第5話 迷いと、日替わりランチ。
悩んだまま、一週間が過ぎた。
卒論のテーマ発表まで、後三週間。私はいよいよ焦った。
作家の名前をノートに列挙する。
何か思いつけ。何か考えろ。必死に自分を鼓舞する。しかし焦れば焦るほど、アイディアは逃げていく。とにかく、椎名先生からもらった資料を広げる。
泉鏡花……初めてその名を聞いた時は女性だと思っていた。けど、そんな驚きは卒論のテーマにするには火力不足だ。
小林多喜二……『蟹工船』しか知らないし、そもそも一杯六〇〇円のカクテル派の私がプロレタリア文学なんて分かるはずがない。
太宰治……『人間失格』は読んだ。ああいうふざけた男はいる。確かに。友達がハマってたけど、私は嫌いだな。女たらしって気持ち悪い。
芥川龍之介……この人の文章は読んでいて陰鬱な気分になる。多分、深いところで共感しているのだと思う。ただでさえ憂鬱な卒論のテーマにしたら余計病みそう。
夏目漱石……唯一、近代文学の作家で「好き」と言える人。けれど、人気な作家。この人をテーマにしたらかなりニッチなところを攻めないといけない。
椎名ゼミの院生がかつて私たちに押し付けようとした現代文学の作家についても考えてみた。けれど私は現代の……要するに、第二次大戦後の……作家には疎くて、卒論のテーマには不向きだと思った。
三島由紀夫……ゲイの侍という話は聞いたことがある。切腹して死んだんだよね?
安部公房……『砂の女』を読んだことがある。子宮外妊娠という言葉を知ったのはこの作品……だから何?
村上春樹……失礼だけど、読んだことがない。私の嫌いなスタバで自分に酔ってる人たちが読んでいそうだから。
「駄目だ」
自分の部屋。天井を見上げつぶやく。中学生の頃、仲の良かった友達にもらったぬいぐるみを見て、思う。お前は楽でいいな。毎日そうやって笑っていればいいんだもんな。
就職説明会でも卒論のことは頭を悩ませていた。けれどこっちの方はすごく順調で、私は早くも二社の企業の採用担当と知り合いになれた。
「就活で困ったことがあったら、よその企業のことでもいいから、連絡ちょうだいね」
バリバリキャリアウーマン風の採用担当の女性にそう言われた時は嬉しかった。
けれど私、本当は卒業できるかも分からなくて、とは言えなかった。
エントリーシートの通りも順調。駄目かなと思ったところは通らないし、イケるかもと思ったところは通る。そんな感じ。けれど卒論の方は遅々として進まない。
時間だけが過ぎていく。
先輩に聞く作戦にも出た。四年生で、もう卒業論文の提出間際の忙しい先輩を捕まえて話を聞いてもらった。
「分かる分かる。悩むよね」
千住好子先輩は学内のスタバでコーヒーを飲みながら話を聞いてくれた。けれど聞いた話では先輩は二年の頃から夏目漱石をやると決めていたらしい。全然悩んでないじゃん。
「でも、結局自分が納得できるかだから、卒論って」
皆川海斗先輩は自前のタブレットPCで卒論を書きながら話を聞いてくれた。カタカタ、カタカタ。あ、お邪魔ですよね。すみません。
「大丈夫? 話聞こうか?」
土橋仙太郎先輩。この人は人の話を聞くふりをしてすぐ胸を見てくるから嫌い。
文学部国文学専攻は三年時からゼミが始まる。なので、ゼミに後輩はいない。けれど試しに、サークルの……私は映画研究会に所属していた……後輩に聞いてみた。
「いっそ振り切って、ライトノベルの研究とかどうですか?」
宇多野新平くん。いいアイディアだけど、私ラノベ詳しくないしな。
「小説と映画の関係性とか」
戸瀬有宏くん。趣味と実益を兼ねてる感じ。でもそんなことしたら映画嫌いになりそう……。
「そんなことより、先輩相変わらずいいおっぱいしてますねぇ」
桜山美奈子ちゃん。この子は女なら胸に触っていいと思い込んでる馬鹿。駄目だからね。多分、貧乳だから僻んでるんだと思う。
いいアイディアはあった。収穫がないとは言えない。けれど、決定打に欠ける感じ。
私はノートにアイディアを書き連ね、また、吠えた。
「ああー、駄目だ。全然分かんない」
そもそも自分が何で国文学を選んだのかさえ分からなくなった。頑張って記憶を辿る。
ただ何となく昔から読書が好きで、けど語学は嫌いだから海外の文学は敬遠して、という感じで流れ着いたのだと思う。
自分の部屋の本棚を見てみる。子供の頃から使ってる本棚だから、児童文学の本が四割くらいを占めていた。
青い鳥文庫。義理のイケメン兄とイケメン弟に挟まれる話とか、親友に好きな人(同性)ができて葛藤する話とか、そんなのばっかがあった。
後、昔の『ちゃお』。ポプラ社から出ているミステリー児童文学シリーズ。それと、ミステリーじゃないけど『くまの子ウーフシリーズ』。
昔やっていた公文式のプリントなんかも出てきた。懐かしい。国語の推薦図書が好きだったっけ。
残りの六割は高校から大学にかけて買った本だ。
高校の頃は初めての彼氏が小説好きだったから、一緒になって読書をした。有川浩とか、森見登美彦とか。『夜は短し歩けよ乙女』は大好きだ。
大学になってからできた彼氏は映画好き。だから映画の原作小説がほとんどだ。東野圭吾が多い。
こうして見ると、自分がいかに不真面目な学生かが分かる。専攻している学問の本なんて、全体の一割にも満たない。先述の作家の本が一冊ずつあるかないか。
そうだ。書籍代をケチって図書館で借りて読んだりしてたっけ。こんなことなら、自前で買っておけばよかったなぁ。教科書代って言えば、親が出してくれたかもしれないし。
残り二週間。この頃になると、卒論のテーマ発表用のPowerPointを作り出す同期が増え始める。
私は焦った。
決まらない。決まらない。私はところ構わずノートを広げる作戦に出た。何かいいアイディア。いい思いつき。それを四六時中探していた。
「よう」
名木橋先生に再会したのは、そんな私が学食でノートを広げて唸っている時だった。
先生は学食の日替わりランチを持って私の前に立っていた。
「ここ、いいな?」
断ってるのか命じているのか分からないことを言って私の前の席に座る。
先生とはあの実験以来だった。研究は進んでいるのだろうか。そんな、我が身のことは一旦置いておいて他人の研究の心配をする私。
「私の研究は順調だぞ?」
何で考えてることが分かったの。
「顔色に出ているからだ」
まるで私の心の中に住んでいるみたい。そんなことを思う。すると先生は、私の広げているノートを一瞥して、笑う。
「卒論、まだ悩んでいるのか」
「アイディアが出なくて」
ペンのお尻でこめかみをぐりぐりと押さえる。
「そもそも私、何で自分の専攻を選んだのかも分からなくなって」
「自分を見失ってる訳だ」
今日の日替わりランチはミニハンバーグだった。デミグラスソースのいい香りがする。先生は箸を持ちながら話し始めた。
「探そうとするから、見つからないんだ」
「何ですかその哲学みたいな話」
「いや、実際そういうものだ」
それから先生は、ハンバーグを一口食べると、笑った。
「実はもう、卒論のテーマとは出会っているかもしれないぞ?」
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