第3話 実験と、いい男。
「心理学実験室。心理学部棟、三階」
アルバイトの募集を見てやってきたのは、大学の中でも「人文社会学系」と呼ばれる人たちが集まる学棟の、一番北にある建物だった。
心理学部棟。噂には聞いたことがある。心理学には「実験」なるものがあり、学部生はその実験の結果をまとめた論文が卒業研究になるのだと。
実験の内容は様々らしい。幼稚園児に絵を描かせるというものから、猿の頭に電極を繋ぐものまで。
「えー、あんた心理学部の実験に参加しようとしてんの?」
里見に笑われた。彼女は実家を離れ一人暮らしをしているが、仕送りが十分にあるのか金には困っていないらしい。
「時給一二〇〇〇円だよ? 破格も破格。やらなきゃ損じゃない?」
「そんなに稼ぎたいなら水商売とかやれば? 短期のもあるってよ?」
「ヤバいのは嫌」
「時給一二〇〇〇円の心理学実験バイトも十分ヤバそうだって」
確かに。けどもう、応募しちゃったしな。私はノートとファイルを抱き抱えながら食堂を目指す。里見も一緒。今日は就活はお休み。
すっかり黒くなった髪の毛を見て、短い青春だったな、と思う。実際は大学に入ってから三年間、ずっと明るめの色にしていたのだが、こうして振り返ると短く感じる。
「応募はメールを送れば完了っていう簡単なシステムだった。自己紹介とやりたいですっていう意思表示だけ」
「どんな実験すんの」
里見に訊かれ、私は答える。
「募集要項にあった感じだと、脳に電極? 繋いで歌を歌ってもらうらしい」
「何それ」
思ったより医学っぽい感じだね。里見はワクワクした様子でこちらを見る。
「脳に電極だよ? 怖くない?」
「怖くないってあんた応募したんでしょ」
「したけど……」
食堂に着く。私は天ぷら蕎麦、里見はタヌキうどんを食べる。
「ま、暗い話ばかりじゃない」
うどんを啜った里見が口を開いた。
「うちの大学の心理学部と言えば、アマゾネス改めてタマゾネスで有名」
「どういうこと?」
すると里見は、ぐっと体を乗り出して、
「男を取り合って戦争が勃発するくらい気の強い女が集まってるっていうこと」
「それの何が明るい話なのか分からない」
「男の質よ」里見は自慢げだった。別にあんたの話じゃないでしょうに。と思った感想は、引っ込めた。
「心理学部の内情は、女子九割に対し男子一割。実質ほぼ女子校よ。けどそこにやってくる男子っていうのが……」
「王子様?」
こくん、と里見は頷く。
「これ、去年のミスターコンテストの優勝者」
と、スマホの画面。猫みたいなパッチリお目々の、可愛らしい男子がそこにいた。
「彼、心理学部」
「たまたま去年が……」と言いかけた私に里見がさらに見せつけてきた。
「一昨年の準優勝、その前の優勝、さらにその前の優勝。心理学部がずらり。おまけにうち私立でしょ? 家もそれなりにお金持ちの人ばっか。そりゃ男の取り合いにもなるわ」
つまり、こういうことだ。
私がこれから行く心理学部棟には、イケメンが揃っている。就活、卒論、人生の難所にて芽生える恋も……。なんていう期待は毛頭なかった。
というのも、募集があった実験は学部生や院生の研究ではなく、准教授の実験だったからである。
准教授。役職的にどこに当たるのかは知らない。ただ、私のいる文学部の准教授のイメージだと、円形脱毛症のおじさんとか、脂ぎって女子大生をいやらしい目で見るおじさんだとか、要するにおじさんのイメージだった。
心理学部も例に漏れないだろう。そう思って、心理学実験室のドアを開けた。
「遅い」
入ってすぐ言われたのがその一言だった。正面には男性。スーツ姿。高いのだろう。生地の一本一本が輝いて見えるようなスーツだった。
「実験の参加者だね。ほら、そこに座って」
顔をよく見る間もなく椅子に座らされる。目の前には紙。内容を読む。
〈私は、本実験への参加により健康に被害が及ぶリスク、危険性などを事前に十分に把握し、その上で実験に参加します〉
「はい、そこ名前書いて」
「はあ」書く。
「よし、これで君に何か健康上のトラブルがあっても、僕は責任をとらない」
「え、ちょっと……」
さすがに、と思い口を開く。すると男性がぐい、とこちらに顔を近づけてきた。
「君、もしかして健康に自信がない? もしくは生理?」
デリカシーの欠片もない。はっきり言って女性にかける言葉としてはマイナス二〇〇点くらいのコメントだった。しかし私は見惚れてしまった。その、マイナス二〇〇点男子の顔に。
どストライク。切り込みのような細長い目。その奥のつぶらな瞳。高い鼻梁。健康的に焼けた肌。短髪だけど手入れがしっかりしてる髪。ゴツゴツした指。全部が最高の男だった。本能的に、この男のためなら何でもしたい。そう思った。
それが例え十ヶ月に及ぶ苦行の末、激痛と共に赤ん坊を出産するという行為であっても、この男のためなら……。本能的にそう思った。ネットスラングで膣キュンという言葉があったがまさにそれをした。ぼけっとしてると男が続けた。
「今から君にはこの電極を頭に繋いでもらう。これは外部から磁気で脳の動きを一時的に制限する装置で、健康上の問題がないことは一応確認されている」
「はい……」
私は准教授に見惚れる。かっこいい。こんなかっこいい人世の中にいるんだ。ジャニーズなんかでも十分通用するんじゃないかな。ファンクラブとかこの大学内にあったり……。そこまで考えた。
「君はこの電極を繋いだ状態で歌を歌ってもらう。基本的に自由だが、こちらが選曲した曲もある。歌に自信は?」
「ありません」
何ならカラオケで個人指導して欲しいくらい。
「まぁ、この実験に関しては下手でも構わん。じゃあ、まず基礎状態の確認だ。歌って」
「あの、その前に……」
自分好みのイケメンにグイグイ来られる快楽に身を任せながら、私は口を開いた。
「何で私が実験参加者って分かったんですか? しかもドアを開けてすぐ」
すると准教授はつまらなそうな……この顔もまた、いい……顔をすると、こう話した。
「手に抱かれている資料。字が多いが法律類のものじゃない。よって法学部は除外。よく見ると歴史資料だ。では史学部か? 可能性はあるがあそこは学生の男女比として男性が多い。この心理学部棟に希少種である史学部女子が来ることはまずないだろう。残るは文学部。君は、確かアルバイト応募のメールで国文学を専攻している旨、伝えてくれたな。心理学実験室にやってくる国文学専攻生は、今日の予定では君一人しかいない。だから実験参加者だと思ったんだ」
明確なことだった。むしろそんなことに気づかなかったのか、と自分に落胆する。
「それじゃ、歌ってもらおうか」
「え、歌えって何を……」
「何でも構わん」
何でも構わんって言われたって……しかし私は何とか、「ここはカラオケ、ここはカラオケ」という自己暗示をかけると、「KOH+、KISSして、歌います!」とアカペラで歌い出した。我ながら自棄くそというか、よくやったなという感はある。
「四五点」
准教授は厳しい評価を下した。いやいや、あんたの無茶振りに応えたんだからもっとくれても……と思っていると、准教授は電極セットを私の頭に被せた。
スイッチを入れる。途端に、軽くだが頭痛がした。准教授は構わず続けた。
「さっきの歌、もう一回」
えー、もう一回ですか……。しかしこれで時給一二〇〇〇円だからな。私は歌う。が、今度は変化があらわれた。
「わら……なけ……」
歌えないのである。歌おうとしても言葉が出てこない。頭の中で再現している音楽もどこか調子っ外れというか、うまく再現できない。
不思議に思っていると先生が電極の装置をいじり出した。
「もう一回歌ってみて。今度は難しければ、鼻唄ぐらいの感覚でいい」
次もやはり歌えない。歌うという概念を消失したというか、歌とは? みたいな状態が頭の中で繰り広げられるのだ。しかし言われた通り鼻唄にしてみると、これが、歌えた。それでもどこか調子っ外れだったが、一応歌にはなった印象だ。
訳もわからぬうちに電極が外される。准教授は満足そうな顔をしている。
「認知機能に問題がないか確かめる。この計算をできるだけ早く解いてくれ」
紙を渡される。二桁×二桁の掛け算が、列挙されていた。やろうと思えばできるが、この量……となるくらいの量だ。
「時間測るぞ。ようい」
慌ててペンを取る。
「はじめ」
中学生の一〇〇ます計算以来の筆記計算だった。解き終わると、ドッと疲れる。
「よし、じゃあ休憩挟んでもう一回、歌のテストだ」
先生はかなり楽しそうにそう告げてきた。私は椅子にもたれかかりながら答える。
「あの、こんな感じのことを後何回……」
「六時間の拘束バイトだったな」
先生は事もなげに続けた。
「後三、四回かな。休憩もあるよ」
「三、四回……」目が回ってきた気がした。すると准教授の先生が私の前にやってきて、つぶやいた。
「そういや自己紹介が遅れたな」
先生の手には私の実験データと思しき資料があった。何だか一流の研究者みたいで様になっていた。本当、顔面だけは完全どストライクのサディスティック准教授は口を開いた。
「ナギバシアキラ。名前の『名』に木星の『木』、川にかける方の『橋』に、『明』るいで名木橋明。今日は実験に参加してくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ。お金に困ってましたから」
握手をする。思えばこれが名木橋明と私の、決定的な出会いだった。
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