第12話 父と、娘。

「ご飯、できたよ」


 口頭審問の日の夜。


 ベッドでうつ伏せになって倒れている私を、父が呼びに来た。


 このところ仕事が楽になったようで、帰宅も一八時頃のことがある。口頭審問の日もそうだった。うちは大抵一九時頃、夕食をとる。父が作ることもある。今日も父が作ったのだろうか。そんなことを、頭の片隅で考える。


「はい」


 私は短く返事をするとベッドから起き上がった。メイクをしたままベッドに飛び込んだからだろう。枕には薄っすらアイシャドウがついていた。


 私は軽くそれを拭うと、部屋の電気を消してリビングへ向かった。スイッチを切った途端、中学時代にもらったあのぬいぐるみが闇の中に沈んで消えた。


「今日は餃子だよ」


 餃子。父の得意料理だった。きっと、仕事から帰ってすぐ、餡を練って皮で包んでくれたのだろう。その苦労を思うと、何だかありがたかった。

 

 この料理が話題に上がる度に思い出すことがある。


 それは私が中学生の頃。父の餃子は大抵にんにくがたっぷり入るのだが、そのことが嫌だった私ははっきりと、父の餃子を「嫌い」と言ってしまった。本当は、食べると元気になる餃子は、大好きだったのに。


「そっかぁ。ごめんなぁ」


 あの時。父はそう笑った。本当は笑いたくもなかっただろう。苦労して作ったものを生意気な娘から否定されたら。私が父だったら怒っている。けれど父は怒らなかった。それから父の作る餃子は、にんにく控えめになった。多分今日もそうだろう。その分、食べた後の元気も控えめになってしまった。何だか、悲しくなる。


「お父さん」


 廊下の薄暗闇の中。私は父をこっそり呼んだ。父は応えてくれた。


「何だい」

「何でもない」

「そうか」


 父は黙って私の前を歩いた。リビングに着くと、パート帰りの母がテーブルについていた。


「はー。疲れた。今日餃子? 嬉しい」


 すると父が満足そうに笑った。多分、だが、父は今でも母が大好きだ。時々、そう思う。中学時代はそれが気持ち悪くて仕方がなかったが、今は違う。何だか、そんな夫を持てた母が、羨ましくなる。


 弟も母と一緒にテーブルについていた。スマホを弄りながらふんふんと鼻歌を歌っている。知ってる? 歌に関わる脳は右脳なんだよ? そんな、誰かさんからの受け売りを話したくなる。


 夕食。うちでは大抵おしゃべりなのは母だ。母は今日パートで出会った変な客や、いつも来る老人男性から「お土産」とお菓子をもらったりしたことを面白おかしく話してくれた。


 父は、最初の方は楽しそうに聞いていたが、老人男性にお菓子をもらった下りになると「困った客だな」とコメントして黙った。母は嬉しそうに笑って父を見ていた。


「餃子、うまー」

 弟はもぐもぐと餃子を食べまくる。遅めの成長期が来たのか、最近弟の身長は伸びている気がする。もう父と変わらないくらい大きくなっているのではないだろうか。


 食事が終わると、母が「今日はお父さんが作ってくれたから、お母さんがお皿洗うね」とキッチンへお皿を持って消えていった。弟は「レポートの提出期限が明日だから」と自室へ帰る。


 私と父が、取り残された。父は缶ビールをグラスに注いで飲んでいた。


 ふと、私もビールを飲みたくなった。


「お父さん、ちょうだい」


 すると父がびっくりしたような顔をする。


「新しいの、持ってこようか」

 

 私は首を横に振る。


「少しでいいから、それでいい」

 そう、缶の方をもらう。本当にちょっとしか残っていなかった。けど、それでいい気がした。


「どうしたんだ。何かあったか」


 しばらくして、父が訊いてくる。私は普段、家であまりお酒を飲まない。以前飲んだ時は彼氏にフラれた時だった。あの時は父秘蔵のウィスキーを炭酸で割ってがぶがぶ飲んだ。翌日、二日酔いで吐きまくった記憶がある。


「別に」

 私は冷たくそう言う。中学時代の反抗期以来、父との接し方が分からなくなっているのだ。


 けど。と、私は思った。多分、父との関係性を変えるなら今だ。思春期でぎくしゃくしてしまった関係を、正常に戻すのはきっと今だ。そう、悟る。


「お父さん」


 意を決して、口を開く。父は私の方を見てきた。


「ん」

 小さく応える。それは多分、「何だい」と言うと私が改まった気持ちで話さなければいけなくなる、ということへの配慮だと思う。返事をしたのかしてないのか分からないくらいのトーンで話せば、最悪私が独り言を言っても、父は聞き流せる。そういう配慮だと思う。


「就活、順調だよ」


 ちくりと、胸の奥がささくれだった。違う。本当は、就活の話なんかしたい訳じゃない。


「おお、そうか」

 しかし父は嬉しそうにした。その反応が、私にとって辛かった。


「内定はもらえそうかい?」

 父はビールを傾ける。私も、黙って飲む。缶が大分軽くなってから、私は口を開いた。


「お父さん」


 お父さん。心の中で二度目を叫んだ。その声が、私の中で響いて消えた時、ふと、私は自分の本音に気づいた。


「私、就職したくない」


 それを告げることがどれだけ父を辛くするか、分かっているつもりだった。せっかく巣立つ寸前まで娘を育て上げたのに、その直前で、こんな……。分かっているつもりだった。


「就職したくないの」


 しかし父は即答した。

「じゃあ、しなくていい」


 あまりにあっさりそう言われたので、私は缶を持ったままぽかんとした。父は再びビールを傾けると続けた。


「しなくていいよ。就職」

「就職しなかったらどうするの……?」


 思わず、父が問うべきことを私が問うてしまう。すると父は笑った。


「ニートでも、フリーターでも、ミュージシャンでも、落語家でも、何でも好きにするといいよ。お前の人生だ。お父さんの財産を食いつくすという選択肢をとってもいいし、お父さんから離れていくという選択肢をとってもいい。ただ……」


 と、父は言い淀んだ。


「お父さんは、そんなに金持ちじゃない。食いつくしたところで、そんなに長くは生きられないと思うよ」


 にかっ。父が笑う。つられて私も笑った。

「は、ははは……」


「面白いか?」父が訊いてきた。

「面白い」

「そりゃよかった」


 ビールを飲む。つられて私も飲んだ。父の飲み残しのビールは、何だか苦い気がした。


「お父さん。あのね……」


 少しの沈黙の後、私は意を決して父に話した。


「私、もっと学びたい。学問を追究したいの」

「……うん」父は静かに頷いた。


 本当は、自分がこんなことを言うだなんて信じられなかった。けれど私の口から出てきたのは、真っ直ぐな言葉だった。


「大学院に行きたい。でもそれにはお金が必要なんです。ごめんなさい、お父さん」


 もう少し、私に投資してくれませんか? 


 そう、頭を下げた。自分の膝に頭をぶつけそうになる。

 すると父は即答した。


「いいよ」

 私は顔を上げる。父は、笑っていた。


「どうしたんだい、急に。今日、何かあったのかい」


 しばらくして。

 父が改まってそう訊いてくる。私は、すごく久しぶりに……多分幼少期以来なんじゃないだろうか……父に素直に今日起きたことを報告した。


「そっか。教授たちに卒論を反対されたか」

 簡単な父の要約に、私は頷く。何だか泣きたい気分になってきた。今なら父は、受け止めてくれるだろうか。


「お前は昔から、はねっ返りだったからな」父はまた、嬉しそうに笑う。

「教授たちに反対されて、もっと勉強したくなったか」


 本当は、私の中で「勉強」と「学問」は明確に棲み分けが行われているのだが、この際面倒なのではっきりと肯定の意味で頷いた。

 すると父は満足そうな顔をした。


「いいじゃないか。その教授たちに、目にもの見せてやれ」

「……まだ調べてないから分からないけど、大学院に行くお金って、かなりかかると思う」不意に心配が胸に広がった私はそう告げた。


「しかも、文系の院だから、進んだところでいい企業に就職できるとは限らないと思う。それでも、いいですか……」


 父は真っ直ぐにこっちを見てきた。強い目線。多分、かつて母の心臓を打ち抜いたその目線を、私は感じていた。


「いい。お前が選んだ道だ。お父さんは、応援する。もしいい企業に就職できなかったら、さっきも言ったようにお父さんの財産を食いつくせばいい」


 でも、お前なら大丈夫。

 父は優しくそうも言ってくれた。それから、グラスに残ったビールを一気に飲み干す。いい飲みっぷりだった。私はそんな父の姿に、何だか頼もしさを覚えていた。


「お父さん」


 今なら分かった。母が、父を選んだ訳が。


「今日は飲もう」


 多分、初めてだったと思う。

 家で、楽しいお酒を飲んだのは。

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