第8話 覗き見と、決定。

「ザ・乱歩」って何だ……。


 帰りの電車。吊り革をつかんで、揺すぶられながら考える。


 車内には色んな人がいた。まず部活帰りの女子高生。これは集団でいた。楽しそうにきゃっきゃとスマホを覗き合って話している。この子たちは私の隣にいた。


 次に私と同じような大学生。多分語学のテストがあるのだろう。テキストを広げて難しい顔をしていた。この人はドアの近くにもたれかかっていた。


 さらに、サラリーマン。頭の禿げあがったおじさん。私の目の前に座っている。近視なのだろうか。タブレットを顔にくっつけるようにしてにらめっこしている。


「実はもう、卒論のテーマとは出会っているかもしれないぞ?」


 名木橋先生の言葉を思い出す。あの言葉が正しければ……。と、考える。私は既に「ザ・乱歩」と出会っている。何だろう。「ザ・乱歩」。


「自然と眺めていたもの。それについて追究してみろ」


 自然と眺めていたもの……。と、考えて目の前のおじさんを見つめる。タブレットとにらめっこしているおじさん。このおじさんが、「ザ・乱歩」? 


 正しい。それは、正しい。


 直感が、そう告げた。でも、と私の理性が反駁する。おじさんが「ザ・乱歩」? おじさんと乱歩の間にどんな繋がりが……。


 観察するんだ。


 直感が再びそう告げて、消えていった。観察。私は、吊り革につかまりながらじーっとおじさんを見つめた。


 もじもじしている。脚と脚をすり合わせて、靴がすごく申し訳なさそうに床にくっついたり離れたりを繰り返している。


 耳にはイヤホン。コードはだらりと伸びて、おじさんの手の中にあるタブレットに繋がっている。


 気のせいか、頬が赤い。鼻息も荒い気がする。眼鏡をかけているので目の色までは分からないが、多分興奮しているのではないだろうか。


 ここまで考えて、私は我が身を振り返った。


 私、何か見えてる? 


 それとなくズボンのチャックを確認してみる。大丈夫。閉まってる。じゃあ、私の脚に興奮しているとか? おじさんの位置からじゃ私の胸は見えないはずである。胸になら、男性を興奮させる理由は思い当たるのだが、それ以外となると自信はない。


 多分だが、このおじさんは私に対して興奮しているわけではない。


 ほっと一安心すると同時に、では何に? という疑問が頭を持ち上げた。と、同時にあるものが目に入る。私の目の前にあったもの。それは、電車の窓ガラス。


 外はとっくに真っ暗だ。だから、窓ガラスには車内の様子がくっきり映っている。


 そこで私はとんでもないものを目にした。


 おじさんがさっきからじっとにらめっこしているタブレットの画面もガラスに映っていたのである。画面を立てる形にしていたので余計にくっきり。そこにはとんでもないものが映っていた。


 全裸で、股を広げる女性の姿。


 どうやら私の目の前に座っているおじさんは、帰り道の電車でアダルト動画を見ていたようだ。脚をもじもじさせているのも、興奮した様子でいるのも、どうもそういう理由だから、らしい。


 うわ……。私は嫌なものを見た気分になる。


 変態だ。このおじさん、変態。


 しかし私はガラスに映ったアダルト動画の鑑賞に夢中になった。おじさんが興奮しているのがどういうジャンルのアダルトなのか気になった……わけではなく、電車という公共の場で、いやらしいものを見つめるという行為そのものに妙な興奮があったのだ。


 タブレットの中で、女性が男性のそれを咥える。


 うわ、うわ、うわ。行われている行為のもの凄さに声が出そうになる。えーっ。そんなに? そんなことしちゃうの? 気づけば、私はもじもじしていた。おじさんと同じように、脚と脚をすり合わせる。


 と、冷静になる私がいた。私が興奮してどうする。興奮しているのは目の前のおじさんであって、私ではない。もじもじする脚を止め、思う。おじさん、がっつり見てるなぁ。そんなにいいものかなぁ。


 しかし、と私は思う。公共の場でアダルト。そして、それを見て興奮する男性を観察する、という行為。


 そのこと自体に妙な興奮はあった。多分これがネットカフェの個室なら、おじさんは自らの性器を取り出して弄りだすのだろう。その場面を観察している私を想像した。ぶるり。悪寒かと思うほどの興奮を、私は覚えた。


 したいかも。私はそう思った。


 一人で自分の性器を弄る男性の姿を観察しながら、私自身も性器を弄る。したい、とは要するにそういうことだ。


 誤解がないように言うと、決して私はこの目の前のおじさんとセックスがしたいわけではないのである。こんな、見ず知らずのおっさんに欲情するほど性欲魔ではない。私がやりたいのは、誰でもいいから自慰をしている男性を見ながら、自らも自慰をしてみたい、というだけのことである。ちょっと屈折した願望である。


 ただ、この願望が本当に屈折しているのか、という議論は発生する。


 女性の自慰事情について触れておこう。女性だって、アダルト動画を見て一人でふけることはある。そんな、女性向けアダルト動画サイト、というのは広いネットの海には確かに存在している。


 そのサイトの中で、「自慰をする男性」というジャンルはかなり大きな勢力を持っている。ただ、自慰をしている男性の動画が流れるだけ。絵的に何の動きもない動画だが、しかしそれに興奮する女性は一定数いる。


 私がそういう女性だ、というわけではない。そういうわけではないが、別にそのジャンルを嫌う理由がないのだ。嫌いじゃない以上、目の前でそれが起きていたら見てしまうものである。


 覗き見。窃視。そんな言葉が脳裏を駆け巡る。


 アダルト動画を見て興奮する男性を覗き見することで性的興奮を得る。私が今目の前のおじさんに対してやっていることはまさにそれだった。興奮するおじさんを覗き見して興奮する。


 その感情の原理は、電車で隣に座った人が面白い漫画を読んでいたらついつい覗き見してしまう、という感情の原理に近いものがあるだろう。


 興味関心のあるものを近くで展開されるとそっちに注意が向いてしまうのだ。


 と、ここで私の中の不思議な声が、こう告げた。


「ザ・乱歩」だ。


 ザ・乱歩? これの何が? 


『屋根裏の散歩者』


 不思議な声はそう告げて消えていった。『屋根裏の散歩者』。乱歩の作品である。


 とある下宿の屋根裏を散歩する快楽に目覚めた男性が、同じ下宿に住んでいた歯科助手を毒殺する物語である。


 その作品の中で、男性は屋根裏から同じ下宿の人間の生活を「観察」する。天井の節穴から覗き見することが可能なのだ。屋根裏は下宿の各部屋と繋がっている関係で、天井裏から他人の生活を覗き見できる仕様になっていたのである。


 これか……? 私はそう思った。覗き見と、乱歩? 


 私の中で大きな快感が駆け巡ったのは、その瞬間だった。

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