第6話 冬の雨と、プリッツ。

 雨が降っていた。


 冷たい雨だ。冬の雨。


 雪にならないか、心配した。私は傘を持っていなかった。


 実はもう、卒論のテーマとは出会っているかもしれない。その言葉が、耳に残っていた。曇天の空を見上げながら考える。既に出会っているもの。それは、何か。


 大学の購買。雨宿りの時間潰しにお菓子コーナーを眺めていた。窓の外を見る。しとしと雨が降っている。


 例えば、プリッツ。今目の前にある。これが卒論? 首を傾げる。全然繋がらない。


 名木橋先生の言葉を思い出す。


「考えて見つからないなら考えないことだ。自然と眺めていたもの。それについて追究してみろ」


 ……プリッツだ。自然と眺めていたもの。私は緑色の箱を手に取る。買うか。この間七〇〇〇〇円手に入ったし。ふらふらとレジに向かう。名木橋先生の次の言葉を思い出したのはその時だった。


「既に出会っているとしたら、きっとそれは真ん中にあるものだ。自分の真ん中を見定めろ」


 真ん中。緑色の箱の真ん中を、ぐっと押す。レジに並びながらさらに考えた。真ん中。真ん中。


 抽象的なことしか言わないじゃないですか。


 学食で、私はそう抗議した。すると名木橋先生は仕方ないな、という風に笑った。


「そもそも学問が抽象化を図るものだ。万物に共通するものを見つけること。万物の定理を見つける。それが学問だ」


 万物じゃなくていいんです。私は卒論のテーマを決めたい。


 そう反論すると、先生は馬鹿だな、という顔をして、「そこから離れられないと、無理だろうな、きっと」と告げた。


 先生はハンバーグを食べ終わる。ごちそうさま。そうつぶやく。


「頑張れよ。文学少女」


 名木橋先生はまるで夕立のように去っていった。何だよ。言うだけ言って帰るのかよ。そう思った頃、本当に雨が降ってきた。げー。ついてないな。私は傘を持っていなかった。


 と、いう訳で、時間潰し。雨が止むまで、私は購買をパトロールしていた。が、プリッツも買ったし、そろそろ……。


 購買から出て、学内の雨がかからない場所を選んで歩く。この道は……、と考えて、自分がまた心理学部棟のことを考えていたことに気づく。


 名木橋先生も悩んだのかな。


 先生の卒論って、何だったんだろう。


 そんな、今はどうでもいいことを考える。他人のことなんて考えている場合じゃない。残り二週間だ。一四日しかない。


 PowerPointを作るのに一週間くらい。となると、悩めるのは後一週間。七日しかない。一〇日を切っている。まずい。どうにかしないと……。


 ふと、地面ばかり見つめて歩いていた自分に気づき、見上げる。目が合ったのはその時だった。


「やあ。さっきぶり」


 名木橋先生だった。手には、プリッツ。私の手にもそれはあった。二人でプリッツを見つめ、笑った。そこで食おう。先生は、近くにあったベンチを指さした。


「卒論ねぇ」


 沈黙が気まずいくらい黙った頃。先生が唐突にそうしゃべった。私は項垂れる。


「全然思い浮かばないんです。ホント、全然」


 と、目の前にいるのが、心理学の准教授であることに意識が向く。


「先生、何か方法ありませんか? その、ブレイン・ハッキング的な……」

「何だそのアメコミのヒーローが使っていそうな技は」

「うーん、何か、急に頭が良くなるテクニックとか、アイディア発想法とか、ないんですか?」


 ないこともない。先生は脚を組んだ。その様もいちいち絵になって、私は意味もなくときめいた。


 ブレイン・ストーミングだろう、君が言いたいのは。


 本当は全然そんなんじゃない……ブレイン・ストーミングって何? って感じだった……のだが、先生のありがたいお言葉にとりあえず私は頷いた。


「それです」


 先生はプリッツを食べる。ポリポリ、ポリポリ。一本食べ終わったところでパラパラと手を払う。


「やってみようか。ブレイン・ストーミング」

「はい!」


「本来は二人でやるもんじゃない。三人から五人くらいがベストかな。まぁでも、今回は仕方がない。私と君で、やるぞ」


 先生は鞄からノートを取り出した。


「自由に意見を述べてみろ。卒論について」

「ダルい」


 先生は笑った。


「正直でよろしい」


「面倒くさい」

「そうだろうな」

「何で私が」

「君の卒業単位だからな」


 名木橋先生は二人の会話を逐一文章に起こした。そうすることでどう意味があるのかは分からなかったが、要はデトックスみたいなものかと理解した。


「好きな作家はいないの?」


 先生が突然そう訊いてきた。私は答える。


「私、割と雑食っていうか、何でも勧められたら読んじゃう方で……」

「自分からこの人好き、にはなりにくいのか」


 先生は唸る。私も、唸る。


「君んちの本棚にある作家を教えてくれ。思いつく範囲でいい」


「森見登美彦」

「はい」先生はノートに名前を書く。

「有川浩」

「はい」

「東野圭吾」

「はい」

「後は……夏目漱石とか……」

「とかって何だ。君はその手の作家が専門じゃないのか」

「すみません……」


 萎れた私に、名木橋先生はため息をつく。


「幼少時代を思い出せ。何をしていた?」


 そう言われ、記憶を彼方に飛ばす。


「弟がゲームしてるのを見てました」

「それは弟がゲームをやっている記憶だ。『君が』何をしていたか思い出せ」


 私……。


 記憶を辿る。思いついたのは、やっぱり、本だった。


「本を読んでいました」

「どんな本」

「どんな本って言われても……」


 先生は再びため息をつく。


「君んちの本棚について、今度はできるだけ細かく、話してくれるか」


「はい……」


 私はこの間、自分の部屋の本棚を見た時のことを話した。なるべく丁寧に。思い出せることは何でも。自分の文学趣味のことまで話した。すると先生が、顎に手を当てた。


「東野圭吾を読むと言ったな」

「はい」

「つまりミステリーは好き……」


 先生は顎に手を当てたまま頭上を見上げた。それから唐突にこう続けてきた。


「君の部屋の本棚にあるという、ポプラ社のミステリーシリーズ、何を読んでいたか当てようか」

「はい……?」


 首を傾げる私に名木橋先生は笑った。


「江戸川乱歩だろ?」


 その通りだった。江戸川乱歩。そうだ。『怪人二十面相シリーズ』。ポプラ社から出ているハードカバーのものだ。


 でもどうしてそれが……? と思っていると、先生が告げた。


「ポプラ社から出ている児童向けミステリーシリーズには色々ある。『怪盗紳士ルパンシリーズ』とかな。けど君は、海外モノには興味がないようだ。国内の作家に手を伸ばしているに違いない。そこで、江戸川乱歩だ。『怪人二十面相シリーズ』」


 黒い帽子に黒いマスク。まるで怪傑ゾロのような格好をした男性が表紙を飾っている本を思い出しながら私は頷いた。


「おっしゃる通りです……先生、すごい……」

「すごかぁない。初歩的なことだ。それより、いいじゃないか」


 何が? 私はまたも首を傾げた。すると先生が、呆れたように笑った。


「江戸川乱歩。近代の作家だろう? 学術的探求価値はありそうだ。乱歩をテーマに卒業研究をすればいいじゃないか」


 大乱歩を卒論のテーマに。


 この時、私は背筋に何かが走るのを感じた。


 それは外気温のせいで寒気を覚えた訳でも、名木橋先生の提案が悪寒がするほど嫌な訳でもなかった。


 乱歩を卒研。いいかもしれない。

 まるで雷にでも打たれるかのように、そして飛んできた矢に射すくめられるかのように本能的に、そう思ったのだった。

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