その粟島先生か仁科先生のどちらかなのか? 担当教授に嫌われたならもうどうしようもないが、そうじゃないなら自分のやりたい研究を信念持ってやればいいと思うぞ〉
私の「仕事終わりか?」という質問には一切答えてない……。
とはいえ、先生なりに私に配慮してくれているのは伝わってきた。私は素直に答える。
〈担当教授は、椎名総一郎先生です。国文学科長の。そう言えば、椎名先生は私の研究に対して何も言わなかったな……〉
ふと、心配になる。あのおじいちゃん先生は、私の発表をどう受け取ったのだろうか。やはり粟島先生や仁科先生と同じように、とんでもないと思ったのだろうか。
何だか申し訳ない気がした。卒論指導はほとんどされていないとはいえ、椎名先生は私の師であることに変わりはない。私は師を失望させる行動をとってしまったのだろうか。ふと、反省する。
すると名木橋先生から返信が来た。
〈担当が何も言わないなら、大丈夫だ。学科長だろ? 自分の顔に泥を塗らせる研究はさせないはずだ〉
突然の励ましに、私は嬉しくなる。そっか。それもそうだよな。
〈そうですよね……! よかった! 私、頑張ります!〉
と、打った後に、ふと思い立って以下の文章を付け足した。
〈……それと、一点ご報告なのですが。私、やっぱり院進を決意しました。今から勉強して間に合うかは分かりませんけど、でも、やってみます!〉
そう。今から勉強して間に合うのか。その問題はあった。
父ともその話はした。けれど父が言うには、多くの大学院は九月に入試があるはずだから、今から八カ月、しっかりやれば大丈夫、とのことだった。
すると思いが通じたのだろうか。名木橋先生も次のような返信をして来た。
〈うちの大学院の入試は九月半ばだ。国文学科はどうか知らないけどな。心理学部はそうなっている。多分そんなに変わらないんじゃないかな。残り八カ月ちょっと。頑張れば何とかなる〉
と、メールはそれだけでは終わりじゃなかった。私は画面をスクロールして、下の方に書いてある文を読んだ。
〈明日、時間があったら私の研究室に来い。心理学部棟、二〇三号室だ〉
どきりとした。先生の研究室? それって、大学にある先生の部屋に来いってこと? 私はあのイケメン心理学博士と二人きりになる場面を想像した。じわりと、胸の奥で何かが湿った。
慌てて明日の予定を確認する。
バイトなし。
授業なし。
友達との予定もなし。
一日暇。
〈伺います。午前中とかでもいいですか?〉
すると今度は秒で返信が来た。
〈七時からいる〉
早っ。何でそんな早起きなの。
湯船に浸かりながら、七時に大学に行こうと思ったら何時に家を出ればいいかを考えた。
……六時には出ないといけないじゃん。
私は慌ててお風呂から出た。
パジャマを着て、髪を乾かしながら、明日はどんな服を着て行こうか、まるでデート前日のような気持ちで考えた。
真っ赤なワンピースを着ていくことに、決めた。
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