第9話 気づき、考える。

「覗き見」だ。


 私はそう悟った。乱歩の作品が、一般的に「変態チック」に思われる理由。


 それは、扱っている題材がそうだから、という理由も確かにあるに違いないが、作中で頻繁に描かれる「覗き」という行為が読者に変態性を連想させるからではないか、と私は考えたのだ。


 例えば、『屋根裏の散歩者』。

 主人公の三郎は屋根裏の節穴から他の下宿人の私生活を「覗き見」する。


『鏡地獄』。

 鏡や潜望鏡、望遠鏡を使った「覗き見」行為が描かれている。


『人間椅子』なんて、家具になりすまして他者の生活を観察しようという願望のあらわれにしか見えない。


『D坂の殺人事件』の中で描かれている「二重格子の障子」も、何だか客の様子を「覗き見」しているアイテムのように思える。


 乱歩は「覗きフェチ」だったんだ……。


 そんな気づきが私の中で芽生えた。いや、駆け巡った。それは雷撃を受けたような感覚だった。「覗き」と「乱歩」。これはザ・乱歩って感じだし、乱歩をより深く知る一つの考察たり得る! 


 私はスマホを開いた。以前名木橋先生の実験に参加した時に知った、先生のメールアドレスを引っ張りだす。そして、こんなメールを送った。


〈先生! 私気づきました。乱歩は『覗き魔』だったんです!〉


 多分、興奮していたからだろう。


 メール文は端的で短い内容になっていた。これでは意味が伝わらないかな、という不安も、あるにはあった。が、勢い余っていた私はすぐさま上のメールを名木橋先生に送りつけた。返信は、一〇分後に来た。


〈いい考察だ〉


 送った内容が短かったからだろうか。先生も短い内容で返してきた。


 何だか通じ合っている気配があった。やりとりとしては、本当にチャット程度でも十分な、三〇字未満の短い言葉のキャッチボールだったが、しかし意思や気持ちははっきりと伝わっている感覚があった。


「……ん?」


 よく見ると、先生から送られてきたメールにはリンクの添付があった。開く。


「『まなざしの心理学』……?」


 先生が送ってきたのはAmazonのリンクだった。『まなざしの心理学 視線と人間関係』。福井康之著。ページを眺めていると、先生からメールの追撃があった。


〈七〇〇〇〇円の使い道だ〉


 値段を見てみると、中古商品で一三〇円からの出品になっていた。安い。これくらいなら、今買っちゃお。そう思い、ポチる。明後日には届く予定になっていた。


『まなざしの心理学』。どんな本だろう。名木橋先生が勧めてくるのだから、きっと何か私の卒論に役に立つ本に違いない。不思議な高揚感と、期待が膨らんだ。


 よーし、やってやるぞ。


 私は胸の奥でガッツポーズをした。


 アダルト動画を見ているおじさんのことは全く気にならなくなった。興奮するおじさんの前で別の意味で興奮している私は、ワクワクしながら乱歩のことを考えた。


 ふふ。乱歩。いやらしい。


 電車はそんな私を運んで夜の闇を切り裂いていった。



 二日後。


『まなざしの心理学』が届いた。


 家の自室でワクワクしながら待っていた私は、母が「あんたにお届け物だよぉ」と声を張り上げたのを聞いて真っ直ぐ飛んでいった。「あらぁ、嬉しそうねぇ」。母が呑気な声を上げた。


「嬉しいの!」


 私は大声で返した。母は「男?」と小さな声で訊いてきた。私は「ナイショ」と笑うと、自室へ向かった。


 早速、本を開く。


 心理学の本を読むのは初めてだった。著者の福井康之さんは臨床心理学、という学問の大家らしい。臨床、という言葉に引っ掛かりがあったので、少しスマホで調べてみた。


〈臨床……病床に臨んで診療すること。患者に接して診察・治療を行うこと〉


「あれ? 名木橋先生がやっているのって……?」と、考える。


 先生がやっているのは、病気や障害の根本を研究することだ。実際に病床に臨む行為ではない。そう思って、名木橋明、の名前でGoogle検索にかけてみた。


 すぐに、うちの大学の研究者紹介サイトが出てきた。


〈名木橋明……心理学博士。臨床心理士。公認心理師。大脳生理学の観点から脳の障害、病理などを理論的に研究するとともに、臨床心理士として患者に接した研究も行っている〉


 へぇ、臨床的なことも研究しているんだ……だから、臨床心理学の本を……。


 改めて、名木橋先生のすごさを実感する。しかもあのイケメン。おそるべし名木橋明。


 ふと、名木橋先生にまなざされている自分を考える。あの目に見つめられる。あの、切れ長で、射すくめるように真っ直ぐな目に……。


 ぞわりとした。全身の毛穴が開かれるような感覚がある。思わず、自分の体を、抱く。ぎゅっと抱きしめる。


 意中の男性に見つめられることを想像する時。

 あるいは、いいな、と思っている男性の目を想像する時。


 こんな風になるのだ。こんな、人として身も蓋もない気持ちに……。


 いかん。


 私は頭を振って再び本に没頭する。変な気持ちになっている場合じゃない。卒論卒論。PowerPointを作ることを考えても、残り五日程度しか時間がない。


『まなざしの心理学』から学べることをとにかく学んだ。まなざしについての考察。「見る」ことの本質。そもそも、機能学的に考えて「見る」とは……? 奥深き思考の世界に私は誘われていった。


 それは、かつて私が拒否し、拒絶した、学問という白くて美しい世界だった。


 読み終わった時、私はため息をついた。


 面白い。学問って、面白い。


 悲しいのは、そのことに気づいたのが大学生活も半分以上終わっている頃だったということだ。


 もっと早く気づいていれば……。


 あるいは、もっと早く名木橋先生と知り合っていれば……。


 私の未来は、変わったのかな。

 そんなことを思う。

 壁にかけられた就活用スーツを見つめる。


 初めて見た時は誇らしかったそれが、何だかひどく歪んで見えた。

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