fict fact

シャーロット

『嘘』

「馬鹿だな君は。私は君の前から消えたりはしないさ」

空には大きな星空がきらめいていて、それは、まるで黒い絵の具でべったり塗り付けた中に星という星を集めてばら撒いたような空だった。吸い込まれてしまう。誰もがそう思うほど綺麗な空だった。

「君がいるから私がいる。私がいるためには君が必要なんだから」

星の中にはもうこの世にない物もあるんだ。その星を観測することができるのは何万光年も離れた自分たちだけ。なんだか神秘的だよね。誰かがそういったのを思い出す。

「そうだろ?」

その声の持ち主は、こちらを向いてにこやかに悲しそうな笑みを浮かべてくる。その笑顔はこの満天の星空とよく似ていた。それだけ綺麗でそして儚い。必死に手を伸ばして見てもそれには到底届かない。そんな気がした。


五月の中旬。昨今だとこの時期になれば新緑の様相など面影もないような頃合いだ。廊下から外の様子を見てみれば汗水たらしながら野球部やサッカー部なんかが練習しているのがわかる。彼らにとっては俺なんかよりももっとこの暑さにへきへきしていることだろう。現在の暦でいえばまだ時期は春だというのにそんなものは何処へやら、と言いたげに太陽はギンギンと日本を照らしている。地球温暖化なのか知らないが、最近はもう春と秋というものは消滅してしまったかのようだ。成ればこそ、日本に過ごしやすいなと思う時期がない気がする。『ジャパンの誇る四季っていうのはどこにあるんだい?』と外人に問われてしまったら俺は言い返すことはできないだろう。桜と紅葉だけ見て勘弁してくれ、というのが精一杯だ。ただ、どれだけ文句を言ってもしょうがないのが天気ってものだ。人類がいくら悪態をついたからと言ってどうにかなるものではない。それだけ人間という存在は神にとって小さきものであり、賎無き者なのだ。なんてことをグダグダと考えながら歩いていると目的地に到着する。場所は図書館棟の三階。人によっては体育館棟ともいうその場所の奥地にある部屋の一室。学校の構造上よほどのことがないとまず訪れることすらないような場所に俺はいる。ノックすることもなく俺はドアに手をかけ、開けた。

「やあやあ、海斗君。今日も何だか暑いね」

その部屋に入るなりすぐに誰かが話しかけてきた。その人は屈託のない笑顔で俺のことを迎えてくれた。まあ誰とかその人とか言ったが、その人物が分からなくなるほどこの部屋に立ち入る人は多くない。こういう風に話しかけてくる人もそういないどころかこの人しかいないことを考えればその人は顔を見ずとも自ずとわかる。

「どうも飛鳥先輩。そうですね。全く春ってものはせっかちですよ。もっとゆっくりしていってくれればいいのに」

さっき思っていたことを先輩も思っていたらしく、何も考えなくてもそれに返すことができた。

「確かに。まあ時の流れと天候というものは人の力で争うことはできないからねー。でもこの暑さが地球温暖化のせいだと考えるなら私たちのせいとも言えるのでは?」

「一人間が単純に暮らしてるだけでその一端を担っているなら驚きですね」

「ほほう。君は、地球温暖化に一般人は関係ないだろ論者の一人かい?じゃあ今月の新聞はそれについての私とのディベートを載せることにしようか」

「そんなバカなこと言ってないで早く今月の原稿書きましょうよ。締め切りまであと一週間切ってるんですよ?」

じゃあなぜこんな辺境の地に俺がいるのかと思う人もいるとは思うが、決して飛鳥先輩とかいう人と放課後昨今の暑さについて議論するためだけにきているわけではない。

俺は自分のスペースを確保するために机の上に雑多に広げられた過去の新聞を手に取り片付け始める。そしてデカデカと掲げられたその表題が目に入る。

海越新聞

新聞部。これが俺の部活であり、ここはその部室というわけだ。

部活動に入っていて、その部室がここにある以上どうしてもこなければいけないわけである。たとえこんな辺境の地でも。

「わかってるさ。でもまあ安心したまえ。私たちの手腕とやる気さえあれば一日で終わらせられる」

ドヤ顔でこちらを向いて握手を求められる。俺はその手を無視し、綺麗に整えた机のスペースに自分の荷物をおく。

「やる気を出さなければならないぐらいの時期になりたくないから言ってるんですよ……。計画的に終わらせれば今日にだって提出できるのに」

悪態をつきながら目の前のパソコンの電源を入れて、今月の名前と締め切りが書かれたフォルダーを開く。

0文字

斜め下を見るまでもなくわかるその原稿の白さに俺は呆れた。

ある程度のプロットは俺が書くことになっていて、それを『新聞』というものにする係は先輩が担当している。だからプロットを一週間も前に先輩に提出済みの俺としては完成形が目の前に広がっていてもおかしくはないのだが、どうやらその限りではないようだ。

「俺の書いたプロット届いてないんですか?それとも不満が?」

「どちらともノーだ。いつだって君のかくプロットはまとまっていて非常にわかりやすい。将来そういう道に進むべきだと私は思うよ」

「なら逆に飛鳥先輩は将来こういう道に進むのはお勧めしません」

「なかなか鋭い視点をお持ちで」

先輩はそういうと笑って椅子に仰け反った。俺もその姿を見てつられて笑った。

こんな感じにいつだって先輩は適当である。新聞の提出はいつもギリギリだし、取材もこんな感じにのほほんとやっている。日常生活ですらそんなところはあるだろう。それでもやるときはやるのでどこか憎めない、そんな人だった。そんな感じだから自分もつい軽口が出てしまう。

「まあなんにせよ今日は書きましょうよ。俺も手伝いますから。」

「ダメだ。このソフトを使った作業は選ばれし部長にしか出来ないことになっている!しかし!今日はやる気が出ない!よって今日は取材の続きをする!」

先輩は清々しいほど悪びれもなく、堂々と言い放って窓から虚空を臨んだ。

「本気で言ってますかそれ……。ていうか部長にしかできないことになっているって初めて聞いたんですけど。だとしたら俺何度もそのソフト使ってますし、今更その言い訳は……」

そういって食い下がろうとしたが先輩はひかないようだ。

「そりゃ原稿提出一日前となれば例外で使用を認めるが、今日はその限りではないからダメだ」

またもや堂々と言うその姿を見てはもう何言っても引きそうになかったので、俺の方から折れることにした。

「はあ……。そうですか。まあ困るのは俺じゃないんでせいぜい頑張ってくださいね」

「あー。そういう言い方は良くないぞー。先輩を見放すとはいい度胸じゃないかー」

別段その気もないような間延びした言い方で椅子に自重をもたげながら俺のことを制止した。俺はそれを聞いていないようなふりをして先輩の近くに転がっていた取材リストを手に取り、眺めた。

「今日はどの取材に行くんですか?昼いけるところとなるとあらかた終わっているきもしますけど」

そう言って先輩の方を見てみるとさっきのグデグデ感とは打って変わり、シャキッとしてこちらを見ていた。

「そうなんだ。もうある程度やれることは終わっている。しかし、私は新聞を作りたくない……。だから……。君を取材しようかな?」

最初の方のしおらしさとは一転しだれかを弄ぶような目つきをし始めた。

「生年月日とか趣味とかですか?別に面白いことは何にもないですよ?」

次来る言葉が予測できたので俺はあえて素っ頓狂なことを言って誤魔化そうとしたが、どうやらダメなようだ。

「そう言うのじゃないさ。ね?『嘘憑き』君?」

嬉しそうにこちらを見て来る先輩を憎たらしそうに見ながら俺はハーッと一つため息をついた。

「じゃあ俺からも取材申し込みましょうかね?『幽霊』先輩?」




高校。そう聞いた時皆は何を思い浮かべるだろうか。必死に勉強して無事に受験を終えて入った憧れの高校かもしれないし、そうではなく、悔しい思いをした学校かもしれない。かけがえのないクラスメートとやったたくさんの行事を思い浮かべた人もいれば、大学に向けてそんなことに気が向かなかったという人もいるだろう。中学に比べれば日にならないぐらい難しくなった各教科に悪戦苦闘した記憶もあるだろう。でもそんな中でも誰でも経験することとなるのは——

「是非とも我が吹奏楽部へ!」

「一緒にシンクロやらないか!」

「柔道とともに育む熱い友情に興味はありませんか!」

部活動だろう。

俺は愛用の自転車にまたがり、外を走り始めた。外は思ったほど寒くはないと感じる四月の頭。本来は賑わっているはずの大正ロマン通りが静けさを残す中自転車を漕いで、到着するのがこの春から俺が通うこととなる高校だった。成立から約百二十年。自主自立を重んじる校風がモットーである海越高校だ。時代の流れなのか元々男子校だったのだが近年共学になった。それについてはOBが相当文句を言ったらしいが現状それは叶わなかったらしい。

そして、立派にそびえたつ校門を抜けると、さっきの静けさとはどこへやら。部活動の熱い勧誘が幕を開けていた。

「興味があったら是非うちにきてくださいね!」

そう言われ続けて俺の手には無数の紙の束ができていた。

こういうのは大学からだと聞いていたのだが最近の高校はそんなこともないらしい。ようやく部活動凱旋パレードを抜け下駄箱に到着した。その疲弊度といったら最寄駅から二キロほどあるこの学校を登校することの何倍もあった。

「勧誘すごいな」

「こんだけあると俺何部にするか迷うわ」

「俺もう決まってるし今日どうしようかなー」

昇降口に着くとそんな声が色んなところから聞こえてくる。流石にみんなこれには驚いたらしい。そんな会話を端に聴きながら、俺は下駄箱で上履きに履き替え、教室へと向かう。


今日は学校が始まって約一週間がすぎたぐらいだ。別に教室自体静まり返っているわけではないが、少人数で固まって話しているのが大半だ。まだ新しいクラスメートになれないのかチラホラと違うクラスであろう生徒も見受けられる。概ね元同じ中学の人とつるんでいるのだろう。かくいう俺はひとりぼっちである。別にそれについて何か文句がある訳でもないしむしろそれでいいと思っている。これはよくある強がりではない。本当にいらないのだ。

そんなことを思っていると先生が入ってくる。

だらだらと今日の日程をあらかた述べ、なんかのプログラムの参加を募り始めた。

「誰か参加したいやついるか?」

その言葉を皮切りに少しクラスがざわめいた後、数名手が上がりその人たちに決定した。

うちの学校は比較的にみれば賢い部類の学校な為、こういうもので誰がやるかなんかが揉めることがあまりない。クラス委員とかその他の学級委員なんかもすぐに立候補とともに決まってしまった。

その話が終わった後また先生が紙を配りながら話し始めた。なんでも今日で入学から一週間経つから今日から部活動体験期間になるらしい。奮って参加するようにとのことだ。

「じゃあ終わり。気を付け、礼」

号令とともに静寂から喧騒へと戻っていく。次の授業の準備をしながらさっき貰った紙をじっと見た。

『入部届け』

そう簡潔に書かれ、下の方には下線が引かれ、そこに自分の志望する部活を書くらしい。

「どうでもいいな」

俺は口ずさみ適当にカバンの中にその紙をしまった。


「じゃあこれで授業終わり。今日から部活動体験期間だから決まっている人も行っといて部活の雰囲気見て見るのが良いぞ。ちなみに俺はサッカー部の顧問だけどあまり顔出さない」

数学の木元先生そう言うとクラスメートたちがクスクス笑った。そして先生がさった後今までにないぐらい教室がざわめいているのを感じた。この機会でいろんなクラスメートと体験しに行って友達を増やすのだろうと思う。そんな波に抵抗するかのように俺はそそくさと帰り支度を済ませ、教室から出た。そしてこのまま下駄箱まで一直線で行こうと思った矢先声を掛けられた。

「おーい海斗。今日一緒に部活動巡りしないか?」

そう言って俺の方まで小走りで近づいてきたのは元同じ小学中学の矢島翔だった。別段仲がいいと言うわけではないが、同じ中学でクラスも一緒だった事があるともなれば嫌でも関わるわけで、まあ言ってしまえばその程度の関係だった。

「部活動巡りって言ったって矢島サッカー部一択なんじゃないの?」

この高校は公立高校にしては部活という面で他の私立高校に引けを取らない成績を収めているらしく、サッカー部もそのうちの一つだった。それを知っていた矢島は中学時代から海越高校に絶対に受かってサッカー部に入ると豪語していた。

「まあそうだけど四日間も体験期間あるのに全部サッカー部じゃ面白くないじゃん。初日だし大したメニューやらないらしいから別のところ見に行きたくてさ」

そう言って笑った。いくら部活に興味がないからと言ってここまで言われて断るほど俺の人間性は腐っているわけではない。わかったと一言いって歩き出した。


「次行く部活決まった?決まっていないなら入るだけでもいいからどう?」

「今来た人には科学部特製わたあめプレゼント中!」

廊下は見学のための一年生と勧誘の二、三年生でごった返していて歩くので一苦労だった。やっぱり断って家に帰るのが得策だと本気で思った。でもそんなこと俺とは正反対に矢島はやる気満々のようで、うるさい廊下に負けないように俺に叫んできた。

「俺楽器体験して見たいからコギタのところ行きたい!」

俺もそれに負けないようにわかったと叫んで歩いて行く矢島を追った。


「ようこそ古典ギター部へ!楽器体験できます!さあさあこちらへ」

教室に入るや否やそう言って慣れたように俺たちを席に着かせた。

そこに行くと男女一人ずつのペアがこの部活のTシャツだろうと思われるものを着て、俺たちの前の席に座って待っていた。

「じゃあ自分の前にある楽器を持ってください!」

「いやいや自己紹介からでしょ」

「あっ!忘れてた!まず自己紹介からしますね!わたしは……」

まだ初日ともあって慣れていないのかぎこちない感じに自己紹介が始まった。そして催促される形で、俺たちの自己紹介をした。

「それじゃあ改めて楽器を持ってください!まず持ち方なんだけど……」

俺たち二人は先輩たちに手ほどきを受けながら、楽器の持ち方や足の置き場、指の置き方など様々な指示を言われるがままにこなしていった。

ジャン、ジャン、ジャァン。

ジャン、ジャン、ジャァン。

「いいね!上手い、上手い!」

慣れないながらも必死に言われた通りに指を動かし、掻き鳴らせば弦楽器ともあって先輩たちと似たような音自体は出るので他の楽器に比べれば体験した感は出る気がした。そしてあらかた終わった後この部の活動内容を聞いて暫しの雑談タイムに入った。

「そういえばもう君達は入る部活決めた?」

その最中に女の先輩がそんなことを聞いてきた。

「俺はサッカー部に入ろうかなーって思ってますけど確定じゃないんでいろんなところ見てるんです」

「そうなんだー。是非うちも検討して見てね!。じゃあ、えっと、瀬島くんは?」

さっきの自己紹介の時に書いた紙をちろりと見ながらたどたどしく俺に聞いてきた。

「いやまだ決まってないです」

「そうかー!じゃあうちはどうかな?結構センスあると思うよ?絃楽器」

「そんなんことないですよ。指の位置とか音とかもうまくいかないですし」

「全然大丈夫!初めての方はみんなそんなもんですよ?」

「うまいって!俺なんて音でねぇし」

弦楽器で音が出ないってどういうことなんだと思いながらも女の先輩に適当な会釈をする。それを皮切りに二人で何やら話し始めたのを俺は端々に聴きながら一人物思いに耽った。どんな声を書けられようとも行く気のない人は行かない。俺の隣に座る矢島だってそうだ。どんなにおだてられようが、天賦の才があろうともサッカー部に入ると決めている以上入ることなどないだろう。それでも相手を思いやり適当なことを言いつつその場をやり過ごす。なんの問題があるだろか。一般的にみればそれは当たり前のことで、むしろマナーなんだと思う。相手だって内心無理だろうなと思いつつ一縷の望みをかけてあの手この手を費やし全力で勧誘する。するとどうだろうか、側から見れば笑顔の絶えない極自然な部活動の風景が映り込むわけだ。

嘘でできた幸せ空間の完成である。

俺はそれに耐える事はできなかった。それは空気を読むのが不器用だとか、下手くそだとかそう言う風なことだと皆言う。でも俺は空気を読めていないわけではない。どれが最善の手なのかぐらいはわかっている。ただそれをするのが嫌なだけだ。良い言い方をすれば実直で真面目。悪い言い方をすれば頑固で偏屈。どう言われようが俺は構わない。それでも嘘をついてまで自分の行動を曲げることは多分今後一切だってない。


ローテーションの時間になったらしく、楽器を置き、手短に勧誘の言葉を述べられ、俺たちは廊下へと出た。矢島はやっぱり俺には音楽の才能ねぇわとか言いつつ笑いながら次の場所へと歩みを進める。その後まだ諦めきれないとか言って吹奏楽部に行って、音楽部に行って……。音楽系部活を一通り済ませたら運動部へと向かった。見学だけのところもあったがほとんどは参加ができた。当然のように参加する矢島の後を追う形で俺もついて行くから当然参加せざるをえない状況になる。正味部活などに入っていない俺は体力増強する機会などあるはずもなく、有り余る体力を存分に振るい続ける矢島を追いかけて行くので精一杯だった。そして今日中に回れる運動部の最後は弓道部らしく、そこで弓を放しつつやっとの事で回りきった。

「いやぁムズイなあれ。まず弓引き絞るのですら大変だわ」

矢島は汗ばんだ肌をタオルで拭いながらそう言った。矢島の汗は俺のかくなんともべっとりとした汗とは質が違うようで、サラサラとしている。これが基礎代謝の違いなのかと思い知らされた。

「だろうな。てかむしろ簡単にできたら先輩たちの立つ瀬がないだろ」

「まあ確かに。リフティングとかって見た目以上に難しいし、あれと一緒だな」

「みんなの普通は誰かの不自然の元成り立っているってわけだ」

努力しないで成されたものにこそ不自然さというものはついてくる。当たり前であることはとても大変なことだ。街中でよく聞く曲も当たり前のようでそうではない。作曲家がいて、作詞家がいて、歌い手がいて、流すものがあって初めて成立するものだ。当たり前は誰かにとっては当たり前ではないのである。

「じゃあ次は文化部回りたいな。文化部って全日やってるらしいから今日中に回れなくてもいいんだけど。とりま科学部行こうぜ」

ともすれば体力だってその人にとっての当たり前は他のだれかと呼応はしない。俺は首を横に振り断った。

「疲れたし、喉乾いたし、自販機でなんか飲み物買ってくるわ。そのあと合流するから先行ってて」

「じゃあ後でお金払うからなんか適当な炭酸買っといて!また後で」

そう言って矢島は足早に校舎の中に消えて行った。それを見て俺ものそりと重たい体をあげ歩き出した。

廊下を歩きながら、スマホを取り出し時間を確認する。五時を少し過ぎたぐらいだった。部活動体験の終了時間は五時半だから時間も時間なのかさっきの盛況ぶりとは打って変わって廊下は静寂に包まれていた。まだ一年生の下駄箱のあたりは帰らせないという意気込みで待っている上級生がいるが、それだってさっきに比べれば下火になっている。それでも俺は極力勧誘に合わなそうな道を歩きながら俺は自販機へと向かった。


「ふう……」

自販機で久しぶりのスポーツドリンクを買いそれにもたれかかる形で一心地ついた。目の前に広がる春の夕方の風景というのはどこか暖かくそれでいて寂しさが残っている、そんな感じだということを思っていた。快晴の中オレンジ色の太陽がどんどん傾いて行って街を照らして行く。神秘的ではあるが、それだけ儚さがある気がした。

「部活動か……」

さっきまで嫌になるほど体験してきた数々のそれを思い出す。ただどれもこれも取り留めのない風景の一部と化して空中に消えて行った。俺は中学時代部活動というものをしていない。厳密にいえば入ってはいたが参加はしていないということになる。それはうちの中学の方針なのか全国どこでもそうなのかは知らないが、部活動は全員入らなければならず、入部届けを出していない俺を先生たちが適当にどこかの部活に入れたからだ。正直いえばもうその部活が何部だったかも思い出せない。そんな中学の部活についてただ一つ思うことがあるなら……

「今回もそうなるだろうな……」

そうひとりごち、最後の一口をぐいっと飲んで近くにあるゴミ箱にペットボトルを捨てた。矢島のためにコーラを一本買い、いるであろう科学部の部室へと歩みを進めた。


 ついて見るともう部活動見学は終わっていたようで、矢島は教室の外で待っていた。

「遅いわ。もう終わっちゃったぞ」

「ごめん。案外校舎がでかくてさ。はい、頼まれてたこれ」

「おっ。どうも」

軽く回転をかけながら矢島の方にコーラを投げる。

それをすぐさまプシュッと音を立てながら矢島は開けて飲み始めた。

「まあ時間も頃合いだし今日は帰るか」

存外耽っていたようで、時間をみると五時十分過ぎぐらいだった。

「そうだな。俺疲れたし」

「体力なさ過ぎ。もっと鍛えたほうがいいぞ」

「俺は矢島と違って体育系の部活に入るつもりはないからいい」

「そんなことばっか言っていると女子にモテないぞ」

そんなことを言いつつ俺たちは学校を後にした。


中学時代際立って接点もない二人では帰り道しんどいかとも思ったが、矢島は人種が違うようでそんなことはなく、積極的にいろんな話を振ってくれた。俺はそれに適当な相槌や話題を返すだけでよく、こういう人間は友達がさぞ多いのだろうなと肌で感じた。

そんな折中学時代の話になった。

「海斗って中学時代部活入ってなかったよな?」

「まあ。適当に入れられて所属はしてたけど行ってないから実質入ってないようなもんだな」

「だよなー」

間延びしながら矢島はうーんと背伸びをした。

「中学時代まあまあ部活入らないでそういう感じに適当に入れられるやついたイメージだったけど、そういう奴って大抵クラブチームとか入って仕方なくって感じだったからさー」

「そうだな」

理由なく入らない意味がわからない、そう言いたいのだろうということは暗に伝わって来た。ズバッと言わないのはもしかしたら拠ん所無い理由があるのかもしれないという配慮の念だろう。でもその理由は聞かない、こういう配慮ができるのも矢島のすごいところだ。飄々と見せて、意外と考えているところは他の奴にはなかったものだ。

「で、今日の部活動たちはどうだったよ!何かピンと来たものあったか?」

今日部活動体験に俺のことを誘った真意はこれなんだろうなと瞬時に悟った。

中学はなんかしら折り合いがつかなかったのかもしれないけど、高校では何かしらに入って部活動を楽しんでもらいたい。そんな気持ちで俺を色んな部活に連れ回したのだろう。

そう思うと変な気を使わせてしまっていることに少しばかり申し訳ない気持ちになった。

「運動部メインだったから俺の肌に合わなかったってのは素直な感想。でも久しぶりに運動できてよかったってのも素直な感想」

「そうかー!あえて新境地が開けるかと思って運動部多めの構成にしたんだがなー」

テンションが上がったのか、せっかく隠していたであろう真意を存分に出して行く感じは彼らしいと思った。矢島には隠し事は似合わないし、向いていないなと感じた。

「まあいい経験にはなったよ。連れてこられなければ一生弓道とかやらない人生だっただろうし」

俺はなんとなくフォローのつもりでそう言ったのだが、矢島はそうは受け取らなかったらしく一瞬真面目な顔になった。

「高校ぐらいで人生をもう決めてしまうなよ」

「人生どの瞬間で自分が変わるかなんてわからないもんだぞ?」

そう言った自分が恥ずかしくなったのか、矢島は面倒臭そう笑って適当に言い放った。

「さっきの部活動体験の時だったかもしれないし、今日この瞬間かもしれない。明日かも明後日かもしれない。10年後だって可能性は残ってる。だからそんな悲観的に未来を決めつけるなよ」

言い切ったとばかりに、な?と聞き返して来た。

「そうだな。確かにわからないな」

「そうだ。てなわけで明日も行くぞ!」

「うっ。まあついて行くよ」

正直あの嘘にまみれた空間にいるのは嫌だったが、ここまで言われて無下にはできなかった。

それに「変わる瞬間」なるものがもし本当にあるのだとしたらそれを見てみたかった。

一度変わってしまった自分をまた元に戻せるかもしれないそれを見て見たかったのだ。


「今日は俺サッカー部行くから。悪いけど回るなら一人で頼む」

「わかった」

「て言うか、一緒にサッカー部行くか?」

「そこに可能性はなさそうなので遠慮しておきます」

「そうか残念。じゃあ!」

そう言って矢島は走って校庭へと消えて行った。

三日目にしてこう言うことを言われている時点でわかるのだが、文化部を中心に見て行った昨日の部活動体験でも俺のピンとくるものはなかった。

やはりどうしても嘘の空気感に体が拒絶反応を示してしまう。

決して悪意のあるものではないとわかっていながらも、平然とつく嘘に嫌悪してしまった。

そんな自分も嫌で、このやり場のない怒りは呆れへと変わって行く。

こんなことが体験のたびに起こっては心身も疲れると言うもので、今日は回らずに図書館に行くと決めていた。聞く話によると蔵書量が半端なく多いのだとか。本好きの自分としてはその謳い文句だけでも誘われた。休む程としてもちょうどいいと思ってそこを選んだ。

「よし行くか」

そう小さな声で言いって目的地へと歩き出した。


高校問わず中学、小学校だってそうだが、これだけの人数を収容するということはそれそうなりにでかくあらねばならない。自然の原理である。その生徒のための教室があることは当たり前として、それに付随する形で実験室や体育館をはじめとしていろんな施設があるわけだ。端的にいえば学校というものはでかいし迷路みたいだ。もう少し端的に言えば……

「迷子だ……」

その大きさに負けてしまった。自分がどこにいるか分からないという新入生あるあるを絶賛かましてしまった。まずもってこの学校の構造の複雑さが原因だ。増設に増設を重ねて新校舎を二つも三つも作っている。それぞれに名前がついているのだが、入って十日じゃ行かない校舎もあるわけで、当の図書館は体育館棟の一階にあるらしいのだがその校舎の何階のどことか言われても分からない。それに棟と棟は全て接続していても、フロアの高さや立地の問題から〇〇棟の三階と〇〇棟の二階が接続しているとかになっていてかなり複雑なのである。ただ、一人で理科等にはいけた経験があったためか、正直いけるだろうと高を括っていた節はあって自分の不甲斐なさに呆れた。

恥を忍んで聞こうとも思うが、人がいないのではどうしようもなかった。そんなこんなで右往左往している最中、後ろから声がした。

「迷子かい?」

思わず声のする方を振り向いた。

そこに立っていたのは先輩らしき女の人だった。

風貌はパッと見ただけで美人だと思える端正な顔立ちをしていた。ショートカットの髪に青のヘアピンをつけていて、首をひねる際にちらりとそれが揺れた。

「部活動見学ならこの棟には用事はないんじゃないか?体育館に行きたいならそこの階段上がった四階にあるけど、今日は体育館の部活は休みだったはずだから」

俺があっけにとられている中その人は淡々と俺に説明してくれた。それに応えるように俺も慌てふためいた感情を収めながら聞いた。

「実は図書館に行きたいんですが迷ってしまって、できれば道を教えて欲しいです」

「あー。それならここが体育館棟だからそこの階段を降りて……」

そう言いかけて目の前のその人は固まった。そして何かを思い出しながらにウンウンと頷き、最後には何やら楽しげににこりと笑った。

「道を教えて欲しくば一旦私の部室に来ないさい!」

「え、でも俺……」

行けない理由がパッと思いつかず、たじろいだのがミスだった。一瞬で付け入られた。

「少しだけさ。曰く部活動勧誘というものは基本こうなのであろう?」

「……まあ」

人の弱みに付け込んだりはしない分この人の方がタチが悪い気はするが、強引さと言う面では変わらないのかもしれないと頷いてしまった。

「では行こう」

「終わったら場所教えてくださいね?」

「勿論。私嘘はつかない方なんだ。さあさあ、この部屋だよ」

歩きながら俺の質問に答えつつ、その人はさっきの開けた場所の少し奥にある部屋の前で俺のことを手招きした。

こんな辺境の地に何の部活があるかわかったものでは無いなと少々引きながらその部屋に向かっていたが、入ってみると一瞬でその部が何部なのかを察することができた。

「新聞部、ですか?」

「当たりだね」

部屋に入ってみれば、雑多に広げられた無数の新聞とそれらを印刷するのであろう巨大な印刷機がその部屋の中枢を担っていた。そのほか、いまでは使っていないのかもしれないタイプライターみたいなのも何台か置いてあって、素人目にもそこが何をしている部活なのかはわかった。

「ようこそ我らが新聞部へ」

バーンと効果音が出そうな身振り手振りでその部屋の紹介をする。

ただもうあらかた見てわかった以上のものはよく見てもなかったし、それほど感動というものはわかなかった。寧ろ部内の雰囲気的にそれ効果音とは程遠さを感じてしまった。

「我らというには人数が少なすぎじゃないですか?」

「そこに気づくとはなかなかやるじゃないか」

「いや、誰でも気づきますよ。一人しかいなかったら」

俺が部室を見たままの情景が全てだった。たくさんの機材こそあれ、そこには人影というものはなかった。これでは我らという言葉はふさわしくは無い。とはいえ我の部活とか豪語されてもなかなか反応に困る。

「今日は来てないだけさ。それより自己紹介が遅れていた」

そう言うとこほんとわざとげに一つ咳をして佇まいを直し、話し始めた。

「この部こと新聞部部長二年F組出席番号二六番七条飛鳥だ。好きな曲はクラッシック。でも好きなアーティストは嵐。好きなことは努力だ。今日は来てくれてありがとう」

そう言っておもむろに握手を求められる。来させられた身としてはありがとうと言われ握手を求められても困るが、投げやりに俺も手を出しそれに答えた。

「それじゃあとりあえず適当にその辺に座ってくれ。そして、君の名前と好きな事と好きなものについて教えてくれるかい?」

もうここまで来たら最後まで従おうと思って、言われた通りに手近にあった椅子に腰をかけた。座った後後七条飛鳥と名乗るその先輩も俺の目の前の椅子に座った。

「一年B組二三番芹沢海斗です。好きな曲は特にありません。だから好きなアーティストもいません。好きなことも特にありません。以上です」

俺は淡々とそう言った。別に何か嫌でふてくされてこう言うことを言っているわけではない。本当にそうなのだからそう答えるより他なかった。しかし流石にこの言い回しは気に障ったかなと思って七条先輩の方を見てみると、吹き出して笑っていた。

「君は面白いな。それは自己紹介とは言わないよ。いやはや心底ここに来たことが嫌だったと見えるね」

「いや別にそんなつもりで言ったわけじゃ……」

「まあそりゃそうだろ。無理やり連れてこられていきなり自己紹介なんて私なら嫌だね」

そう言われてしまうと、それがわかっていながら続けるのはいかがなものなのだろうかと少々ムッとした。しかし当の七条先輩はあまり悪びれもなくニコニコしていた。

「それじゃあ各機材の説明をしていこうかな」

そういって七条先輩は座っていた席を立ち歩き出した。それに連れて俺も立った。

「て言うかまず今新聞部が何をしてるか気になるよね。じゃあ何をやっているかと言うとぉ……」

「…………。言うと?」

同じことを言わないと進めてくれないらしい。俺は要望通りいうとよろしいと言った感じ運と頷いた。

「何もやっていない!」

バンッと音がなりそうなほど堂々とした出で立ちでそう言い放った。

「ご覧の通りメンバーがいなくてね。取材するにも手が回らなくてやってらんないよね」

「そんな堂々とサボりを豪語するとは」

「誤解してもらっては困る。こっちだってサボりたくてサボってるわけじゃないんだ。できないことを無理して適当なもの作るのが申し訳ない。ただそれだけのことさ」

「わ、分かりました、分かりました」

ものすごい剣幕で詰めてくるからそれをなだめるように少しずつ下がった。

テンションの起伏が激しくて、飲まれてこっちまでわけわからなくなってきてしまった。

「だから新入部員が入ったら再開する予定だ」

「一人でも?」

「一人でも」

七条先輩はうんと大きく頷いた。

「まあ部活の概要はこんなもんかな」

ものすごく適当だなと思いながら、分かりましたと一言添えた。

「じゃあまずこれ。印刷機。このパソコンで作った原稿を生徒数分擦ります。超早い。超でかい。値段高そう。多分壊したらめっちゃ怒られる。以上」

「は、はあ」

「ああ。これはパソコンね。中にある先代が作ってくれた新聞紙作成ソフトによって新聞を作ります。これがなきゃ何もできません。壊れたら直すすべも、作り直すすべもないのでこの部は廃部になります」

「質問いいですか?現状これだけ人数が少ないのに廃部しないのはなんでなんですか?」

「いい質問ですね。この学校の七不思議の一つという認識でいいです」

「答えになってない……」

こんな調子の機材見学ツアーを十分ぐらいして終えた。

感想としては、

「何も内容がなかった……」

「そりゃそうだ。機材なんていまの時代パソコンと印刷機だけあれば事足りるし、新聞部の本懐は新聞を作ることだもの。作ってない今では作っている作業とか見せられないのだもの。内容が薄くなって然るべきさ」

「それを誇らないでくださいよ……」

「まま、いいじゃないか。はい、お茶だ」

「あ、ありがとうございます」

さっき紹介されたばかりのポットと急須で入れられたお茶が目の前に差し出された。

「ザーッとやったけど部活動体験はこれで終わりでいいのかな?お疲れ様でした」

「お疲れ様でした……?」

疲れたかそうでないかと言われれば疲れたのだが、内容に対してではない分反応に困った。

「本当にお疲れ様だ。こんな茶番じみたことに付き合ってもらってしまって申し訳なかったね」

七条先輩は何やら申し訳なさそうにこちらを見て謝ってきた。

「一風変わった感じで新鮮だったんで別に大丈夫ですよ」

今日は俺も自分で驚くぐらい喋っていたと思った。他の部活動見学ではそうはならなかったことを考えるとやはりこの人は不思議な人だと感じた。さっきまで変な人だと思っていた認識が変わった気がした。

「そう言ってくれるとこちらも誘拐した甲斐があるってもんだよ」

「僕以外にやらないほうがいいですよ、それ」

「善処しよう」

そんなことはなかった。やはりこの人は変な人だ。


「君はなんの部活に入ろうかはもう決めたかい?」

出されたお茶とともに会話をしていた俺たちはふとそんな話題になった。

「そうですね……。決めかねているところです。入るか入らないかについて。この調子でいくと多分入らないと思います」

田島にあれだけ誘われていろんな部活というものを見に言ったが、やはり自分の気持ちを変えるほどの転機というものは訪れなかった。

俺には部活というものは向いていない。体験に行けば行くほど感じてしまった。

申し訳なさに田島の気持ちを汲もうとするなら、適当に部活に入っていかない。それが最良の手だとは思う。だがそれは自分が許さなかった。

俺以外の人はその部活に入りたくて入っている。そこに特に入りたい理由もない生徒が漠然といるだけという状況を他の人たちはどう思うだろうか。嫌だなと思う気持ちが俺だけならいいが、他の人に思わせてしまうことは本当に嫌だった。

だったら入らない方が両者ともにいい関係なのではないかと思い俺は入らない選択を取るつもりだった。

そう言った後前を向くと七条先輩は難しい顔をしていた。

「なんの部活に入るとかいう以前に入らないという選択肢をあげてくるとは……」

「これでも色々考えて出した答えです。部活動勧誘してくれている人の前でいうことではないかもしれませんが……」

聞かれたからには真面目に答えたいと思って言ったが、流石に失礼がすぎた気がした。

何かフォローしようと思ったが、先輩は別に気にするわけではなく続けてきた。

「ちなみになぜ入りたくないのかの理由を聞くことは可能かい?」

「そ、それは……」

さっきまでの明るかった表情とは打って変わって真剣な眼差しをしていた七条先輩に俺は気圧された。それでもその理由は自分では納得できるものでも他の人には理解ができるものでないことを知っていた俺は言うことをためらった。

言葉を詰まっていた俺を見ていた七条先輩は「そうか」とポツリといって俺にその真剣な眼差しを向けるのをやめた。

「そこで飄々と『部活なんて糞食らえですよー!』とか『友達づきあいマジ卍!』なんてサボることを前提としたことを言い出したら流石の私も切れるところだったが、本当に理由があるようで良かった」

「そ、そんな理由な訳ないじゃないですか」

そんな理由で入らないならむしろ良かったとさえ思う。友達と築く熱い友情関係なんてものには別に部活の有無は関係ない。あった方がいいのかもしれないがなくてもできるだろうと思う。俺はどっちみちそんなものは築けない。

「言えないような理由ならなおさらいい。でも先生たちにはしっかりその旨を告げた方がいいぞ」

「え、なぜですか」

「そりゃ理由なく部活動に入らないことをこの学校が認めてないからさ」

「ほ、本当ですか?」

「ああ。本当さ」

てっきり高校はその辺りルーズなものだと考えていた俺としてはその発言に驚きが隠せなかった。

「それが嫌なら覚悟しておいた方がいいよ。自称進学校の力を」

「な、なんですかそれ」

驚いた勢いそのままに聞いた。

「我が高校のモットーは自主自立。多分それを知っていたから何も言わず入らなくてもいいと思ったのだろう?」

「まあ、確かにそれも理由の一つですけど……」

この学校の校訓は『自主自立』。生徒の自主性を重んじている。進学校ならではで、あるのはこの校訓の一つだけ。校則というものはない。入る前にいくら興味がなかったとは言えそれぐらいは誰もが知っているようなものだった。だからそれも相まって入らなくてもいいということを思ったのは確かだった。

「当然この学校がそれを守らないわけにはいかない。だから強制的に入れるなんてことは絶対にしない。ただ……」

そういうと先輩はニヤリとした。

「ただどっかの部活に入るまで面談みたいな事を延々とさせられる。そしてこれが面白い点なんだが、あくまでも面談という形で部活に入らせるから自主的に部活は選んで入ったと言うことにできる。校訓は守りきれたというトリックさ」

自信ありげに胸を張って七条先輩はそう言い切った。

「半ば強制じゃないですかそれ。て言うかそれは自己体験談ですか?」

「まさか。私は君と違って自主的にこの部を選んださ。この話はクラスメートからの受け売りだよ」

手をひらひらとさせてそう言ってきた。

「まあ先生たちがそこまで躍起になるのもわからなくはないけどね。進学校だって言われてても、部活も何も入らないで三年間勉強だけさせてきた人たちがいい大学に行くのは別にアピールポイントにはならないからね。それに、仮にどっかの代の進学実績が悪くてもみんな部活動に励んでましたと言ってしまえば免罪符にできるしね」

面倒臭そうに俺にそう言ってきた。嫌な面が理解できてしまうほどそれをさせられている自分たちが嫌なものはない。そう言いたげな表情だった。

「ま、そんなわけで私は理由なく入らないと言う選択肢はオススメしないよ」

「了解です……」

こう言われてしまっても自分としては複雑の心境だった。

七条先輩にも言えないと言うことは裏を返して先生だから言えると言う話ではないからだ。

軋轢を生みたくないための引きだと言うのに、それすらも許されないとなるとどうしたらいいかがわからなくなった。

「おい少年」

俺が悩んでいると、七条先輩はそう啖呵を切ってきた

「それでも理由が言いたくないと言うならばこの部にくるといい」

「え?」

突然のことに理解が追いつかず変な声を出してしまった。

「最後の質問だ。君は部活に入りたくないのか?それとも入れないのか?」

七条先輩はニヤリとして俺にそう聞いてきた。

俺の体から冷や汗がどっと出たのを感じた。

「前者であるなら志望用紙に『新聞部』と書いて提出し、もうここには来なければいいさ。別にそのことについて私は気にはしない」

呆然としている最中七条先輩はまくしたててくる

「でも後者であるなら私が変わろう。君が『部活』と言うものに入れるようなそんな部活に私が変わっていくよ。そうしてここで過ごすうちに君が変わって行けばいい」

最後の言葉とともに七条先輩はにこりとして俺の方に顔を向けてきた。

「君はね、昔の私によく似ているんだ」

「昔の先輩にですか?」

「ああ。何も信用しようとしていないし、何も変わろうとしていないそんな私に」

「何を持って俺が何も信用してないとか変わろうとしないとか思ったんですか」

俺自身何かが変わるかもしれないと思って他の部活なんかを見てきたつもりだった。なんとなくそれを否定された気分になって少々語気強めに返してしまった。

「簡単なことだよ。まず部活動体験期間中に図書室に行く人がいるか?もう決まっていかなくてもいいと踏んでいるならそれもわかるが、そうではないのだろう?全部の部活を見たわけでもないだろうに。すでに変わろうとすることを諦めている証拠だ」

「でも俺は二日間いろんな部活を見てきて……」

「そうだったのか。君なりに何か変わろうとしてきたわけだな。でも諦めたのは事実だろ?」

「そ、それは……」

「いいんだ。それは君だけが悪いわけではない」

どもる俺を七条先輩は遮った。

「君も悪いと感じているかもしれないが、周りの人だって君からすれば悪いのだろ?」

「え……」

全てを見透かされたような気がして絶句してしまった。

「なんで、って顔しているな。言っただろ?君は昔の私に似ているって。私も君と同じくどうしようもないぐらいの理由を抱えて部活に入ることを諦めていたんだ」

「先輩もですか?」

「ああ。だから君の気持ちはよくわかるんだ。『入れない』と思う理由は違うだろうけど、そこに起因する理由は同じだろうからね。自分だけが悪いなら自分が変わることを頑張ればいいが、周りの人もそうであるから自分はどうすればいいのかわからない。そういう気持ちだろう」

ふん、と音が出そうなほど七条先輩は息巻いた。

「私もおんなじ感情を抱いていたんだ。まあ君とは違って部活動体験なんかに行きすらしなかったけどね。いやはやあの頃の私は尖っていた」

昔の自分を思い出して恥ずかしくなったのか七条先輩は照れた表情を見せた。

「………………。でも先輩はこうして部活に入っているじゃないですか」

どんなにそのエピソードがあろうともこうして部活に入っているという事実は変わらない。

俺と感情が同じだったとするなら、部活に入らないで逃げてしまおうと考えている俺なんかよりも七条先輩はよっぽど大人だ。そのことに変な感情を抱いてしまい、歪んだ顔で吐き捨てるように言ってしまった。

「そうだね。でも考えても見てよ。君よりも変わることに消極的な私が、私一人でこの道を選んだと思うかい?」

俺の言葉なんかことさら気にもしないように飄々と言いのけた。

「さっき君に言った言葉は全てこの部活の先代の部長の言葉なんだ。受け売りで申し訳ないがね」

またもや照れた表情でそう言ってきた。

「私はこの部活の先輩に救われたんだ」

そこから七条先輩は過去の自分がどれだけ歪んでいて、それを変えてくれたこの部活の部長であるかを熱弁した。

その話を聞いていると自分がその場にいるような気分になってきて、変な感じがした。

多分ではなく本当に俺と七条先輩の過去は似ているのだと思った。

「面白い人だと思ったよ。何も事情を知らないのに自分の方が変わる、だなんていうなんてさ。思わずその場で笑ったよね。あの日いつ以来だろうって思うほど心からね。それはもちろんバカにする気持ちが大半を占めてたんだけどさ、そんなことできるわけないじゃんかって言うさ。でも思ったのはそれだけじゃなくてね。私はその一言で今まで背負ってきた価値観が変わった気がしたよ」

七条先輩はそこで一呼吸を置いてこっちを見てきた。

「自分だけで背負わなくていいんだ、てね」

「………………」

何も言えなかった。

今まで自分が心の中で思ってきたことをまじまじと表に出された、そんな気分になった。

「ま、とは言え結果から言ってしまえばその部長さんが変わってくれることはなかったんだけどねー」

「そうなんですか」

ここまでの話を聞いた感じだと本当に変わってくれたとなる話かとも思ったがそうではないらしい。

「さっきも言った通りそんなことは十中八九無理だってことはわかっていたんだ。大事なことはそれを言ってくれたと言うことさ。嘘でも本当でもどちらでもいいんだ。そんなことは。ただ一言そう言うことを言ってくれる人がいると言う事実が大事なんだ」

「そうですか……」

七条先輩は達観したような表情でそう言いのけた。

「ああ、勘違いしないで欲しいのだが私はその先輩たちとは違うからな。私自身、君のために全力で変わっていくことは保証するよ。むしろ先輩ができなかった分まるまるな」

「え、まだ入るとは……」

そうどもると七条先輩は悔しそうな顔を浮かべた。

「くそー。騙せなかったかー。まあいいや、大事なところはそこではないしな」

そう言って先輩はにこりと笑った。

「君を取り巻く悩みが何かわからないし、教えてくれたからと言って私が解決できるとは言わない。でもまだ全てを諦めて何もしないということに走るには早すぎるということを言いたかったんだ。さっきも言った通り、ここにくれば少なくとも私がいる。だから君なりの希望は捨てないでくれよ」

困ったような、懇願するようなそんな顔をして俺に問いてきた。

「…………そうですね」

その言葉しか出てこなかった。


「それじゃあ勝負をしよう」

「勝負、ですか?」

俺が帰宅の準備をしている最中にそんなことを七条先輩は言ってきた。

「茶番の最後だと思ってくれればいいさ。最初は部活に入りたくないと言っていた君は私にほだされて、もしかしたら何かしらの部活に入るかもしれない状況になっているわけだ」

「ま、まあ」

絆されて、という表現はなんか引っかかったが実際そうである以上何とも言えなくなる。

「それは部活動勧誘に成功したことになるわけだろ?ひいては私の勝ちというわけだ。そこで君が我が部活に入ることとなったら私の勝ち。君が他の部活に入いったなら君の勝ちだ」

「はあ……」

突然の勝負に困惑しつつ七条先輩の話を聞く。

「まあ後者に関しては君の勝ちというよりは、私の負けというニュアンスが強いんだけどね」

「というと?」

そう聞くと先輩はふざけた嘘泣きをして話し始めた。

「だって、美少女こと七条飛鳥を独占できる状況で、君のことに気をかけ、私自身が変わってあげると宣言までしたこの部を差し置いてまで他の部の方がいいというのならばそれは私の負けだろ」

「自分で美少女と言ってしまうのは如何なものかと思いますけど……」

「今の話間違ったことは一つも言ってない自負があるが?」

けろっとしてそう言い返してきた。

「そうですか……」

ここまで豪語されてしまったらぐうの音も出ない。

これだけのことを言うのであるならばやはり俺なんかよりもよっぽど強い気がしてしまうのは間違いだろうか。

「でもこの勝負俺に少々分がありませんか?俺に決定権がある以上勝つのも負けるのも……」

俺次第じゃ無いか。そう最後までいい切ろうとした時に七条先輩は割って入ってきた。

「まあそうなんだがな。それでも私は今回勝つ自信がある。運命は神のみぞ知る。賭けってものはそう言うものだろ?」

「は、はぁ……」

正直いって七条先輩の言っていることはわからなかった。それでも七条先輩にとっては確かな何かがあるのだと言うことはわかった。

「さて、時計を見たまえ。もう五時を少し過ぎた具合だ。君の目的地がもうすぐ閉まってしまう。行った、行った」

そう言って七条先輩は俺のことを無理やりに部屋から押し出した。

「いやー実に充実した時間だった。こんなにも私と似ている迷える仔羊がいるとはね。部活動勧誘はやはり一度ぐらいはやってみるものだな」

「一度と言わず毎日やればいいじゃないですか。俺みたいな人他にもいるかもしれませんよ?」

「君みたいな生徒がたくさんいてたまるか。それにまた同じようなことを言うには少々恥ずかしいしね」

七条先輩は照れた顔で頭をぽりぽりと掻いた。

「恥ずかしいって言う感情持ち合わせていたんですね」

さっきまでの調子を取り戻しつつあった俺は適当にそう返した。

「当たり前だ、馬鹿者。それに君も感じただろう?私のこの話術にかかってしまうと誰でもこの部に入ってしまう。そうなると君が入ってくれなくなってしまう。本末転倒だ」

七条先輩はなんて罪な女と言いたげに嘘泣きをしてみせた。

「部活動勧誘で人が入らないことが本になっていることがおかしいのですが……」

そう俺が聞き返すと呆れたような顔つきでこちらを見てきた。

「まあまあそんな硬いことは言うな。あくまでも私は君に入って欲しいのだから」

そう言ってウインクをした。ど直球にそんなことを言われると少々こそばゆい気がして俺はそれを適当にあしらいくるりと方向転換をした。

「それじゃ」

「うむ。結果は三日後の放課後だな。君が入部希望用紙とともにここにくることを楽しみにしているよ」

「どうでしょうね。勝負は基本負けたくない性分なんで」

「つれないなぁ」

そんな小言を言いつつ、俺は廊下に出た。見送ってくれるのか七条先輩もついて来た。

そして階段のあるラウンジまで来たときに七条先輩は声をかけて来た。

「願わくば君が私のことを忘れないことを」

なぜか七条先輩はそんなことをふと言ってきた。

これだけのことをしておいてそんなはずは無いというのにあえて釘を刺してきた理由はわからなかった。

でも特に気にする必要もないと思った俺は適当に返した。

「こんな先輩忘れるはずないじゃないですか」

「それもそうか」

そいって七条先輩は笑った。

その笑顔に何か仄暗いものを感じたが、敢えて突っ込むことはしなかった。

 そして階段の前で軽く図書室への行き方を教えてもらった。

想像以上に対した道のりではなくて、自分の不甲斐なさをまたひしひしと感じてしまった。

「それじゃあ。さようなら先輩」

「あっ」

何か言いたげな七条先輩を置き去りにして俺は階段を降りて行った。

教えてもらった通りに歩いていくとしっかり図書室が見えてきた。

「……。今日はいいか」

そうポツリと言って、行くことをやめて帰ることにした。

慣れない人間関係によって疲弊していたことが主な原因だが、今日の自分との決別の思いがそうさせた。


教室に着くと朝のホームルームの前だというのに何やら黒板の前でクラスメートたちが盛り上がっていた。

「俺野球部はいるわ」

「まじ?きつそうだけど頑張れよ?」

「えーまじで?私野球部のマネージャーやろうかと思ってるんだよね!」

なんて声が聞こえてくる。

青春の一ページといった感じで見ていてこっちが恥ずかしくなってきてしまう。

言葉端に聞くようだとどうやら部活動選択の紙が貼られているらしい。

思い返せば今日がその選択の日だった気がした。

だから俺は鞄の中からくしゃくしゃになった部活動希望用紙を取り出し、手で伸ばした。

別に再考する気も、前にいって俺この部に入るんだ!なんて豪語をするようなたちでもない俺は淡々と書かねばならないところを埋めて行った。

そこでふと思ったが、もはやもう出すとは思っていなかったこいつを自分の手でシワを伸ばして、ペンを走らせていると考えるとなんだか感慨深いものがある。

あとでしっかり矢島にはお礼を言っておこうと考え、書き終わった俺は読書に入った。

「芹沢。お前なんの部活入るの?」

読書し始めた途端後ろの方から声をかけられた。

振り向くと後ろの席のやつだった。

人間にあまり興味がないとはいえ、流石に前後左右ぐらいは名前を覚えていた。

反町圭吾、だった気がする。

肌はおそらく3年間みっちり運動部に勤しんできたんだろうと思わせるほど黒く、ガタイもよかった。見立てなら元ラグビー部か野球部だろう。

中学にラグビー部があるかは置いておいて

「反町は?」

なんとなく自分の入る部活をいうのが恥ずかしくなってきて話をそらしてしまった。

ただそれについて別段気にする様子もない反町は苦笑しながら話してきた。

「俺さーこんな当日になってまで迷っているのよねー。もともと野球部だったしとった杵柄で野球部でもいいんだけど、チャレンジしたい気もあってなー。なんかオススメの運動部ない?」

「え、そんな突然言われてもな……。そうだな……」

突然だとしてもこう聞かれては考えざるを得ない。

だが、俺とて伊達に矢島に連れられてほとんどの運動部に体験しに行った訳ではない。

そう思って、そこから推測して一番良さそうな部活を探して見たが案外思いつかなかった。

本人のやる気はやはりその部のイメージを変えてしまう。

もとより運動部に入るつもりのなかった俺の運動部に対する評価は総じて低かった。

「どの部活もきつそうなイメージが強くてな……」

「その口ぶりじゃ運動部ではないな?まあでもそうなんだよな。だからむしろどこでも良くてさ。じゃあなんか芹沢の知り合いにいい奴とかいない?」

「俺の知り合いか……。それならサッカー部は?」

「サッカー部か……」

思い当たる人は矢島一人しかいない。

考えてみれば、それもいい奴で運動部という条件の見合う優良物件だ。

ただ、問題なのはサッカー部というハードルの高さだ。

話を聞く限りだと経験者じゃなさそうである。それで高校からサッカー部は大分部きつそうではある。

「まあ一例だし、無理に考えなくても……」

「でも芹沢の友達のサッカー部志望のやつはいいやつなんだろ?ならそこにするわ」

「え、そんなんで決めていいのか?確かに矢島はまあいい奴だけど……」

「いい奴って言われてすっと出てくる奴がいるならマジでいい奴なんだろうと思うし。運動部ならなんでもよかったからな。持ち前の運動センスで高校からサッカー部だがレギュラーとってやるよ」

「お、おう」

反町は屈託のない笑顔で俺にそう返して、希望用紙にスラスラとペンを走らせた。

この思い切りは俺にはないなと素直に感心するところもあったが、同時に心配にもなった。

何事にも疑ってかかるのも良くないが、何事にも信じて突き進むことが良くないということを俺は嫌ってほど知っていたからだ。

「おい、席につけー。ホームルームはじまんぞ」

その一言を皮切りに黒板の前でたむろしていたクラスメートたちは蜘蛛の子を散らすように自分たちの席に戻っていった。

こう言って入ってきたのは言うまでもないが、うちのクラスの担任の橋本秀人先生だった。

いつもブカブカの白衣にやる気のなさそうな顔を乗せている。その顔には無精髭とほとんど整えられていない髪の毛が生えていて余計にやる気のなさが加速していた。

その様相から老けたような印象を受けるが、多分そんなに年はとっていないのではないかと思う。

「まあ今日は特に言うことはないんだが、騒いでた通り、これだけはしっかりやるぞ」

指示棒でトントンと部活動の紙を叩いた。

それを皮切りにまた教室内がざわめいたが、橋本先生は特に気にするような様子も見せず淡々と紙の回収を始めた。

「そんじゃ、新井から。俺との最終確認以後は変更には手続きが必要だからな。間違っても適当な部活動とか書くなよ」

そう言うと1列目の生徒が立ち上がり、教卓の周りに列を作り出した。

先生が紙を受け取り、生徒にその部活でいいかの確認を取り、その紙を生徒に返し、帰ると言う流れ作業だ。

しばらくした後俺も御多分に漏れないように前のやつが歩き出したのを確認して俺もその列に並んだ。

この感じだとすぐにくるかとも思ったが、所々で止まるせいで列だけが長くなっていくという状況が続いた。

いくら進学校だと言っても紙を無くすやつというのは一定数いるようで、先生に小突かれながら紙を受け取り、それにそそくさと書き提出するという光景が二、三人見受けられた。

「はいじゃ出席番号二五番芹沢海斗」

それでも暫くすれば自分の番がくる。

変な緊張感が走ったが、俺は手に持っていた紙を提出した。

「んと、新聞部ね。……新聞部」

俺の紙を受け取った瞬間先生の顔が曇ったのが分かった。それと同時に先生は言葉を詰まらせた。

「…………。本当に新聞部でいいんだな?」

「え、あ。まあ、はい」

さっきの様な適当さが消えて、本気でそう聞いているのだと感じた。

それがなぜなのかはわからなかったが、それゆえに俺は少々たじろいだ。

「部活動体験には行ったか?」

「行きましたけど……」

「そうか…………。分かった。いいぞ。はい次のやつ。出席番号二六番反町圭吾」

少々考えたそぶりを見せた後ばっと俺の方に志望用紙を返して、反町の対応に入った。

なんとなく呆然とするがその場にいても訳のわからない人になってしまうので席に戻った。

「芹沢、新聞部はいるんだな。ぽいわ」

「まあな。ていうかぽいってどういう意味だそれ」

「そのまんまだぞ?」

「褒めてんのかそれ」

「真面目って褒め言葉だぜ?」

「そうかい……」

反町の会話を適当に返してその後動向を探った。

その後もさっきみたいに紙を持っていなくて対応が遅れることはあったが、俺の様に部活動の内容にケチをつけられている人はいなかった。

「オッケー。全員分精査終わったからこれでホームルーム終わりな。で、今日提出できなかったやつは放課後職員室来ること」

うわーっと何人かが不平不満をこぼし流すのを聞いていない様な態度をとって橋本先生は自分の教卓の周りの片付けを始めた。

それを見逃さずに俺は先生の元に駆け寄って行った。

「さっきのって何か問題ありましたか?」

先生はちろりとこっちの方を見て、手は動かしたまま返した。

「いや、なんだ。あまり入る生徒が少ないもんだから本当にここでいいのかなって思っただけだ」

「そうですか……」

嘘はついてない様だが何か他の真意が隠れている気がしてならなかった。

それについて何か言おうと考えが何も思いつかなかった。

「まあ、頑張れよ。七条によろしく言っておいてくれ」

「わ、わかりました」

「じゃあ授業あるからそろそろいいか?」

「あ、はい」

そう言って橋本先生は教室から出て行った。

俺もそれに従って自分の席に戻って次の授業の準備をし始めた。

さっきまでのやり取りが気にならないわけではなかったが、気にしすぎるのは俺の悪い癖だと打切りそれについて考えるのをやめた。


放課後。

今日は昨日までの若干の静かさとは打って変わって、大盛況という表現が正しかった。

特になのだろうが、一年生の廊下は人がひしめき合っていた。まるで部活動体験初日の様だった。

まあこの表現はあながち間違ってはいないのだが。

みんな手には一枚の紙を持って同じ仲間だろう人たちとともに目的地へと向かっていた。

やはり部活動初日はこんなものなのであろう。夢一杯に笑顔を振りまきながら人が廊下を駆けていく。

「遠すぎるだろ……」

かく言う俺も紙一枚を手に廊下を歩いていた。

ただ違いがあるとするなら、俺が歩いている廊下は雑踏を抜け静かなところである部分であろう。

改めて迷って行った先にあるのがあの部室であることが頷けた。

流離う様に歩いて行ったあの日はそれほど遠かったイメージはなかったが、意図的に行こうとしている今やはり辺境の地だと言うことを感じた。

曲がりくねった道を進み、棟と棟の接合部分をまたぎ、近くにある階段を登る。するとラウンジの様なひらけた部分に出る。その奥にある細い道を行った場所に俺の目的地こと部室がある。その細い道を歩き部室の前まで辿りついた。そしてそのドアを開けようとドアノブに手を伸ばしたときだった。

さっきの様な妙な緊張が走った。

この緊張は俺がこの人生でこういうことを一度もしてきたことがなかったからなのだろう。

慣れないことを始めようとしているときは誰でもこんな気持ちになるものだろう。

これから起こることの楽しみと恥ずかしさと怖さ。

全てを纏めると大体緊張という表現で現れてくるものではないのだろうか。

それを高々部活程度で感じている俺は慣れてなさすぎるのだろう。

「フーッ……。よし」

一度深呼吸をして自分の気持ちを落ち着けた。

そして俺はドアノブを握りそのドアを開けた。

開けた部屋の中には前同様にがらんとしていて物静かではあったが、確かにそこに人はいた。

その人と目を合わせてはーっとわざとらしいため息をついた。

第一声は決めていたのだ。

「七条先輩。勝負は俺の負けですね」

そう言い切って俺は徐に顔を上げた。

「え……。君……」

俺は勝ち誇った顔がそこにあると予想していた。

しかし、それは完全な見当違いという表現が正しいぐらい呆気に取られ、この世のものではないものを見た様な驚いた顔をしていた。

「そ、そんなに驚きますか?」

あれだけふっかけておいて、いざ来たらこの態度となるとなかなか失礼ではないか。

なんて言葉を聞けたらこの場は簡単に収まる気がしたが、そんな軽口が聞けないぐらい七条先輩は驚いていた。

「これは……。本当に……」

「な、何ですか?」

その後七条先輩は俺には聞こえないほど小さな声で独り言を言って、よしっと大きな声とともに顔を叩きながらうつむいていた顔を上げた。

「いやー。本当にくると思っていなくてびっくりしてしまった。失敬、失敬」

「本当に思っていなかったんですか……。あれだけ言っておいて」

「まあまあ。そういう日もあるだろう」

「どんな日ですかそれ……」

「そんないろんなことを深く考えてもお腹がすくだけだぞ?さあさあ新入部員君こちらに来たまえ」

ケタケタと笑って七条先輩はさっきまでの変な空気を一転させた。

たまにする七条先輩の真剣な顔はかなり気になるが、先輩の言うというり深く考えすぎなのかもしれない。

そう思って、言われるがままに先輩のところへと向かった。

「まあもう自己紹介はするまでもないな。この部の部長こと七条飛鳥だ。よろしく」

「新入部員こと芹沢海斗です。よろしくお願いします」

そういってお互いに握手を交わした。

「よし。まあそこにでも座っていろ。お茶でも用意しよう」

「あ、その前にこれ。部活志望用紙です」

さっきのやり取りのせいで所在無さげだった紙に気づいて、お茶を汲みに行こうとする七条先輩に差し出した。

「ああね。ここに判子押せばいいんだけ?」

「お願いします」

「おけ」

軽くそう言って机の中にあった判子を取り出し、ポンと所定のところに押した。

「いやー。本当に新入部員を獲得できるとはね。感慨深いものがあるね」

判子を押し、完成した紙をまじまじと見つめながら七条先輩はそう言った。

その後満足したのか紙を机に置いて、自分はお茶を汲みに行った。

「でもこの部活、本当に入る人少ないんですね。志望用紙提出する時担任の先生にめちゃくちゃ驚かれましたよ」

そう言った瞬間お茶を汲んでいる七条先輩の背中がビクッとしたのがわかった。

振り返ったその顔には苦悶の表情が浮かべられていた。

「うーん……。もしかして担任の先生って橋本先生?」

「えっ。正解です。言いましたっけ?」

「いや単なる推理さ。この紙渡した時、橋本先生なんか変な顔してたでしょ」

「まあ。確かに」

「やっぱりね。橋本先生この部の顧問なんだよね」

「あー。なるほど……」

「うん。君の推測道理だと思うよ。驚いたっていうのも、人数が少ないっていうのも全部自分に火の粉が降りかからないための布石だってわけよ。あの人面倒臭がりやだから」

七条先輩は呆れたように笑って見せた。

「だから七条先輩のこと知ってたんですね」

「そうだと思うよ。その状況で一生徒である私を名指しするなんてそのぐらいの関係じゃなきゃおかしいでしょ」

「ですね」

橋本先生がこの部活の顧問だとするならさっきまでの言動に全て納得がいった。

でも、結局突き詰めていった先は面倒だったからに他ならないのだろう。

こんなことを入りたての新高一の生徒に思われるというのはどうなんだろうとは思うが、多分当たっている。

そして現状くる気配もないあたりを見るといよいよその実感が湧いて来た。

「さてまあそれはおいといて勝負の清算でもしておこうか」

七条先輩はそういって、紙コップに注ぎ入れたお茶を差し出して来た。

「勝負の清算?」

まだ熱いなと思いながらチビチビとそのお茶を飲みながらそう聞いた。

「そうさ。勝負なのだから何かしなければ示しがつかないだろ。勝者には勝者たるものを、敗者には敗者たるものを与えねば」

我こそ神だと言いたげに手を大きく広げて見せた。

「そんなことはないと思いますが……。まあ、軽めのにしてくださいね」

「善処はする」

そういって七条先輩はうーんと唸りながら罰ゲームを考え始めた。

「うーむ……。こういったことをあまりしたことが無いからか、いい具合のものが思いつかないな。線引きが難しい」

こんな罰ゲームなんかは率先して考えそうなものだが、案外そんな経験は無いようだった。

「じゃあもう七条先輩の何か欲しいものを俺が買うでよく無いですか?あんまり高いのとか嫌ですけど」

「それじゃ面白く無いんだよな…………。ん?あっ」

何か思いついたのかニコニコとして、いやニヤついてこっちの方を見て来た。

こういう時は大抵とてもくだらないことだというのは経験則からわかる。

わかっていても止めることはできないのだが

「その“七条先輩”ってのをやめよう。今日から私のことは下の名前である“飛鳥先輩”と呼ぶように」

興奮冷めやらないと言いたげに満面の笑みでこちらを見て主張して来た。

「えっ。嫌なんですけど……」

「そんなど直球に言われたら私とて傷つくぞ。まあ罰ゲームの要領というよりは私自身がそうして欲しいと思っていることなんだ。上の名前で呼ばれることはあまり好きでは無いのでね」

「そうなんですか七条先輩」

「知っててやるのとはなかなかやるじゃ無いか」

その瞬間、挑戦的な眼差しで見つめる俺とその挑戦を受け取ろうとする七条先輩とで微妙な空気が流れた。

しばらくして俺がハーっと一つため息をこぼし勝負に折れることにした。

「そう言われてしまうとこっちは何も言えなくなりますよ。“飛鳥先輩”」

若干の恥ずかしさはあったもののそれを見せてしまったら負けた気がしたのでなるべく平静さを保ちながら発したつもりだったが、見抜かれているようでニヤニヤしながらこちらを見て来た。

「ウンウン。誰から言われてもいいものだな。下の名前で呼ばれるというのは」

先輩は満足したという感じに深々と頷いた。

その態度に妙に腹が立ったが、お茶でも飲みつつ大人の対応でその気持ちを沈めた。

「はいじゃあ勝負の話は終わりでいいですよね。そろそろ部活の話をしてくださいよ」

「確かにそうだな。思えばここまで一回も話していなかった」

先輩は申し訳ないというように笑った。

「そうだね……。じゃあまず、これらを読んでもらおうかな」

「うおっ」

そういって先輩は引き出しの中から数十枚の束を取り出して、俺の方に投げて来た。

それを書いてある通りに上から読んでいく。

トイレの花子さん。動く人体模型。動く音楽室の肖像画……

「取材しているのって……」

「そう。この学校の都市伝説っていうのかな?どっちかと言えば七不思議?」

「七不思議って……。なら俺たちは何回死んでしまうんですか」

七不思議って大抵最後の七つ目を知ってしまった時死ぬっていうのが通説なのではないのだろうか。

全部見たわけでは無いが、このページ以外も同じようなことが書いてあるのなら七つ目を知ってしまったでは済まないぐらいある。

「ざっと六十個ぐらいあるから海越高校八大七不思議ってことになるね。よくて八回は死んでる計算だね」

「この部員たちは不死かなんかになってしまうんですかね……」

「いやいや発想の転換さ。この部活の人数が少ないのはこの七不思議のせいだと思えないかい?」

「八人も死んでるなら大問題で廃部ですね」

「確かにその通りだ」

そんな冗談を言いながら俺は淡々とその記事リストたちに目を通していた。

さっき見たような定番のものからすこし奇を衒ったようなもの、ただの偶然だろと思うものまで様々な自称七不思議が羅列されていた。

「それで俺たちはどれを取材するんですか?」

書き方、紙の劣化具合から言ってもこれらが長年使われてきたものだというのはわかる。

いくつか線が引かれているものもあるし、この中から選んで取材するのだろうと思って聞いたのだが先輩の顔を見る限りそうでは無いらしい。

「何を言っているんだ。全部に決まってるだろ?」

「決まってはいないと思いますけど……」

「一個上の先輩たちが決めたことなんだが、二年周期とかでこれらすべての都市伝説を精査していこうという企画に変えたんだ」

「精査するって言ってもたかがしれてませんか?都市伝説なんて……」

しょうもない、とまではいう気は無かったがそれに準ずることを言おうとした時先輩に割り込まれた。

「甘いぞその考えは。トイレの花子さんがいないことを君は証明できるのか?真夜中に聞こえるピアノの音が無いと言い切れるのか?」

「悪魔の証明だって言いたいんですか?」

「その通りだ。いないことの証明はできない。でも私はそれだけではないと思っている。もし仮に居たとしてそれが恒常的に現れる保証もないだろ?それを全て精査して行くのさ」

「意味ありますかね、それ」

正直あるとは思えない。悪魔の証明だとかどんな屁理屈を言われようとも居ないものはいない。そんなものに心血をそそぐなんて阿呆らしいとさえ思ってしまう。

「君の悪いところが出たな」

しかし先輩はそうとは思っていなかった。

にこりとしてこちらを見てきた。

「凝り固まった思考を放棄すること。君が一番にいま必要なことだ。意味など無ければ作ればいい。そのくらいの気概がなければ自分は変われないぞ?」

先輩は自分のティーカップを持ち上げながら立ち上がり、俺にそう言ってきた。

「確かに一般的に考えたらそんなもの居ない、の一点張りで問題ないだろう。でもそれはこの目で確かめなければわからないだろ?調べもしない一般常識で物をいうやつにぐうの音が出ないもの叩きつけてやる。もしできたら面白いじゃないか。もし、でいい。いようが、いまいがそんなのは関係ない。今という一瞬を楽しむために行動する。それにこそ意味があるんじゃないか」

そう言って持ち上げたティーカップを俺の方に突き出してきた。

すると慣性の法則で当然中身が溢れ、先輩はあわわわと急いで机を拭き始めた。

「それにね、私は本気でこれらがある、いると思っている。だから自分の目で見て見たい、そう思うのもある。物理法則なんて糞食らえだ」

さっきの自分の失敗に対しても込められてそうな恨み言と共に自分の主張を言ってきた。

「すごいですね……。俺にはそれだけ豪語することはできないですよ」

嫌味とかそんなもの一切なくそう思った。

毎度説教されるたびに思う。

先輩は自分ってものをしっかり持っている。

他者との関わりを避け続けた自分にもそういうものがあると思っていたが、そんなものはなかった。

ただ避けていたのは他者との軋轢を生みたくないからだ。

そうなれば必然と他者に合わせる意見になるから、自分というものはなくなってしまう。

そんな軋轢を気にすることなく、悠々と自分を出す先輩は本当にすごいと思った。

「他人の評価、意見なんて気にするな。自分の人生なんだから。百万人の人が変だと言っても一人が理解してくれるなら私はそれでいい。私は君のその一人になってあげるさ」

先輩は笑って俺の方を見て言う。

「まあ、欲をいうなら君が私の一人になってくれるといいのだけれどね」

そういうと冗談めかすようにさっきよりも大きく笑った。

「なりますよ。ならせてください」

この人について行けば何かが変わると確信した俺はそれに対して真剣にそう答えた。

「お、おう。しょ、精進したまえ」

「りょ、了解です」

ただあまりにも真剣過ぎたのか、先輩は恥ずかしそうに吃った。

それを見たこっちまでなんだか恥ずかしくなってしまった。

先輩はなんとなく変な空気になったこの場を取り払うように、ごほんと態とらしい咳をした。

「まあというわけで今日から取材を始めて行くぞ」

まだ若干の頬の赤みを残しつつ、ビシッと音が鳴るかと思うほど鋭く俺に指をさしながらそう言った。

「そんな急に」

「善は急げ、だ。じゃあそうだな……。今日の夜十一時に校門前集合で」

「それもそんなに遅くですか!」

今から何処か行くのですら少々戸惑っていたというのに、まさかそんな時間だとは思わなかったから久しぶりにかなり驚いてしまった。

「当たり前だろ。いくらでないかもしれないからと言ったって、こんな時間に調べて『はい、いませんでした』なんて言われても『まあそうだよな』くらいにしか思わないだろ。信憑性もクソもない。真夜中の校舎で取材してこその都市伝説じゃないか?

冒険少年のように目を輝かせて俺にそう言ってきた。

「それに大体、暇だろ?どうせ」

バカにするようにこちらを見てきた。

言い返したい気持ちでいっぱいだったが何も言えなかった。

「どうせ暇ですよ。わかりました……。行きますよ」

半ば投げやりであった。不幸中の幸いなのだろうか、いや不幸なのだろうけど生憎この学校は自転車で通える範囲にある。電車通いならば終電がないからとかいう理由で断れるがそうでない以上暇だろという言葉に対抗できるすべがなかった。

「よし決定だな。まあ確かめたいこともあって、早急にやりたかったから助かる」

「確かめたいこと?」

「まあな。大したことではないのだが……」

深くは聞いてくれるなと言いたげな表情だったため、それ以上突っ込むのはやめた。

「ま、何はともあれ今日の夜十一時校門前で。遅刻はするなよ?ああ、後服装は制服厳守だからな。私服だと雰囲気が出なくなる。後懐中電灯は忘れずに」

諌めるように俺の方を向いて言ってくる。

了解ですと軽く言って、残りのお茶を飲み干した。

そして、先輩に飲まれて気づかなかったことに冷静になってから気づいた。

「素朴な疑問なんですがその時間に高校生って出歩いていいんですか?ダメなら学校の許可が降りないと思うのですが……。まさか侵入とか言いませんよね?」

先輩なら言いかねないなと思ったが、どうやらそんなことは無いようで首を横に振って否定した。

「そんなことして新聞作っても教員がその新聞の発行を許してくれないだろ。大丈夫だ。その辺りは任せておけ。必ず学校の鍵を手に入れておくから」

「わかりました。期待しないで待ってます」

「うむ」

話を聞いていないのか、先輩は適当な返事をした。

そしてしばらくの沈黙の後、先輩が口を開いた。

「まあ今日の部活はこれぐらいでいいか。全然時間が早いがこの後の活動が控えているからな。わたしは君の書類の話とか、鍵の問題があるからこの後も少し残るが、海斗君は帰宅してもらって構わない。ではまた後で」

先輩はしてやったりと言う感じにこちらに目配せをして笑った。

こう言われては返さないわけにはいかず、ハーっと一息ついてから返事をした。

「わかりました。ではまた後で……。飛鳥先輩」

「うん。さよなら」

はははっと笑いながら手を振ってきた。

それにぶっきらぼうに対応しつつ、まとめる荷物もない俺はスクールバックだけを手に取り、会釈だけして部室を後にした。

「暗いわ。流石に」

外はギリギリ家の近くの街灯のおかげで自分と周りがわかるという感じだった。

それもそのはず、時間は

午後十時半。

外食とかして遅くなってしまって、この時間に家に帰ってくることはあっても家を出ることは殆ど無い。そんな時間帯だ。

「それに、まだ若干寒いな……」

最近は春という季節がなくなっているとは言え、この時間にもなればある程度肌寒く感じる。制服の上から軽めのジャケットを羽織ってはいたが、物足りないと思うくらいには寒い気候だった。

一度戻って変えてこようかと思ったが、早く行ってさっさと帰ろうと気持ちを切り替えて自転車に跨り高校へとむかった。


「やあ海斗君。久しぶりだな」

「ええ。実に六時間ぶりぐらいですかね。これは久しい」

自転車を走らせて約二十分。

学校に着くや否や制服だけをきた先輩が校門前に立っていた。

冬服仕様で厚手とは言え、スカート姿でいるのは少々寒々しかった。

「制服だけですか?寒くありません?」

「無論。ジャケットだなんて甘えだぞ。服装は時間帯の次ぐらいには大事にしたい事柄の一つだ。置いておけ」

促されるままに脱ぎ、自転車のカゴの中に放り込んだ。厚手のものに取り替えなくていいと思った瞬間だった。

「これを見たまえ」

俺が自転車を校門前に横付けしている最中に先輩が何やら見せてきた。

見たところ何かが入っているケースのようなものだった。

「カメラですかそれ」

「正解だ。部に伝わる結構いいやつらしい」

ガチャッと音を立ててその箱が開いた。中には立派なカメラが入っていた。

「ほいじゃあこれ」

グッと肩に下げたその箱を押し付けてきた。

「お、俺が撮るんですか?」

「当たり前だ。私が取材するのだから君はカメラマンだろ」

「先輩はお化けたちにインタビューするんですか……」

「できたら面白いな」

先輩はそんなことをにこやかにそういいながら校門の前でガチャガチャやり出した。


「ああ。校門の鍵開けてるんですか。本当に手に入れられたんですね」

「もちろんだ。うちの顧問に掛かれば一発よ」

そう言っておもむろに施錠された校門を開け、学校内へと侵入した。

校舎内に入るには別の鍵が必要のようで、キーカードを用いて侵入することができた。

「でもよく許してくれましたね。流石にこの時間はいくら取材とは言え、許してくれないと思いましたよ」

「まあ現状グレーな部分があるんだけどな」

目的地に向かう間鍵を手に入れた経緯を聞いた。

どうやら保護者同伴ならこの時間でもいいだろうということで貸してくれたらしい。

その保護者とはもちろん顧問なわけで、その顧問は来ていない。そこがグレーだということらしい。

「こんな面倒ごとにくるはずも無いんだが、バレたら事だから正直来てほしい感はあったが、まあ良いだろう。むしろいた方が問題になりそうなこともあるだろうし、いない方が都合がいいちゃ良いからな」

「は、はあ」

最後の方はよくわからなかったが、橋本先生はもとよりあてにしていなかったらしい。

まあ俺がその立場だったとしてもただの空返事なんだろうなとは思うだろう。

「にしてもトントン拍子に学校内に入ったものの、やっぱり夜は雰囲気でるな」

「そうですね」

連れていかれるままに校内に入ったが、改めて内装をみると昼間とは全く違った様相をしていた。

当然近隣の人に文句を言われるわけにはいかないので電気はつけることができず、自分たちが持って来た懐中電灯だけが頼りだった。

なればこそ廊下は真っ暗なわけで、奥が見えないからなのか、どこまでも続いているように見える。時々見える非常口の緑色のランプも気味の悪さを増長していた。

教室一つ一つとっても突然ドアがあいて、何かが出て来てもおかしく無いような雰囲気があった。

「なんで夜の学校って響きだけでこんなにも恐怖感が増すんだろうな。まあ現状響きではなく、実際に体感しているわけだが」

「そうですね……。非日常感がすごいからじゃ無いですか?」

暇なのか怖いからなのか歩きながらそんな話をした。

夜の学校の怖さは確かに暗さが影響の一端を担ってはいるだろうが、本質はおそらくそこでは無いと思っていた。

多分ではあるがこれがすべての廊下の電気をつけて、教室の電気をつけたからと言っても怖さの程度は減るかもしれなが、いつも通りに感じるとは思わない。

結局怖さの根底にあるのは非日常感なのだと思う。

「学校という人間がいて成り立つ建物の中に一人としていないという状況が嫌だって感じているんじゃ無いですかね」

「なるほど。確かに朝の公園とかで人がいないとどこか奇妙な感じするもんな」

「まあ俺たちはそれと同じ状況且つ、今から行おうとしていることが相待っているんでしょうね」

「そりゃそうだ」

そう言って先輩は笑った。

自分たちは単純に忘れ物をして、取りにきたわけでは無い。

むしろ忘れ物でここにいるのなら良いまである。それなら理科室に向かおうとか、三階の女子トイレに行こうとか思わない。

理科室に忘れ物をしたとか、どうしてもしょうがなくそこに行くことはあるかもしれないけど、夜に入った学校で行く場所たちでは無い。

俺がその状況なら朝一で取りに行こうと考える。わざわざ危険を冒してまで夜の学校に行こうとするほど馬鹿では無い。

だからあえて自ら災禍に会いに行こうとしている俺たちは馬鹿であるし、その分怖さが増しているのは当たり前だった。

「さて着いた。多分ここで良いはず」

そんなこと思いながら無心で歩いていると目的地についたようだった。

先輩の懐中電灯が向けられ、目的地が照らされた。

「三階の女子トイレ……?」

改築に修築、増築を繰り返し続けた我が高校。

トイレ一つとってもたくさんある。

何棟の三階なのかの明記はされていなかったところを見ても、困る場面ではある。

それに都市伝説から考えると古いものを選ぶのがセオリーなきはするが……。

「ここ、教員の女子トイレですよね。いくら都市伝説とは言ってもここ意外な気がしますが……」

「いやここであってる。あれ、花子さんが出てきた概要知らないのか。よく読んどけって言っただろ?」

「これに関してはベタすぎるから変わらないと思って見てませんでした。どういう」

「口で話すのはおぞましいから言わないぞ。ヒントは、ここは元男子校だってことだ。あとは推測に任せる」

「あー……。なるほどわかりました」

想像したことはおそらく相違無いだろうことがわかって少々気分が悪くなった。

「よしじゃあ行くぞ」

ドアノブをひねりトイレのドアを開け、先輩が中に入って行った。

「おい!」

そしてドアがしまった直後に凄まじい速さでもう一度ドアが開いた。

「なんで入ってこない!」

「えっだってここ女子トイレですし」

「カメラマンが入ってこなくてどうするんだ。証拠写真のない新聞誰が読むんだ馬鹿たれ。それに誰もいないことはわかってるんだから良いんだよ。女子である私の許可もある」

「ええ……」

至極真っ当のことを言ったのになぜか知らないが俺の方が怒られた。

納得がいかないが、連れられるままに入って行った。

これで世に新聞が出た時に何か言われても文句が言えなくなってしまった。

あとで写真提供者の名前は伏せて欲しいという旨は伝えておこうと思った。

「さて感動の瞬間だ。カメラを構えろ」

内装は男子トイレとは違く、個室のトイレが三つ並んでいた。

そしてゆっくりと歩きながら奥の個室へと二人で向かう。

着いた時先輩は一度深呼吸をして目を見開いた。

「三、二、一……。ゴー!」

ガンッと音を立ててドアが豪快に開けられた。

俺もそれに準じてそこにカメラを向けた。

そこには……

「まあ。こんなもんか」

当然何も写ってはいなかった。

背を曲げつつ外に出て行く先輩のその姿はまさしく落胆という言葉が似合っていた。

その姿を尻目に見つつ、俺はパシャリと一枚、花子さんはいなかったという証拠写真をとった。

この姿も傍目から見たらただの変態ではあるが、取材という大義名分上文句は言われないだろうと割り切った。

その後、申し訳ない程度に全てのドアを開け、花子さんがいないことを確認してから俺は外に出た。

「いなかったですね」

「そうだなー。残念、残念」

いたらいたでめちゃくちゃ怖いわけなのだが、一発目だったからか何と無く気落ち加減が激しかった。

いないと踏んでいた俺でさえ少々落ち込んでいるのだから、先輩の落ち込み具合も無理もない気がした。

「まあ、次ありますし。切り替えましょう」

「それもそうだな。うん。次だ、次。はじめがいないからといって、次もいないとは限らん。数学的帰納法なんてのは所詮数学の中だけよ」

「まあ大抵のことには通用するとは思いますが……。まあでも、そうですよ。物理法則を無視した存在を探しに行こうとしているんですから。その程度のルールなんて関係ないですよ」

「よし、じゃあ次だ」

そう言って先輩は元気を取り戻し、次の目的地へと向かった。


「次で最後だなー」

「そうですね……」

俺と先輩は最後の目的地へと向かうために人気のいない廊下をとぼとぼと歩いていた。

この感じからも分かる通り当然ではあるものの、一つとして都市伝説の類に会うことはなかった。

今回調べたのはどこの学校にも伝わるような有名どころだけを責めたというのもあるだろうが、噂の信憑性的にも怪しいところがある。

これらの都市伝説をあの紙で見た時俺は、適当に『この学校にもそういうのあるらしいよ』みたいな形で新聞部に伝わったのではないかと睨んでいたが、概ねその通りだと思う。

寧ろ、記事の嵩増しのために新聞部がでっち上げたと言われてもおかしくない。

さっきまでの俺はそういうところに嫌気がさしていた。

いないとわかっていながらも調べることに意味があるのか。

俺は先輩にそう問いた。

意味は確かにない。でもそのほうが面白いだろ?

先輩はそう答えた。

その時はわからなかったが、今なら言ったその意味がわかる。

この数十分の間ではあったが、それらの類のいる、いないは俺の中で関係なくなっていた。

それどころか、途中からいて、あって欲しいとさえ思い始めていた。

正しいことが全てではない。先輩が俺に伝えたかったのは多分これなんだと思う。

いまの自分にはまだ難しかったが、少しずつ分かってきた気がした。

「最後は『クスノキの下に死体が隠されている』か。ベターだなー」

「ベターですね」

いろんなことを考えながら歩いていたからか、少々沈黙が続いていた。それを打ち破るように先輩は話出した。

「『あれだけでかいのは人間の養分を吸っているからに違いない』か……。妙に納得するのは私だけか?」

「その理屈は俺も納得できます」

人間の養分がどれほどのものなのかは知らないが、そう言われてもおかしくないぐらい自分たちの高校のシンボルであるクスノキはでかい。

この学校が始められてから植えられているらしく、樹齢はもう百を優に超えるのだとか。

なればこそ、有名な『桜の樹の下には死体が埋まっている』のオマージュでこのクスノキが選ばれるのはわかる気がした。

「それにしても、夜のクスノキは壮観だね。大地を感じる雄大さがある」

先輩の視線の先にはライトアップされたクスノキがあった。

普通に学校に通い、いつも見るその姿ですらすごくでかいなと思うのに、暗い夜を背景に悠然と佇むクスノキは本当に壮観だった。自分たちのいる位置は丁度クスノキの全体像を見ることのできる場所で、余計にその壮大さを実感できた。その時こんな景色は二度と見ることはできないだろうと思った。

「綺麗だね……」

そんなこと思っていると先輩は突然止まってそう言った。

「そうですね。なかなか見れない景色ですよこれは」

俺はさっき思っていたことを言った。

すると先輩からの返事はなく、その言葉を皮切りにピタリと話が終わった。

「………………」

「………………」

「………………」

「………………」

しんと静まり返った校舎の中で、じっとただ木を見つめるだけの時間が流れた。

何となく先輩の方を見てみると、感傷に耽っているのか、何か辛いことでも考えているのか、思いつめたような先輩の顔が暗いながらも見て取れた。

「…………。時に海斗くん。この木は、このクスノキは……いつ死ぬかわかるかい?」

そしてしばらくの静寂の後、ふとそんなことを先輩は言い出した。

「えっ……。あと百年ぐらいとかですかね……」

突然聞かれてかつ内容もよくわからない俺は適当に答えてしまった。

「そんな具体的な数じゃ無いさ」

しばらくの沈黙の後、そう言って微笑した先輩の横顔に俺はドキッとしてしまった。なぜかはわからないがどこか神秘的に見えて、この世のものでは無いような美しさがあったのだ。哀愁と羨望、その他いろんな感情がおり混ざったそんな顔をしていた。

「じゃあ、例えば君が言うように百年後この木が枯れたとしよう。腐ってしまって、伐採されたとしても、この木は死なない。だって『海越高校のクスノキ』として人々の記憶の中で生き続けることができるから」

先輩はそうだろ?と言いたげにこちらを向いて首を傾げた。

「でもこのクスノキだってこの学校がなくなったらただの大きな木に相違ない。そうなったら、いつかはそのシンボル性も失われる。そうなってしまったら、その後枯れるまで生き続けたとしても、もう彼は死んでるんだと思うんだ」

先輩はそう言ってもう一度首をもとに戻し、クスノキの方を眺めた。

「都市伝説たちもそうなんだよ。人の記憶からいなくなったら消滅してしまう。三階の女子トイレに恐怖を持つ人がいるから花子さんはいなくても生き続けられる」

先輩の言っている一連の理屈は何と無く理解できた。

死は物理的には起き得ない。完全に誰かの記憶から消え去った時に起こるって言うことだろう。

でも何でこんなことを言い出したのかはわからなかった。

「時に海斗くん…………。もし私が幽霊だって言い出したらどうする?」

そう思っていたら余計に訳のわからないことを言い出した。

本当に意味がわからなかった。

「先輩。こんな真夜中の学校の中で言うことですか?」

「こんな真夜中の学校だから言うんだよ」

少し笑いながら先輩はそう言った。

いつもの無茶振だと思ったが、その微笑の裏にはなまじ本気感があった。

「……。はぁ……」

何か面白い返しをしようと思ったが、思いつかなかった俺は適当に返すことにした。

「それってなんか関係ありますか?先輩が幽霊であろうとなかろうと、明日部活に行ってそこにいるなら俺にとっての先輩は変わりませんし。むしろ、もし先輩が幽霊だって言うなら千年先まで語り継いでやりますよ。ここに新たな七不思議の誕生ですね。新聞部に現れる幽霊。会った生徒を深夜の学校に連れて来て、遊ぶ。とかですかね?」

何を言ったら正解なのかわからない俺はもうやけになりながらそう言った。

気になる本人の方を見ればこれでもかと言うほど笑っていた。

自分としてはそんなに面白い回答をしたつもりがなかったから何だか余計に恥ずかしくなってしまった。

だが当の本人は、廊下がやけに反響するせいで本当に幽霊かと疑ってしまうほど笑っていた。

「はぁー、おかしい。君は本当に面白いよ。そうだな、ぜひとも語り継いでいってくれ。そうすればいつか本当に存在した七不思議で誰かが記事を書ける。まあ私を忘れずに語り継ぐのは大変だけどな?」

先輩は笑いながら俺の背中をバンバン叩いてきた。

「どう言う意味ですかそれ……」

俺はなされるがままに叩かれながらそう言った。

さっき感じた神秘さはどこに消えてしまったのだろうか、と言うほどいつもの傍若無人な先輩に戻っていた。全くもって先輩の感情の起伏は激しいと思った。

「よし、最後のやつ見に行くぞ。流石にスクープゼロはまずいからな」

「そうなる気がするんですけどね……」

「うるさい。行くぞ」

俺の言葉を一蹴し、さっきとは打って変わって軽い足取りでクスノキへと向かった。


「よかった。これを軸に記事が書ける」

「何となく反感もらいそうですけどね……」

「そりゃくるかもだが、ほとんどは楽しんで見てくれるはずだ。一のクレーマーより九のファンだぞ。その精神でやっていかなければメディアはやっていけん」

「六対四ぐらいな気がするのは俺だけですか?」

無事にクスノキまでついた自分たちは、いや俺だけその地面を掘り出した。

掘ると言ってもあらかじめおいておいたスコップなので高が知れているし、制服を汚したくない先輩は掘りすらしなかった。

それでも何とか掘って行くうちにガツンと何かにぶつかった。

全容を見たところ、どの年の人たちが入れたかわからないタイムカプセルが出てきた。

先輩はこれを軸に書くつもりらしいが、自分としては『勝手に開けるな』と反感を買いそうで嫌だった。

「まあ記事の内容はおいおい考えるとして、クスノキの下から死体は出てこないと言うことで一応は終了だな」

「出る訳ないですけどね。出たとしたらまずもって新聞かけないですよ」

出てきても白骨死体であろう。そうなれば警察沙汰で新聞どころか、学校があるかすら怪しい。その後書けたとしてもこの内容は流石にご法度とされてしまう気がする。

「ま、何はともあれ今日の取材はこれにて終了だ。さあ、さっさと帰ってさっさと寝て学校に遅刻しないように」

「勝手に呼んでおいて本当に自由な人ですね……。あ、そういえばさっき言ってた確認したいことって確認できたんですか」

早めに確認したいことがあるから今日のこの時間を選んだと聞かされていたのだが、一緒に取材していてそのような様子は見て取れなかった。

「確かにな」

そう言うと先輩はおもむろに時間を見だした。

「オッケー。確認取れました」

今から何かを見に行くための時間があるかを確認しているのかと思ったが違かった。

「えっ、今ので確認取れたんですか?」

「うん。バッチリとね」

「そうですか。まあそれならいいですけど」

こう言う時の先輩はよくわからないからスルーするのがいいと言うことを経験則でわかっていた俺は適当に流した。

「じゃあまた明日……いやまた後でか。部活、取材がないからと言って来ないとか認めてないからな」

「行きますよ。それよりも先輩、家まで送って行きますよ」

流石に十二時をすぎた真夜中に女子高校生一人を置いて帰るなんてことはできない。

茶化されてもいいから一緒に帰ろうとしたが、大丈夫と言うように首を横にふった。

「気遣いだけもらっておくよ。私の家そこだから」

そう言って指をさしたのは、この高校から少し歩いたところに立っている高層マンションだった。

「先輩あそこに住んでるんですね。道理でこんな時間に設定するわけだ」

「校門までなら歩いて一分ぐらいだからね。こんな時間だし、何なら君がよって私の家から明日登校するかい?」

「遠慮します」

ニヤニヤしたその顔を見ないように目をつぶりながら大きな声で否定した。

茶化されるとは思っていたが、違うベクトルだったことに何と無く納得がいかなかった。

「まあと言うわけさ。じゃあまた放課後」

「はい。さようなら」

手を振ってくる先輩に会釈しつつ、振り返り歩いて帰る先輩の姿を目で追った。

そして、エントランスまで行ったのを確認してから自転車にまたがり、家へと帰って行った。



自分の家のドアを開け、淡々と自分の部屋まで歩いて行く。

着くや否や自分のベットに倒れこんだ。ボスッと羽毛布団が音を鳴らし、自分の体の体型に合わせて形が変わっていく。

「……。面倒臭い……」

シャワーを浴びないといけないなと分かっていていたが、なかなか体が言うことを聞いてくれない。

疲れすぎた。何故ならずっと考えていたから。一日中ずっと。

思考を放棄することができなかった。だって片時もこの時間から目を離したくないのだから。

「眠い……」

このまま寝てしまいたかった。自分の思っている以上に体は疲弊していた。

当たり前だった。こんなにも活動したのは久しぶりだったから。

本当に眠い。眠い、眠い、眠い……。でも今日は眠れない。

明日が来なかったらどうしよう。本気でそう思っていたから。

明日なんて来なければいいのに。本気でそう思っていたから……


「完成ですね」

「高校生が作ったとは思えないほど良い出来だな」

自分たちの手には全校生徒分刷った新聞のうち一枚が握られていた。

『海越高校新聞部〜海越高校の七不思議に迫る・トイレの花子さん編〜』

新聞のヘッダーにはでかでかとそう題されていた。

先日取材のために夜の校舎に侵入して調べたそれが一枚の新聞となって手元にあった。

新聞と言っても当然何枚も書けるわけがないので一枚だけの瓦版みたいなものだが、その出来は先輩が自賛しても文句は言われないだろうと思うほどだった。

この新聞を見たとき何よりも構図が目に入って来るわけだが、素人が作ったとは思えないほどしっかりしていて驚いてしまった。

「よしじゃあこれを職員室に持って行って、カゴに入れて明日のホームルームで配ってもらおう」

自分たちの学校ではホームルームで皆に配るものを日直が職員室にある自分のクラスのカゴを持って行って配るというシステムを取っている。だから配って欲しいものがある場合はあらかじめこのカゴに入れて置くと、わざわざ全校回ることなく配ることができる。

「でもこれ顧問通さなくて良いんですか?」

いくら高校の部活動の一部だとしてもマスメディアであることには変わりがない。

思いもつかないし、書く意味もないから当然書いているわけもないが、学校に不都合があることを書いてないとは言えない。

それをやすやすと出しても良いものなのかは少々疑問だった。

「まあ職員室行けば橋本先生いるでしょ。その時確認とれば良いんじゃない?まあダメ出しされるところもないだろうし、される筋合いもないしね。さあさあ、それ台車に乗せて」

自分が気にしすぎなのか、先輩が楽観的なのかわからないが、先輩はまるで気にしていかった。

「了解です」

部長がそう言う以上部員として口出しは出来ないので、淡々と指示されるままに台車に新聞を積んでいく。

そして積み終わった自分たちは台車を転がし職員室を目指し、校舎を闊歩し始めた。

しばらく歩いていると辺境の地から出て、ちらほらと人影が見えてきた。

「めっちゃ見られてますね」

「そうだな」

新聞を運んでいる姿は当然ながら物珍しいのか、廊下を歩いている生徒はチラチラとこちらの方に興味を示して来た。

俺としてはそれは少々恥ずかしかったが、先輩はむしろ自分たちの功績を見せけるがように堂々とした態度だった。

そして歩くこと数分。階段などの難所を抜けつつ無事に職員室までたどり着いた。

職員室の前には棚があり、その中にはクラス分のかごが入っていた。

「じゃあ私がこれ入れて置くから、海斗くんは先生に新聞見せてきて」

「わかりました」

俺は束になって居るところから新聞を一枚取って職員室へと入って行った。

入っていくとコーヒーの匂いを主体としていろんな匂いが充満していた。

入って思うのは職員室というものは小中高いつになっても入るのがためらわれる空間だということだった。

一説によれば生徒との距離を空けるためにわざとそういう空間にしていると聞いたことがあるが実際にそうなのではないのかなと思う。

そんなことを考えながら歩いていると橋本先生らしき人を見つけた。

そこにいる人は寝ているためだれかは確認が取れないが、明らかに他の先生のとは一線を画して汚い机があったから多分それだろうという推測だった。

近づいて確認してみればボサボサの髪に白衣を着込んでいたので完全に顔を見ずとも橋本先生だとわかった。

「お眠りのところ申し訳ないのですが、新聞部の芹沢です。部活動で作った新聞を……持ってきました?」

「……。んん……。なんだ?夕刊か何かか?」

橋本先生は体を起こしながらひとつ欠伸をして、俺の変な会話に対して返事をした。

「い、いえ。新聞作ったので、明日全校に配っていいか許可もらいにきました」

「ふーん。作ったのか。新聞」

そう言いながら俺の手から新聞を奪い取り、近くにあったぬるくなっているであろうコーヒーをすすりながらまじまじと見始めた。

「そりゃ新聞部ですし?」

「去年は一回しか提出されたことないぞ。新聞部だからは通用しない。今回限りとかはやめてくれよ?俺の沽券にかかわるんだ」

何よりも自分のことを考えている人の発言だった。らしいといえばらしいが、先生としては最低の発言なのではないだろうかということがよぎる。

その後読んでいた顔を上げこちらを見てきた。

「まあ許可出すわ。初めてにしてはよくできてるじゃないか」

「あ、ありがとうございます」

差し出された新聞を受け取り、お礼を言った。

褒められ慣れていない自分としては気恥ずかしさが残った。

「それにしてもネタが七不思議とはな……」

橋本先生はそう言いながらうーんと唸った。

「でもこれ、先輩が伝統にしていきたいって言ってましたよ」

「……。ま、そうだろうな」

「そうなんですかね。まあ、とりあえず許可もらったって伝えておきます」

先生の適当な相槌を適当に流しつつ帰ることにした。

「では、失礼します」

「おう。じゃあまた明日」

「はい」

その返事に対して軽く会釈をしつつ、帰ろうと後ろを振り向いた瞬間橋本先生がまた声をかけてきた。

「まあ俺はあまりそっちには顔ださねぇけど。七条をよろしくな」

橋本先生はさっきよりはやや真剣になって言ってきた。

「まあ伝えておきますね。ていうか寝ているくらいなら来てくれればいい話じゃないですか。だいたい俺橋本先生が顧問だって知ったの入部した後だったんですから」

そういって軽く攻めるように言ってみたが、当の本人は全く気にする気配もなかった。

「いいんだよ俺のことは。こっちはこっちで色々事情があんだよ」

「顧問が部活放棄で用事があるって問題な気するんですが」

「うるせーよ。さあ行った、行った」

その言葉に苦笑しつつ俺は先生の机を後にした。


職員室という妙な空間をぬけ、俺が外に出ると当たり前だが、絶賛仕事中の先輩がいた。

「手伝います」

「おー。許可取れた?」

そのあと先輩に許可をもらったことを伝え、新聞入れの手伝いをし始めた。

見た所ようやく一年生のクラスが終わろうとしているところだった。

あまり進んでいないように見えるが、九クラス×三学年。一クラス三十五人想定でも計算するのも嫌になるほどの人数だ。これだけの時間でここまで進んでいたらむしろ良い方ないのかとも思った。

雑談を交えつつ、カゴの中に新聞の枚数を数えながら入れていく作業は思っていたよりも大変だった。

それでも、横で一緒に同じ作業をしている飛鳥先輩は辛いどころか、楽しんでいるようにさえ思える顔をしていた。

「楽しそうですね」

その顔を見ていたらふとそんなことを口にしていた。

それを聞いた先輩は少し驚いたような顔をしたが、すぐさまいつもの勝気な表情に戻っていた。

「まあ。これがこの部の部長となって初めての仕事だしね。それに……」

そう言って先輩は何かを考えるように一呼吸を置いた。

「ひとりじゃないからね」

飛鳥先輩はそう笑顔で俺に言って来た。

考えてみれば先輩はいつも一人で部室にいて、一人で部活動をして来たのだ。今来ていない幽霊部員たちのことをとやかくいうつもりも詮索するつもりもないが、先輩の状況を考えるとなんともいえない気持ちになった。

「この調子でいけば君もいずれいなくなってしまうのかな?」

先輩は冗談めいて俺にそう言って来た。口調は冗談そのものであったが先輩の顔はなんとも言えない顔をしていた。

「そんなはずないじゃないですか」

俺はそう思った瞬間そう言葉に出ていた。そんな風に思ったのはただの俺の深読みで、先輩にとっては口調通り単なる冗談なのかもしれないが、顔は口ほどに物を言う。

「一度決めたことはやり遂げる主義ですし。むしろ先輩が俺の前から消えるなんてことはやめてくださいよ?流石に一人じゃ作れないですから」

先輩との会話をしているとたまにこんな風に切羽詰まったように言ってしまうことがある。

それが何故なのかは今だにはっきりしていない。

「そうかそうか……」

そう聞いた先輩はどこか安堵したような顔をして、一度顔を伏せた後満面の笑みでこちらを見て来た。

「そんなに私のことが好きか!まあまあ仕方ないな。これだけの美貌を合わせ持つ私と同じ時間を共有していたら無理もないな」

「先輩ここ職員室前の廊下ですよ。もっと静かにしてください……」

「なんだ?否定しないのか?なるほど否定できないのか」

さぞ楽しそうに大声で俺に向かってそう言ってくる。

やはりさっきまでの神妙に見えた面持ちは嘘かもしれない。

これだけ自分が考えていたのが馬鹿らしくなるほどの豹変ぶりである。

ここまで豹変できる人なんているはずもない。だからさっきまでのは演技だったのだ。そう考えるほうが正しい気がした。そう考えたかったのかもしれないが。

「おい少年。何か言ったらどうだ?」

流石にここまで言われると腹の一つや二つ立ってくるものだが何か言ったところで茶化してくるだろうと思った俺は諦めてさっきの作業に戻ることにした。

それに対しても先輩は何か言ってきて本当にうざいなと思ったが、そのウザさがあっていいと思った。

元気のない先輩は嫌だなと心で思っているからかもしれない。

これはさっきの話に関わってくる気がした。

ただ、その感情がなんなのかはまだわからない。


なんやかんやありながら、無事に全てのクラスのカゴの中に新聞を入れ終わった自分たちは空になった台車を引き連れ部室に戻っていた。

「やっと全作業終わりましたね」

ここ最近新聞のために精神やら睡眠やら色々削って来たので疲れていた。プロット作りを自分は担当していたわけだが慣れないことは本当に大変だった。

なればこそ、その仕事も終わり、完成したことでなんとなく肩の荷が降りた気がした。

しかし先輩はそうは思っていないようで首を横にふった。

「いやむしろここからが本命だぞ。新聞は作っただけでは意味がない。見てもらうことに本質がある。作るだけでは自己満足にすぎない」

「まあ、確かに」

読み物である以上誰かに読んでもらってこそ真髄というのは確かだった。そう考えると自分たちの新聞は恵まれている気がする。ただの紙切れだと読まずにカバンに入れたり捨てたりする人も当然いるであろうが、平等に配られ、読む機会が与えられていることは他の雑誌とかにはないメリットだった。

「できるだけ多くの人が読んでくれるといいですね」

純粋にそう言葉に出ていた。自分で何か成し遂げるといったことをしたことがなかった俺が初めてしたことだったからかもしれない。

「とは言うが君がもし新聞部ではなかったら果たして読むかな?」

「うっ……。まあ確かに……」

もし新聞部でなかったら一文も読まずにカバンに入れて家に帰って捨てていたことであろう。こんな内容に意味なんてない。読むだけ時間の無駄だ。そう思っていただろう。だからこそ、俺が誰かに読んで欲しいと思うのは新聞部がゆえのエゴなのかもしれない。そう思うと胸が苦しくなった。

先輩に何か言われるだろうと身構えていたが、俺が思っていた表情とは違く、とても明るい顔をしていた。

「でも今の君なら何気無く朝に配られる手紙の一枚でも真剣に読もうと思うだろう?それは一つ君が成長した証だ。良かっただろ?この部に入部して」

「…………。そうですね」

本当にそう思った。

人間と関わるのが嫌だと言ってしまうほど捻くれていた自分が、邪推することなく何かを見ることが出来るということだけでも成長していると感じる。

そうなれたのはほかでもない目の前にいる飛鳥先輩のお陰なのだろう。

俺はこの人生でここまでまっすぐ生きている人を見たことがなかった。

人は誰でも曲がっているし歪んでいる。

自分に対し、利益がなくとも嘘をつく人。他者に対し、自分に利益があるから嘘をつく人。

世の中にはその二種類の人間しかいないと思っていた。

少なくとも俺が生きている世界で、俺が見てきた人間たちは皆そうだった。

生きるためには仕方がない。みんながそうしているから自分もそうしなければ割りに合わないから仕方がない。だれかを貶めたほうが自分に利益があるから仕方がない。

仕方がない。仕方がない。仕方がない。仕方がない。

みんな自分を偽って『仕方がない』からと決めつけ簡単に嘘をつく。

『仕方がない』

嘘をつく理由にそんなものは存在しないというのに。

そんな世の中で生きてきた自分には、この先輩が見せる『嘘のない世界』は本当に輝いて見えた。

「まあ、色々ゴタゴタ言ったものの完成は完成だ。我々が作った新聞第一号。お疲れ様」

しんみりとした空気をぶち壊すように先輩は大きく手をふり握手を求めてきた。

「お疲れ様でした。これからもよろしくお願いします」

俺はそれに応えるように先輩の手を強く握った。

「こちらこそこれからもよろしく。本当にな!」

先輩は笑いながらその強く握った俺の手を握りつぶすようにもう一度強く握り返してきた。

痛い痛いと言いながら無理やり引き剥がし、痛めた手の慈愛をしながら先輩の方を向いた。

「本当に、な……」

その顔は時たま見せる神妙な面持ちであった。

俺は敢えてその顔には気づかない振りをした。

 その後先輩が落ち着こうと思って席に着いた時目の前に重なっていた紙束が崩落して、自分の体に直撃したのを鑑みて二人で部屋の片付けを始めた。

片付けをしている間自分の苦心したプロット案などが出てきて、何とも言えない気分になった。しかしそれ以上に出てくるには先輩の新聞構造案だった。

これだけ紙の束を重ねてしまうほどズボラで飄々としているが、こういうところは本当に真剣に挑んでいることを思うと変に憎めなくなる。

本当に不思議な人だ。

俺の方に先輩が書いたわけのわからないマスコットキャラクターの絵が突きつけられているこの状況とか全てにおいてだった。

「それじゃ今日は終わりということでいいんですかね」

しばらくした後、周辺のゴミの片付けや何やらをあらかたすませて、お茶を飲みつつ一息ついたところだった。

時間にしてまだ部活動終了の時間ではなかったが、やることないのもまた事実だった。

「そうだなー。今から取材するには時間もないし……。今日はこれにて終了にするか」

そう言って先輩は背伸びをした。その反動で机に突っ伏す姿はうやる気のない猫そのものだった。

「あーそうそう。一つの新聞が終わったからと言っても明日も普通に活動するからな。即帰宅とか間違ってもしないこと」

帰りの支度をしている時に釘を刺された。

「わかってますよ。また明日ですね。失礼します」

そう苦笑しながら俺は部室を後にした。

帰宅しながら先輩の先ほどの表情の意味を探ろうとしたが途中でやめた。

考えたところで答えがでないことなど分かり切っていたから。

どうせ意味なんてないんだから。

そう考えることにした。

「明日から何の取材なんだろうかね……」

でもそれすらも体の良い言い訳であったことも気づいていた。

意味なんてないんだ。

そう思い、目を瞑ることが自分を保つ最善策だと知っていたから。



六月の中旬。

梅雨とかいう日本で最も気に入らない季節を向かいいれる時期。

雨というものですらダムの上だけに降ってくれないかなと願うくらいには余りいけ好かない存在であるのに、それが連日かつ夏の様相を見せるせいで蒸されるのは本当に気分が悪い。何よりも洗濯物が乾きにくいのはいい加減どうにかしてくれ。

そんな不平不満が絶えない六月でも梅雨前線の間を掻い潜って太陽が顔を見せる時はある。

そんな時は普段余りテンションが高くない俺ですら少々上がるというものだ。

今日はその日ようで頭からしっかり日光を浴びている。ただ浴びすぎているせいなのかそれとも今後起こることが嫌だからなのかわからないが、そんな日なのに自分のテンションは余り高くなかった。

「えー。このような梅雨の中、こうして天候にも恵まれ校庭で開会式ができるというのは本当に素晴らしいことですね。このように天候に恵まれた君たちであるなら今日からの二日間非常に有益なものになると思います。頑張って研修を行ってきてください」

槇原校長先生のこの太陽にも負けない温かいお言葉を聞き、晴れてくすのき宿泊研修は幕を開けた。

「それじゃあバスに乗り込みます。間違えて別のクラスのバスに乗らないようようにな」

皆その言葉に従いトボトボとバスへと向かって歩いていく。

くすのき宿泊研修。

我が校が誇る伝統行事の一つだ。

いつもの学び舎から離れ空気の澄んだ広大の大地がある場所(長野県)に行き、いつも通りの勉学に励むというものだ。

簡単に言えば一泊二日の勉強合宿だ。

これのためにあらかじめカリキュラムは配れており、テキストもいつも通りのものではなく、それのためのものを使って授業するらしい。

ただ、

「お前おかしなに持ってきた?」

「長谷川寝れないからって枕持ってきたってマジ?」

「旅館で集まって人狼しようぜ」

歩いている最中そんな声がどこからともなく聞こえてくる。

まあ、この企画の名目は勉強合宿ではあるがそれはあくまでも建前なのだ。

真の目的は新一年生がもっとお互いに親睦を深めてもらうためのお泊まり会。

本当に授業はするらいしいが、二日目に至っては一日かけて体育祭みたいなことをするときてる。

先生たちとてこの研修を持って学力向上が狙えるなど毛ほども思っていないだろう。

だからこそ俺は余り気乗りしていないのだ。

人との関わりを避けてきた自分には相当重いイベントだった。

それでもちゃんと参加しているのは仮病なんかで休むのは自分のポリシーに反するからでツンデレなわけではない。

「おい少年。なんでそんなに気落ちしているのだ。楽しい宿泊研修だというのに。お菓子でも忘れたか?」

そんな感じで肩を落としながらバスに乗り込もうとした時後ろから声をかけられた。

振り返ってみるとそこに入るはずのない人物が立っていた。

「飛鳥先輩なんでここにいるんですか!」

これはあくまでも学校始まって二ヶ月の初々しい新一年生たちが親睦を深めるためのイベントであって当然ながら上級生は行かない。

とっくに授業が始まっている二年生の飛鳥先輩がいていい場所ではなかった。

「なんでと聞かれれば答えてあげないわけにはいかないよね」

そう言って先輩は首から下げたカメラをマジマジと見せてきた。

それを見せられた俺は瞬時に察した。

「え、つまり取材というわけですか?」

「その通りだよ海斗くん。まあ取材というよりはカメラマンを一任されているという感じかな」

「そういうのはプロがとると思っていましたよ」

「もちろんプロモ同乗するよ。でもそれだと自然な表情が抜き出せないからね」

そう言って先輩はカメラを構えて俺の方を向いた。それを手で制止してとることをやめさせた。

「だいたい一泊二日も公欠って取れるんですか?」

「確かに!言ってみるもんだね」

純粋な疑問だった。そんなに長期的な休みを学校側は許すのかという。ただ取れないという考えもなかったというように日和る様子はなく、ハキハキと同調してきた。

「まあ目的はカメラマンだけじゃなくて部活の方の取材もあるからね。色々言ったら案外すんなりと通ったよ。顧問橋本先生だし」

「それを言われてしまうと妙に納得してしまうのは先生としてどうなのだろうか……」

あのだるだるの白衣を着ながら「いんじゃね?」とか言いながら軽く認めていそうなのが想像に難くないのは先生としてはやばい気がする。

「それに私去年これ参加してないしね。そこも加味されたかも」

「そうだったんですね」

こうした一大イベントになると総じて休むやつというのは何人か出てくる。今回の宿泊研修でもすでに二人ぐらい休んでいるというのを聞いた。こういうイベントで休んで住まう人は概ね本当に行きたくない組と楽しみすぎて眠れず休んでしまう組に別れるとは思うが、先輩はおそらく後者であろう。

「ま、そんなわけで今日から二日間よろしく。部の取材の方になったら君も呼ぶから。それじゃ楽しんで」

そう言いながら元気に手を振り、職員用のバスへと向かって行った。

本当に嵐のような人だなと思いながら、乗りかけたバスに乗り込んだ。

どうやら俺が乗車最後の生徒だったらしく、自分の席に着くや否やバスのエンジンがかかった。

そしてクラスの後ろの方でトランプが始まったのを合図にバスが走りだした。

斯くして俺の宿泊研修が始まった。

「おーい芹沢。着いたぞー」

隣の席だった反町にそう言われて俺は目を覚ました。

揺られること約二時間ぐらいだっただろうか。読んでいた本をやめて途中から寝出したらあっという間に目的地へと着いていた。

寝ている間は気づかなかったがいざ目を覚ますと寒いことに気がついた。

流石長野県と思いながらバスの座席から外を見てみると、おびただしい数のバスとザ・旅館と言いたげな建物がそびえ立っていた。

受付のところには女将さんであろう人と教務主任の田口先生が話し合っている姿も見えた。

これだけの大所帯ともなれば当日到着してからでないとどうにもならないこともあるのだろう。

「指示があるまで席立つなよ。でもすぐに出れるように荷物はまとめとけー。おい関、トランプもうしまえ」

旅館を目の前にしてざわつく車内の統率を橋本先生が担っていた。

いつもは適当な橋本先生もこういう場になればそれなりにしっかりするものなのだなと感じる。

その姿を尻目に見つつ、俺は寝るまで読んでいた本を開いた。

暇をつぶすのに自分としてはスマホよりも本のことが多かった。

それは最近になるまで持っていなかったことも影響しているが、何よりもその世界の住人になりたいという願望の方が強いのかもしれない。

現実のこの世界よりもよっぽど現実的な本の世界の住人に。


「そんじゃあ、荷物持って前から降りろー。降りたらそのまま旅館入って、しおり通りに自分の部屋でしばらく待機な」

十分ぐらい経った後いろいろな手続きが終わったのかバスから降りろとの指示がでた。

言われるがままにバスから降り、玄関にいる和装の女将さんに挨拶しながら旅館へと入って行った。

「すげー……。めちゃくそでかいな。迷子になりそう」

入るやいなや隣で反町が感嘆した。俺もそれには納得するぐらいかなり大きな旅館だった。

一高校の一年生ほぼ全員が入る大きさの旅館を用意しないといけないとなると旅館も限られてくるのだろう。だからだろうか、合宿というには結構高いレベルの旅館だった。

貸切にしていることも考慮すると、純粋に旅館代いくらかかるのかなと思ってしまう。

「早く部屋行こうぜー。置いていくぞー反町、芹沢」

「待って。待って。マジで迷子になっちゃう」

バスで疲れたと言いたげな表情を浮かべた同じ部屋の関は旅館の大きさに驚いている俺たちを置いてエレベーターへと向かっていた。それに慌ててついていく反町の後を俺も追った。

 その後部屋についてしばらく経った後館内放送で呼ばれた一年生全体は旅館に外付けされている体育館みたいなところに集められて、そこで変な講習が始まった。

事前に行ったよくわからないテストの診断結果をもとに、自分にあった職業や行くべき大学などが書かれた紙をもらってそれを使って先生たちが色々話すというものだった。

こんな時にもなれば集中力なんかもあまりないし、何よりも話している内容がよく分からないということが起因して、寝始める生徒もちらほらと見受けられた。

他の先生たちにバレていないのかと思ってちらりと後ろを見てみるとカメラを構えた飛鳥先輩がその人の写真をにやけた顔で撮っていた。

それを見たらなんだか自分の気まで抜けてしまった。何をやっているんだかと思いながら佇まいを直し、わからないなりにも先生たちの話を聞いていた。

そして促されるままに手元にある資料に目を通す。

その資料によると俺にあった職業は芸術系なのだとか。進められている大学もそっち系統のものが多かった。

性格診断やこういったもので芸術家って出る人は基本的にやばいと聞くが、自分でも自分のヤバさを認知しているから特に驚きもなかった。むしろこの診断能力の正確さに素直に拍手するべきだとも思った。

そうなると後ろの方でニヤニヤしながら写真を撮っているあの人だったらどんな診断がされたのだろうか。あとで聞いてみることにしよう。

 集会すること約二時間。終わったかと思えばクラス毎に集まり直し、すぐに研修という名の授業をするとの指示が入った。しおりにそう書いてあったといえ二時間も座らされて話を聞いていたらいい加減疲れてくるので効率もクソもないなと内心思ってしまう。不平不満があちらこちらで聞こえてくるのも無理もない。

ただこの授業さえ終わってしまえばあと残されているものは自由時間しかないというのも事実で、それをモチベーションに皆動いていた。

俺もそのモチベーションで動きたいが、先輩が言っていたことを加味すると取材が残っているということであって、まだ自分の気苦労は終わらない事が確定している。

まあ、先輩と関わっている限りは他の人たちとあまり関わらないということなので楽ではあるのだが。

そんなことを考えながら目的地である小部屋に到着した。

宴会なんかで使う大部屋をクラス毎にするために仕切りで区分けした感じになっていた。

そんなお粗末な作りだから隣のクラスの声もバッチリ聞こえてしまっていて、これで授業になるのかなというのが本音だった。

席は長机が用意されていて、そこにパイプ椅子が三脚づつおかれていた。どこでもいいということだったので、後ろの方に向かったらニヤニヤしながらこちらにカメラを構える人物がいた。

「やあやあ。楽しんでいるかい?」

当事者の一年生よりも楽しんでいそうな飛鳥先輩がそう聞いてきた。

「まだ楽しむようなこと何も起こってませんけど……」

合宿で楽しいことといえば、ご飯をみんなで食べたり、お風呂に入ったりすることであって、黙って人の話を聞きながら勉学を行うことではないだろう。

「いつもと違う環境っていうだけで楽しまなくちゃ」

「まあ確かにそうですね」

「それじゃ。楽しんでー」

先輩はそういうとまた後ろの方に戻って行った。

当然近くで授業を受けたくない俺は前の方に陣取った。座るとすぐ隣に反町が寄ってきた。

それもかなりにやけた顔で。

「カメラマンとなんであんなに仲いいんだ?あれうちの学校の二年生だよな。まっtく、済ました顔しやがってー。ま、夜が楽しみだな」

どうにか弁解しようと思い口を開いたが、その瞬間先生が入ってきた。

どうやら俺に自由時間などは存在しないらしい。

 その後そつなく授業は終わった。宿泊研修の名にふさわしいぐらいの濃い内容をするかと思ったが全くそんなことはなかった。なんなら先生たちはいつもより生き生きと授業していたし、そんなんだから俺たちもいつもより楽しんで授業を受けられた。辛く大変だと思っては、学力は伸びないという勉強というものの本質を見た気がした。

その後しおりに従い、風呂に入り、食堂にてご飯を食べた。

先輩もその時間は自分の時間なのか、食堂での写真はプロのカメラマンによるものだった。

そうしてようやく生徒たちの自由時間がきた。さっきまで精魂尽き果てたと言いたげな顔をしていた他のみんなも元気を取り戻し、一気に騒がしくなった。誰でも集まっていい大広間ではトランプだ、人狼だなんてことを楽しそうに皆やっていた。

そんな中俺は一人で飲み物を買いに外に出ていた。あまりにも人が多いところに行くと自分の頭がガンガンしてくるというのもあったが、単純に疲れてしまって夜風に当たりたかったという気分の方が強かった。というのも休息の場である風呂で反町に捕まえられて話を迫られたことから全ては始まった。まだ反町だけならよかったのだが、うちの部屋のメンバーまでも乗り出し、それがうちのクラスの男子全体に伝播していき風呂の中で恋バナが始まってしまったのだ。結局風呂に入っている時間が長くなりすぎて風呂監督の橋本先生に注意されことなきを得ることとなったが、あれがなかったら収拾がつかなかっただろう。

「戻るか……」

手に持っていた炭酸飲料を一気に飲み干し、旅館に戻ろうと歩き出した。そんな時だった。

「いやこれマジだから!健くん由美のこと気になってるって聞いたもん!」

「これマジマジ!私も同じ部活の先輩から聞いた!噂の木もあるし告白しちゃいなよ!」

「えー。それほんと?」

俺同様飲み物を買いに行くのだろうか旅館側から三人組の女子生徒がそんな話しをしながら歩いてくるのが見えた。

「………………っ」

普通なら合宿の日常の一コマに思えるのだろう。

気になる男子がいて、その男子が自分のことも気になっている噂がある。合宿中とタイミングとしても悪くない。告白してしまおうか。

さっき男子だけだってあれだけ盛り上がった恋バナだ。女子がそういうのに興味がないはずがない。だから微笑ましいと思いながら素通りするのが筋だろう。

知りもしない女子が、知りもしない男子に恋心を抱いて告白する。そんな状況で赤の他人の俺がそれについて何か関わる筋など存在しない。してもいけない。

でも俺はこの場から離れることができなかった。

「気になっている女の子いないって聞いたし!」

嘘だ。

「私由美のこと本当に友達だと思っているし、付き合えたら私も勇気でる!」

嘘だ。

「「応援してる!」」



















嘘だ。


















その瞬間何かが弾けた。

体だけが動いていて、自分が何で歩いているのかわからなかった。

多分だが、彼女たちを止めようとしているのかもれない。何でそんなことするんだ。意味もないのに。別の自分が語りかける。

誰か止めてくれ——————

「おい少年。もう取材に行くきか?気が早い男だな。全く」

そう声をかけられながら肩を掴まれた。その瞬間俺は目を見開いて後ろを振り向いた。

「あ、飛鳥先輩……」

声と手の正体は飛鳥先輩だった。

「取材道具も持たないで行こうだなんて何事かね。まあ熱心なことはいいことだが」

「いや、飲み物……買いに来ただけです」

「あら、そうだったの。にしても今日はちゃんと取材の収穫がありそうね。今年の一年生は血気盛んで若々しくていいわー」

「ははっ……」

先輩のそう言った冗談に対してキレのあるツッコミができないくらいにはいまの自分は動転していた。

「…………どうかしたか?」

見透かされているようで嫌だった俺は話題をすり替えることにした。

「い、いえ大丈夫です。そういえば先輩は何でここに?」

「そりゃ取材の下見さ。今年は無事にできそうだ。よかった。よかった」

「そういえば聞いてなかったんですが、今回取材する都市伝説って……」

「あれ、言ってなかったか。これだよ、これ」

そういって先輩は俺の方に紙をよこして来た。

「恋愛成就の桜……?」

「ちょうどここから見えるあの木がそれさ」

そう言って先輩が指差す方向を見ると何でもないような木が一本だけ立っていた。

「あれが伝説の恋愛成就の桜。時期が時期だから葉桜なだけに、伝説感はあまり無いけどね」

紙の説明によるとその木の下で告白するとどんな人でも付き合うことができるのだという。さっき女子たちが話していたのはこの木のことだったらしい。

「あの自販機にいる女の子たち誰かが告白する、みたいな話してたでしょ?ラッキーだね。この時期だとまだっていう人が多いしねー」

のらりくらりという先輩のその話を聞いて俺は顔を暗めた。

「都市伝説、本当であってほしいですね」

「そりゃそうだ。何だ、随分と積極的じゃないか」

「いや、都市伝説の効力がなかったら成功するかなんてわからないじゃないですか。告白失敗したら可哀想ですし」

そういうと先輩は憎たらしい顔をしながら、指をふった。

「甘いね。恋愛というのも、都市伝説というのもそう単純なものでは無いのだよ、少年。まだ青二才の君にはわからないかもしれないがね」

先輩はそう堂々と言い放った。俺はその顔と言い草に少しカチンと来た。

「先輩に何がわかるんですか。だいたいさっきも言いいませんでしたけど年、一つしか違いませんから」

「まあまあ、どちらがより大人なのかは実際のこの目で見て判断することにしようじゃ無いか。さあ取材の準備にかかろう」

その言葉を聞いてもどうにも煮え切らなかった俺は、旅館へ戻って行く先輩を見ながら言葉を続けた。

「わかりました。じゃあ先輩勝負をしましょう」

俺は淡々とそう言った。相手を引きつける安い売り言葉だ。でも飛鳥先輩が勝負と聞けば反応しない人ではないことを俺はこの二ヶ月で知っていた。何度も勝負させられ負けて来たからわかることだ。

「ほう。君が私に勝負を仕掛けるか。果たしてその内容は?」

そういうと先輩は挑戦的な眼差しを向けて来た。いつもならひるむ俺だったが今回ばかりはそうではなかった。

「あの三人のうちの一人が告白したとしてそれは成功しない、に一票かけます。掛け金はいつも通り相手のいうことを一つ聞く。どうですか」

「……………………。人の恋路で賭け事、それも失敗する方にかけるとは本当に君はひねくれているね。まあいい、つまり告白成功なら私の勝ち、失敗なら私の負けということでいいんだな?面白い。いいだろう、その勝負受けて立つ」

先輩はうんと頷き俺に握手を求めて来た。俺もそれに淡々と応え、手を差し出した。

俺には負けられない理由がある。それが悲しい結末であっても。


「さて、ここで張っていればバレないだろ」

「こんな古典的な……。本当にバレないですかね、これ」

カメラやメモ、ボイスレコーダーなどの取材道具を持って自分たちは例の木が見える茂みの中に隠れていた。

こんな場所なので当然ながら少しでも動けば、葉が擦れて音を立てる。周りが夜のおかげで暗いからバレずに済んでいるが、そうでもなかったらかくれんぼでも使わないだろう。

「それにしても君から勝負を挑んでくるとはね。相当自信があるとみたが」

「ノーコメントで」

これを言うことになるのはどのみち今ではないと思っていた俺は、そう一言いい口をつぐんだ。

「ま、そういうことにしておこうか。お、噂をすれば…………」

待つこと十分。木の下に呼び出されたのであろう、浴衣を着た男子生徒が現れた。

間も無くして女子生徒も現れた。

しばしの談笑の後、女子生徒の方が改まった感じを出した。

そしてついに女子生徒の方が切り出した。

男子生徒の方は少し困惑したような表情をして暫く悩んでいたが、

ついに笑顔になって————

「うむうむ。青春とはまさにこのことをいうのだろうね」

告白が無事に成功した二人を横目に先輩は深く頷いた。

「ま、君も何か言いたいことはあるだろうけど私たちが今するべきことはそれではない」

先輩は座っていた体を起こし、ぱっぱっと汚くなった自分の浴衣を払った。そして実直な眼差しをこちらに向けてきた。

「君はこれを都市伝説のおかげととるかい?」

「えっ……」

「とりあえず私は取材してくるから暫くの間それについて考えながら気持ちの整理でもしてなよ」

そう言い、二人のところへ先輩は消えて行った。

ポツリと取り残された俺は先輩が言ったその言葉を考えていた。答えなど最初から分かっているのに。

暫くした後、取材を終えたのか例の二人は手をつなぎながら旅館に戻って行った。

不思議なものだ。明るい二人が消えたからなのか、周りの雰囲気が一気に暗くなった気がした。

「恋というものは素晴らしいものだ」

そんな暗闇から恍惚とした顔で先輩は現れた。

「さーて、取材も終わったことだしお話ししようか」

「……。そうですね」

「じゃあ、ここじゃ暗いし見晴らしのいいところに行こうか。空見てごらん。都会じゃ味わえない綺麗な星空だ」

そう言われて見てみると本当に見事な星空だった。

空気が澄んでいるとか、周りに明かりがほとんどないとか、単純に標高が近いとか。

色々な理由があるのだろうけどこの星空にそんな理由はいらなかった。

 少し歩いたところに前面の景色が一望できるベンチがあったので二人で座ることにした。

暫くの沈黙の後先輩が口を開いた。

「ま、色々話したい聞きたいことはあるのだけれど、まず彼らの話から始めようか。さっきの質問答えは出たかい?」

告白すると必ず恋が成就する伝説の桜。

それのおかげで彼らの恋が成就したと俺が考えたかどうか。

「いえ、それは関係ないと思います」

俺がどう思ったかなんていうのは、人の心の機微に全く関係ない。

正解だ、って先輩が言うと思っていたのだがそうじゃないと首をふった。

「残念。半分正解だが、半分不正解だ」

「半分不正解……。どう言う意味ですか」

「はっきり言おう。ここにあると言われている都市伝説は嘘だ。それでも成功したのはここに都市伝説があるからなんだ」

バンッと音が出そうなほど大見得を切って。先輩らしくもないことを誇らしげに語った。

しかし言っている意味はよくわからなかった。

「どういう意味ですか?」

「これは都市伝説全てに関係してくることではないのだが、その都市伝説が『ある』ことが重要になってくるものがある。今回に関してはその一例だな」

そう切り出した途端テンションが上がって来てしまったのか先輩は突然椅子の上に立ち出した。

「君が勝負にかけるぐらいだ。結果はともあれ今回の恋路というものは厳しかったのかもしれない。それでも成功したというのはこの木の都市伝説があったからというのが一因を及ぼしているということだ。じゃあ質問しよう。なんでもいいが、SNSで告白を受けるのと恋が必ず成就すると言われている木の下で告白を受ける。果たして君ならどちらの方がときめくかね」

「え…………。そりゃ、その木の下の方がときめきますけど……」

突然の質問に狼狽しつつ冷静に返した。

「何故だい?好きだという気持ちはどちらも変わらないというのに。それでも結果が変わって来てしまうのは何故だい?」

「だって……。なんとなく本気度が違うというか……」

そう言った瞬間ビシッと指を刺された。

「それなんだよ。告白された方としては『必ず恋が成就する木の下で告白するぐらいこの子は本気なんだ』って感じるだろ?今回で言えば大して興味もないような女生徒とから告白されたのだろうけど、そこまでされてしまっては意識せざるを得ないよね」

「つまり半分しか合っていないというのは……」

「そう。半分正解というのは都市伝説というのはないということは事実だから。でも半分不正解というのはその噂があるから成功したというのも事実だから。言っている意味がようやくわかったかい?」

そう言うとようやく気分が落ち着いたのか先輩はまた椅子に座り、前面に広がる景色を堪能し始めた。

「君もこの二ヶ月でいろんな都市伝説を検証して来たからわかると思うけどほとんどが嘘なんだよね。本当に見た人がいたとしても、それにはおそらく理由がある。都市伝説的にいえば恨みを買った。とかね」

そこからはことらを見ることなく独り言のように先輩は話し出した。

「今回のもそう。何年か前にどうにか告白させたい人とかがいて適当に作ったものが無事に成功したからそのまま都市伝説として語り継がれているのだろうね。さっきの通りだから、結果的に本当にここでの成功率はかなり高い。これぞまさに『嘘から出た真』だ」

「………………。『嘘から出た真』そんなものあるんですね」

俺は先輩のその言葉を聞いてから少ししてそう聞いた。

「あるよ。この世には」

先輩は何を知っているのだろう。何かを確信したように目の前に広がる景色にそう呟いた。


「ま、こんなもんで今回の話はいいかな。それじゃ勝負の清算と行こうか」

二人で黄昏れること数分。場に流れたなんとも言えない空気を変えるように先輩はそう言った。

「勝負の内容は彼らの恋路の行方。成功したら私の勝ちで。成功しなければ君の勝ち。かけの内容は勝った方が負けた方に一つ言うことをきかせられる。これでいいよね」

「合ってます」

「結果は成功。私の勝ちだ。というか私の賭けの内容が勝たなかったらこの場が割とお通夜な雰囲気だったぞ」

先輩は呆れたと言いたげに顔をしかめた。

「何にしますか。自分への要求」

俺に聞きたいことは大いにあると思う。それが聞かれることぐらい分かっている俺はそれなりに腹を決めていた。

「それなんだけどねー。一旦保留にしようかと思ってるんだよね」

「えっ?」

「適当にジュースでも奢ってもらおうかなー。そこに自販機あるし。いや、あしたの朝ごはん私が好きなものもらうでもいいな」

そんなことをペラペラと楽しそうに話す。

「………………。聞かないんですか」

ここで俺の方から聞き出すことになるとは思わなかった。俺は一体どうしたいのだろうか。自分でもわからなかった。

「…………もちろん聞きたい。だから聞かせてはくれないか?」

「そう言ってくれれば俺———」

「私が今所持している君に一つ願いを聞いてもらえる権利でそれを聞くことは容易だ」

俺の言葉に先輩は食い気味に話して来た。

「でもそれは良くない。言いたくないことを無理やり話させるような私ではない」

「…………」

「そうだろ?」

先輩はにこりと笑った。

「だから聞かせてはくれないか?君の口から」

その瞬間ふわりと風が吹いた。

その風は先輩の髪をかき撫で、前面に広がる景色と合わさり一枚の絵のように見えた。

その姿を見た時、その言葉を聞いた時俺の体から力がすっと抜けていくような感覚がした。

この人は一体何者なのだろうか。

この人なら聞いてくれる。

そう思った。

「もちろんこれに強制力なんてない。言いたくないというのなら無理に聞くことはしない。だから————」

「言います。言わせて欲しいです。だから聞いてくれますか?俺のことを」

俺も負けじと食い気味に話し、先輩の言葉を遮った。

真剣な顔で先輩を見つめながら。

「もちろん。先輩というのはそういうものさ」

そう言って先輩はこの暗闇に負けないほど明るい笑顔を浮かべた。


「これから俺が話すことを全て信じて欲しいなんて思ってません。なんなら戯言だとでも思ってくれていいです」

とてもじゃないが信じられるような内容ではないのであらかじめ釘を打っておいた。

これのせいで関係がこじれるのは嫌だった。

ただ当の本人は気にしてるわけもないという風に呆れた顔をした。

「大丈夫だよ、そんな保険かけなくたって。話してくれ」

その言葉を聞いた後一呼吸をおいて、俺は話し始めた。

「俺には嘘がわかるんです」

他の誰もが信じることができない俺の秘密。

だから、他の誰にも言ったことがない俺の秘密。

「さっき話題にも上がりましたけど、先輩は嘘ってどう思いますか?」

「嘘か……。いいものではないイメージ、出来ることならつかないほうがいい。そう言ったものだな」

先輩のその言葉に俺は頷いて相槌をうった。

「そうですよね。でも仕方がない時ってあるんですよ」

「仕方がない時?」

「はい。人間関係が絡んでくる時です。例えば仲の良い友達同士、誰かが行きたくないお店に行こうって言ったとします。でも自分は行きたくないから嘘をついて用事があるって言うことってありますよね」

「そうだな。ある話だと思う」

「ですよね。じゃあ逆に、嫌われたくないと考えたら、行きたくなくても自分の心に嘘をついて行くってこともありますよね」

「まあ…………。それもあるな」

先輩は何が言いたいんだ、と言いたげに顔にはてなマークを浮かべながら、俺の質問に相槌を打った。

「それって悪いことだと思いますか?」

突拍子もないことを言った自覚はあった。当然先輩も驚いた顔をした。

「え、いやまあ。嘘ではあるが、悪いとまでは…………」

なんとも煮え切らない様子の先輩を尻目に俺は続けた。

「そうなんですよ。悪くないです。どちらも理由あって、悪意がある嘘なわけではないですから。でも…………」

そこで俺は一呼吸置いた。

「それが至る所、果ては自分に対してついた嘘が見えてしまったらどう思いますか」

「………………」

先輩はその問いには答えなかった。

「悪意がない嘘。そんなものは至る所に溢れかえってます。でもそれはついている人に『わからない』から成り立つものだと俺は思います。当然悪意のある嘘だってごまんとある。それがまざまざとわかってしまったら…………」

「もういいよ、大丈夫」

言葉が詰まった俺を先輩はなだめた。

学校にいっても、外を歩いても、どこへ行っても嘘は溢れかえっている。

それが自分に向けられるものでなくともそれが嘘だとわかれば、嫌でもその人をよくは見れなくなる。

仕方がないことだと割り切れないほど入って来てしまう嘘の嵐に俺は飲み込まれてしまった。

簡単に言えば俺はこのせいで軽い人間不信になってしまったのだ。

そのせいで部活に入ることを渋っていた。人と関わることに進んですることは自分にとっても、それを見透かされる相手にとってもいいものではなかったからだ。

「だからさっき俺が彼女たちの告白が成功しないって言ったのは周りにいた友達が嘘をついてまで告白させようとしてたのがわかったからです。なんか変な空気にさせて申し訳ないです……」

「いやいいよ。ま、そのあたりはさっきの取材の時、近くで見てた友達たちに質問したらなんとなくそうなのかなって思ったからね」

流石の洞察力だとしか言いようがない。嘘がわかる俺には先輩が嘘をついていないことがわかるから本当にそう思える。

「そうですか。まあ、ことの顛末と俺の隠していた諸々はこれで全てです。信じてくれなくていいですけど……」

「嘘をそれほど憎んでいる君がなんで私に対して嘘をつくと思うんだ。信用するに決まっているだろ」

先輩はなにを言っているんだと言いたげにうつむいた俺の背中をバシッと叩いた。

「顔を上げたまえ少年。君には色々言いたいことはあるが、まず一つだけ……」

先輩はそういうと一呼吸を置いてこちらを真剣に見て来た。

「よく頑張ったね」

「……………えっ…………」

突然のことに俺は呆然とした。

しかし先輩は俺の反応に気にする様子も見せず言葉を続けた。

「人の悪意が透けて見えてしまうほど嫌なものはないというのに、君に至っては実存して見えてしまう。そうなったら生きているだけでも拷問といっても過言じゃないだろ」

「いや、あの…………」

「君は私のことを強いとよくいっているよね。つまり君は弱い人間だと自分で勝手に決めつけてるというわけだ。本当にそうかい?」

「それは、だって…………。逃げることで自分を保っていたからで……」

「他者との関わりを避けて生きる。これがどれほど大変なことか君はわかっていないよ。君の『嘘がわかる』という状況で人と関わりを避けることは自然なのかもしれないが、それは並大抵のことではない。私なんか関われる人がいるならすぐに頼ってしまう。だから弱くはない。しかし、君は強がってたんだ。ずっと。大変だったな」

そうまで言い切って先輩は口を閉じた。

そしてさっきまで真剣な顔をしていた先輩はそこで口元を緩めた。

「だが、もう安心していい。強がらなくていい。私は君に嘘はつかない。世の中がどれほど嘘まみれで汚れていようとも、君に対して非道な嘘がこようとも、君は一人で抱え込まなくていい。その時には必ず私がそばにいてあげるから」

そう言い切った後先輩は本当に柔らかな表情をした。

それに対して、真面目にありがとうございますとか、煽るために本当ですかとか。何か言おうと考えていたが、視界はおぼつかないし、胸が詰まって何も言えなかった。そうしてようやく気がついた。

「あっ…………」

俺は泣いているのだ。

声なんか上げないが、ただ目から涙だけがつらつらと流れていった。

それは留まることをしなかった。いつ泣いたかもわからないくらい泣いてなかった自分だ。今でもこの状況が信じられなかった。

それでもこれだけ泣いている意味はわかった。

俺は泣きたかったのだ。

無意識に人の悪意を晒されて、それをただ一人だけで受け止めて来た。俺はその度耐えていたのだろう。本当なら泣きたかったのに。誰かに、何かにぶつけたかったのに。

それでも耐えていたのだ。それでも耐えざるを得なかったのだ。

だって誰も俺の苦しみをわかってはくれないから。分かってくれるはずがなかったから。

今その時思っていた分が全て流れ出ているのだとそう感じた。

先輩も俺のこの様子を見て、何も言わずただ微笑んでくれていた。

泣きたきゃ泣けばいい。そう言いたげにただ微笑んでいた。


「なんか申し訳ないです…………」

しばらく経った後、ようやく涙のおさまった俺は目の前にいる先輩にそういった。

「なぁに。別に気にしてなどいないさ。涙の数だけ強くなれるとだれかが言っていたわけだ。泣きたい時には大いに泣けばいい」

先輩は手をひらひらとさせ気にしていなさをアピールした。

「ま、でも私の方針が間違っていなくて本当に良かった。神様も捨てたものではないね」

「先輩の方針?」

「ああ。君がこの部活に入るとなった時私は自分自身が変わってあげると言ったわけだが、正直どうすればいいかわからなかったんだ。そのつもりではいたが、如何せん君の悩みがなんなのかがわからない以上どうしようもないっていうのが本音だったんだ」

「確かに……。無茶振りでしたよね」

今思い返せばほとんど知りもしない一生徒の為に変わってくれると言っている人に対してその悩みを打ち明けなかったのは酷な気がした。

「言えないのは仕方がないから気にしていないけどさ。まあ、とりあえず分からないという状況。ならただ君に対しては誠実であろう。そう決めたんだ」

「つまり、方針って……」

「うん。私はもとより誰であれ嘘は付かない方だから普通に生きてただけなんだけどね。それが君の望む形であったのであれば、我ながら万々歳といったわけだよ」

本当にそうであった。

先輩は今の今まで嘘をつかなかった。

いつでも俺に対して誠実に、実直にぶつけてくれた。

先輩との人間関係が嫌にならなかったのはそのおかげなのだ。

「だから今まで通り私は君に対して接するし、君も今まで通り私に接してくれればいい。それに加えて、君が何か嫌なことがあるなら抱え込まないで私に話してくれていい」

「はい」

俺は心からそう返事をした。

その返事にうんと頷き先輩はまた目の前の景色へと目を移した。

そして少々黄昏た後先輩は口を開いた。

「君が困っているのなら、私は君を助ける。だからもし私が困ったら君は私を助けてくれるかい?」

先輩は儚げに、そう俺に聞いてきた。

またあの顔だ。

「当たり前じゃないですか。俺だって飛鳥先輩の役に立ちたいです。先輩が何か悩んでいるなら。俺なんかが解決できるか分からないですけど…………」

そんな顔をして欲しくない。悩みがあるなら打ち明けて欲しい。そう言いたかったのに最後まで言葉が出なかった。自分の意気地のなさを悔やんだ。

すると、その様子を見ていた先輩が少し笑った。

「伝わってるよ。大丈夫。私はいつも君のその言葉に助けられている。本当に…………」

そういうと先輩は虚空を見つめ、すぐにこちらを向いた。

「私も君に言わなければならないことがある。でもそれは今ではないんだ。これだけのことを話してくれた海斗くんには本当に申し訳ないと思う。けど必ずその時はくる。だからそれまで待っていてくれないか」

懇願するように俺にそう言ってきた。

振り向いたその位置は月の光が逆光に当たる位置だった。そのせいで先輩は少し暗く見えた。それが合間って先輩のその表情は本当に悲しそうな顔に見えた。

「勿論です」

そう思うのもつかの間。俺は間髪入れずにそう言った。

その顔を見た瞬間俺は何のためにこれを聞いたんだと思い返す。

これだけ親身に思ってくれる恩人にこんな顔をさせない為。

「何年だって待ちますよ。でもその時がきたら必ず言ってください。俺が必ず先輩の力になりますから」

振り絞るように俺は思いの丈を伝えた。

俺が先輩のその顔を見たとき本当に言いたかったことだった。

その言葉を聞いた先輩はまたいつものような明るい表情に戻った。

「ありがと。その言葉忘れたら承知しないから。ま、これからもよろしくと言うことで」

そう言って先輩は手を出し俺に握手を求めてきた。何度もしてきたやり取りに疑いの余地はなく淡々と握手を返した。

「言ったじゃないですか、俺は嘘がきらいなんですよ。こちらこそよろしくお願いします」

先輩はうんと頷き手を振った。

「それもそうだな。さーて。帰るとしますかな。時間もかなりやばいしねー」

おもむろに時計を見れば十時までもうすぐと言った具合だった。

「うわ、本当だ。消灯時間もうすぐじゃないですか」

「よーし。さっさと帰るぞー。競争だ!」

そう言って走り出した先輩の後を追いながら俺も帰って行った。

走っている最中、部屋に戻ったらまたいろいろ問い詰められるだろうなと予期した。

俺は果たして何と答えるのだろう。

先輩に抱いている感情が愛だ、恋だ。そんなことではないと思う。言うなれば尊敬、畏敬の念に近いと思う。

さっきはすんなりそう思えていたはずなのに、今となっては何と無く意識してしまう自分がいた。

目の前を走る当の本人は俺のことをどう思っているのだろう。

そんなことが一瞬だけ脳裏を掠めた。

頭上に広がる星々はそんな先輩の髪を綺麗に照らした。

「どうかしたか?」

「いえ何でもないです」

夜はまだ長い。

「7月12日土曜日お昼のニュースです。まずは速報です。チリで活火山であるアスカー山による急激な噴火によって周辺の住民に対して避難勧告が出されています。その中には日本人はいないようです。引き続き——————」

朝、いや昼に起きてテレビをつけるとニュース速報がやっていた。チリで大噴火らしい。

ニュースとはどこまでいっても他人事になりがちだ。いまこのニュースを聞いたからといって自分が焦って避難場所の体育館に行こうものなら部活動をやっている人たちから白い目を向けられるに決まっている。だって自分には、自分たちには関係のないことだから。

ニュースを見ることができている。この時点でその事件、事故とは基本的に無関係である場合が多い。そりゃチリに知人がいれば他人事ではないかもしれない。それでもどこか一線引いた位置で傍観している自分に気づくはずだ。だから取材する人達ですらそう思っている。その事件事故からは一線引いて安全な位置、安全なメンタルでのうのうと取材をする。その事件の悲惨さや凄惨さを伝える大義名分のもとに。その事件事故が当事者にとってどれだけ悲惨で凄惨なものかはわからないまま。

野次馬という言葉があまりいい言葉で使われないのも頷ける。

「朝ごはんは…………。シリアルでいいか」

カウンターに置かれている市販のシリアルをガラスのボールに出し、牛乳を入れボリボリとスプーンで食し始めた。

今は七月の中旬というにはまだ早いぐらいな日だ。

とはいえ日数などはもはや誤差、季節は巡って夏。外に出れば灼熱の業火で焼かれたと思うほど日差しは強く、よっぽどのことがない限りは外に出たくない。登校のせいで毎日に十分ほどその中を自転車で走らなければならないのは苦行とも言える。ただ、まだ自分は自転車だからいいが歩きの人、つまり電車を使っている人はこの暑さのなかを三十分ほどかけて登校しなければならない。苦行を通り越してもはや拷問である。自分の高校こと海越高校の熱中症罹患率が県トップクラスに低いというのは眉唾ものではない。思うにこの拷問のおかげで暑さに対してよく汗を掻くことができるようになっていたり、水分を多く取る癖がついていたりと、対策できている人が多いからだ。

「この夏も多くの帰省ラッシュが見込まれ、新幹線の予約席は———」

休日の昼の番組は大して面白いものもやっておらず、結局さっきのニュース番組にもどってきた。

今が七月中頃に近いということは思い返せば、怒涛のカミングアウトをしたクスノキ宿泊研修から約一ヶ月がたったというわけだ。ただ、カミングアウトをしたからと言っても何があるわけではない。新聞は作るし、取材はする。たまに勝負なんかしつつ淡々と一ヶ月は過ぎ去った。そこにあのせいで不都合が出るようなことはなかった。

俺の方が先輩のあの言葉に対して気にするわけではないし、ましてあの先輩が俺に対してなんか気を使うようなことがあるはずもなかった。

それは全然いいどころかむしろその方がありがたいわけだし、その点は助かっていた。

「それにしても昨日は眠れなかったな……」

翌日が休日ともなるとやはり生活リズムがどうしても崩れてしまう傾向にあるのは誰でも同じであろう。かくいう自分もそのうちの一人で今日は朝ごはんもとい昼ごはん、いわゆるブランチになってしまっている。

ただ毎週毎週がそんなわけでもない。

「今日は7月12日か……………」

シリアルだからさっさと食べ終わった俺はそそくさと食器を流しに持っていき、洗う。

ジャーっと無味乾燥な音だけがこの部屋を包んだ。

この部屋に、いやこの家に響く音は、さっきはニュース。さっきはシリアルの咀嚼音。そしていまはシンクに流れる水の音だけだ。人に言わせれば極端に現実感のない家とも言える。ただそれはあながち間違いではない。

休日も両親が働いている家庭だから、自分以外に誰もいないというわけではない。

平日だって流れている音は俺が発したものか、テレビの音以外にはない。

「行くか…………。墓参り」

水の音にプラスして俺の声がこの家に響き渡った。


「まあ。暑いわな」

墓参りに行こうと決心してクーラーのついた家を出たのはいいが、やはりいよいよ夏本番と言いたげに太陽は容赦なく俺に降り注いでくる。ここら辺でインドアな俺は心折れかけて家に戻ろうかとも思ったが、これ以上後回ししても、むしろ暑くなるだけだし、今日という日は都合が悪く、都合がいい。

2025年7月12日 日曜日。

今から10年前の今日。これが両親の命日だ。

統計を取ったわけではないし、あくまでも俺の概算でしかないが、今日墓参りに行っている人は多いのではないだろうか。

俺の両親はとある事故で死んだ。

その事故は、日本全国はもちろんのことおそらく世界をも震撼させた。

その事故の名は、東海道新幹線脱線事故。

字面だけ見てそのおぞましさと内容を把握することは簡単だが、この事故の恐ろしい点はそこではない。

重傷者、軽症者合わせて0人

乗客1013人乗務員8人。合わせて1021人全て死亡

乗っていた人が全て死んでしまったということだ。

そんなことありえないだろとも思うかもしれないが、これは現実に起こったことだ。

医療技術が進歩した現代で救える人が一人もいなかったのかと言われれば、俺だってそう聞きたいぐらいだ。

だからその事故以来俺は両親がいない。突然のことすぎて自分では理解が追いつかず、葬式では涙が出なかったことを覚えている。これからの不安。両親がいないことの喪失感。普通なら泣きわめいてもおかしくないような状況だった。でもそれらをぶつける先が事故である以上どうしようもないことを子供ながらに悟っていた。その日以来俺は父方の両親に育てられた。委託された当初、マスコミの人たちが度々祖父の家にきては取材の申し込みをしているのを見たし、聞いた。その当社から俺はマスコミ関係者にはあまり良いイメージを持ってはいない。その頃から発現してしまったこの変な能力が主な原因ではあるのだが、小学校中学校とあまり友達関係を築くことができず、祖父たちに心配をかけていたのはいまでも申し訳ないと思っている。高校に上がるに従って俺は祖父たちが売らずに残しておいてくれた元住んでいた家に一人で住む決意をした。このままおんぶに抱っこは申し訳なかったし、この変な能力のせいで心配をかけることも嫌だった。

この一人暮らしが功をそうしているかはわからないが、現に先輩や他の友達たちのおかげで少しづつではあるがこの能力に向き合えている自分がいてそれは嬉しいことだった。


 家から自転車で数分、目的地へとついた。その回りはなんだか和やかで近くでは小川なんかが流れている。そんな小川も木の柵で下に行けないようになっていて、小江戸川越ならではの町並みというのはこの辺りがよくわかる気がする。思えばもう少し歩いたところには菓子屋横丁もあるから意識するのもわかる。車とか電車とかそういう機械的なものがあまり好きではない自分としてはこの辺りの景観というのはかなり好きな方だった。ただ残念なのはその目的地が墓地であることぐらいか。

 墓地に入ってからは特に何事もなくことを終えた。

水道で桶に水を汲み、その水と貸し出されているブラシで墓石を洗い、花を取り替え、火のついた線香をおく。なんてことない慣れた一連の動作ではあったが、今回は親に対して近況報告があることだけはいつもと違った。色々と尖っていた頃から少し丸くなっている自分を自覚した瞬間でもあった。

そして色々と片付けつつ、帰り道通りかかった住職に会釈して墓地から出た。

スマホの画面で時間を見れば、昼間の二時。日射しもいよいよ本気を出す頃合いだ。色々やっている間は意外と気がつかないものだが、冷静になるとやはり暑いということに気づいてしまう。そこで近くの自販機でコーラを買いつつ、木陰で少し休むことにした。

暑さ寒さも彼岸までとはよくいうが、まずもって彼岸まで待てない。待ったところでその暑さが改善されることなどないというのが最近の日本の夏のトレンドだ。内心やってられんなという気持ちで、手に持ったコーラを一息にのみ自転車にまたがった。

「寄ってったほうがいいよなー」

家に帰ったとて夜になればすぐにお腹はすく。外食なんて高尚なことはできない。そうなれば自分で作るより他ない。

早く帰りたいという自分の気持ちを抑え家には帰らず、近くのスーパーマーケットによることにした。

店内に入るとそれはもう涼しいのなんので生き返った気分になる。冷房費の節約のためにここに居座るのも悪くないのではないのかという考えに至るくらいには居心地がよかった。そんなことを思いながら店内を物色していると思わぬ人と出会うことになった。

「あ、橋本先生。こんにちは」

「…………。気づかないふりしてんだから気使えよ」

こんな休日になんで生徒と会わねばならないのかと言いたげな顔を浮かべた橋本先生がそこにはいた。休日の先生は白衣を着ていな分どこか変な感じがしたが、中に来ている服はいつも通りで大した感動は湧かなかった。

「こんな時間に買い物で、こんな場所で会うなんてこんな偶然あるんですね」

「ほんと。変な偶然。なんで休日まで生徒と顔合わせにゃならんのか」

やれやれと首を振りつつ先生は想像通りの感想を述べてくれた。こんなにやる気がなくて生徒も好きじゃないこの人を見ていると本当になんで先生なんかやっているのか疑問だ。

そして俺はそのままその場を離れようとしたら先生が話しかけて来た。

「…………。お前、自炊してんのか」

「ええ、まあ。一人暮らしで食費はばかになりませんから」

橋本先生は俺が一人暮らしをしていることを知っている。

高校生が一人暮らし。私立なわけでもないし寮生なわけでもない。当然その辺りが色々と問題に入学前なっていた。祖父たちがその辺り話をつけてくれてその時担当してくれたのは橋本先生だったらしい。保護者面談だ、家庭訪問だ、なんかの問題をいろんな先生に抱えさせるわけにはいかないのだろう。今思えば俺が先生のクラスになることは必然だったとも言えた。

「そんじゃあ、今日の夜飯何にするんだ?」

「え、なんかひき肉が安いらしいのでハンバーグにしようかと思っていますけど……」

そんなことを聞く意味があるのかと思いながらおずおずと答えると、そうかと言いながら先生が歩き出した。

「そのかご置いてこい。材料やなんやら買ってやるよ」

「そ、それは悪いですよ。そんなつもりじゃなかったですし」

手を振ってその申し出を断ろうとしたが、先生の方は折れるつもりはないらしく引き下がらなかった。

「そんなつもりで話しかけてくるほうが問題だわ。こちとら事情知ってんだ。これも何かの縁てことでその辺りは乗っとけ」

諭すようにそう先生は俺に言ってきた。それに対し俺は素直にありがとうございますとお礼を述べた。

挽き肉、玉ねぎ、牛乳にパン粉その他諸々夕食に必要な材料を買い、生活に必要な日用品まで買ってくれた。

ここまでしてもらってしまうとむしろ気を使ってしまうが、有無を言わさず先生はかごにいろんなものを放り込んで行った。そして最後なんとなく冷凍食品コーナーによった。物持ちもいいし買っておけというのが先生の主張だったからだ。俺はそれに言われるがままについていくと突然先生の動きが止まった。

「これは、これは奇遇ですねー」

声の主は自分にも先生にとっても良く知る人物だった。

「あ、飛鳥先輩」

「やあ、海斗くん。それに先生まで」

そう言われて視線を促された橋本先生は溜息混じりに首を落とした。

「なんでこうなるかね……」

「偶然が重なりすぎるとそれはもう必然とも言いますしね」

「こんなものが必然ね……。勘弁して欲しいがそうかもな……」

状況に諦めたように先生は目を瞑った。そんな先生を尻目に先輩に話しかけた。

「先輩はどうしてここに?」

「野暮用があってそれをすませた次第だったんだが、さすがに今日は暑くてね。これを買いに来た次第ってわけよ」

そういう先輩の手には一つのアイスが握られていた。

「見るところいる人物二人に対してカゴは一つ……。ここから導きされる答えは……」

そういうと先輩はチラチラと先生のことを見始めた。

「はーっ……。わかったからさっさとカゴの中に入れろ、それ」

「ありがとうございます」

これでカゴの中には先生の分、俺の分そして先輩の分まで追加された。

その後少し回った後、先生が精算を終えて外に出てきた。

「ほらよ」

「わーい。持つべきものは優しい先生ですね」

「うるさいわ。さっさと食べろ」

先輩は先生から手渡されたアイスを頬張りなが満足そうな顔をした。

「これ少し重いからその自転車じゃきついだろ。車で送ってやるわ。お前はそのまま手ぶらで自転車で家に帰れ」

ぶっきらぼうな先生の言葉に俺はぺこりと頭を下げた。

「何から何まで申し訳ないです。それじゃまた後で。……あ、家って大丈夫ですか」

「大丈夫だ。俺一度覚えたこと忘れねぇたちだから。ほら行った、行った」

「わかりました。あ、じゃあ飛鳥先輩また部活で。さようなら」

「いやまた後で、だな。じゃあ」

「はあ。まあそれでは」

手を振る先輩と呆然と立つ先生に会釈した。そして自転車をのり、家へと帰って行った。

「うわっ……」

家に着くとなんともいかつい真っ赤なスポーツカーが自分の家の前に鎮座していた。

でもその持ち主が誰かはその傍らに立っている人を見てすぐにわかった。

「こ、これ先生の車ですか?」

「そうだ。若い時の趣味でな」

先生のキャラとは大違いだなと思いながらその車を眺めた。

「ほれ。さっさと冷蔵庫に入れてこい」

「あ、ありがとうございます。というか今日一日色々とありがとうございました」

深々とお辞儀をすると先生はバツの悪そうな顔をして頭をぽりぽりと掻いた。

「…………。そのお礼は今じゃないかもしれないぞ」

するとすぐに助手席の窓が開いて見慣れた顔が顔を出してきた。

「今日他に用事はあるかね海斗くん」

「え、なんでそこに先輩が……」

思わずそう言葉に出てしまうほどそこに先輩が乗っている状況は意味がわからなかった。

「御託はいいのさ。それでどうなんだ?」

「いや、特にはないですけど」

「それならそれを所定のいちに早くしまってこれに乗り込め。君も喉が渇いただろ? 美味しいコーヒーでも飲みに行こう」

「は、はぁ?」

訳がわからないですという風に先生をみると俺もわからんという風な顔をしていた。

「まあそういうことらしい、車の所有者なのに誘拐事件ってわけだ。俺も二人は流石にしんどい。大丈夫ならさっさとおいて戻ってこい」

全てを理解した俺はなんとも言えない感情になった。

「…………。なんかすいません」

「それお前が言うことじゃねぇし。助手席に乗ってるやつから聞きたいもんだな」

はぁ、とついたため息の間に俺はそそくさと買ったものを冷蔵庫に入れて出てきた。そして手招きされるように後部座席に乗り込んだ。初めて乗り込む外車の感覚に少し感動しながらドアを閉めた。

「橋本先生行きつけの喫茶店に連れて行ってくれるらしい。楽しみだね」

「先輩、後でしっかりお礼を言いましょうね」

「行くぞ。シートベルトつけとけよ」

先生がそう言うとスポーツカーはけたたましい音とともに動き出した。


雑談を交えながら車に乗ること数十分、目的地についたらしい。ガラガラの駐車場に止められた車から外に出ると目の前には古風な外見の喫茶店があった。先生に連れられるように中に入るとメガネをかけた少し老けた顔の店員がにこりとしながらこちらにいらっしゃいませと挨拶をしてきた。

「久方ぶりだな。マスター」

「おっ。誰かと思えばヒデちゃんじゃないか。その連れの二人は……」

「俺の生徒だ。席そこでいいか?」

「ほう。生徒とな……。まあ席なんざどこでもいいさ。こんな状況じゃ」

自虐するように店内を見回しながらマスターとよばれる人は鼻で笑った。

先生は日差しが入らない場所の席に座った。

「ほら、好きなの頼め」

革でできたメニューをばっと広げてこちらに向けてきた。

「いや、流石にここは払いますって」

「毒を食らわば何とやらだ。大体七条にその気なんてなさそうだしな」

「ホットサンドのAセット飲み物はアメリカンアイスコーヒーでおなしゃす!」

「飛鳥先輩……」

ほらな、と言いたげな顔を浮かべて先生はこちらを見てきた。

その後自分と先生はブレンドのアイスコーヒーを頼んだ。

しばらくした後アイスコーヒが届いた。

「ほいお待ちどう。お嬢ちゃんのホットサンドはも少し待ってて。先にこれでも食べてて」

そう言うとアイスコーヒーと同時にかき氷を三つ出してくれた。

「今日暑いしね。サービス。味は適当にかけちゃったからそちらさんに任せるわ」

「あ、ありがとうございます。えっと、久保田さん」

マスターはなんだか馴れ馴れしいと思ってネームプレートに書かれた名前でお礼を言った。

「どういたしまして。それと、呼び名マスターでいいよ。雰囲気的に久保田って似合わないだろ。」

「ありがとうございますマスター!」

「元気がいいねお嬢ちゃん!おうとも!それでいい!」

先輩の溌剌さに感化されながらマスターはニコニコ笑った。

「それにしてもヒデちゃんがしっかり教師をしていると思うとなんか感慨深くなるね」

ウンウンと噛みしめるようにマスターは頷いた。

「まあな……。これが今の職だからな」

マスターの言葉に対してなんとも意味深な言い方を先生はした。

「お二人さんは知ってるか?ヒデちゃん昔はな……」

「俺の話はいい。て言うかホットサンド大丈夫なのか。変な匂いして来たぞ」

「おっといけねぇ。焦げちまう」

そう言うとマスターはそそくさと厨房に戻って行った。

「前職あったんですね。まあなんとなくそんな気してましたけど」

「私もー」

「お前ら……。ていうかそんな気すんのかよ。まじか」

そんな気は更々なかったと言いたげな表情をした。

「いつもなんか適当ですし。生徒に会いたくないとか、シンプルに部活にこないこととか。見え見えですよ、教師志望じゃなかったことが」

疑問が晴れたせいか、今まで思っていた思いの丈が全て出た。

「適当なのは主観だろ。部活はまあ……。でも別に休日生徒に会いたくねぇっつうのは俺に限ったことじゃない気がするんだけど」

「適当に見えてしまうっていうのは、前職があれじゃ物足りないと心で思っているからかもね」

ぶつくさという先生を遮って「ほい、お待ちどう」と言いながらマスターは先輩の近くにホットサンドの皿をおいた。

「マスターまで……」

先生はふてくされたように不満の顔をあらわにした。

「何、別に君の悪口を言っているわけででないさ。むしろ昔よりも余裕が見えて、生き生きしているようにも私には見えるがね」

「生き生き……? 先生が? これで?」

「おい」

そう先生にどやされるとマスタはーはっはっはと笑った。

「あの時のヒデちゃんはいつも何かに追われていたからね。それに彼の性格だ。君に聞くが別段授業がつまらないとか、先生としての業務を怠慢しているとかそういうのはないだろ?」

「ま、まあ確かに……」

いつも部活には来ないが、新聞を出すとなれば手伝いしてくれる。授業は適当に教えるどころかむしろわかりやすいと感じるし、宿泊研修の時もなんだかんだ他の先生に比べ率先して統率を取っていた気がした。いざ振り返って考えてみればいつもの態度は適当だが、大事な場面に不都合を起こすようなことを先生はしない。

「適当に見えてしまうのはそれだけできてしまうからという捉え方もある。この空間だって私からみれば楽しそうに見えるからね。案外教師は天職かもしれないぞ、ヒデちゃん」

「ガキが好きじゃないのは他の先生に比べれば確かだ。向いてねぇよ教師…………。だいたい俺は————」

「………………」

先生が何かを言いかけた時マスターは今までと違った眼差しを先生に向け、その言葉の先を言うことを止めた。先生もそれに気づきハッとした後顔を下げた。

「昔は昔。今は今じゃないか。今はこうして面白そうな子供達の面倒見ているんだ。そんなことをいちいち振り返っていては進めないぞ」

「……ま、そうっすね」

その言葉を聞くとマスターはうんと頷き、「ごゆっくりー」と言いながら厨房へと消えて行った。


閑静な住宅代を少し抜けた先にひっそりと母屋を構えるこの店には外からの音というものはほとんど入ってこない。だから耳に入る音というのはこの室内に流れるBGMと先ほど渡されたサービスのかき氷を壊す音だけだった。先ほどの話のせいでなんとも話しづらい重い空気になった店内は、二人がかき氷を無造作にスプーンで崩し、一人がホットサンドを食べているというカオスな状況になってしまった。どうしようもない状況に終止符を打ちたく、俺は話を切り出した。

「そ、そういえば先生。今回の新聞どうでしたか?」

「え、っと今回の新聞な……。あれだよな、あれ……」

「『近所の妖怪・お化けの噂話をけんほうしてみた』でふよ、先生」

「ああ。そうだ。それそれ。ていうか食べながら話すな、七条。行儀が悪い」

「ふぁーい」

「先輩……」

飛鳥先輩が行儀悪く、食べながら補足を加えた六月号の新聞の題材は学校から離れてその周辺の調査という風に勢力を拡大させたものとなった。勢力が拡大するということはその分大変になるわけで、正直やりたくはなかったが押し切られる形でそうなってしまった。取材したはいいものの当然妖怪やお化けなど現れるわけもなく、なんでそんな噂が立ったのかの調査が主なものとなった。

「あれな。まあ悪くなかったが、いまいちインパクトにかけた感が否めないな。当然妖怪なんざいるわけないからそこは仕方ないと思うんだが、妖怪に見えてしまった木があっただろ?あれに焦点もっと当てた方がよかったかもな」

「やっぱりそう思いますか」

「いやいや。こうは言ったが、そんな落ち込むことはないと思うぞ。前も言ったが高校生の新聞にしては十分だとは思うし」

ズズッと溶けてしまったかき氷を一気に飲み干しながら先生はそう言った。

「いや一つ疑問があったんですよ。なんかうちらの新聞って出したその日って割と話題になりますけど、その次の日とかってピタってその熱が収束している気がするんですよね。やはり俺の書き方にインパクトが足らないんですかね」

これは過去三回の新聞を出した時毎回思っていたことだった。四月号の有名な七不思議を取材し、新聞を出した時もその日は割と学校中で話題になっていたがその次の日になったらそんなものあったっけと言わんばかりの冷め具合だった。高校生がそんなので何日もはしゃいでいる方が問題だろと言われればそこまでなのだが。

ガチャン。

「あちゃ……。すまんね海斗くん。マスター新しいナイフもらえますか?」

「何やっているんですか……。ま、とりあえず先生はどう思いますか?」

「ん、ん。お、おう。そうだな……」

ナイフを落としたせいで飛び散ってしまったソースを紙で拭き取りながらそう先生に聞くと、まさか自分にふられるとは思わなかったような風に、飲んでいたコーヒーをつまらせた。

「それこそ気にすることじゃないだろ。だいたい教師としてもそんなのが延々と残られてしまう方が困る。『先生、怖くてトイレ使えません!』とか言われても知らんがなというしかないし。まずもって高校生だしその辺り弁えてるんだろ。知らんけど」

なんとも投げやりな感じで先生は質問に応えた。

「まぁ、そうですよね」

考えすぎだなと思い直して、目の前の完全に溶けてしまった味付き氷水を飲み干した。

その後は大した話題もなく、だらだらと適当に喋るというなんとものんびりとした時間が流れた。当初は概ねその予定だったはずだっただけに、このゆったりした時間が変に感じることを変に感じてしまった。ただこの間、あれだけはしゃいでいた先輩があまり喋らなくなったのには少々気にはなったが特に突っ込むことはしなかった。

「さて。そろそろ帰るか。時間も頃合いだし」

先生が一息に二杯目のアイスコーヒーを飲み干しながらそう言った。

時間を見れば五時を少し回った具合だった。外は少々夕焼けが見えて来た風だが、まだ夏のおかげで明るい。ただもう後一時間もすれば一気に暗くなるだろう。

「ムムム。もう帰りますか。夜ご飯までご馳走になる算段だったのに……」

残念そうに先輩は顔を俯きながらそう言った。その姿に先生はため息をついた。

「馬鹿言うなよ。そんなことして親御さんや他の生徒に見つかってみろ。懲戒免職もんだ。流石に三つも職を転々とするのは俺とて嫌だ」

「嫌な部分そこなんですか……」

俺も大人になればこれだけのことを言えるようになるのだろうか。高校一年生の自分にはあまり想像がつかなかった。

「それじゃあ。また来るよマスター。今度は一人で」

ジロリと飛鳥先輩の方を見ながら先生は会計をすませた。

「そんなことを言いなさんな。むしろ大人数で来てくれた方がお店としてはいいし。また来てねお二人さんも」

「もちろんだよマスター」

先輩はグットマークを指で作りながらそう言った。マスターもそれに応えるようにニコニコとしながらぐっとマークを作った。その姿に会釈をし、月並みのお礼を述べつつ喫茶店から出た。距離的に飛鳥先輩の家が近かったので先輩の家に寄り、その後俺が送り届けられた。

「今日はなんか色々とありがとうございました……と言うかなんか申し訳ないです……」

スーパーマーケットから始まった先生とのやりとりは材料を買ってもらうに続き、喫茶店でコーヒー二杯を奢ってもらうに至った。ほぼほぼ縁もゆかりもない一生徒にこれだけしてもらってはありがとう以前に申し訳なさの方が立ってしまった。

「気にすんな。あいつはつけあがるから言ってないが、なんだかんだ言って楽しかったからな。休日と言っちゃゴロゴロ一人で家にいるか、なんかぼーっとテレビ見てるくらいだからな。気分転換にはなったわ」

そう言って先生は軽く笑った。

「そうですか。なんか意外でした。そう言うのも含めて家にいるのが好きなのかと思っていたんで」

「そりゃ毎週こんなことやられてちゃきついが、たまにはな。少しは人間味あるってわかっただろ」

「そうですね。なんか今日は先生のいろんな面が見れて良かったです」

「そんなもの見れたって価値なんかないけどな。それじゃ帰るとするわ。せっかく買ってやったんだ。美味しいハンバーグ作れよな」

先生のあまり見ぬ笑顔に対し深々とお辞儀をした。先生は自慢の車に乗り込むと自分の家を後にした。

 家に入ると途端に静かになった気がした。気がしたのではなく実際に静かなのだが。耳に届いてくるのは俺の歩く音と外の車の音だけ。あれだけ喧騒とした1日を過ごしてしまうと一層この静かさが身にしみてしまう。

「変わったな。俺も……」

ベッドの上に適当に自分を放り投げてそう呟いた。

今まで人と関わりを避けてきた自分にとって静寂とは日常の一幕であって、自分の生活音だった。喧騒が煩わしく感じることこそあれ、静寂が違和感となることはなかった。そんな自分がこの静寂を寂しく感じているのだ。そりゃ変わったと思うしかない。

飛鳥先輩にこの変な力を打ち明けて以来、心に詰まっていた何かが取れたのか人と関わることにあまり抵抗がなくなっていた。関わる人がごく一部であると言う事実はあるものの、それでも今までに比べたら大きな進歩と言えた。こちらが誠実に接していれば、相手も誠実に接してくれる。そんな当たり前のことも自分にとっては大きな発見だったのだ。

「…………。下準備だけでもしておいたほうがいいな」

ベッドから体を起こし、冷蔵庫へと向かって行った。時間にして夕食となるには少々早かったが、手持ち無沙汰な俺は下準備とこじつけて体を動かすことにした。どうやら呆然としているのが嫌らしい。

冷蔵庫を開けてみると所狭しとありとあらゆるものが敷き詰められていた。いつもは買い置きなどしない自分にはあり得ない光景だった。冷凍庫を開けて見ても栄養が少ないからといつもは買わない冷凍食品があって違和感すら覚えた。ただこんな光景にすら少々安堵してしまうのだから変わった、というよりはこじらせていると言ったほうが正しいのかもしれない。

「先生の前職って一体なんだろうな……」

食材を見て想起されたのか、特に意味もない呟きが静寂の中をこだました。

先生のことだから肌に合わなくて辞めたということも考えられなくはないが、それでもっと肌に合わないと思う教師の道を進む理由がない。先生の車を見る限りだと相当前職ではお金を稼いでいたこともわかる。詳しくは知らないが、一介の高校教師が稼いで買えるような代物ではない。ただそれだけに疑問が残る。先生の指を見れば結婚していることもわかる。家庭を持っていて、それだけ稼げる職をやめるだろうか。そうなれば辞めさせられたというほうが筋は通るが、先生自体そういう風に言っていなかったし、マスターの感じだとトラブルが起きた感じでもなさそうだった。

人には言えない秘密が一つや二つあるものだ。

先生にもあるのだろう。

雑然とした中から玉ねぎだけ取り出して冷蔵庫をしめた。

「それじゃあ授業終わり。気をつけて帰るように。最近窃盗事件が多発しているから自分のロッカーにでも入れとけよ」

高校生ともなればお金やスマホなんかの持ち込みは当たり前だ。そうなればそういったものを盗もうと思う人も当然出てくる。高校での窃盗は取れれば誰でもいいということから犯人を絞るのが難しいというのを聞いたことがある。標的が自分に向くはずがないというのは慢心だ。一刻も早く捕まることを祈る。

十月の中旬。夏の残暑もそろそろ勢力を弱め、少し肌寒い日も多くなってくる頃である。昔であれば運動の秋、食欲の秋、読書の秋と言われ、過ごしやすい季節の一つとされていたわけだが昨今はどうにもそうではない。今日こそいかにも秋らしい気温だが、しばらくすれば一気に寒くなることだろう。そうなればこの廊下を歩くのも億劫になることだろう。教室と違い、色濃く季節感を感じるからかこの廊下を歩くときはふとそんなことを考えてしまう。そんなこんなで部室につき中に入ろうとしたが若干の違和感があった。

中が騒がしい?

部員は二人なのだから話し声が聞こえるというのは不思議な話だ。幽霊部員たちが突然帰ってきたというのだろうか。確かめるためにドアの戸を開く。

「やあ」

いつものように飛鳥先輩は笑顔で俺のことを出迎えた。それに対しいつものように会釈で返す。しかしいつもと違った点としては自分の席に見知らぬ人が座っていることだ。

「芹沢海斗さんですね。お邪魔しています」

まさか自分の名前を知っているとはおもわず少し驚いてしまった。一体誰だと思ってその人をよく見ると、当然ながらこの学校の制服を身に纏い、先輩とは違って肩よりも少し長い黒い髪を携えていた。顔は整っていて、いわゆる優等生といった凛とした顔立ちをしていた。しかし口調と語気に見た目以上に元気そうな印象を受けた。

ここまでその人について色々分析して見たがどうやら知り合いではないらしい。ただどこか見覚えがある気もした。制服の学生ピンによると二年生のようだが。

「こちら、この秋から新たに生徒会長になった霧島花苗さんだ。今日は私たちに依頼があってここにいらしたらしいよ」

「生徒会長……」

通りで知っているわけだと合点がついた。つい最近まで生徒会長選でバタバタとしていた。そんな折に校門や演説の時に見たことがあったからだろう。そんなことを考えつつ、空いていた先輩の席の隣に座った。

「それで依頼って?」

「私まだ聞いてないんだ。君も来てからの方がいいかと思って。それじゃあ聞いても?」

待ちきれないという風に先輩は霧島先輩に聞いた。それに対し、はいと一言言って話を始めた。

「単刀直入に聞きますけど、お二人は透明人間の噂をご存知ですか?」

「おお、その話か。それは、もちろん」

先輩は意気揚々と頷いた。自分もそれについては頷く。

この学校に透明人間がいる。

そんな噂が流れ出したのはそれこそ十月に入ったここ二週間ぐらいのことだ。映画部の生徒の一人がミスで部活の機材のビデオを回したまま家に帰ってしまったらしく映像がその一日中回しっぱなしになってしまった。翌日気づいて慌ててその映像を止めたのだが、何か面白いものでも取れていないかと部員全員で確認したところ、廊下に現れた生徒が突然消えるという何とも怪奇な映像が取れてしまったのだという。面白いことには目がない年頃、何やかんやあってその映像が流出し、現在の噂に至っている。

「それを取材して欲しいということですか?」

「簡単に言えばそうなのですが、少し違いまして。これ見ていただけますか」

霧島さんは自分なバックから紙の入ったクリアファイルを出した。

「これはここ最近の盗難された生徒のリストです」

言われた通りその紙を見ると人の写真と名前が書いてあり、その横には盗まれたものなのであろう教科書や筆箱なんかが書いてあった。

「この生徒たちは皆さんここ十月で盗まれています。私たち生徒会ではこの盗難事件と透明人間の話に何か因果関係があるのではないかと睨んでいます」

「それって……。生徒会長さんは突如現れた透明人間が盗んでいるとお考えなのですか」

思わず聞いてしまう。

「だったらいいのですけれどね。そうでないと考えると少々タチが悪くてですね」

霧島さんは少し笑った。その言動に俺と先輩はお互い顔を見合わせ、眉間にしわを寄せた。

「私自身とてもオカルト的な話は好きで、毎月新聞部の新聞を楽しみにしているんです。家においておいた新聞をわざわざ生徒会長室に持って来て貼るくらいには。とは言え今回の事件が先程のように行われたと盲信するほど擦れてはいません。普通の人間がいつも通りのように盗難をしたのでしょう」

霧島先輩は呆れたように首を傾げながら机においてあるファイルに手を伸ばした。

「十月に行われた盗難事件、おそらく盗んだ人は同一人物だと考えられています。それには妙な共通点があるからなんです」

真剣な顔でもう一枚の紙を見せて来た。

「盗まれたと申告している時間と場所を記載したものなのですがどうにもおかしいのです」

見ると二時間目の授業中、引き出しに入っているものが。体育の時間、教室のロッカーから……。

「あっ。ちょっと飛鳥先輩」

見ている最中に先輩に紙を横取りされた。気にする様子も見せず先輩はまじまじと見つめながら「なるほど」と唸った。

「人間が犯人なら本来なら盗ることが叶わない時間帯に、取れるはずのない場所で盗まれていると」

面白くなってきたという風に顔をニヤリとさせた。こういう時の先輩はとことん楽しそうだ。

「そうなんです。授業中だけとかなら抜け出した生徒が盗んだ、思いたくはありませんけど授業のない教師が盗んだと考えれば話は早いのです。でも流石に授業中に引き出しを物色するなんてとてもじゃないけれど人のできる芸当ではありません」

「でも透明人間なら少し席が離れた瞬間にとることは可能だし、誰にも気付かれずに授業中の廊下を闊歩することができる。理にかなってますな」

言葉に被せるように先輩は笑いながら言った。

「とはいえ、この事件を透明人間のせいだから諦めて欲しいという風に解決するわけにはいかないのです。当たり前ですが」

「それで納得するならこの世はもっと治安が悪いだろうね。むしろ平和なのかな」

心底楽しそうに適当なことをヘラヘラと先輩は言う。それに対して場の雰囲気を戻すために質問することにした。

「では自分たちは何をすればいいのですか?透明人間に対して取材するのは問題ないですけど窃盗事件との兼ね合いって何かありますかね」

今までの流れで行くのならわざわざ自分たちに言わずとも勝手に取材することは明白だと思う。現にこの話題が学校中に広まる前に取材しようと持ちかけてくるほど今回の透明人間の話に対して先輩はやる気満々だった。だからこれに対して改めて取材してくれと頼む必要はないし、それ以前にそれをさせようとしてその理由がわからなかった。自分がそう聞くと霧島先輩は申し訳なさそうに少し笑った。

「透明人間の取材をしてもらうって言うのはあくまでの建前で、君たちには私たちと一緒に今回の事件に対して捜査に加わって欲しいと言うことなんだよね」

「そ、捜査に協力ですか」

予想していないことに少々驚いた。

「生徒会だけで今回の事件に当たるにはどうにも人手が足りなくてね。しかし大々的にやるには今回の事件はセンシティブだ。盗まれた生徒の情報をホイホイと渡すわけにはいかない。それなら現状活動をしているのは君たち二人である新聞部に協力してもらうのがいいかなと思ったわけ。同じ捜査でも君たちは部活の性質上バレにくいしね」

「確かに」

非常に理に適っていると感じた。自分たちはあくまでも透明人間の取材をしている体でいれば生徒会が動いているよりも警戒心は薄くなりそうだった。

「でも私たちは本当に透明人間と遭遇した場合は取材して記事にしてもよろしいと言うことですよね」

「え、ああ……。せ、窃盗事件との関連がないことに注視していただければ問題ないですけれど……」

先輩のその言葉に少し困惑したように頷いた。まあ普通の人の反応だと自分は感じた。嘘がわかる自分やそういったことを信じている先輩からすると透明人間の一人や二人いてもおかしくないと言う考えに至るが、普通に考えればこの反応が普通なのだろう。それに自分たち二人にはある一つの確証があったのだ。

「そう言うことなら喜んで協力しましょう。ものを盗むなんて非道なことをやめさせなければなりませんからね」

意気揚々と先輩は言い切る。そんな姿をみると退屈なことが続いてしまったらこの人は死んでしまうのではないのかと思ってしまう。

「とりあえず捜査に協力するのはいいですけど、具体的には何をすればいいんですかね。流石に授業中抜け出して警備なんてことをしていいはずないですし」

そんな当たり前な質問をしたのだが、霧島先輩はバツが悪そうに笑った。

「実はこうは頼んでいるのですが、いまいちその策が纏まっていないのは事実なんですよね。とりあえず私たち生徒ができることとして放課後の警備をしようと考えています。出回っている映像を見る限りだとその人も何やら事前に準備が必要な気がしたので、人目のつかないところを中心に。それがあまり意味のないことだとはわかっているのですがやらないよりはいいかと思いまして……」

頼んでおいて策が決まっていないと言うのは少々驚いたが、生徒ができることなんて高が知れているのも事実だったからしないのかもしれない。それに実際この透明人間が放課後に一切盗んでいないのかと問われればそうでないと言うのも事実だったから無駄ではないのかもしれない。

「それでは、今日からお願いしてもよろしいでしょうか。よろしければここの警備をお願いしたいのですが—————」

クリアファイルからまたもや紙を取り出して自分たちにその警備する場所を説明し始めた。その場所は一切使われていない一階の数学準備室の周辺で、そこで張り込んで欲しいとのことだった。意味はあるのかと思ったが、張り込まないよりはいいのかもしれないと思い直した。

その後少しちょっとした話をして生徒会長こと霧島先輩は自分たちの部室から出て行った。

出て行った後先輩はもらった紙をじろりと睨みつける。その間自分は霧島先輩のために出したお茶の片付けなどをした。


「では一旦落ち着いたことだし整理しようか」

ある程度の片付けが終わって、座って新たなお茶を飲んでいるときにそう言ってきた。

「今回の事件、ズバリ犯人は誰なのか。答えてみせよ海斗くん」

「…………。じゃあ、その紙たちを見せてくださいよ」

普通に考えたらほとほと無茶振りであるその質問に対し俺はかなり冷静だった。

俺は手渡された盗難被害者リストをずらっと見ていく。

町田謙人、坂巻波瑠、瀬島ミリア、鳴沢誠司………。

「…………。犯人は恐らくこの人ですね」

俺は何の躊躇もなく名簿の一人の生徒を指差していた。

「二年D組20番、白神聖良か……」

何も疑わないで先輩は淡々とその名前を口にした。

「その人だけ嘘の申告をしています。教科書は盗まれていません」

前面に広がる紙にはずらっと被害届が書かれているが、白神聖良と名義される場所だけは自分の目には嘘と見える。わざわざ嘘をついてまで盗まれたと報告する理由など存在しない。とりわけこの時期に。概ね被害者を装うことで犯人像から逃げようとしたのだろう。普通に考えれば騙されてもおかしくない手法ではあるが、俺にはそれは意味をなさなかった。

何でこんなことがわかるのかと言われれば、自分には嘘がわかるからとしか言いようがない。人の言葉だけでなく、人が嘘をつこうと考えうるすべての事柄に俺は反応することができるのだ。俺が考えるに嘘をつくと何か思念粒子みたいなものが残るのだと思う。嘘をつくと言うのはどれだけ意識していなくとも人の気持ちというのもが介在する。それを俺は読み取ることができるのだろう。

「さっすがー海斗くん。将来はその才能を存分に発揮できる警察官か弁護士にでもなるべきだね」

あっけらかんと先輩はそういうが、そういうわけにもいかない。

「じゃあ今からこの人を逮捕しに行きますか?あなたは透明人間で、今までずっと人のもの盗んできましたよね?と」

「ま、それは無理だね」

それはできない。だって証拠がないのだから。

俺がいう『この人は嘘をついている』に対して何の根拠も証拠も存在しない。存在するのは俺がそうだとわかると言う自信だけだ。先輩は俺の変な力を信じてくれているからこそ俺の話に合わせられるが、言ってしまえばそこらへんにいる人が『この人嘘ついている』と言っているのと何の変わりもない。そんなもの誰も信じてはくれない。何度もいうがそれには何の根拠も証拠もないのだから。

俺にこの変な力が宿っていると周知されておらず、認知されていない状況でこんなことを口走ればいくら自分にとってそれが嘘だとわかっていてもそんなのは戯言にすぎない。この変な力が無くなってくれない限り俺が一生抱えていかなければならない弊害だ。

「だとするなら現行犯逮捕以外に方法はないわけだ」

うーんと唸りながら先輩は一人お茶をすすった。

透明人間に対して現行犯逮捕。普通に考えれば不可能に近い案件だった。もちろん犯人であろう白神聖良さんと言う人物を延々と張り込んでおけば事件が起こることはないと思う。でもそんな人権侵害なことをできるはずはないし、したくもない。とはいえのさばらせるわけにもいかないから捕まえる他にないわけだが……。

「簡単な話、次に狙われる人物さえわかってしまえばいいのだけれどね」

「法則性があるようには思えないですけど……」

盗まれたもの、盗まれた人、盗まれた時間。どれをとってもあまり法則性があるようには思えなかった。気になる点としては二年生が少し狙われている率が高いくらいだが、対象がデカすぎるだけにそこだけに絞ってしまっても意味がない気がした。

「…………。でも変な点があるよね。これ」

「変な点?」

じっと書類とにらめっこをしながら先輩はそう俺に言ってきた。

「何でこの犯人はわざわざ『透明人間が盗んだ』と言う風にしたんだろうか」

「え?」

「だっておかしいじゃないか。君が透明人間になれるとして、誰かの何かを盗もうと考えた時わざわざこんなリスキーなことをする必要があるか?引き出しのものを盗んだ件に関しては確かにそこに人が座っていなかったのかもしれないが、隣の席の人が少しでも体を寄せたり、不意に座られたりでもしたらさすがにバレてしまう。そんなリスクを犯してまでする行為なのだろうか」

「確かに……。意味ないですねそれ」

意味がない。だって透明になれるならいつだって取れる。もっと安全なときに悠々と盗むべきだ。

「この行動に意味がないのなら別のところに意味があるはずなんだよね」

「いや、でも深く考えすぎじゃないですか?単に自己顕示するための可能性だってありますよね」

冷静になってみれば普通にあり得そうな案だった。透明人間になれるならそれを見せつけたい、そう考えてもおかしくはないだろう。そんな有り体なことを言って見たものの、先輩はそうではないという風に首を横に振った。

「だとするならたまに放課後狙っていることに説明がつかない。どうしても授業中にとることが叶わなかったから放課後盗んだと見て取れる。つまり犯人は盗る人が誰でも、盗るものが何でもいいわけじゃない、明確な意思を持ってことを行っている…………」

最後の方はボソボソと小さくなって、そのまま思案し始めた。

一緒になって考えて見たがイマイチ点と点が繋がっていかなかった。おかしな点はあるがそれは単に独立した点な気がしてしまう。

理由なんてあるのだろうか。ランダムにやっているのではないか。そう思ってぬるくなったお茶を飲んだ瞬間だった。

「わかってしまった」

先輩はハッとした顔でこちらを向いた。

「マジですか?」

「まじまじ。さーて、生徒会長に言って張り込み場所変えてもらうしかないね」

先輩は思い当たったが吉日といわんばかりに勢いよく席を立ち、部室から出て行こうとした。

「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ。次狙われる人って誰なんですか」

「私だよ」

先輩はニヤリとした顔で振り返ってそう言った


「…………」

長い間廊下のすみで本を読んでいた。それも髪型や制服の学年ピンまで変えて。来る犯人に怪しまれないようにするというのは大事なことだが、こんな突貫工事の付け焼き刃で本当にバレていないか心配ではあった。

「疲れたわ……」

案外いろんなことに気を配りながら立って何かするというのは難しい。変な人だと思われないようにするためのカモフラージュと自分の暇つぶしに読書をしてはいるものの、いつ犯人が来るかわからない以上内容が身に入らなくてむしろ疲れる。数分の間そうしていろというのなら問題はないのだが、何日も何時間もこうされてしまうと流石にきつかった。読書はやめて何か別のことでもしようかと考えている時に前方から見知った人が顔をのぞかせた。

「進捗のほどはどうですか?」

その人は見回りをしている生徒会長だった。

「特にはないですけど、事件が起きていないだけいいかと」

「そうですね。やはり私たちが睨みを効かせているのが大きいのでしょうかね」

生徒会長から捜査協力についての申し出があってから三日が経った。その間窃盗事件は起きていない。なればこそ生徒会長の作戦が功を奏していると捉えるのが普通ではあるのだが……。

「それにしても一体なぜここに張り込みの場所を変えて欲しいという打診をしてきたのですか?」

俺はその言葉に苦笑した。


張り込み場所を変えると豪語したのはほかでもない先輩だった。先輩曰く自分が狙われるのだから自分のクラスである二年F組を張り込んでおけばいつかは現れると。さっきの話に戻るが、事件が起きていないことをそのまま捉えるなら生徒会長のこのやり方があっているからだ。しかし先輩の話を信じるなら、事件が起きない理由は単に先輩自身がものを盗まれないように細心の注意を払っているからであって、放課後ほかの生徒会の皆さんが張り込みをしてくださっていることに因果関係はないことになってしまう。だから案を出してもらった生徒会長さんには少し悪い気もしてしまう。

「次の標的は私だよ。ということはもう事件が起こることはないね。少し仕込みが必要か」

先輩はあの後そう言った。

「随分と自信ありげですね。狙われるのが先輩であるというのはおいといて、盗まれない自信があるんですね。相手は透明人間だというのに」

「あるね。まずもって私の何かを盗もうとするのなら計画的な犯行は一切意味をなさないからね。現にもう前回の犯行から四日は経っているがその気配がない」

理由として全く機能していない言葉を堂々と先輩は述べた。内心実はもう盗まれているのに気づいていないだけなんじゃ……なんてことがよぎったがあえて口にすることはなかった。

「それにしてもよく法則性がわかりましたね。自分にはさっぱりですよ」

「それもそうさ。これは私だから気づいたってところもあるからね。私の頭が良くて助かった。むしろ一年生の君がわかったら怖いくらいなもんだよ」

頭にくる言い方をするが、わからないのは事実なのでそこで切れるような真似はしなかった。

「じゃあ一体どんな法則だったんですか?」

聞くと先輩はニヤリと笑って口に指を当てた。

「内緒さ。せっかくだから犯人の前でお披露目しようじゃないか。探偵は事前に推理の答えは言わないものさ」

こう言われてしまっては自分ではどうすることもできなかった。基本的に引くような性格ではない先輩に頼むから教えてくれと懇願したところで意味はないことはわかっていたからだ。


「自分が知っているなら話してもいいんですけどね……」

こんな経緯がある以上自分はなぜここを張り込んでいるかを問われても自分の方が知りたいくらいだった。

「…………。まあ、事件が起こらないことに越したことではないので、理由があってもなくても特に気にしたりはしませんが。それでは私は持ち場に戻ります、引き続きよろしくお願いしますね」

最初少し疑問がありそうな顔をしていたがすぐに霧島先輩は満面の笑みで自分のことを送り出していった。生徒会長になるにはそれなりの人望が必要ではあるとは思うが、そんなものすぐにでもできてしまいそうなほどさわやかな笑顔だった。

「さて自分も持ち場を動かないようにしないと」

おしゃべりに熱中して犯人を捉えられませんでしたなんてことになったら先輩からなんて言われるかわからない。気持ちを切り替え、気を引き締めて張り込みをしようと心がけた、そんな矢先だった。

「…………」

何食わぬ顔で誰もいない教室に違うクラスの人が入って行くのを見かけた。

「本当に来た……」

入って行ったのは紛れもなく被害者リストに載っておきながら嘘をついていた白神さんだった。おそらく犯人に違いないとは思っていたがいざ本当に来ると少し驚いてしまう。

そんな俺の気などつゆしらずというように、彼女は実に堂々とした姿で教室に入って行って、先輩の席を物色し始めた。俺はその光景を見つつ先輩に連絡を入れた。

「さて……」

俺はそう呟くとその姿をさも見ていないという風に教室に入って行った。

「…………」

教室に入った瞬間白神さんはこちらの方をじっと見つめ俺が出て行くのを待っているようだった。音は透明人間の能力とは関係ないのかそこには細心の注意を払っていた。

俺はそんなことは気にせずにそのまま歩き続け、先輩の席について初めて目を合わせて一言いった。

「…………。やめませんか白神さん」

その瞬間白神さんはあり得ないものを見たと言わんばかりに尻餅をついた。

「な、なんで…………。私が見えているの…………」

「自分も見えなかったらよかったんですけどね」

自分だって見たくて見ているわけではない。なんなら本当に透明人間がいるのなら現れる瞬間をこの目で見たかった。

「これでいいですかね。飛鳥先輩」

「うん!もうバッチリ!新聞部発足以来のスクープだねこりゃ」

教室のドアの影隠れながらこちらを撮影していた先輩が満面の笑みで出てきた。

その映像には突然人が現れるというなんとも奇妙な映像が残されているのだろう。

「あ、あなたは……七条飛鳥……。なんでここに……」

その声の主を見たのだろう。顔面を青くして全く整理が追いついていない様子の白神さんは口を籠らせた。

「私の名前を覚えてくれるというのは大変光栄なことではあるのだけれど盗みは良くないね」

ゆっくりと歩きながら諭すような口ぶりで先輩はふわっと笑った。

その瞬間だった。白神さんは気絶した。

「あらま。耐えられなくなっちゃったのかな。本当は盗みなんてしたかったわけではないのかな?」

「そ、そんな悠長にしてないでくださいよ」

目の前で人が倒れているというのになんとも楽観的だった。変なことをいうのは先輩の悪いくせだがこういうところではやめて欲しい。

「悪い、悪い。とりあえず保健室にでも運ぼうか。手伝ってくれるかな」

俺と先輩は倒れた彼女の腕を肩に乗せて一階にある保健室へと歩いていった。


「落ち着いたかな」

「…………!」

目を覚ました白神さんは自分たち二人の顔を見て目を丸くした。そして一瞬何かを逡巡していたがすぐにそれをやめて肩を落とした。

「…………。あなたたちには私の透明化は意味をなさないのよね」

「ふ、普通に言いますね」

「だって隠す意味なんてないもの。むしろわかっているからこそ私が見えているのでしょうし」

不貞腐れたように言い切った。俺はそれに対しはははと乾いた笑みをこぼした。

「なんで私が見えるの?」

俺の方に視線を向けて来る。

「それは言わないことにします。もう二度と白神さんが能力を使えないようにするための抑止力にするためです」

言ったところで眉唾物。言わないことで抑止力になるのなら言わないことに越したことはないだろう。

「それもそうか……。まあ安心していいわ。もう盗みをする気もこの能力を使う気もないから。バレたらやめようと思っていたの」

先輩が俺の顔を見て来る。俺はそれに対し軽く頷いた。彼女は嘘をついてはいなかった。

「て言うかこの状況にさほど驚いていないってどう言うことなのよ。科学者だって泡を吹いて驚くようなことを目の前にしているっているのに」

「私たちをなめてもらっては困る。超常現象や都市伝説を記事にしているのだから透明人間なんてそのうちの一つでしかないさ。何を驚くことがあるか」

「何それ意味わかんない」

白神さんは少し笑った。そして何かを後悔するように目をつむり、顔を伏せた。

「ではなんでこんなことをしたか聞いても?」

「あそこで張り込んでたってことはそれぐらいわかっているのでしょ?」

「まあ確かにね。でもそれをわかった上でなぜそんなことをしたのかが私は気になったけどね。あなたは別に————」

「ちょ、ちょっと待ってください。探偵が推理パートを放棄して進まないでくださいよ。自分聞いていないんですから」

二人でなんとも納得してしまったと言う空気が流れ、そのまま話が進みそうだったので俺は止めた。

「いや、犯人の方が納得してたしいいかなと」

先輩はあっけらかんと俺に言ってきた。

「困りますよ。話がわからなくなるじゃないですか」

「全く……仕方ないなー」

はーっとわざと息をついてから先輩は佇まいを直した。先輩はベッドで寝ている白神さんに申し訳ないねと一言いってこちらを向き直した。

「今回大事だったのはなんでわざわざあんな時にあんな時間に盗む必要があったかなんだ。ではそれはなぜか。それは『透明人間』と『窃盗』この二つをみんなに結びつけたかったから。そうだよね?」

「ええ。そうよ。私はそこをどうしても結びつけたかった」

振られた白神さんは淡々と答えた。

「なぜか。それはいたって単純で法則性を隠したかったからなんだよね。自分たちはいろんな情報を知っていたから『法則性は何か』と言う風に思考が及ぶが、普通の人ならどう思う?今回の事件は全て透明人間が起こした。それだけでほとんどの興味はそこに費やされる。それに対して誰がターゲットかなんてことは本当に考えないとわからないのなら皆の意識から消えてしまう」

「まあ確かに……。法則性がないのならみんな諦めて起こることにだけしか注目しない。あり得ない状況下で窃盗が起きたらそれが誰だろうがなんだろうが関係ないですもんね」

「そう。皆の視点をずらすことが目的だったわけ。よく考えれば実は法則性はあるのだけれどね」

ちらりと先輩は白神さんの方を見た。感心したと言いたげに首を横にふった。

「その法則性は私の頭の良さが響いた」

「前にも言っていましたけどそれどう言う意味ですか?俺のことをばかにしているんですか?」

「違うわ。推理力の頭の良さではなくて勉強の方の頭の良さよ」

若干キレ気味に聞くと白神さんが割って入ってきた。

「そう。法則は七月に行われた期末テストの順位だよ。特に二年生のね」

「き、期末テスト?」

「うん。その法則に気づくのは大変だったが、詰めが甘かったね、白神さん」

「どうして気がついたの?」

そこだけはわからなかったのか純粋に質問を投げかけた。先輩は得意げに頷いた。

「透明人間の犯行だとわからせるために行った事件を見ても法則性は気づけないんだ。バラバラだからね。だから重要なのは放課後にも盗んでいると言う点。もし透明人間の犯行に見せたいのならその時間に盗む理由はない。つまりそこで盗むのと言うことはどうしても盗みたかったから。そこを見たらなんか見知った名前があったから気になって被害者リストの二年生だけ見て見たら大半が成績上位者だったってわけさ」

「それで偶然にも次のターゲットが先輩だってわかったと言うわけですね」

「そう、私頭いいので。ちなみに前回の順位は9位」

ふんっと息巻いて胸を張った。謙遜するような玉ではないがこうまじまじと言われるとなんか腹が立ってくる。でもここが進学校だと言うことを鑑みると本当にすごいのでなんとも言えなくなる。

「後は日頃気を使っていればほかの人と同じように放課後に盗んでくれると言う算段さ」

「どうりで隙がないと思ったわ。授業中も授業終わっても席を極力立とうはしないし、授業が終わったら全部の教科書を鍵のついたロッカーに入れるとか正気じゃないもの」

確かにそこまで徹底されてはいくら透明人間だと言っても盗むのは難しいだろう。

「ま、私の策にまんまと引っかかったと言うわけだ」

自慢げにそう言うとニッと笑った。

「じゃあ盗んだ理由って……」

「そうよ。想像通り。勉強道具関連を盗んでほかの上位者の邪魔をしようとしたの」

通りで盗んだものがそう言ったものが多いと思った。どうせ盗むならお金とかの金品が主流だと思っていたから少し変だとは思っていたのだ。

「しかし、私は少し疑問なんだよね」

先輩は空気を変えるようにそう言った。

「私の記憶が正しければそんなことをしなければ上位に上がれないほどあなたはそこまで順位は低くはないはず。むしろ私と同じく成績上位者の一人だと思うのだが」

おどけるように先輩は白神さんにそう尋ねた。盗んだ真意は他にもあるのではないかそう問い詰めるために。しかしそれに対して怯むどころか白神さんは睨み返した。

「あら、それは固定概念ではないかしら? あなたは9位で私は13位。そこには4つも順位は違うのだけれど。それに9位が成績上位者? 笑わせないで」

先輩はそう言われると思っていなかったのか目を一瞬丸くし、すぐに顔を伏せた。

俺はそのあとの話をつなぐために言葉を紡いだ。

「でもそこまで勉強の順位に固執する理由があるんですよね。教えてくれませんか」

聞くと白神さんは怖い表情のままこちらを見てきた。

「私は……私は、姉にならなければならないの」

白神さんの表情は酷く歪んでいた。しかし単に歪んでいたわけではなかった。その顔には悲しさと怯えが見て取ることができた。

「今から話すことは本当に個人的な話。聞きたいなら教えるけど記事には書かないでね」

そう自分たちに釘を打つと白神さんはポツリポツリと自分の話をし始めた。

自分には年の離れた優秀な姉がいたこと。そんな姉を自分の母親は溺愛していたこと。そしてそんな姉が事故で死んでしまったこと。

「あなただって知っているでしょ。東海道新幹線脱線事故。あれで私の姉は死んでしまった。その後からだった私の母親が豹変してしまったのは……」

溺愛していた自分の娘を失ったことを信じられなかった白神さんの母親は聖良さん自身に姉を投影させていったのだと言う。

「学校のテストは絶対に一位以外認めないし、少しでも遊んでいようなら私は叱責されたわ。『一葉はそんなことしない!』ってね。私は一葉じゃないのに……」

高校もなんとか入れた学校だった。今までの自分じゃ考えられないくらい偏差値の高い高校。ついていくのにだって必死。そんな中でも母親は一位を求めくる。

「こんな生活続けていたらある時ふと感じたの。愛しているのは、母親の目に映っているのは私ではなく姉なんだって。その時思ったのよね。私が消えればよかったのにってね。そしたらびっくり、本当に消えちゃうんだもん」

その時透明人間の能力に目覚めたのだと言う。

「そこからは……。まあ、ね」

言うまでもないだろうという風に口をつぐんだ。

「ありがとう。話してくれて」

「別にいいわ、これくらい。話してスッキリしたもの」

あっけらかんという白神さんに対し先輩は真剣な眼差しを向けた。

「私はあなたになることは出来ない。だから完全にあなたの気持ちを理解することは出来ない。でも本当に辛くなったら誰かに相談することは大事だ。痛みはなくならずとも分けることはできる。相談する人は誰だっていいんだ。真摯に向き合えば誰だって真摯に向き合ってくれる。私がそうであるように」

俺にいった時と同じようなことを白神さんに向けた。

突然の言葉に驚いたのか少々顔を赤らめた。

「…………。そうね、一人で抱え込みすぎていたかも。なんかありがとね」

そうして白神さんは今日一番の笑顔を見せた。


その後生徒会室にて今後の話をすることになった。電話で状況を伝えた時はあまりの急な展開に驚きを隠せないようだったが、さすがは生徒会長。すぐに切り替え仕事モードになって対応を急いでくれた。

「被害者たちにはすでに連絡をとっています。盗まれたものさえ返してくれれば、盗んだ人に対してとやかくいうつもりはないそうです。皆さん心の広い方達で助かりました」

ニコニコと笑いながらそう告げる霧島先輩を見て改めて彼女は生徒会長に足る人なのだと感じた。ここまで迅速に全ての人に許可をとることなんて相当な人望がなければ成せることではない。彼女はなるべくしてなったのだなと俺は思った。

一方で白神さんは盗んだ人たちに誠心誠意謝りたいといっていたが、昨今の情勢を鑑みてそれはやめたほうがいいと諭されていた。

「その心意気だけを被害者の皆さんに伝えておきます。私としてはあなたが犯人だと皆に知れ渡ってしまうことはどうしても避けたいのです。被害者の皆さんが言いふらすような人ではないとは思います。でもどこからその情報が漏れるかわかりません。人は脆いものですから……」

人は脆い……、その言葉にひどく共感した。

話の種になることなら何でも話してしまうのが中高生の悪いところだ。『実は今回の犯人ってさ——』なんてことを悪意など一切なく淡々とやってのけてしまう。その人がなんとも思っていなくともそれは噂になり、広まる。そうして正義を振りかざす人たちによっていとも簡単に潰されてしまうだろう。確かに白神先輩がやったことは到底いけないことだが、反省してもう二度とやらないと誓っている彼女に対し誹謗中傷をするというのはもっとやってはならないことだ。だからそれを避けるためにも対面で会うのは避けたほうがいいというのは的を射ていた。

「そういえば、今までの事件どうやってやったか教えてもらってもよろしいですか?私口外しませんので」

「いや、まあ……。別にタネも仕掛けもないんだけど……」

透明人間が本当に実在すると露にも思っていない霧島先輩からしたら今回の事件は確かに謎だらけだろう。とはいえ白神先輩は正体を明かさないと約束をしているので頑張って取り繕ってもらうしかない。少々不憫だとは思うが、自分たちは静観するしかなかった。

白神先輩には能力のことは黙秘を続けてもらうことにした。透明人間がいるということが噂になるだけならいいが、実際にいるとなると話は違う。こんな物理法則を無視した力など研究者が聞いたら黙っちゃいないだろう。もし、どこぞの研究者に嗅ぎつけられ、研究所にでも入れられてしまったらその人の人生は終わってしまうかもしれない。一生涯かけても研究し尽くすことだろう。さっきの話ではないが、確かに霧島先輩が誰かに言うとは考えにくい。生徒のことをこれだけ考えている人だ。不利益を被ることになるとわかってしまえば是が非でも守り通すだろう。

しかしことは人間の話ではもう無い。

透明人間になることも、どんな嘘でもわかってしまうことも普通の人間ならばあり得なことだ。そんな自分たちはいわば『化け物』だ。化け物を知っているのは化け物だけでいい。知らないほうが絶対に幸せだ。

だからこれは俺と先輩との秘密にすることにした。

「少し取り乱しましたが、この度はありがとうございました。芹沢さん事件解決にご協力していただき感謝しています。七条さんも今日はありがとうございました。あとはこちらでやっておきますので今日のところはおかえりになってもらって構いません。また困ったことがあったらぜひよろしくお願いしますね」

深々とお辞儀をしてきた。自分たちもそれに応え、深々とお辞儀をした。そうして出て行こうとした時先輩が思いついたかのように振り返った。

「そう言えば聞きたかったことがあったんだ。今出回っているあの映像、わざと撮ったってことでいいのかな?」

「ええ。たまたま電源がついていた映画部のカメラにたまたま透明人間が映るはずないでしょ。自作自演よ。みんなに透明人間がいるって知れ渡らせるためにね」

「まあ、だよね」

先輩は少し笑ってそう呟いた。

自分たちはこの事件を聞いた時から犯人が透明人間であるということに疑いはなかった。だからどんな仕掛けを使ったのか、この時間に動ける人はいるのか、なんていう過程を省くことができた。それはなぜか。理由は単純で出回っている動画を見たからだ。

都市伝説に目がない先輩のことだからすぐにでも噂の動画を入手してきた。そして意気揚々とこれが本当なのか確かめて欲しいと言ってきた。腐っても嘘がわかる力を持っている自分だ。それがミスディレクションを狙って作られているものならどうしようもないが、種か仕掛けがあるのならそれに気づかないはずがなかった。マジックなどの大半を自分は楽しめない。だからどうせ自分の目には見えたままですよと言ってその動画を見たら案の定見えたままだった。ただ単純に一人の生徒が淡々と廊下に現れ、淡々と歩いて消えていく姿だけが自分には見えた。しかしその映像はかなり奇妙なものだった。なぜならそこには一切の種も仕掛けも存在しなかったからだ。種も仕掛けも存在せず、他者の目にはその人が映らない。そんなことができるのは能力以外に説明がつかなかった。その旨を伝えると先輩には「嘘がわかる能力者がいるなら、透明人間になる人がいたっておかしくはないでしょ」と言われてしまった。確かにその通りだがこんな身近にいるとは思わない。ただそんな御託は置いといて、その映像を見たとき自分の中で一つのことが明らかになった。それは、

『誰かの能力を自分は可視化することができる』

ということだった。

正確にいうのなら『超能力は自分にとって嘘』という扱いなのだろう。

そんなものがこの世に存在するはずがないから。

『超能力』などこの世に存在していいはずがないから。

だからそれらは『嘘』なのだ。

自分でこの変な能力を持っていながらそんなことを思っているなど自己矛盾も甚だしいが、そういう認識なのだとその時に気づいた。

先輩はその話を聞いた途端何かを納得したと言った感じに考え事に耽っていた。

「それじゃ、失礼しますね」

「はい」

生徒会長の満面な笑みで見送られながら自分たちは生徒会室を後にした。

いざ終わってみるとあっという間だった気もした。ひたすら待たされたあの時間は苦痛ともいえたが、あちらこちらに取材行くよりかはよっぽど体力を使わないから、楽といえば楽だった。俺としてはそんな感じで若干の休憩といった感じだったが、先輩はこの間やたらと忙しそうにしていた。部室についても先に行ってて、という風に何やら書類をたくさん作っている様子だった。あの先輩が率先して新聞の大枠を作ってますということはあり得ないので自分のことをやっていたのだとは思うが一体何をしていたのだろうか。

「明日からはまた新聞作成ですね。今回は大スクープですからね。いつもよりも気合い入れて行かないと」

聞いて見てもいいが大した返答は期待できないだろうなと思い、やめた。

「そうだな。ただ、プライバシーに関わってくることだから慎重に映像は扱わないとな。モザイク入れたり、声を消したり、あとは————」

そんな先輩の声を聞きながら、またいつもの日常が戻ってくるなと思い、部室へと帰って行った。


「QRコードにするというのは存外難しくないのだな」

「そうなんですか。自分やったことないんで知りませんでした」

あの一件から約一週間がたった。自分たちは透明人間の新聞作成に心血を注いでいた。今までほとんどがいない、ない、偽物、幻覚で処理していた新聞だったが今回はバッチリその瞬間を収めることができたから気合が入っている。

ところで全校生徒に透明人間の存在を知らしめてもいいのかという疑問もわくかもしれないが、たかだか新聞に対し本気になる人はいないから問題はない。有名なSF雑誌月刊〇〇を読んでも全世界の人々がUFOを信じるわけでもなければ、陰謀論でデモが起こることはない。それが生徒の新聞となればなおさらだ。生徒会長の時に言わなかったのはその信用度が違うからだ。実際目にすることと紙面で伝わる情報を見るのではほとんどと言っていいほど違うものがある。あり得ないことは疑いの眼差しから入るのが普通だ。自分が同じ立場だったとして、動画に嘘がなかったとしても完全に信じることはないだろう。

知っている身である俺は、本当のことなのに誰も信じないのだろうな、なんていう少々歪んだ楽しさをもとに新聞を作っていた。

コンコン。

そんな新聞作成の真っ最中に新聞部のドアが叩かれた。

あの日が例外だっただけで、こんな辺境の地にあるこの部室に誰かが訪れるということはほとんどない。だからなのか少々身構えてしまう自分がいた。先輩の方もなんだか強張った表情をしていた。

「こんにちは。すいませんね。少し失礼します」

「あ、どうも」

そんなに意識することはなかった。ドアの前に立っていたのはほかでもない生徒会長霧島花苗だった。普通に考えればこんなところに訪れるなんて生徒会長以外にはいないだろう。

「また事件の捜査ですか?」

そう何気なく聞くと霧島先輩は笑った。

「やっと半月ぐらいかかった事件が解決したんだ。そうなんども事件が起きていては私たちの身がもたないよ。今日はそれについて少し話があってだね————」

そうだ。事件はもう終わった。犯人は捕まえたし、透明人間による窃盗はもう起きることはない。俺と同じような力を持つ人が出てきたというのは驚いたがもう出てくることはないだろう。事件は終わった。だからこれからはいつもと変わらない日常を歩む。

「あ、七条さん。あなたも新聞部だったんですか。例の件お聞きにはなったと思いますが口外は避けてくださいね」

事件はもう終わった。犯人は捕まえたし、透明人間による窃盗はもう起きることはない。俺と同じような力を持つ人が出てきたというのは驚いたがもう出てくることはないだろう。事件は終わった。だからこれからはいつもと変わらない日常を歩む。

そのはずだ————。

「えっ…………?」

俺は大きな声でそう口にしていた。どういうことだ?霧島さんは何を言って————。

「そうなんですよ!」

そんな俺の反応をかき消すように先輩は大きな声で話に割って入ってきた。

「私あまり新聞部には顔を出していなくて……。今回の一件に関われなくて本当に申し訳ないです。少し家の問題がありまして……。もちろんプライバシーの問題はわかっていますよ。高校生といえどメディアの端くれですから。それで話というのは?」

その内容はとてもではないが信じられないようなものだった。この一件に関して顔を出していないはずがない。俺がこの間ずっと見てきた先輩は偽物だったとでもいうのだろうか。いやそんなはずはなかった。だって先輩は嘘をついていたからだ。今行った内容は全て嘘だということがわかった。

………………先輩が嘘をついていた?

「いえいえ。生活というのは人それぞれですから。部活をメインに実生活をおろそかにするのは間違った考えだと私は思っていますので。まあプライバシーのところだけはお願いします。それで話というのは————」

生徒会長は生徒会長で本当に何事もないように話を進めていった。

これが嘘であるなら俺のことをからかっているという何とも陳腐なドッキリで終わる話だ。ドッキリのためとはいえ先輩が嘘を着くのは納得がいかないが、その方が俺にとっては冷静さを保つことができる。でも事実は時に残酷だった。

「新聞部は一人だと存続が危ぶまれますけど、七条さんがいるというのなら大丈夫ですね」

なぜなら霧島先輩は一切の嘘なんてついていないのだから。

「どういうことだ……」

心に留めておこうと思っていた悲痛な叫びが俺の口からこぼれ出した。ただその声はあまりにも小さく、彼女たちの会話を中断するには至らなかった。俺のこの茫然自失とした状態の中話は淡々と進んでいった。

先輩は嘘をつき続け、生徒会長は嘘を一切つかないで。

「伝えたかった用事は今の話で以上です。急ぎだったためにまだ生徒会室にも寄らないまま来ているのでここらで失礼します」

こんな状態の自分に話など入ってくるわけもなく、気がついたら話が終わっていた。霧島先輩が出ていくに際して反射的にお辞儀をして見送った。かつてないほど心のこもっていないお辞儀だとその時思った。

ガチャっとドアの閉まる音を聞いた後暫くの間沈黙が流れた。

俺に先輩の方を振り向く勇気はなかった。相手もそうなのか視線はまったく感じなかった。しかし何か行動を起こさなければこの状況を打破できることはできないということもわかっていた。いくら嘘がわかろうともそんな都合の良いものなどこの世には存在しない。

「えっと…………」

そうは思っていても口から出たことといえばただの疑問符。当たり前だった俺自身が全く整理などついてないのだから。何とか言葉を紡ごうと四苦八苦しているさなか後ろから声がした。

「…………もう、いや。やっと、かな」

声のする方を振り向けばこちらの方をじっと見たまま動かず、何ともいえない笑みを浮かべた飛鳥先輩がそこに立っていた。

「聞きたいことは山ほどあると思う。私も話したいことは山ほどある。だからあの日の約束、今日その約束を果たすということでいいかな」

あの日の約束。宿泊研修の時先輩が俺に言わなかった先輩の隠し事。それをいつか話すからその時まで待ってほしいというもの。それを今日話すということなのだろうか。このタイミングで。

「結局私には勇気がなかったよ。いや、嘘だね。そんなのは分かり切っていたことだから。こうにでもならなければ話す勇気なんて出てくるはずなんてないのに。だから心の何処かでこうなってしまうことを望んでいた。ははは、私はとんでもない嘘つきだな」

涙が出そうな声と笑顔で先輩は自分のことを罵った。

「海斗くん。こんなどうしようもない先輩の話を聞いてくれるか?」

その質問に俺は少し戸惑った。いつもならすんなりと言えた、勿論ですの一言が喉からうまく出なかった。その理由は少し考えれば簡単だった。

「なんで……。なんで今まで言ってくれなかったんですか……」

俺は少し怒っていた。俺に一人で抱え込むなとあれだけ言ってくれた先輩自身が俺と小野路、いや俺よりも大きいだろう悩み事を抱えているなんておかしな話だ。確かに俺は発作が起こるまで話さなかった。状況としては同じだ。だから俺が先輩のことを言えた立場じゃないことは重々承知だった。それでもこんなことになるまでに言って欲しかったというエゴが俺の口からこぼれていた。

「…………ごもっともな意見だ。君が勇気を出して私に言ってくれた時私も言うべきだった。ただね、私は怖かったんだよ。何かが変わってしまうと言うことが…………」

先輩はそこで口をつぐみ、そして一つ息をはいた。

「ここで話すには少し場所が悪い。とてもじゃないが部室で話すような話じゃないしね。だから、今日の夜私のマンションにきてくれないか?話すにはうってつけの場所があるんだ」

そう言うと先輩は周りに散らかした自分の荷物を片付け始めた。

「今日の部活はここで終わりにしよう。当然だがこんな状況でいいものは作れない」

いつものように笑って見せた。そして片付け終わったのかバックを肩にかけ、立ち尽くす俺を横切り部室の前まで歩いて行った。

「本当に勝手な先輩だな、私は。でも…………そんな先輩をどうか許してくれよ」

先輩は部室を出る前に一度立ち止まった。

「私は君が思っているほど強くはないんだ」

そう一言だけ言い残し、先輩は部室を後にした。

「………………」

俺は一人残されたその部屋で先輩の言葉を何度も、何度も噛み締めた。



あるところに普通に暮らす、普通の女の子がいました。

彼女は家庭に恵まれ、何不自由のない生活を送っていました。

だからこそ彼女は一回だって何かを願った事はありませんでした。

それは欲しいものがあればなんでも買ってくれたからでもなく、したいことがあればなんでもさせてくれたからではありません。

ただ彼女には願うだけの欲がなかったのです。

彼女は生きているだけで幸せだと感じていたのです。

しかし彼女は一回だけ、人生の中で一回だけ願ったことがありました。

叶うはずもない、叶うことなどありえない願い事を。

欲のない彼女を憐れんだのか、それともただの気まぐれか。

名前も顔も存在自体も知らない何者かがその願いを叶えてあげることにしました。

それはありえてはいけないから、ありえない方法で。

叶えたものは思いました。彼女はきっと喜んでくれると。

しかし彼女は泣きました。大いに泣きました。今後一切の涙が出ないほど。

それは果たして喜びによるものだったのでしょうか。

果たしてそれは本当に叶えてよかったものだったのでしょうか。


夜十一時。またもやこんな時間に家から出かけることになるとは思わなかった。とは言え夜道を自転車で走るというのは存外気持ちがいいものだ。それでもあの日、初めての部活動の時のようにはペダルは動かなかった。それでもペダルをこがないということはしない。あの後様々なことを考えていたが結局は先輩の話を聞かなければ何も始まらないし、終わらないという結論以外が出てこなかった。俺は聞くのだ。それ以外の選択肢は存在しない。

いつも通っている学校の横を通り過ぎるとその目的地の場所が目に入って来た。改めてみてもやはり大きなマンションだ。夜なだけに当然のようにライトアップされていて、その荘厳さに拍車をかけていた。エントランス付近にたどり着くとそこには私服姿の先輩が立っていた。黒のロングスカートに白色のインナー、ベージュのカーディガンを見に纏っていた。いつもより少し大人びて見えた。

「来てくれたか。よかった。正直な話来てくれるかすごく心配だった」

「ライン返したじゃないですか。自分嘘はつきませんよ」

「大丈夫ですという日本語は難しいから。多用は厳禁」

あのあとポツリポツリと一人帰っている中先輩からラインが届いた。「夜来て」と言っただけで時間指定をしていなかったからその旨を伝えるものだった。それに対し「大丈夫です(わかりました)」と返したのだが確かに意地悪な言い方だったかもしれないと今更ながら思った。

「まあいいや来てくれたことには素直に感謝なわけだし、そんな言い合いをするために読んだわけでもない。それじゃ、行こうか」

連れられるままにエレベータに乗せられた。どこに行くのかと思っていた横から声をかけられた。

「それじゃあ屋上の展望デッキに行くからそこのRボタン押してくれる?」

31にもなるボタンパネルの中に一つだけRとだけ書いてあるボタンがあった。俺は言われるがままに押してみる。しかしいくら押しても反応していないようだった。

「故障ですか?」

「ふむ、ではこの鍵をここに刺して回して押してみるか……」

するとさっきまでついていなかったRのボタンが光り出した。

「最初からやってくださいよ」

「それじゃつまらないじゃないか。せっかくこのマンション住んでいる人限定で屋上の展望デッキにいけるようになっている仕組みなんだから。驚かせてなんぼでしょ」

ブーブーという先輩は不満をあらわにした。そんな反応を他所にこのエレベーターに乗ること自体鍵のかかったエントランスを通り抜けた人しか乗れないというのに、その仕組みは果たして必要なのだろうかと純粋な疑問が湧いた。そんな些細な疑問をすっとばす様にエレベーターはかなりのスピードで上昇していった。さすがは高級マンションのエレベーターだ。ものの数秒で31階分を駆け上がった。

「着いたね」

チンという音ともにエレベーターのドアが開かれた。着いた先にはシックで大きな一つの部屋が広がっていた。その部屋の周りはガラス張りになっていて自分たちの街を一望できた。ライトアップされたあの巨大な楠もここから見ればただの木だ。当然だが全てが小さく見える。だからこそその聡明さがあらわになる。しかしこんなにも綺麗なこの街の夜景を要ることができるのはこのマンションの住人ぐらいなのではないのだろうか。全く贅沢な話だ。

「うおっ……」

エレベーターから出て歩くと地面がふかふかしていた。よくみると地面は絨毯が敷かれ、いたるところに座れる椅子みたいなものがあった。そして何より目に入るのは中央にでんと構えられた巨大な展望台だった。おそらくあのレンズを覗いた先には全く自分たちが関与する余地もないほど広い世界が広がっているのだろう。

「建設当初はかなりの人気で住人とは言え予約をしなければ入ることも叶わなかったらしいよ。けど今じゃ無制限解放。なのにみれば分かるけど誰も来ちゃいない。わたしここ結構好きでよく来るんだけど人がいるとこ見たことないや」

「星が好きじゃないとここ屋上ですし、いちいちくるのが面倒臭いというのはありそうですけどね。他にも無制限解放になったことを知らない人とかいてもおかしくない規模のマンションですし、もしかしたまだ申請する必要があると考えている人もいるかもしれませんね」

「どちらにせよ全く勿体無いね。こんなに綺麗だというのに。どう?いいでしょここ」

「そうですね……。本当に綺麗だと思います」

先輩はつぶやきながら窓の外を眺めた。俺もそれにつられて窓から外を眺める。本当に綺麗だと思う。東京の夜景は働く人たちでできているとよく聞くが、ベッドタウンのここから見ることができる夜景の一つ一つは家族がもたらした光によってできている。俺がここの住人だったら毎日とは言わないが頻繁に来ていたかもしれない。そしたら先輩に違う形であっていたのかもしれない。

「ま、ここの話はこれくらいにして話そうか」

先輩は手近にあった椅子に座りこちらを向いた。俺もそれに従い先輩の真向かいに腰をかけた。

「嘘がわかる君に聞く。今日起きたこと、とりわけ霧島さんの言動に嘘はあったかい?」

「ないです」

俺はきっぱりとそういった。霧島先輩はこの関わっていた間、一回だって自分たちに嘘をついたことはない。俺に嘘がわかる力がなかったとしてもそう答えるだろう。

「うん、そうだ。彼女は一切嘘をついていない。でも変なところはあった。そうだろ?」

「はい。確かに霧島先輩の言動に嘘はありません。だからこそ変でした」

話していた内容を考えれば事件全体のことを忘れているわけではない。でも先輩のことは忘れている。他にも忘れている人がいるかと思ったがそれもいなかった。それらをまとめると————。

「霧島先輩の記憶から飛鳥先輩の記憶だけが全て抜け落ちている。これが考えうる変な部分です」

誰の何が作用してこんなことになっているというのか俺には全くわからなかった。それが仮に目の前にいる先輩が起こしたものだと考えてもその意図が全くわからなかった。

「ほぼ正解。でも厳密にいうと私の『記憶』を失っているわけではない。私との『思い出』が消えているんだ」

「思い出が消える……?」

理解が追いつかず俺はその言葉を繰り返した。すると先輩はにこりと笑ってこちらを見て来た。

「君が『嘘がわかる』能力者なら、私は『私と関わった人の記憶から私との思い出を失わせる』能力者というわけさ」

はははっと笑った。

「これのせいで事件自体引き起こすのも大変だったんだよ?私がターゲットのはずだけど翌日になったら私のこと忘れちゃう。だからすぐにでも実行してもらうための資料に工夫が必要だったからね」

さも当たり前かのように先輩はそんなことを言う。何が怖いか。そこに一切の嘘がないことだった。

「誰と何を話そうともその内容を覚えている人は翌日には誰もいない。誰と何をやろうともそのことを覚えている人は翌日には誰もいない。…………それが私の日常」

口元だけが笑っていて、目元は一切笑っていなかった。

「誰も私を覚えてくれない……。誰も私を見つけてはくれない……」

はーっと息を吐いて先輩は俯いた。

「だからね、ずーっと疑問だったんだ……」

俯いた顔を上げこちらをじっと見て来た。

「君は一体何者なんだってね」

先輩は笑いながら涙を流し出した。


しばらくした後先輩は自分の置かれた状況をポツリポツリと語り出した。

「私は日をまたぐ度、私と関わった人たちの記憶から思い出が消えてしまう。いるでしょ、クラスに一人くらい一言も喋らない人って。私はどんなに1日いろんな人とか変わろうとも次の日になればその人というわけ。だから生徒会長が、私があの事件に関わっていないと思うのは当たり前のことなんだ。残念なことにね」

「……でも、先輩だけの記憶が抜けても事件自体は起こっていて解決していますよね。整合性ってどれだけ取れているんですか。部員の数とかおかしな点はいくつも出てくると思うのですけれど……」

聞けば、呆れたような顔を先輩はした。

「そう思うよね。でもそれがこの能力の醜くも素晴らしい点なんだよ。簡単に言えば、1日経った後一番この世界に影響が出ない形で皆の記憶を変化させることができる」

「えっ…………」

先輩は平然とありえないようなことを言ってきた。

「これはまあ不思議なもんだ…………。私でさえその力の及ぼし方は予想がつかない。月並みではあるけど、今日私たちの部活には何人来てた?」

「えっ……。自分含めて先輩だけなんで、二人ですよね」

当たり前のように返す。でも先輩は少し笑っていた。

「そうだね。私たまにこう言うこと聞くよね。でもいい加減不思議だと思わない?もう半年も私たち以外部活に来ていないのにそういう言い方するのってさ。まるで『今日』は来なかった。みたいな言い方だよね」

それを聞いてまさかと思うことが頭の中をよぎった。

「じゃ、じゃあ本当に他の部員たちは別に来たくなくて来てない訳じゃなくて……」

聞くと先輩は少し黙って目を逸らしながら続けた。

「…………。私の能力のせいなんだ。いやまさか驚いたよ。入部届けを部室に持って行ったら誰一人としていないんだから」

はははっと乾いた笑い声を出した。それに対して俺は目を大きく開け、固唾を飲むしかなかった。とてもじゃないが合わせて笑うことなどできなかった。

「私が入部すれば毎日部活動に行くことになる。私の名簿や作った新聞、私物なんかの事実を消すことまではできないから行けば整合性を保つためにある程度の私との思い出を思い出す。それでも当然その翌日には私を忘れる。そんなことを延々と続けてしまうとこの世界においては影響が出続けてしまう。だからこの力が出した答えは、私以外の部員から自分自身が新聞部員でないという風に記憶を書き換えるということだった」

重々しく先輩はそう言い切った。

「私が入って毎日忘れられたとしても、毎日が新入部員だったとしても私は耐えるつもりだった。そうすればいつか変わるだろうと思っていたから。でも……でも、そんな風に記憶を帰られてしまったら…………」

もはや、意味がないと掠れた声で付け加えた。

「私にとってその人たちは大切な人たちだったんだ。こんなやさぐれていた私を変えてくれた。だからそうなってしまったとわかった日には本当に悔いた。私があの場に行かなければ、私があの時勧誘を断っていれば、こんな私なんかが入ろうなんて思わなければ……」

ずっと心の中に秘めていた悲痛な叫びが先輩の口からこぼれた。聞いてもらえる人など先輩には存在しなかったのだろう。そう思うと本当にこちらの胸まで締め付けられた。

「でもね、私は諦めなかった。私がその日以降部活にいかなかったとしても状況は何も変わらなかった。だから毎日くることにした。新聞も先輩たちの杵柄を用いながら必死に一人で作った。いつか、何かが変わると信じて」

そう言い切って先輩はこちらを見て来た。

「そしたら君が現れた」

「あっ……」

思わず声がこぼれた。

自分の人生は自分でしか推し量り、見ることはできない。だから俺が何と無くあの日あの場所に行き、何と無く勧誘を受け、その部に入ろうとしていた背景にこんなことがあるなんて当たり前だが想像なんてつかない。あの日を思い出せば、思い出すほどその一つ一つが先輩の努力の結晶だと思うとこれ以上に言葉が出てこなかった。。

「言ったと思うが最初はただの先輩たちの真似事をしていただけだった。でも聞けば聞くほど君が私に似ているものだからどうしても救いたくなった。たとえ明日私のことを忘れたとしても何かが君に残ればいいと」

そう言う先輩の表情は本当に柔らかかった。

あと何時間もしないうちに忘れられてしまうかもしれない、そんな状況だというのにあれだけのことを心から嘘偽りなく言える先輩が俺には本当に眩しく見えた。

「新入部員を含めた部活動開始のあの日、君が現れた時は何が起こったか一瞬理解できなかった。夢でも見て居るのかと本気で疑ったさ。だって、今まで言っている通り私のこの変な力に例外なんて存在しなかった。誰でも等しく夜の12時を回れば私との思い出は消えてしまう。だからそこに居るはずも、来るはずもない人がそこに立っているなんて状況、想像つかなかったんだよね。思わず絶句してしまったよ」

その時を思い出すかのように驚きながら先輩は少し笑った。俺はその顔を見ながら少し言葉を付け加えた。

「でも…………。俺は忘れませんでした。どんな理由があれ……」

俺に嘘がわかるという変な力がなかったとしたら一体どうなっていたのだろう。真っ先に思いつくのは先輩のことを思い出せずにこの部に入ることはなかった。でも、それはもはやそれすらも机上の空論にすぎない。まず力がなければ俺の人格はここまで歪んでいることもないからあの場所に行くことはなかった。それ以前にこの学校に入っているかも怪しい。なんにせよ飛鳥先輩と会うということは絶対になかったと言える。

これを一言で表すのならなんの言葉が正しいのだろう。

偶然も必然もなんとなく違う気がした。

「そうだね、君は忘れなかった。だから、だからその日から君は私の希望であり、憧憬であり、私を私たらしめてくれる存在になったんだ」

「お、俺は————」

そんなできた人間じゃない、と出かけた言葉を飲み込んだ。

俺が先輩に懐いていた感情全てを先輩も感じていた。ならばこの言葉を言うことはふさわしくない。

そんな人間ではない、そう思っていた。でも目の前にいるその人の希望であるのなら自分を変えていけばいい。自分がそういう人間であるように。

虚勢をはるわけでも、自分を偽るわけでもなく、そうなろうと努力をしてくれていた人がいた。俺がこの言葉を言うということはその人を裏切ることになる。

だから言い直した。

「俺は、俺は先輩にとってそんな人間になれていましたか」

「勿論、そう言うまでもなく完璧にね。真摯に物事、特に私と向き合ってくれていた。そこに事実を知る、知らないは関係ない。そうあることが私にとっては何よりも嬉しいことだったから。だからこそ、君にはこのことを言えなかった」

少し笑った顔を曇らせながら先輩は続けた。

「言ってしまったら……何かが変わってしまう気がして。君が私から離れてしまうかもしれない。今日に限った話じゃない。私は一日だって君が私のことを忘れていないか心配じゃなかった日なんてないのだから」

先輩は弱々しくそう言葉をしめた。そんな姿を見ていたら自然と自分がするべきことが見えた。俺は先輩の悲しむ顔を見たくないと何度も思っていたら。

「でも、飛鳥先輩…………」

人から忘れられてしまう。

それがどれほど怖いものかを俺は知らない。どれほどの悲しみを負うのかを俺は知らない。だからその悲しみを共有することはできない。どんな言葉を用いて励まそうとも同情しようとも、苦しみを減らすことはできない。それは自分がよくわかっていた。同じく打ち明けることのできない悩みを抱いていた自分にはわかった。

だから俺はたった一言だけを言う。

実に当たり前で、改めて言う必要などないその言葉を。

もう二度と先輩を悲しませなんかしないために。

「俺は絶対に飛鳥先輩のことは忘れません、何があっても」

午前十二時七分。

全世界がある人を忘れてしまう時間。俺は堂々と言い放った。

自分の目の前にいる、自分の目の前で笑いながら泣くその人を忘れないで。

先輩は驚いた顔をした。そして笑って、そして泣いた。

きっと待っていたのだろう。この言葉を言ってくれる誰かを。

そんな人はいないと思っていながら。でも確かに信じ続けて。

「ははは。君は本当に面白い人だ……。本当に、本当に—————」


その後しばらく二人で夜景を眺めていた。

こんなにも綺麗だと言うのに本当に誰も来る気配はなかった。それは好都合で、様々なものを落ち着けるには十分な空間だった。

そして帰ろうかと提案したところもう遅いから自分の家に泊まっていけばいいと先輩は切り出した。時計をみれば時間はもうゆうに午前一時を過ぎていた。あれからもう一時間も立ったのかという気分になったが、それだけのクールタイムが必要なことだったとも言えた。午前一時。確かに帰るにはもうあまりにも遅い時間だった。家に帰ったとして叱る人はいないものの、道中で叱る人に出会ってしまっては都合が悪い時間だ。こんな時間に出歩いている正当な理由なんてものはないし、自分は未成年。当然されてしまうであろう補導で祖父たちに面倒かけるのは嫌だと言うのも事実だった。ただ、それら全てを踏まえた上でも男が他所様の家にこんな時間に押しかけて家主と一夜をともにすると言うのはどうしても倫理観的にどうなのかと言うのが俺の中で阻んだ。だから断ろうとしたのだが、最終的に折れることになり先輩の家へと向かっていた。

「言ってしまえば今のは全て建前だ。泊まって欲しいと言うのは私のわがままだと思ってくれ。…………一人で寝るの、不安なんだよ」

そんなことを言われてしまったら折れるしかなかった。

 屋上から25階まで降りて、先輩の家にお邪魔することになった。家に入ると月並みだが人の家の匂いが鼻を掠めた。なんでこんなにも自分の家と違うのだろうと不思議に思う。入って見て、マンションの外装に見合うものがあると感じた。高級マンションの一室とだけあって玄関からその荘厳さは目に入った。中に入ればマンションとは思えないほど大きなリビングとキッチン、部屋数に圧倒された。一体家賃はいくらなんだと嫌な感想まで浮かんでしまった。

「ここでしばらくゆっくりしてて。私涙で顔ぐしょぐしょになっちゃったからお風呂入って来るね。あ、間違えても覗かないでよね」

当たり前じゃないですかと先輩の冗談にひらひらと返す。あれだけの冗談を言えるならば少しは回復したのかなと思いつつ、言われた通りリビングで落ち着くことにした。落ち着くとはいえ、スマホで見ることなど何もないから悪いとは思いつつも部屋に目を向けることにした。見渡したところ大きなテレビに高そうな絨毯、そして今座っているソファーが一つだけのリビング。カーテンもあるが備え付けのものと言う感じに簡素なものだった。隣接している和室もほとんど使われていないのか装飾品の類はなく、ただそこに空間があると言った感じだった。その時思った感想は自分の家と似ているなと言うことだった。いい意味で洗練されている、悪い意味では生活感がない。先輩はともかく他の家族はどうなのだろうかとよぎった。

「ふっー。気持ちいい。お風呂というのはやはり日本を代表する大事な文化だね」

「古代ローマの方が歴史的には古いのでは」

「細かいことはいいのさ。日本といえば銭湯というのは他の国にもある概念でしょ」

湯から上がった先輩がタオルを頭にかけ、寝間着と思しきもこもことした服を着て出てきた。いつもと違うその姿になんとも目のやり場に困り顔を背けた。

「カイトくんも入って来るといい。家で入っただろうけど、君も疲れただろ」

正直な話さっきのやりとりで流した変な汗や疲れを取りたかったのは事実だった。申し訳ないと思いつつもシャワーを浴びたかったのでその申し出には一つ返事で応えた。

浴室に入ると先輩が入っていたから湯気や熱気なんかがそのまま残っていて少々緊張してしまったがすぐに邪念を払い、お風呂というものに専念することにした。

「下着とかの着替え置いておくね。お父さんのもので申し訳ないけど」

「あ、ありがとうございます」

見えているはずはなかったが、もろもろ隠しつつそう先輩に声をかけた。正直自分の服で全然問題なかったが、持ってきてくれたのなら甘んじようと思いそう返事をする。ただ時間的にも疲れすぎていてあまり脳が働いていないというのもあった。そして風呂から出て用意された服を着てまたリビングに戻った。

「お、丁度良さそうでよかった」

「そうですね。なんか色々ありがとうございます」

「まあわがまま聞いてもらってるし、これくらいはね。それじゃあもう寝よっか」

そういって歩き出した先輩の後ろ姿に声をかける。

「俺どこで寝ればいいですかね?」

これだけ部屋があれば客室とまでもいかなくても物置部屋くらいはありそうなものだ。そこで寝ればいいそう思って聞いたのだが先輩はやけに呆れ顔でこちらを振り向いた。

「やれやれ私は言ったじゃないか、一人で寝るのが不安だって。なんで別の部屋で君が寝るんだ。行くぞ」

「えっ……それはまずいですよ。まあ、自分この家にいるってことで折り合いをつけましょうよ」

この状況ですら少しまずいと思っているのに同じ部屋で寝るなんて流石に避けるべきだと思った。しかし先輩は一歩も引かないという風に俺の手をぐいっと引っ張った。

「私が来いと言っているんだ、なんの問題もないだろ。それとも何だ、君が私に何かするつもりなのか?」

「そ、そんなはずないじゃないですか!わかりましたよ……。行きますよ。でも自分は先輩の部屋の地べたで寝ますから。そこだけは譲れません」

「よし。交渉成立だな」

なんとも不利な交渉を成立させて先輩の部屋へと向かった。そして先輩は部屋に入り電気をつけた。

「うわっ……。すごい……」

入った瞬間に目に入ったのは壁に張り付くようにある本棚だった。ガラスの扉の向こうには所狭しと様々な本が並べられていた。そのほかはベッドが一つそして学習机というこれまた簡素な部屋だった。

「女の子の部屋というには堅苦しいよね。でも誰からも忘れられてしまう私にとって知識や努力による蓄積だけが裏切らないものだったんだよ。だから運動とか料理なんかのある程度のことはなんでも出来ちゃう」

すごいでしょと悲しそうな顔で自慢げに先輩は俺に言ってきた。それを聞いて自己紹介の時に言っていたことはそういう真意があったんだとふと思った。自慢ではないが自分たちの学校は県では有数の進学校だ。その学校で学年順位が一桁というのは余程の天才か努力家だ。先輩がその順位を取っているというのにも納得がいった。

「別になんとも思いませんよ。多種多様の時代ですから。特に飛鳥先輩がいかにも女の子の部屋だったらむしろ驚きますね」

「それは馬鹿にしているのかな」

なんていう軽口を叩きながら先輩は寝る準備を始めた。しばらく待っていると敷布団と毛布を奥のクローゼットの中から出してきてくれた。

「あんま使っていないから埃ぽかったらごめんね」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ。ありがとうございます」

もらったものを地面に敷き寝る準備を整えた。その間に色々済ませた先輩がベッドに横たわった。

「それじゃあ寝ようか」

「そうですね」

その言葉を皮切りに部屋の電気が消えた。

「…………」

「…………」

目を瞑りしばらく経ったが当然ながらなかなか眠れなかった。感覚器官を一つ潰すと他が敏感になってしまうというのはよく聞く話だがそうらしい。耳から入ってくる様々な音が俺を刺激した。なんとか気にしないようにしながら寝ようと思い寝返りをうつと後ろから声が聞こえた。

「海斗くん起きてる?」

「…………まあ」

先輩は修学旅行みたいなノリを自分の部屋でし始めた。この状況だ先輩も寝付けないのだろう。このまま答えず寝たふりをしようか迷ったが乗ることにした。

「思ったんだけど明日学校なくてよかったよね。一緒に家から出てきたらかなりまずかった気がする」

「この状況がやばいっていう感覚はあって安心しました。そうですね。そこも色々分かった上で了承したところありましたし」

ここから自分たちの学校が臨むことは容易だ。それはここが高層だからとかは関係ない。前にもいった通り単純に近いのだ。その距離当然このマンションから通っている生徒も少なからずいる中登校しようものなら一発で生徒指導室だっただろう。

「というか疑問だったんですけど、親御さんとかって……」

深夜というのにかなり大きな音を出していた自覚はあったので、もし寝ているのだとしたらかなり申し訳ないことをしたと思っていた。それに朝起きて突然おはようございますというのはあり得ない話だ。その辺りどうなっているのか聞いてみると予想外の答えが返って来た

「兄弟はいないし、両親はこの家にはいないよ。どっちも出張中」

「あ、そうだったんですね……。って、えっ……」

朝になっても咎められることはないという安心と二人だけだったのかという謎の不安が舞い降りて来た。

「母親は海外に行ったきり。もう五年くらい経ったかな。父親は地方を転々としてる。たまに帰ってはくるけど」

「じゃあ実質一人暮らしってわけですか」

「そうなるね。生活費とか毎月送られてそれでって感じ」

通りで生活感がないと思った。家族で暮らしていたとしたらここまで質素なことにはならないだろう。

「でも当たり前なんだよね。こうなるのは」

「一人暮らしになることがですか?」

「うん。だって産んだという事実だけがある、なんの思い出もない娘を君は愛せるかい?」

ガサゴソと布団が擦れる音がした。俺はその問いに声を漏らすだけで応えなかった。例外は無い。その事実が深々と刺さった。

「一体なんで私はこんなことを願ったのだろうね……」

この力について何もわからない。一体何が作用してこうなっているのか、物理法則をどのようにして無視しているのか。皆目見当もつかない。でも考察を重ねていけばなぜこの能力を得たのかという予想はつく。それは『自分たちが願ったこと』であるということだ。自分自身この力を持った時点で薄々気づいてはいたが、神崎先輩の話でその予想は大きく確証に変わった。

しかし、そうだとすると不思議な点が一つ上がる。なぜ先輩は『人から忘れられる』なんていう願いをしたのかということだ。生きていればそう思うことの一つや二つありはするだろう。でもそんな程度で能力を発現できるというのなら全世界の人が能力者になっていることだろう。そうなれば『自分たちが願ったこと』にはたくさんの制約があった後に力として発現すると予測がつく。そこには願いの強さという項目が無いはずがない。つまり先輩は心の底から全世界の誰よりもその力を欲したと考えることができる。そんなことを思う瞬間なんてあるのだろうか。

「つかぬ事を聞いている自覚はありますけど、その力を得た当時のことって何か覚えていたりしますか」

なぜ願ったのかもわからない先輩にそれを聞く意味はないと思ったが、少しでも何か知っているのなら知っておきたかった。

「ひとつだけわかることがあるとするのなら、覚えていないということを覚えているということかな」

先輩はよくわからないことを言い出した。しかしその口調ははっきりとしていてそれが適当なことを言っているわけではないということはわかった。

「実は私、小学生のある時からを境にそれ以前のことを全く覚えていないんだ」

「それって、単に昔のことだからというわけではなく?」

「まあそう言われてしまったらそうなのかも知れないと言うしかないんだけど、私としては不自然に抜け落ちていると言った具合なんだよね。記憶喪失、みたいな」

先輩は淡々と告げた。記憶喪失と言われれば相当な出来事な気もするが、それ以上に不可解なことが起きている自分たちにとってそれは些細なことにも思えた。

「だからこんな力を手に入れたとするのならその時なんじゃないかって思うんだよね。誰からも忘れられたいと願うくらいだもの。記憶喪失の一つや二つしていてもおかしくない」

記憶喪失になるまで誰もから忘れられたいと願うことがあった。普通なら想像つかない話と思えるのだろうけれど俺としては納得という感想だった。

それだけの経験をしていた。それは自分にも当てはまることだったからだ。

「ま、こんな話をしてもしょうがない。そろそろ本当に寝ようか。夜更かしは美容の敵だ」

もう一度布団の佇まいを直したのかガサゴソと上の方から音が聞こえた。

寝れるはずもないなと思いながらも、それに対しそうですねと軽い返事をして自分の布団も直した。

そこから数十秒の沈黙が過ぎた頃またもや先輩の声が聞こえた。

「ねえ、海斗くん。最後にひとつだけいい?」

「なんですか」

目を瞑りながらそのまま聞いた。

「そうだな……。端的に言えば君にひとつだけお願いがあるんだ」

「願い事、ですか」

「うん。でも今から言うことは嘘が嫌いな君にとってすごく意地悪かもしれない、それでも聞いてくれるか?」

「そんな建前なんていりませんよ。頼ってくれるのなら全力で応えます」

心から思っていることを伝える。先輩はそうかと吐息混じりの声で反応して続けた。

「君は私のことをどうやら忘れないらしい。それは何事にも代えがたい嬉しいことだ。でも……」

そこで一呼吸を置いた。俺はその言葉を聴き漏らさぬように目を開けた。

「でも、だからこそ、それだけを頼りにするというのは間違っていると思うんだ。だから、どうか…………」

縋るように、希うように先輩はひとつ一つの言葉を述べた。そして————

「私を助けてはくれないか?」

ずっと言いたくて、言いたくて、でも言えなかった一言。

誰もわかってはくれないから。誰も見てはくれないから。誰も助けてなどくれないから。そんな悲痛な叫びが俺にはわかる。嘘がわかるようになってから毎日同じことを思ってきた。でもその度に何度も思い返した。それは叶わないものだと。

でもそんな願いを先輩は叶えてくれた。

俺は何度も先輩に助けられた。何度も全てを受け入れてくれた。だから何度も先輩という存在に憧れた。そうなりたいと、俺がいつかはそうなろうと。

いつか彼女が困るなら俺が必ず助けると。

「必ず助けます。嘘じゃないですよ………俺は嘘が嫌いですから」

この言葉に確証がなくて、嘘になるかもしれないのだったら俺が身をもって本当にしてみせればいい。そう心に誓った。

「ありがとう」

暗い部屋の中。何も見えないはずの部屋に響いたその言葉に俺は確かに笑顔を見た。

それは医者の自分とそうでないただの人間である俺が交差した瞬間だった。

いや、この言葉には少し語弊があるかもしれない。

交差したのは多分束の間に過ぎない。それはもはや目で追うことなど叶わない。

悲鳴、怒号、爆発、火炎、硝煙。それに消防車の音と救急車の音がその旋律の中に加わる。

そこが地獄ではないのだとしたら、やはり目の前に広がっているのは未曾有の大事故なのだろう。

医者であった俺は心の中で強く決心する。

一人でも救わなくてはならない。この場に駆り出されている意味を見出せ。

だから俺は運ばれてくる人たちを注意深く見た。

黒。黒。黒。黒。黒。

どうしようもない現実に目を背けたくなるが、それでも違う色があることを願う。

誰かが叫んだ。運ばれてきた患者の色は赤。かなり厳しいかもしれないが助かると判断された命だ。俺なら助けることができる。ここからが俺の仕事だ。

そう思った矢先、俺は医者ではなくただの人間になってしまった。

トリアージ

日本語で言うのなら「命の選別」

ここは真下に川を携える線路の上。このように沢山の車や人が立ち入ることが困難な状況の場合や近くに大勢の人数を収容できる病院がない場合、医療組織には当然ながら制限がかけられる。その状況下で迅速に、そしてたくさんの命を救うために負傷状況に応じた選別がなされる場合がある。軽症者には緑、重傷者には赤といった具合だ。

でも当然その中で救うことのできない人というのも出てきてしまう。その人には『黒』という札が見える場所につけられる。本当に残念なことではあるが、その人たちの為に医療機器を用いること、時間を割くことは他の救える命を救えなくしてしまうという理由より無視しなくてはならない。

例のごとく自分たちの前には患者が運ばれてくる。その患者には黒がつけられていた。

これだけの大事故だ。生きている人がいるというだけでも本当に奇跡に近い出来事だ。だから目の前にどれだけ救えないと判断された人が運ばれてきても自分たちはうろたえてはいけない。救える命を救わねばならないのだから。

それでも俺はうろたえた。狼狽した。目の前の光景を信じることができなかった。

———さん!

声が聞こえる。俺を呼ぶ声が聞こえる。呆然としていたところから目を覚まされた。俺にそんなことをしている暇はない。俺は先ほど運ばれてきた助かる命の救出をしなければならない。心血を注いで一人でも救わねばならない。俺はその為にここにいるのだから。だから見捨てなくてはならない。だっていま俺の目の前を通過した人は黒。助からないと他の医者が判断した。だから助けるわけにはいかない。本当に申し訳ないと思うが、その人に割く時間も器具もない。だから諦めろ————。

待てよ、誰が判断したんだ?誰が死んだと判断したんだ?俺はまだ認めていないぞ?

それは医者の自分とそうでないただの人間である俺が交差した瞬間だった。

いや、この言葉には少し語弊があるかもしれない。

交差したのは多分束の間に過ぎない。それはもはや目で追うことなど叶わない。

俺はそう思った瞬間担架で運ばれているその人を走って奪い去っていった。

そして近くに置いてあった救急車に乗り込み俺は叫んだ。

近くの病院までいますぐ運べ!

外科がいて、麻酔科がいて助手がいて——。チームとしてそれらひとりも欠けることは許されない。特に替えの人がいない今みたいな場合はなおさらだ。

だから当然乗り込んでいる他の医者たちは困惑していた。俺がした行為はそれら全てを無視した行為だったから。

チームの崩壊と医療器具の完全私用。医者としてあってはならない行為だ。

それに俺の行為は新たな疑問を生む。中にいた一人が叫ぶ。

その人はもう————

トリアージの黒。それは並大抵な判断ではつけられない。だからそう診断されたということはもう助からないということが火を見るよりも明らかなのだ。だからそう思うことは当たり前だ。誰もがそう思うに違いない。

頭部は一部欠落している。脳が視認できる。右腕、右足どちらもない。体の半分がもうないことが視認できる。出血多量とかの次元ではない。生きるためのあらゆる臓器がもうないのだ。誰がどう見ても助かるはずがない。

それでも俺はそう言葉を発した人に持っていたメスを首にあてがった。当然首の皮が切れ、血が出る。あてがわれた人が声を漏らす。

こんな現場で新たに患者を生むなど正気の沙汰ではない!

そんなことは本人が一番わかっていた。医者としてそんなことをしてはいけない。いますぐこんなことはやめなければならない。目の前の救える命を救わねばならない。

それでも俺は認めたくなかった。彼女が死ぬなど認めたくなかった。

いいから早くこの車を出せ。そうでなければここにいる奴ら皆を————。

その時の俺はどんな顔をしていたのだろうか。当然怒りがあったに違いない。こんなことになった全てを恨んだに違いない。医者という立場を憎んだに違いない。でも俺はこの後のことが全てわかっていた。だからこそ泣いていたのだろう。誰にも見せたことがない。それほど泣いていたに違いない。そんなことが彼女が望んだことではないとわかっていたのに。

捕まってください、発車します。

誰かがそう言った。エンジン音とともに車が動き出す。

その瞬間、俺の医療人生が終わりを告げた。

十月二十六日、日曜日。俺は学校にきていた。それは別に先輩から来いと言われたわけでも学校から呼び出されたわけでもない。意図的に自主的にきていた。そうは言っても何か特別なことをしにきたわけでもなく、単純に図書室に用事があった。それは借りていた本の返却期限が今日までだったのを思い出し、来たというだけの話だ。明日になれば学校に否応無しに行くわけで、返す機会などいくらでもある。それに一日くらい過ぎたところでお咎めがあるわけもなかったが、よく行く自分としてはその信用を損なうかもしれないということが何と無く嫌だった。

図書館棟の一階。そこに図書館はある。図書館棟なのだからそこにあるのは当たり前だと思うかもしれないが、図書館棟と銘打たれているのは何も伊達ではない。高校の図書室にしてはかなり大規模な作りになっている。それはただ広いというだけではない。一階は一般図書として幅広く本を扱っているのは当たり前として、その図書室には地下が存在するのだ。我らが海越高校は由緒正しき約百二十年の歴史がある。だからその歴史にまつわるものという関連からかなり古い図書などがおかれているらしい。中にはわざわざ遠くの大学の生徒が論文を書くために訪れるという噂も聞いたことがある。それだけ大事な書物なだけに地下に行くためには司書の人の許可が必要である。そんな手間をかけてまで行く物好きはそれこそ大学の生徒か暇なご老人だけだと思う。まず図書室に一度も来ないまま学校生活を終える生徒だっていておかしくない。そんな青春真っ盛りの高校生たちが一般図書ならいざ知らず、よく分からない古文書などに興味なんて持つはずもない。宝の持ち腐れとはまさにこのことを言うのではないだろうか。需要と供給の問題を考えれば大学に授与する方がいいような気もするが、そんなことは自分の知ったことではない。

図書室の中に入ると受験生と思しき人たちが赤本を傍らに机を占拠していた。大きな図書館、そして進学校と言う二つの要素が噛み合えばそこに多く蔵書されるのは一般図書ではなく、参考書や赤本の類だ。そこにいけば下手な学習塾よりも本があると言うのが一応学校の売りだったりもする。だからこれだけの人数がここにいると言うのは頷けた。

俺はその人たちを横目に本を返却棚に戻した。返却棚にはありとあらゆる本があるがやはりメインは参考書だった。俺は一体どうなるのだろうかと思いながら踵を返した。

「こんにちは。休日なのにご苦労様」

「あ、どうも瀬島さん」

帰ろうとしたところ棚を片付けに来たのか仲の良い司書さんが声をかけて来た。なんでも一年生でこれだけ出入りしている生徒は珍しいらしのか名前と顔を覚えられてしまった。いまではよく読んでいる本のリサーチから俺の好きそうな本を勧めてくるまでになっている仲になった。

「君のことだから金曜日に返さなければ今日には来る気がしたけどね」

「さすがにあの量を休日なしでは読めませんでした」

図書室であるため小声で会話をする。実際今日でもギリギリだった。本は駆け足で読むものではない気がするが、なんとか一週間の返却期限までには読み切ると言うのが自分の中でルール化されていた。

「帰ろうとしていたみたいだけど続きは読まないの?」

いつもは返却の流れで借りる俺に疑問を募らせた。

「部活がそろそろ忙しくなりそうなので今週は読み切るのが難しいかなと思って」

あの日全てを打ち明けた先輩は翌日にはいつもと変わらぬ姿でいた。俺も、先輩は確かに皆から忘れられてしまうかもしれないが俺は忘れない。そうであるのなら今まで過ごして来た日常に変化はない、そう気づき平静さを取り戻せた。しかしそこまでに一週間くらい時間を要してしまったために新聞事態に影響が出てしまった。誰も翌日には覚えていないのだから十一月分を作る意味はないと思うかもしれないが、そんな考えは先輩には無く、寧ろ世界を歪ませてやるためにやるしかないと行き込んでいた。そうなるとここから鬼のように作業をすることが予想されるので本を読んでいる暇などなかった。

「なるほどね。まあでもせっかく来たんだし借りて行きなよ。期限二週間に伸ばしていいから。それに実は今日来ると思って先にキープしてあるんだよね」

「うーん……。まあそう言うことなら借ります」

これだけ言われてしまってはその好意を無碍にできないのが自分だ。続きが読みたかったのは事実だし、手早く終わらせる意欲にもなると思い借りることにした。その後手配してあったためことはスムーズに進み、すぐに図書室を後にできた。

「この後どうしようか……」

今日の予定は本を返しに行くくらいしか考えていなく、早起きしたもののその時間を持て余していた。今から部室に行って新聞の続きをするでも良かったがなんと無く気乗りがしなかったので大人しく帰ることにした。

そして、自転車置き場に置いてある自分の自転車にまたがり校門を出た。

「少しお話し良いかな?」

出た直後、誰かがそう俺に声をかけて来た。そしてその瞬間その人物が誰かがわかった。だからこそ驚きが隠せなかった。無視するの一番だと思うのだが、体が止まることを求めた。急ブレーキの音が校内に響き渡る。

「…………不審者の校内の立ち入りは禁止しされているんですけど。文字が読めないんですかね。今すぐ警察を呼びますね」

相手の顔を見ずに淡々と携帯電話をいじりながらそう告げた。

「不審者扱いとは酷い。それに私は校内に立ち入っている訳ではない。校門前で佇んでいるだけさ。警察に通報しても良いが、私を罰することはできない。悪いことは一切していないのだから」

ヘラヘラと言うその男に心底腹がたった俺は携帯電話を無造作に切り、その男を睨みつけた。

「あなたから聞く話に有益なことなど一切ないことはわかっているので。それじゃ」

このまま話していてはこっちの精神が病みそうだと思った俺は早急にこの場から離れようと考えた。そしてもう一度自転車にまたがり、その場から離れようとした時だった。

「まあ落ち着きなよ。何も取って食おうと言う話ではない。簡単な話があるんだ。『嘘がわかる』能力者さん」

後ろからありえないことを言われた。先輩を除く誰一人にも告げたことがないその事実をこの男は淡々と言い切った。適当なことを言っているのかもしれない。でも俺にはそれが嘘ではないことがわかる。わかってしまう。こいつは知っている。

「やっとこっちを向いてくれたね。芹沢海斗君」

「どうして知っているんだ、中山」

こうして目の前にいるのは二度と対峙したくない人物であり、俺が一生涯かけても許すことはないだろう人物、中山茂樹だった。


『願い』

これが能力を起因させる理由の一つだとする仮説は十分に当たっていると思う。

なぜなら俺には『嘘がわかれば良い』そう願った記憶が存在し、その日からわかるようになってしまったという事実があるからだ。

人間生きていれば誰かを嫌いになることの一度や二度あるだろう。それはいけないことなのかもしれないがどうしても合わない人ために嫌いになってしまう人というのは存在する。だから当然俺だってある。俺に関しては人間不信になるくらいだ。人間的に合わないと思い嫌いになった人は一人や二人ではすまない。でもそんなことを続けていたらきりがない。生きている限りその人たちを憎み続けるというのは精神的に疲れてしまう。だとするのならそうなってしまった原因を作った人間を一番恨むと言うのは筋が通る。だから俺は中山を恨むのだ。


中山は青森の大きな病院に所属していた一人の外科だった。当時、と言っても十年前ほどの話だが自分の母方の祖母は中山の所属する病院に入院していた。入院と言っても大きな病気だったわけではなく、家の段差に躓き足を骨折してしまったために療養という形で入院していた。年もとっているから注意してね、くらいのもので一週間もすれば自宅に戻れるという話だった。しかし祖母はそのまま病院で帰らぬ人となった。

足の検査のために撮ったMRIで祖母の体に癌が見つかったとの話が埼玉にいた両親たちの耳に入った。慌てて行くことになった両親だったがその時自分は一緒に行かなかった。というか、行けなかったのだ。自分はその時ちょうど熱を出してしまい、病人のいる場に病人を連れて行くわけにはいかず、父方の祖父の家に置かれて行ったのだ。

それは不幸中の幸いなのかはもはやわからない。それでも自分の命が助かったのは確かなのだ。両親が祖母に会いに行くために乗った東北新幹線はその日脱線事故を起こした。生存者ゼロという大きな見出しが世界全国を震撼させたあの事故だ。すぐに両親の葬式が始まった。その間でも祖母の体は癌に侵されていた『らしい』。こんなゴタゴタとした中祖母は癌摘出の手術を行うこととなった。担当医、それが中山茂樹だ。当初中山から発見できたのがかなり遅かった。手術はかなり困難を極めると祖父は聞かされていたらしい。それでもせめて祖母だけでも救えれば良い。そう願って行われた手術だった。しかし手術は失敗した『らしい』。祖母はそのご老体に叶わず手術中に命を落とした。不幸は続いてしまうのか。皆がそう思った。そうして執り行われた祖母の葬儀。そこで事件が起った。

お坊さんが戒名や生前の話をしている中気になることをこぼした。

「先ほど棺桶を持った時皆さん思いましたね。少しばかり軽いのではと。ええ、それは実に徳の高いことです。紗代子さんは生前ドナーカードに申請していたらしいのです。健康な臓器を将来の若者のために残してくださいました」

そう言った旨をお坊さんは話した。親戚の皆はその話を聞いて涙を流していた。なんて素晴らしい人なのだと。しかしその中で一人だけ腑に落ちていない人がいた。それが自分の母方の祖父だった。生前自分の祖母はそのような話を一切私にしたことが無いと言っていた。成人をすぎた際ドナーカードは本人の同意があればよく、誰かの同意などは必要ないらしい。それでも近親者には言うことが普通とされている。それを夫である祖父が知らないというのは少し変な話だ、どうしても信じることが出来ないというのが祖父の主張だった。自分の最愛の娘だけでなく妻まで失った祖父は当時かなり疲弊していた。それでも祖父は自分の勘を信じ独自で調査を進めた。その後祖父はその作られたドナーカードが偽造であるという証拠をつかんだのだ。それがどのような方法で見つけたのかはわからない。しかし祖父はそれを用いて裁判を起こすことはしなかった。それが非合法な方法で手に入れたものだからなのか、年を考えてしなかったのかは今となってはもう知るよしもない。

それでも祖父は確かな証拠を手に入れていた。そして涙ながらに俺に一言だけ告げた。

「あいつのような、あいつのような嘘つきにだけはなってはいけない…………!」

その言葉は俺の胸をひどく貫いた。その言葉を聞いた瞬間俺は絶対に嘘つきなんかにはならないと誓ったと同時に『嘘がわかればよかったのに』と願った。それは祖父の話から思ったことだった。

祖父の話によれば中山茂樹は嘘をついていた。それは手術が失敗したことなんていう話ではない。祖母が癌になった、それ自体が嘘だった。言うなれば祖母の体は健康体そのものだった。なんでそんな診断をする必要があったのか。それは中山茂樹という人物が臓器密売の一役を担っていた闇医者の一人だったからだ。わざと嘘の診断をして、手術と称した臓器を抜き取る。あとは手術が失敗したと言えばいい。とてもじゃないが医者の風上にも置けない本当に下衆野郎だった。それにこの事件は祖母だけが被害者ではないというところが俺の中で全てを狂わせた。中山が嘘の診断さえ出さなければ両親がそこに赴くことはなかった。結果的に死ぬことはなかったのだ。

だから俺は思ったのだ『嘘がわかればよかったのに』と。俺の発言に意味が持たせられるかなんてことは一切考えていなかった。それでもこんな最悪の事態になるならば、中山が嘘をついているということさえわかればよかったのに、そう子供ながらに思ったのだ。その日から俺は本当に嘘がわかるようになった。当時は何が起きているのか全くわからなかったが次第にそういうものなのかと整理がついた。そして俺は一度だけ中山のところに赴いたことがあった。会いに行った理由は単純だ。俺は一つの望みにかけていた。中山がバックに誰かがいて脅されてそういうことをしていたということに。そして謝って欲しかった。もしそうでなかったとしても俺は単純に人間として謝って欲しかった。誰かを殺す。これが人間としてあってはいけないことだと心の何処かにあって、それについて心から詫びて欲しかった。

そんな気持ちを持って中山がいる診断室に入った。こちらを見てひどく悲しそうな顔をして中山は俺に頭を下げてこう言った。

「紗代子さんのご遺族の方ですね。自分が至らないばかりに本当に申し訳ない」

その言葉を聞いた瞬間俺はその目の前にいる中山を殴りかけた。その言葉に俺はそれほどの怒りを感じていた。

こんなにも人は簡単に、悪びれもなくこれほど残酷な嘘をつくことが出来るのか、と

中山は何一つ悪いと思っていなかった。嘘の診断も臓器売買もどうでもよかった。

わざと殺したこと。これについて何一つ悪いと思っていなかった。人間なのだろうかこいつはそんなことさえ思った。

「この嘘つきが…………!」

そうとだけ言って俺は中山がいた診断室から出て行った。振り返ると中山は呆然としていた。何を言っているのだという感じに医者としての嘘を貫いていた。しかし、しばらくした後口元が緩んだ。

これが現実だよ。

少し動いた口はそう言っていた。本当に殴ろう、そう思って歩き出した瞬間、一緒にきていた祖父が俺を制止した。

「殴るな。そんなことに意味はない。いいんだ。ただ一つ、あいつみたいにだけはなってはいけない…………!」

俺は握っていた拳を沈め、泣きながらそれに応えた。


「それじゃ……。アイスコーヒー一つ。芹沢君は何にする?」

「…………紅茶で」

かしこまりました。と店員がいい厨房へと戻っていった。

あの後立ち話ではなんだから近くの喫茶店に入ろうということになった。正直中山と顔を合わせることですら嫌だったが、能力についてことの顛末を聞かねばならなかった。なぜ中山がこの力について知っているのか。俺は被害者として知らなければならなかった。

「そんなんでいいのか?当然だがここは私が持つ。なんでも頼めばいい」

「悪いですけどあなたに奢られる気はないです。死んでもあなたに恩や借りなんかは作りたくないので」

「あっそ。ま、そういうことなら何も言わないさ」

しばらくして目の前にアイスコーヒーと紅茶が届いた。中山はそれにどっさりと砂糖とミルクを入れストローでそれをすすった。

「私と最後にあったのはあの診察室に乗り込んできた日以来か。どうだい、最近は」

「なんでそんなことをあなたに話さなければならないんですか」

「まったく。冷たいなー。そんなんじゃモテないぞ」

「本当にいらないお世話です」

ギスギスとした時間が流れる。しかし、相手はまったくそんなことを思ってもいなそうに飄々としていた。

「まあ、君が話さないのなら私が近況報告でもしようか。私はね、君と会って話したあの後すぐに病院をやめた。驚いたか?」

「…………当たり前ですよね。あなたは医者でもなんでもないのだから」

正直あのまま闇医者を続けているとばかり思っていたから驚いたのは確かだったが、そんな顔はお首にも出さずに皮肉を垂れた。

「いや違う。私は医者だ。れっきとしたね」

それでも飄々としている中山を俺は睨みつけた。

「ふざけているのか」

そう聞くと中山はうーんと唸ったあと、そうだなとポツリと言い開き直ったかのような顔をした。

「君は私に一切の期待をしていないだろうし、当たり前だが嘘をついたところで意味がないからはっきりと言おうか。私は君の祖母の臓器を勝手に持ち出し、売ったこと。それについて悪いと微塵も思っていない」

「…………っ!」

わかっていたことではあるがいざ目の前で言われると本当に腹立たしかった。殴りかけたが俺は必死に自分を制止した。

「まあそれは君の祖母に限った話ではない。今まで私が行ってきたこと何一つとして悪いと思ったことはない。私はね、悪くないんだ。だから警察には捕まらない。どれだけ調べようとも絶対に証拠は出てこないし、出たところでそれは使えるものではない。嘘はバレない限り嘘ではないんだ」

俺はその言葉に身震いさえした。一切の嘘がない。それがこれほど怖いことがあるとは思わなかった。

「お前は本当に人間か……?」

何度も思っていたことだが、目の前にしてその人間味のなさに思わずそんな声がこぼれた。

「何を言っているんだ?私は、私こそが実に人間だというのに」

中山は本当にわからないというように眉間にシワを寄せた。

「何の為に臓器売買をしたのか。それはお金を稼ぐ為だ。誰よりも多くのお金を稼ぐ為だ。じゃあなぜお金を稼ぐのか。それは生きる為だ。生きる為これ以上に人間らしいことがあるとでもいうんじゃないだろうな」

「それを人の命で……」

「おいおい、それは君が一番聞いたところで傷つく質問だろう。私にとって他人の命など救ってもいいし救わなくてもいい、賤なきことだと何度も言っているだろ?」

こいつにはもう一般的な倫理観など存在しない。自分の甘さを捨ててこいつと向き合わなければ飲み込まれる、そう思った。

「お金はいい。なぜならこの世にお金で買えないものなどないからだ。愛はお金で買えないとはよく言うが本当にそうだろうか。だったら愛を求めてする婚活に何で収入という項目があるんだ?女性の殆どはそこを一番に重視すると言われている。ならそれが高ければ高いほど成功率は上がるに決まっている。それは愛をお金で買っていると言って過言ではないのではないか?」

「もういい。そんな話をしに来たわけじゃないだろ」

「勿論」

中山はニヤニヤとした笑みをうかべる。嘘がなくなった途端にこの饒舌ぶりである。内容云々の問題はあるかもしれないが、如何にも気味悪い頭の痛さを感じた。居心地が悪い。その不快感が拭えなかった。

「君からの質問である『なぜ私が君の能力を知っているか』についてだが、これを見てもらったほうが話が早い」

中山は自身のバックから名刺ケースを取り出し、中身を俺に渡して来た。

中山研究所 代表取締兼研究所長 中山茂樹

簡素にそうとだけ書かれた名刺だった。

「私は先ほど言った通り、君とあの日出会ってから直ぐに病院をやめた。そして今何をやっているか。それは、能力者の研究だ」

「…………」

俺は黙って中山の話の続きを待った。

「噂は予々聞いていたんだ。如何やら人間にはあり得ないことをなす人物が何人かいると。私も子供ではない。聞いた当初は眉唾物だと気にもとめていた無かった。しかし君が現れ、この噂が本当であると思い始めたのだ」

「なぜ俺が」

「言葉には当然意味がある。それが嘘であろうが、本当であろうが。あの日私は謝罪しかしていない。それに対し君は私に『嘘つき』と吐き捨てた。これは変だ、会話が成り立っていない。おかしい」

俺を馬鹿にするように、不満そうな顔で中山は吐き捨てる。俺はそれに何も反応しなかった。それがつまらなかったのか中山は元の顔に戻り、話を続けた。

「おかしい。だから、この会話が成り立っていると仮定してみた。そうなると言葉ではなく心情を読み取っているのではないかということに行き着いた。つまり君が私の心を読むことができるのではないか、そう考えたわけだ」

中山はどうやら変に頭の回転が速い分普通の人が思いもよらない方向まで発想を展開できるらしい。正直今思えば考え無しの言葉だったとは思うが、そんなことから糸口を見つけてくるとは思わなかった。なんだか悔しくなり顔を歪めた。

「特に君は前に聞いた『常人ではあり得ない力を持つもの』のすべての条件に合っていた。その瞬間噂は本当だったのだと確証を持てた」

話の途中気になることを言われたので中山の話を止めた。

「すべての条件?」

「君も分からないなりに気づいてはいるのだろ?能力者たちの共通点に」

話の腰をおられたのが気に食わなかったのか不遜な態度で俺に聞く。

「自分の願いが具現化したのがこれ……。だけ、じゃないのか」

自分の知っている知識だけだとこれ以外に思いつく共通点はなかった。しかし、呆れたと言わんばかりに中山は目を瞑った。

「おいおい、何も知らないとは思っていたが、これほどとは……。身近にあれだけ能力者がいるというのに」

「じゃあなんだって言うんだ」

急かすように中山を詰めた。すると落ち着けというように俺のことを手で制止させた

「何も難しい話ではない。東海道新幹線脱線事故の関係者であること。それが二親等以内であること。そしてその人の年齢が二十代以下であること。あとは君の言う通り、そうなりたいと願う力。この四点だ」

「あの事故の関係者……」

俺はその話を清算する為に今までのことを考えた。

神崎先輩も姉が事故で亡くなっている。年齢は言うまでもない。

確かに条件は満たしていた。そうなると先輩は一体……。

色々考えているとそろそろ話を戻すぞと声をかけられた。

「超常現象とも言える能力がどうやら本当にあるらしい。それが分かった俺は即刻自分のいた病院を抜け、自身で研究施設を作った。後は報酬でその条件に見合う輩を研究しまくった。実にそこまでは簡単だった。なんせ私には有り余るほどの金があったからな」

俺を嘲笑うように鼻息をたてた。

「研究はなかなかに難航を極めた。当然だが一見物理法則を無視したようなことばかりだから、俺の思いもつかない概念なのかと疑った。しかし、苦節八年。俺は特異点を迎えた」

そこで一度言葉を切り、不敵な笑みを浮かべながら俺のことを見た。

「人工的に能力を作り出すことに成功した」

「なっ……!」

これには流石に驚きを隠せなかった。これが嘘だと一蹴できたのならよかった。しかし自分の力は中山の言葉に一切反応を示さなかった。

「所詮は人間界で起こったことだ。ある程度の物理法則を無視することは出来ても概念としての大枠はやはり物理法則に基づいていた」

そこからは研究結果の自慢話が始まった。この変な力は自分たちの脳のある一部が常識では考えられないほど働き、その部位があらゆることを計算し尽くした上で自分たちの願いが可能なように自身の体にあらゆる影響を与えることで成り立っているのだという。

とてもじゃないが信じられないような話だった。それでも弥八俺の体はそれが嘘ではないことを示していた。

「そしてこの世界の人間全てにそれを行う素質はあるらしいということがわかった。あらゆる理屈はもうわかった。あとは自分の体に応用するだけ。こうしてあの事件と何も関係のない私も能力を得ることができた。実に素晴らしい」

満足そうに目を見開き、手をあげた。そんなことをすれば変に目立つ。店内にいた何人かがこちらの方を向いたのがわかった。

「それで私は何を願ったか分かるか?」

「興味もない」

「つれないな。興味はなくとも関係はあるのだがね。なんて言ったって君と同じく『嘘がわかる能力』を手に入れたのだから」

「…………。なぜ……」

眉間にしわを寄せながら俺は中山にそう聞いた。

「万物に作用できるほどの力を人工的に作り出すことに成功した私はいわば神になったんだ。全知全能を持ち、この世界の理まで理解してしまった。そんな私だからこそ自分以外の人間が信じることが出来なくなった」

鋭い目つきで俺の方を見てくる。アイスコーヒーの氷が溶ける音がした。

「他人を信用する?そんな不合理なことは全知全能の俺にとって必要のないことだった。それでも研究のために人員は必要だ。だから私は嘘がわかる能力をいち早く自分につけた。私に嘘をつこうものなら即刻で処分した」

当たり前だというように笑った。同じ力を持っていてもこうも違う考えを持つとは思はなかった。ようは中山と俺の人間に対する心構えが最初から違うということだ。中山は最初から人間なんてものを信用などしていない。嘘をつくことが当たり前だと考えているから俺みたいに病むなんてことはない。理にかなっているのかもしれないが、到底理解しがたい考え方だった。他人を信用したいがためにこのどうしようもない力をつけるなど考えられなかった。

「ここまでの話はあくまでも前提。ここからが君を待ち伏せしていた理由だ」

俺はその言葉に素早く反応した。中山が能力を知っているという前提で何を考えているのか、何を企んでいるのかを知らなければならなかった。

「私は君に二つ言うことがある。私にとってはどちらも忠告なのだが、君にとって一つはアドバイスになるかもしれない。全てがわかったらそれも忠告だったということがわかるだろうけれど。まあ、そんな話をしに来た」

中山は粗雑にコーヒーをすすった。俺もそれに釣られて紅茶をすする。妙な緊張感が二人を包んだ。

「まず一つ。君たちの持つその能力は消えることがある」

中山は俺のことを見ないで吐き捨てた。その表情は心底嫌であるという風に見えた。

「その話も研究結果なのか」

おずおずと中山の言葉に返答する。

これが本当ならば俺がいましようとしていることに一つ繋がることになる。要は先輩の能力を消すことが出来る。最終目標がそれである俺にとって確かにその言葉はアドバイスに近いのではないかと思った。

「そうだな。研究の結果そうらしいということがわかった」

「それはどうすれば」

恥も外聞もなく俺はそう聞いた。そこにプライドなど必要ないと思ったからだ。だが中山は目を瞑り、首を横に振った。

「それを教えることはできない。私はあくまでも忠告にきているだけだ。悪いが

そこを勘違いしてもらっては困る。別に私は君の色恋の手助けをしにきたわけではない」

「俺は別に……」

その先を言おうとしたが言葉が詰まった。俺が口をどもらせていると中山は大きくため息をついた。

「二つ目の忠告だ。それら全てを踏まえた上で今後一切、七条飛鳥。そいつと関わることをやめろ」

想像もしていなかったその言葉に俺は面食らった。

「どういう意味だ……」

「どういう意味もこうもない。そのままの意味だ。君が彼女に干渉すること、それは私の研究に不都合なんだ」

「なんだそれは……」

「別に君が知る必要などない」

きっぱりと言い切って中山はコーヒーをすすった。

俺と先輩が関わることがあいつの研究に影響がある。

因果関係はなんだというのだろうか。それがわからない以上、言っている意味は全くわからなかった。しかし中山の表情は、言葉は全てそれが真実だと告げていた。

「俺はそれには従えない」

「強気だな」

中山はふっと笑った。その余裕さに俺は唾を一つ飲んだ。

忠告だと中山は言った。守らないのであるなら当然報いがあると暗に語っているようなものだ。それを真正面で断るということはこの場で何かあってもおかしくはない。無言のまま俺は中山に対峙した。

「私の忠告を破ってタダで済むとお思いで?」

「そんなの十も承知だ。だが、お前は俺に対して忠告した。だから対象は俺のはずだ。先輩に危害を加えないことを約束しろ」

毅然な態度で俺は言った。それでも中山は赤子を見るかのような表情で嘲笑った。

「実に美しい人間関係だ。自己を犠牲にしてでも他者を守ろうとする。人間不信だった頃の君とは大違いだな。まあ安心しろ。彼女に何かする気はない。そんなリスクがあること私はしない」

「そうか……」

その言葉に俺は胸をなでおろした。俺のせいで先輩が泣くようなことなどあってはいけない。しかし中山は俺の反応が気に食わなかったのか睨みつけてきた。

「俺のことを少し甘く見すぎていないか?まあいい。少し私の研究結果でも見せようか」

中山はそういうとおもむろに立ち上がり、腕を頭上高くまで伸ばした。

「この中で俺たちの話を聞いていたものはいるか?」

そしてそんなことを大声で言い出した。一瞬でそこにいた人たちの体がこちらに向いた。こんなことをすれば中山は名実ともにただの不審者だ。当然それを止めようと近くにいた店員が駆け寄ってきた、

「お客様、他のお客様のご迷惑に———」

その行動を咎めようと店員が話している途中に中山は伸ばした腕の指を大きく鳴らした。

パチン

その音を皮切りに突如喫茶店内が静まり返った。それは厨房の音がなくなったわけでも外から聞こえる車の音がなくなったわけでも、店内のBGMがなくなったというわけではない。この店内にいる人が一斉に黙ったのだ。目の前で注意を促そうとしていた店員も虚空を見つめただ黙っていた。俺がその光景にあっけに取られている中悠々と中山は席に座り、コーヒーをすすった。そしてもう一度指を鳴らした。

パチン

ガヤガヤガヤ————。さっきまでの静寂が嘘だったかのように喧騒が俺の耳に飛び込んできた。さっきまで中山のことを注意していた店員もなぜ自分がここにいるのか分からないという風に何も言わずに持ち場へと戻っていった。

「一体何を……」

驚きを隠せないまま俺は中山にそう聞いた。当の中山は何事もなかったかのようにリラックスした姿勢で俺の質問に答えた。

「単純な話だ。皆の記憶から私たちが話していたことの記憶を消した」

「何故だ。お前は嘘がわかる能力をすでに……」

中山は俺と話している間一切の嘘をついていなかった。だからあいつが嘘のわかる能力を持っていることは事実だ。そんな俺の反応を分かっていたように中山はニヤついた。

「ああ。もちろん持っている。それに加え、人の記憶から自分の記憶を消す能力も持っている。おいおい、誰が能力は二つもてないと言った?少し考えが甘かったのでは?」

「…………」

「返す言葉も見つからないか。まあ当然だ。分かっただろ?君は私には向かうにはあまりに無知であることを。歯向かう意志があることは結構だが、策でもあるのかな?」

ここぞとばかりに中山は俺のことを煽り散らした。だがそれには俺は乗らなかった。

「…………何故だ。何故すぐにでも俺を拘束しない」

必死に脳みそを回転させてこの場にある違和感を言葉にしていく。

「それだけの力があるのなら俺に忠告なんてまどろっこしいことなんかせず、さっさと拘束すればいい。慈悲なんてものでそうしていないなんて考えは頭にない。それをしないというのは、俺に能力が効かないというだけではないはずだ」

言い切ると中山はさっきまでの余裕の表情ではなくなった。

「…………では、その理由は?」

「分からない。だが先輩に対して危害を加えられないのと同じく、俺に対してもすぐには危害を加えられないんじゃないのか?」

俺は中山を睨みつける。すると中山は少し笑った。

「ま、及第点といったところかな。拘束しない理由はできないからではない。するメリットが現状ないだけだ。時が来ればそのうちわかるさ」

そこまで言い切ると中山は机にあった伝票を手に取り、立ち上がった。

「最後に一つ、橋本。橋本秀人。あいつは聞いたところによると君の学校の先生になったみたいだが、どうしている」

振り向かないまま中山は俺に聞いてきた。

「なぜ先生の名前を」

この場に全く関係ない人物の名前を出されて俺は少し困惑した。ただ俺の受け答えには満足しなかったようでまた中山はため息をついた。

「……そうか。なら、いい。突然学校の先生になったと言うからなんか思惑でもあると思ったが、その様子じゃ何もしていないと見た。もはや敵でも何でもないか……」

そう呟くと中山は歩いて行った。

「おい待て。お前と先生はどんな関係なんだ」

歩いていく中山を引き止めながら聞いた。

「何、ただのしがない大学の同期さ。あいつは天才で俺は平凡。それだけだ。あいつを知りたければあいつの名前で検索でもするんだな。たくさん出てくるぞ」

それ以上はだるいと言う風に一瞥もせずにレジへと歩いて行った。

カランカラン

中山が外に出た音が聞こえた。そしてその音以外が聞こえなくなる。能力を使ったのだろう。本当に人を信用していないのだなということがわかる、そんな能力の使い方だった。そんなことはすぐに忘れ。俺はぽつり一人席に佇みながら残っている温くなった紅茶を啜る。

先輩と関わるな

中山は俺にそう忠告した。それはあいつにとって不都合なことらしい。ここで忠告にきたのは実にあいつらしい。自分の不都合なことが起こることをこの世で一番嫌っているようなやつだ。俺を野放しにするくらいなら脅しに来るに決まっていた。

だがそんなことでは俺は怯まない。それであいつに従うようなことがあればまた負けたことになる。先輩も救えず、俺もあいつに潰される。俺の人生をあいつに縛られるようなことがこれ以上あっていいはずがなかった。

「俺は何も知らない……」

俺はつぶやいた。今日中山は俺に様々なことを伝えた。話が通じなさすぎるのを避けるためというのはあるだろけれど単純に無知である俺のことを舐めたことによる行動だ。もはや煽りに近い。

でもそれは仕方がない。俺が無知なのがいけない。切り替えろ。

俺はそう自分に言い聞かす。今回起きたことを俺は煽りとは取らない。むしろあいつが見せたその甘さを後悔させてやる。そのくらいのつもりだった。

「必ず……」

俺はもう一度呟くと残りの紅茶を一気に飲み干し立ち上がった。そして、その足で外に出た。

カランカラン

さっきみたいに一瞬の静寂が訪れることはない。店内は賑わっていて喧騒を書くことはないだろう。これでいい。これがいいのだ。

俺は自転車にまたがった。

何も知らない。何もわからない。

それは違う。

何も知りたくない。何も分かりたくない。

これが正解だった。

力を得、それが馴染んでいくうちにどんどん思っていったことだ。

この力を詮索することはよくない。なぜなら過去を思い出してしまうから。忌々しいどうしようもない現実を思い出してしまうから。

だからこの力を制御しようとはせず、ただ言われるがままにした。そうして俺は心を閉ざし、人と関わるのをやめた。

でもどうやらこの力はそれを許さないらしい。

だからなのだろう。様々な人と関わるたびにそれは顔を覗かせて来た。まるでそうなることをこの力が望んでいるかのように。

『助けてはくれないか』

その一言に俺は覚悟を決めた。逃げ続けて来た過去と向き合う時が来たと。

そして今日、決定打を打たれた。

何がどう転んだとしても俺は飛鳥先輩を救う。

それが俺にできる最大の恩返しだから。

それにどんな障壁があろうとも俺はそれを成し遂げる。

だから知ろう。知らなければならない。

「よし」

俺は元来た道を戻り、市営の図書館へと向かった。

「どうでしたか飛鳥先輩」

「いや駄目だね。一つも見つからないよ。どうなってんだか。これは」

十一月の中旬。自分たちの新聞の取材と称して先輩と俺はある事柄について調べていた。調べていることは東海道新幹線脱線事故。突然こんなことを二人で調べるはずもない。

俺は後日あの日起きたことを全て先輩に伝えた。

俺がどうしてこんな力を持つことになったのか。それに関わっていた中山という人物について。その後あいつがしているこの力の研究についてなど全部だ。だから先輩と関わってはいけないという忠告を受けたこと。その話も当然した。最初はかなり驚いていた。どういう経緯で私なのか。それを俺自身も知らないのに、当時の記憶のない先輩からしたら本当にわからない話であったに違いない。それに中山の力を伝え、知っている先輩には本当にそうしたほうがいいのではと言われた。でも俺がそれだけは嫌だと言う旨を伝えたら、本当に危険な状況になったら逃げると言う約束の元折り合いをつけることとなった。

そして全てが繋がるはずの東海道新幹線脱線事故について調べることにした。さっきも言った通り先輩は当時の記憶が欠落している関係上巻き込むのは躊躇われたが、もしかしたら記憶が戻るかもしれないからと言われ、こうして一緒に調べている。

ただ————

「当時事故本当に事故があったのか疑うレベルで形跡がないね」

「他の人の記憶にあることを考えると、そんなはずはないんですけどね」

一つとしてそのことが書かれたものが存在しなかった。その当時の記事は別の話題のものにすり替わっていて事故のことが書かれたものは一切出てこなかった。神崎さん然り、中山のことを考慮すると事故自体がないことはない。それに自分で言うのもアレだがこの事故は本当に大事故だ。当時のニュースはそれで持ちきりになり、様々な新聞雑誌が取り上げた、そんな事故だ。普通に考えればそれに纏わる内容が書いていない記事を探すほうが難しいはずだった。

「ここまで綺麗に消えていることを考えると……」

「中山が消した」

「うん。その人のことよくは知らないけどそう考えるのがいいよね。能力を使った形跡はあるんでしょ?」

「そうですね」

俺の手元にある雑誌の類全てに嘘という判断が下されていた。能力を嘘と判断できるという仮定を考えればこれが能力により作られた、隠蔽されたものであることはわかる。

「でも内容を看破することができるわけでは……」

「ないですね。この記事自体が嘘なわけではないですから」

嘘がわかる。このことは別に万能ではない。能力が使われたことだけはわかっても、変えられた内容がわかるわけではない。実に歯がゆいと感じる部分だった。

「わざわざ川越がないから上福岡まで来ては見たものの、この結果じゃどうしようもないですね」

「いきなり出鼻をくじかれた感じだな」

本当にその通りだった。物的証拠がない以上あるのは人間の記憶という曖昧なものだけが頼りになる。しかしそこに纏わる記憶が曖昧であることを考慮しなければならない。嘘がわかるから参考にはなってももう十年以上前の話だ。正直いえば嘘か本当か以前の話になってしまう。本人が嘘だと思うかに焦点が当てられている俺の力は人の言う曖昧さを判断することはできない。もっと言うのなら

妄信

俺はそれを判断することはできない。

どんなに事実と反するものであっても、本人が嘘だと判断していないものを俺は判断することが出来ない。さっきも言った通り十年以上前の出来事だ。本当かどうかもわからない噂や話題が横行していたとすると、人の記憶からそれらを判断するのは難しいだろう。

「どうしますか?一旦帰りますか?」

これだけ大規模に影響を与えていることを考えると偶々ふじみ野だけ免れたとなるのは考えにくかった。自転車で来ていることも鑑みると帰ったほうが妥当な気がした。しかし先輩は少し悩んだ後、ラスト行こうという決断を下した。それに対し、わかりましたとだけ言い自転車に跨り、また漕ぎ出した。


「大将!醤油ラーメン大盛り、炒飯増量で!」

「あいよ!」

「よく食べられますね……」

「やけ食いだよ!やけ食い!」

あのあと結局行っては見たもののやはり自分たちが望むものは出てこなかった。その足で先輩希望のラーメン屋に行って、今に至る。やけ食いとまではいかないものの、ここまで来た苦労に見合うものが出てこなかったのは中々に堪えるものがあった。

「インターネットで調べて見ても本当に対したものしか出てこないし。こんなことまで出来るのか。相手は」

「これじゃ事実を変えるほどの勢いですよね」

「何をそんなに隠したいのだろうかね」

「中山の様子だと先輩を恐れている感じはありましたけど、やはりそれが関係しているんですかね」

「うーむ……。私は一体その日何をしたというのだ」

「はいお待ちどう!」

頭を抱えながらうつ伏せになった先輩の目の前にラーメンと炒飯が届いた。

「まあとりあえず食べましょうか」

「そうだな」

ズゾゾゾゾと無機質にラーメンのすする音が二つ店内に響いた。

「その事故で私の身近な人が関係者であることは確かなんだよね」

「そうですね。二親等以内の人が……」

「私の記憶ではいないけれど、調べてみる必要がありそうね」

関係者とは言ってもこの事故に生存者はいない。だから関係者というとその事故で死んでしまった人の関係者ということになる。センシティブな内容になってしまうことを考えると大広げには言えない。

「まあ今日わかったことをまとめると、簡単には事故の情報は手に入らない。だからここをいかに崩すかが鍵でいいのかな」

「多分そうですね。隠しているのならそれを暴けば何かが分かる気はしますよね。なぜ先輩を恐れているのか」

「単純だけどそれをどうするかがね」

隠しているのなら暴けばいい。単純ではあるものの、それが出来るのならこうして苦労しない。

「まあ地道に図書館を探っていくとか……」

そういう俺に対して首を振って先輩は否定する。

「そんなに悠長にいやっている時間はなさそうじゃない?それにそんなことでは多分一生わからない気がする」

「まあ、確かにそうですね」

中山に圧をかけられている現状。それで解決するならまだしも、先が見えないのであれば時間の無駄となってしまう。

「そうなると何をするべきなんでしょうか……」

「こうは言ったけど、自分たちが出来ることってそれくらいが限界な気もする。だからこそ自分たちに足りない部分を補う必要がある」

先輩の言う通りだった。単純に自分たち二人だけではやはりどうしようもない気がした。二人ともどんなに超人的な力を持っていたとしても所詮は子供だ。経済力、行動範囲、単純な力。どれを取っても子供では太刀打ちできない問題だ。先輩は両親が近くにはいないし、俺に至っては身寄りがいない。安全を保証できない現状を考えると大人の協力者が自分たちには不可欠だった。

「頼れる大人でもいれば良いんですけど……」

ぽろっとこぼした言葉に先輩が反応する。

「橋本先生を頼るのはどうなんだろう」

「それは確かにいいかもしれないんですけど……」

中山の口ぶりだと橋本先生は無関係ではなさそうだった。大人で部活の顧問という先生を協力者に据えるのは一番いい選択に思われた。

「私の能力が邪魔か……」


「まあ。邪魔というのは言葉があれですけど……」

先輩を毎日忘れてしまうことを考えるとイマイチ話し出すには躊躇われた。元の部員のこ話から逆算すれば、顧問である事実を変えられて部活がなくなってしまうかもしれないというリスクが生じる。そうなると色々都合が悪いように感じた。

「まあ、生徒会長の時みたいにすれば私を介さずに協力してもらえるかもしれないね」

「確かに会いさえしなければ忘れるということはないですもんね。でもそんなに上手くいきますかね」

リスクの割にリターンがあるのかと問われると微妙な気がしてしまう。しかし先輩はその言葉に対してにこりと笑った。

「失敗したってまあ仕方ない、くらいな気持ちでいれば良いんじゃない?もし橋本先生が顧問じゃなくなって部活がなくなったとしても関係ないさ。あの部屋が即刻なくなるとは考えられないし、二人で勝手に居座れば良いだけよ」

「そうですね」

突拍子も無いことだとは思ったが先輩のその明るい顔を見たらなんだか大丈夫な気がしてしまうから不思議なものだ。

「替え玉頼もうかな……」

「…………お腹痛くなって帰れなくなっても知りませんよ。まだ帰るまで結構ありますからね」

「その時はその時さ。大将!替え玉バリカタで!」

「あいよ!」

威勢のいい掛け声が小さなラーメン屋にこだまする。その後替え玉まで食べて満足した先輩はやはりお腹を痛めてしまい、自転車を駅の近くに止め結局電車で帰ることとなった。


「失礼します」

室内がうるさいせいで聞こえなかったのか、礼儀正しく言ったにも関わらずその言葉に対して誰も反応することはない。その部屋の中に入ると薄暗い蛍光灯の中ありとあらゆる先生たちが各々自分の席で授業の準備や会話なんなりをしていた。職員室。生徒なら出来ることなら入りたくないその部屋にまたもや入ることとなった。コーヒーと紙の匂いが充満しているその中を目的の人目掛けて歩いていく。

「…………少しいいですか」

またもや寝ていた橋本先生に呆れながら声をかける。声に気づいたのか先生はうだつの上がらない顔を浮かべこちらを見てきた。

「どうした、わざわざ。まだ発行の時期じゃねぇよな」

「そうですね。少しお話があって」

「…………。なんだ、改まって」

橋本先生はかなり怪訝な顔でこちらを見てきた。こうなることを嫌がっていたかのように思えた。俺はその不穏さを押し切りながら続けた。

「少し嫌な話題かもしれないんですけど、先生は東海道新幹線脱線事故についてご存知ですか」

そう聞くと先生は一瞬目を丸くした。そして俺のことをじっと見る。

「…………今になってなんでその話を持ち出した」

その言葉は実に真に迫っていた。聞いてはいけないことを聞いてしまった。そう感じた。そこまでの話題だと思っていなかった俺驚きながら応えた。

「え、あ、その……。実は最近これについて自分たちで調べていまして。この話題と先生を結びつけることを最近聞いたのでもしかしたら知っているのかと……。気に障ったのであれば謝ります」

深々と頭を下げると先生は手で制止した。

「やめろ。そんなことはしなくていい。それよりも、誰から聞いたんだそれを」

「えっと……。知っているか分からないんですけど。中山茂樹————」

「嘘だろ…………」

俺の言葉を遮って先生はそう呟いた。その顔は『あり得ない』という意味合いを如実に表していた。

「何故あいつと接触したかこの場で言えるか」

「えっ…………」

答えはNOだ。能力という話題を抜きに中山との接触の話をすることはできないからだ。当然知っているはずもない先生にその話題を出したところで納得のいく説明になるはずがなかったからだ。しかし奇妙なのはその聞き方だった。俺はいうことはできないにしろ、単純に接触理由を聞き出せばいいものを、わざわざそういう聞き方をしてきたのにはどんな理由があるのだろうか。そんなことを思案して答えあぐねいていると苦悶に近い表情を浮かべながら先生は下を向いた。

「…………そうだったのか」

「な、何がですか?」

意味がわからない俺は素直に聞き返す。しかしその問いに先生は答えなかった。

「まあその話はとりあえずいい。お前たちは東海道新幹線の脱線事故について調べているんだよな。それについて知っていることは山ほどある。色々資料を持っていくから部室で待っていてくれないか」

「あ、ありがとうございます。でも……。それ、ここで受け取ってはダメですか?」

協力してくれるどころか資料を持っている始末だった。願ってもないことではあったが先輩と先生を接触させては意味がなくなってしまう。どうにか行かせないように策を弄そうとした。しかし、それすらも全部わかっているというように先生は首をふった。

「いやダメだ。お前たちに伝えなければならないことがあるからな。今日は、いや、今は何も言わずに俺のいうことを聞いてくれないか?」

未だかつてないほど切実な表情で俺にそう聞いてきた。そんな表情を見たことない俺はあまりの真剣さに気圧され、動揺を隠せないまま「わかりました」としかいうことができなかった。「ありがとう」と一言だけ先生は言って席を立った。

「それじゃあまた後で」

「は、はい……」

おずおずと答えなが俺も先生の席から離れ、職員室を後にした。

職員室を出ると一瞬にして周りが静かに感じた。放課後ともあって廊下に生徒がいることはないからだろう。

それにしても先生のあの言葉はどういう意味だったのだろうか。

いつものようなあの飄々とした態度ではなかった。言ってしまえばまるで人が変わってしまったかのではないだろうかとさえ思った。

俺たちに伝えたいこと。

それは一体なんなのだろうかと思案しながら俺は部室に戻った。


「ただいま戻りました」

「お、おかえり。どうだった?」

「えーとその話なんですけど……」

俺はことの顛末を先輩に伝えた。

「あら。まあでもしょうがないんじゃない?話したいことがあるなら。今日一日は仕方ないと考えるしかないね。なんなら資料さえおいて行ってくれればなおのこと都合いいまであるし」

「せっかく協力してくれそうなのでそれを無碍にするのはちょっと……」

たまに出る黒い部分の先輩を制止しつつ話を続ける。

「それにしても話ってなんでしょうね」

「並々ならぬ感じがあったのでちょっとしたことではないと思いますが」

「ま、なんにせよ話を聞かないと分からないか」

「そうですね」

そんなことを話しながら橋本先生がくるのを待った。十分ほど待った後ドアを叩く音が聞こえた。

「俺だ。開けてくれ。手が塞がっちまっている」

その声の主は橋本先生だった。

「わかりました」

そう声をかけ、ドアを開ける。ドアの前には何やらたくさんのものが入っているダンボールを抱えた橋本先生が立っていた。

「重い。つうか遠い。なんでこんなところにあるんだ」

「こっちが知りたいくらいですよ」

悪態をつきながら先生は抱えた荷物を机の上に無造作に置いた。

「これは……?」

「さっき言った通りのものだ。俺が今までに調べてきた東海道新幹線脱線事故に関するありとあらゆる資料たちだ」

ダンボールの中をガサゴソと漁りながらその物品たちを俺たちに見せてくる。

「お前たちが探していたのはこれだろ」

雑誌。新聞紙。そしてとんでもないほどに積み上げられた紙の束。

これら全てに東海道新幹線脱線事故という題が振られていた。

「これだけの資料をどうやって……」

たかが三件とはいえ、大きな図書館で調べた結果それらの資料を見つけることは困難であると判断したばかりだ。それなのにこれだけのものが目の前にあるということに驚きを隠せなかった。

「数十年の積み重ねだ」

紙の束を指でなぞりながら、険しい表情で先生はそう呟いた。

「それにしてもなんで先生はこの事故について数十年も追っていたんですか?」

しばらくして、先輩が雑誌を読みながら先生に聞いた。俺も気になっていたことだ。一日で読むには不可能なほどの量だ。意味もなく集めたにしては多すぎる。内容が内容なだけに気になった。それを聞くと先生は真剣な顔でこっちを見てきた。

「その話も全て含めて話したいことがある。それを読むのは一旦後にしてくれないか?」

その言葉を皮切りに俺と先輩は読んでいる手を休めた。そして先生の方を向くが先生は話すのをためらっているようななんともいえない顔をしていた。

「どうかしましたか?」

気になって話しかけると「すまない」と言って自分の顔をパチンと叩いた。決心がついたのか先ほどの真剣な顔に戻ってこっちを見てきた。

「…………。そうだな。最初にいうことは……………七条」

「は、はい。何でしょうか」

まさか呼ばれると思っていなかった先輩が変な声で返事をする。しかし、返事をしてからもしばらく先生は何も話さなかった。その姿は相手にいう言葉一つ一つを考えているように見えた。そして数十秒の沈黙の後先生が口を開いた。

「…………大変だったよな。…………理由があったにせよ今日になるまで黙っていて悪かった」

先生は先輩に向けて深々と頭を下げた。

「え?」

思わず先輩の口からそんな声が漏れた。俺も出そうになったが堪えた。もしかしたら自分たちが思っていることが違うかもしれないというよくわからない思いが消せていないからだった。だからそうかどうかを確かめようと俺が聞こうとした瞬間先輩がそれを遮った。

「それって…………」

先輩が目を丸くしながら先生に尋ねる。それは質問にもなっていないはずなのに先生は深く頷き、決心を固めた表情で語り出した。

「ああ。俺は七条が入学したことを知っている。七条が一年の頃はG組だったことを知っている。新聞部に入部したことを知っている。部員全員がいなくなったことを知っている。宿泊研修に来なかったことを知っている。七条が初めて新聞を————」

「もういい!」

先輩は机を叩き、先生の話を遮って叫んだ。

「何で……何で……」

先輩は涙を浮かべながらそう何度も呟いた。その表情は怒りと悲しみが織り混ざったものだった。先生はそれに動じることはなくただ先輩を見つめていた。そしてしばらくの沈黙の後先輩は部室を抜け出した。

その間先生は一切動くことはなかった。こうなることがわかっていたようにただ下を向いていた。

「何故ですか…………。何故ですか…………!」

先輩がいなくなった今この質問をぶつけることができるのは俺だけだった。俺は同じとはいえないかもしれないが先輩に準ずるほどの怒りを先生に感じていた。それをぶつけるように先生を怒鳴った。

「何で言わなかったんですか!俺だけは覚えているって!先生は知っていたでしょう!先輩がどれだけ孤独を感じていたか…………!自分のことを忘れない人を望んでいたことを!それを何で………!」

『自分との思い出が消える』

そんな能力を持った先輩の過去の記憶があるということは、先生は俺と同じくその能力の影響を受けない人物だったということだ。そうだということを当然俺は知らなかった。先輩だって知らなかった。何年も、何十年もそんな孤独な能力に苦しんでいた先輩を横目で見ながら何も言わずに生活をしていたというのだろうか。とてもじゃないがそれを俺には許せなかった。

「どうして………。何でなんですか………」

だから俺はそう何度も叫んだ。先生はその言葉を黙って聞いていた。そして俺が落ち着いた頃に先生は口を開いた。

「…………こうすることが七条にとって一番いいと思ったからだ」

「どういう意味ですか…………」

「俺はな、もう俺の目の前で、俺のせいで人が死ぬのは見たくないんだ」

先生は重々しくそう口にした。


座って話を聞いてくれと言うように俺に席を促した。そして先生はポツリポツリと話し出した。

「俺はさっき列挙したように七条のことを覚えている。それは事実だ。七条が入学して翌日にはその異変に気づいた。俺以外あいつのことを覚えていないということを。そしてそれを本人が自覚していることもな」

先生はポットでお湯を沸かしながら話を続けた。

「だからこそ俺はあいつに俺が覚えているということを伝えないということを選んだ」

「何で、ですか……」

先生は俺のその言葉に深く頷いた。

「芹沢。お前は何であいつのことを覚えているか分かっているよな」

「え、それは、まあ……」

「『嘘がわかる能力』これを持っているから、だよな。能力という物自体を嘘だとみなすことであいつのことが分かる。少々こじつけがすぎる気もするが理由は明確だ」

準備室の方からコップを取り出して先生はそれを洗った。

「だが俺にはそれが何故かが分からない。何で七条のことを忘れないか。それが俺には分からないんだ」

きゅっと蛇口の閉まる音が聞こえた。近くにあった布巾で自分の手を拭って近くの椅子に先生は座った。

「何故覚えているか分からないということは、いつ七条のことを忘れてしまうかも分からないということなんだ。そんな無責任なことは俺にはできなかった。お前なら分かるはずだ。元々0だったものが1になるということの嬉しさよりも、その1が0になることの喪失の方が大きいということを」

俺はその言葉に食いしばりながら思わず下を向いた。

「俺があいつに覚えていると伝えたとする。それは大変喜ぶだろう。実際お前の時は相当嬉しかったに決まっている。でも、だ。何らかの原因でその効力が切れたとする。忘れているなんてわからずにあいつは俺に接して来るだろう。もしそれで忘れていると言うことがわかったら……。七条がどうするか、想像つくよな」

「それは…………」

これ以上先をいうことはできなかった。あまりに不謹慎であって、あまりにそれが現実的であったからだ。それを口にしてしまうことそれだけは絶対にしたくなかった。

「だから俺は待ったんだ。俺以外に七条のことを認識することができる人物を。そいつがもし忘れても俺が第二の槍として機能する為に。だから俺は言うことを避けた」

「で、でも待ってくださいよ。俺だって先生と条件は同じなはずです。今でこそ先輩を覚えている理由はわかっていますが、入部当初ならいざ知らず、そうだってわかったのは最近の話ですよ。俺だっていつ忘れるかわからない状況だった訳ですし、入部時点でそれを止めるべきだったのでは……」

口どもると先生もそれについて頷いた。

「確かにそうするべきかはかなり悩んだ。覚えている理由が俺と同じなら忘れる時だって同じだからな。だが違うと言う可能性は否定できない。正直言ってそれだってかなり確率の低い賭けだ。芹沢の言う通り忘れない理由が明確化してからそうするべきに違いない。だがもうわかっていながら無視することが俺には耐えられなかった」

そこまで言うと先生は俺に頭を下げてきた。

「これで七条の話は全てだ。当然帰ってきたら本人にも伝える。理由はあれどあいつのことを意識的に会わないようにして無視してきたことは事実だ。許してほしいとは言わない。だがどうか汲んでくれると助かる」

その言葉を最後まで聞くと俺はもう一度下を向いた。素直に頭をあげて欲しいと言えなかった。でもそれがおかしいと言うことは十分に分かっていた。無視してきた理由も明確で、そうする方がむしろいいと言うことまで分かってもなお、自分の中で燻るところがあった。他に解決法なんて俺が見つけられるはずもなければ、俺が無責任にとった行動がより先輩を傷つけてしまう原因になったかもしれないと言うことがわかっていても尚その一言がうまく口から出てくれなかった。だから俺は先生の行動を納得するための行動に出ることにした。それを頭の中で整理し、顔を上げた。

「…………とりあえず先輩を連れて来ますね」

一言告げて俺は部室を後にした。


 探しに行こうと廊下に出た直後、そこに先輩はいた。俺は思わずびっくりして声が出そうになったがそれを先輩が止めた。そしてすぐ近くのラウンジに連れてかれ、椅子に座った。

「ごめん盗み聞きしてた」

着くや否や先輩は頭を下げ、部室には届かないくらいの声量で言って来た。謝ることなど何もないと思った俺はすぐに首を振って、頭を上げさせた。

「てっきりもう帰ったかと思いましたよ」

「まあ考えたけど、荷物を置いて帰るわけにはいかないからね」

「れ、冷静ですね……」

素直に思った感想をそのままのべた。正直先輩の立場だったとしてあんなことを言われたら俺ならすぐには立ち直れないと思う。それを逃げるどころかむしろ冷静に色々考えていると言うのだから驚いた。

「流石に聞いた当初は何を言っているのかわからないぐらい動転したよ。でも一人になって落ち着いて考えてみれば橋本先生が理由なくそんなことをするはずがないって思い直したんだ。だから話を聞こうと思ったんだ。だけど大見え切った手前素直に中にも入れなくて……」

先輩は照れ臭そうに笑った。だが俺は釣られて笑うことなく真剣な顔で先輩の方を向いて思ったことを告げた。

「なら先輩はあの話を聞いてどう思いましたか?」

この質問を聞けばこの燻る思いも解決できる気がした。その質問に対し少し悩んだ素振りを見せた先輩だったが、すぐに普通の顔に戻った。

「実に理にかなっているよね。私ならまずそんなことは思いつかないよ。困っている人がいるならすぐにでも救いたいって誰だって思っちゃう。でも冷静になって考えればそれが正解ではないってこともわかる。もし先生の言う通り私のことを認識してなお忘れられたら私死んじゃうかも」

わははっと先輩は笑った。しかし俺はその言葉に笑うことはできなかった。

「じゃあ先輩は先生を許す……って言葉は違うな。俺の行動は間違って……っていうのも……。なんだろう……」

うまく言葉を紡げなかったが、先輩は頷いてその言葉の後押しをした。

「考えるまでもないよ。二人とも私のことを大事に思ってくれた。そうでしょ?それさえ分かれば子細なんてどうでもいいよ」

そうまでいうと先輩はにこやかに笑った。先輩は嘘をつかない。だからその言葉は真に思っている言葉なのだ。複雑に考える必要なんてなかった。俺の悪いくせが出たなと思ってしまう。これが何度目だろうか。やはり先輩は強いな、そう思った。

「さて戻ろうか。なんであれだけの資料を持っていたのかの話は聞いていないしね。私のことを認識できるなんてこんなにも心強い味方はいない」

鼻歌交じりに先輩は立ち上がり、部室へと戻って行った。

 戻るといの一番に先生は頭を下げた。しかし先輩は別に気にしていないという様子を先生に見せた。しかしそうは言われてもすぐには納得ができない様子だった。むしろあまりの豹変ぶりに壊れてしまったのではないかと本気で心配していたが、俺が事情を説明すると納得したようだった。そしてしばらくした後先生が作ってくれていたお茶を飲みつつ、先生がなぜあの事故について調べていたのかの話を聞くことにした。

「かなり辛い話にはなると思うが話すに当たっては少し我慢して欲しい。とりあえず確認が取りたい。お前らがあの事故について知っていることの一つとして『全員死亡』というのは共通見解で間違いないよな」

自分たちはその言葉に首肯する。先生は俺たちの様子を見て「だよな」とポツリと続けた。

「だがこれを見て欲しい」

その言葉とともにまた先ほどの雑誌やら髪の束やらを渡してきた。言われるがままにそれらをまた読み始める。『東海道新幹線脱線事故』堂々と銘打たれた中その惨状にまつわるあらゆることが書いてあった。

「…………ん?」

しかしさっきよりも熟読しているからかその文面からわずかに違和感を感じ取ることができた。俺は他の資料も手に取りながらその違和感を消そうと努力をして見たが残念ながらそれは叶うことはなく、むしろその溝は広がって行くだけだった。

「気づいたか。俺の持っているこの資料、全てが俺の知っている情報とかみ合わないところがある。この事故で亡くなってしまった人は全てで1021人のはずだ。だが、ここにある資料は全て一人を除いた1020人になっている。芹沢から見てこの資料たちに嘘はあるか?」

「無いです……。俺の記憶でも先生の言う通りだと思うのでこれは……」

あの事故は忘れることはない。当事者であり、連日あれだけ報道していたのだから記憶が違うはずなどない。だけれど嘘を見抜くことができるこの目はこの資料を本当だと写していた。

「俺もな、この記憶について間違っているはずがないんだ。誰よりも一番その事実を知っているからな……」

「それってどう言う意味ですか」

先輩のその言葉に先生は大きく息を吸い込み、天を仰いだ。

「七条の件もそうだが、これから話すことに関して俺は一切の弁明をすることはない。だからその内容について俺のことを許す必要など一切なければ、今後一切の関わりを断つことだって構わない。俺がこうして教師というものをやっていることですら嫌気がさすというのなら当然やめる。まあ俺の役目はほとんど終わったようなものだからな」

そこまで言い切ると先生はこちらを向いて話し出した。

「俺はもともとしがない医者だったんだ」

その言葉を皮切りに先生は自分の過去の話をし始めた。教師をやる前は外科医であったこと。元々は小さな病院で働いていたが、その腕を買われて東京の大きな病院で働くことになったこと。そこでいまでも先生の名前を調べればすぐに出てくるほどの活躍をしたこと。

「そんな俺は腕を見込まれた。だから、だから俺はあの事故の出張担当医に抜擢された」

その一言で部室内が一気に緊張が走ったのを感じた。

「俺はあの事故で全員死亡したということを誰よりも知っている。だから俺はあの事故の話を追っていた。忘れないように、そしておかしなところがあるのが俺の中で許せなかったから。なぜならあの事故は俺のせいで全員死亡したんだから……」

そのまま先生は俯いた。その姿は俺たちからの罵倒を待っているようにも見えた。だが俺たちはそんなことは一切せず淡々と先生の言葉につなげた。

「その話はあまりに端折りすぎていませんか?それじゃあまるで先生が全て悪いように聞こえます。その日が来るまでずっと他の患者さんだって救ってきたんじゃないんですか?先輩のことをあれだけ考えられる人じゃないんですか?絶対にそうなった理由があるはずです。それを教えてください」

俺の言葉に一瞬あっけにとられた先生だったがすぐに首を横にふった。

「言うまでもない。本当にどうしようもない理由だ」

「だからなんですか?あれだけ人のことを考えることのできる先生がどうでもいいような理由で医療ミスなんてするはずないじゃないですか。お願いです。話してください」

先輩は真剣な眼差しを先生に向ける。そして少々のためらいの後先生は口を開いた。

「…………私情だ。その事故に俺の妻が巻き込まれた。そして救えないと判断されて俺の前に運ばれてきたんだ。俺はそれがどうしても認められなくて……」

そのまま先生は自嘲するように笑い出した。

「救えないんだ。もう死んでいるんだ。それがわかっていてなお俺は救おうとした。他の救える患者を無視して。…………わかるだろ?俺は、俺は、医者としてやってはいけないことをしたんだ……!」

痛烈な叫びが部室の中にこだまする。それでも俺は冷静だった。

「身内が死ぬ。それをわかっていて取り乱さない人なんているんですか?」

「だが俺は医者だ!そんなことは度外視にして人を救わねばならなかった……!それがどんなに大切な人であっても……!何が医者だ……!万人を救えても自分の愛する一人も救えないで……!」

思いがその日にフラッシュバックしたのか涙ながらに先生は叫ぶ。それをじっと見つめたまま俺は続けた。

「あれだけの大事故です。救える命の方が少なかったに決まっています。すでに非難されることがわかっていてそこに向かった先生達を責めたてる人なんているんですか?俺はその事故の当事者です。その救える命に自分の両親がいたかもしれません。だけどそんなことはしません。先生は確かに医者だったかもしれない。でもそうである前に一人の人間じゃないですか」

「…………すまない。本当に、すまない……!」

その言葉が引き金になったのか先生は頭を抱えながらその場で泣き出した。


 その後落ち着きを取り戻した先生になぜいま先生をやっているかの話を聞いた。

「俺は当然あの後医者をやめることを決意した。誰がどう言おうがあの行為は医者としてやってはいけないことだったからな。だが病院の方はそれをすぐには認めてはくれなかった。あの事故は医者がどうこうできる範疇を超えていたとすればそれは医療ミスではない、だから残ってくれといってきた。病院は俺の腕が必要だったらしい。だがもう当時の俺は手術台に立つことですらもう恐怖するレベルになっていた。そのことは丁重に断り、そのあとはただ呆然と何もしない日々を過ごしていた。何千もの命を殺した俺を恨みながら」

歯を食いしばりながらそう告げた。

「死のうか本気で考えていた最中だった。俺の家にこの学校の校長である槇原校長がやってきた」

「校長先生が?」

「ああ。でも驚くことはなかった。俺はあの事故で死んだ人の親族全ての墓参りに行った。だから槇原校長の孫娘があの事故でなくなったことも知っていた。校長先生というのはパイプがやけに強いと聞く。どうにかその線を辿って俺に文句か、最悪殺しにでもきたんだと思った」

そんな物騒な話はないだろうとは思ったが先生の顔はいたって真面目だった。

「だが話す内容は全く違った。一言目は『うちの学校で先生をやらないか?』だった。正直俺は思わず自分の耳を疑った。だから話を聞いた。すると自分の能力でこの学校には能力者、つまりあの事故の近親者が集まるようになったのだと。その子達はやはり心が不安定だからそれを一緒に救う手伝いをしてくれないかと言ってきた。おかしいとは思っただろ?いくら事故の関係者が多くてもこれだけ身近に能力者がたくさんいるっていうのはさ。これは槇原校長の能力らしい」

槇原校長先生が何をどう願ったのかは想像に難くなかった。

「『君が動いても死んだものは蘇らない。だが君が動けば救える命がある。医療に関わることを臆するのなら私と一緒に生徒を救わないか』って言われたんだ。幸いにも大学時代教員免許は取っていた。だから俺はその話を受け、ここにいる」

そこまで言い切ると先生は喉を潤すためにぬるくなったお茶を一息に飲み込んだ。

「これで本当に俺が話すべきことは全て話した。お前らがいまの話を聞いてもなお俺のことを見限らないでいてくれるというのなら俺もこの事故についての調査に加わりたい」

「当然です。こちらも願ってもないことでしたし」

お互いに頭を下げる。しかし先輩はまだ腑に落ちていないところがあるのか疑問を浮かべていた。

「それともう一つだけ気になっていたんだけど。先生、なんで今その話を切り出したんですか?その話題が出たからと言われればそこまでなんですけど、資料をあげるだけでも十分協力関係は築けますよね。もちろん先生が私のことを認識できているということをしれたのは嬉しいですよ。でもそこまでする必要ってあったんですか」

言われてみれば確かにその通りだった。何もここまで洗いざらい話さなくてもやりようはあったと思う。そんな風に思案していると先生は頷いた。

「芹沢から中山茂樹の話が出たというのが一番だ。正直言ってあいつは人間じゃない。そんな奴がこの一件に関わっているとなるとどうしても盤石にする必要があった」

そういうとまた先生は雑誌を手に取り俺たちに見せてくる。

「先ほどの話のせいで逸れたが、ここに書いてあることは本当であって事実ではない。そしてこれこそが七条、お前を救うことのできるキーになると俺は踏んでいる」

「どういう意味ですか」

「能力っていうのは脳の覚醒によるものということは掴めた。だとすると七条の能力はそれに当てはまらない。本当ならできるはずがないこの世の事実、理を変更する能力なんだ。能力自体が例外中の例外。だがよく見るとこれら資料と親和性が高いことがわかる。つまり、この違和感さえ解くことが出来れば七条の能力に近づける、延いては消すことができるかもしれないということだ」

その言葉に思わず目を丸くした。

「だがあいつが能力に関わっているとなればそれが逆に仇になるかもしれない。それだけが避けたくてことを急いだというわけだ」

「それは確かにそうですね」

「ああ。だからまずは情報共有から始めていこう。そして作戦を練っていく。俺たちの目標は七条の能力を消すことで固まっている。必ず成功させよう」

そこまで言い切ると先生は俺たち二人を一瞥して深く頷いた。俺もそれに応えた。先輩も頷いた。しかしどこか先輩の顔は浮かないような気がして見えた。


その後強力な仲間を得た自分たちは調査の幅が格段に上がった。1020人と言う表記が何を意味するのか。浮いた一人は何者なのか。それを調べるために休日になればどこかしらの遠出まですることがデフォルトになっていた。とはいえすぐに見つかるものではないのは事実で、先輩の力やその人物についてに関しては推測の域が出ないというのが正直なところだった。

「決定打になる何かがあればいいんだがな……」

悔しそうに先生はコーヒーをすすった。その姿から目を話そうとカウンターで新聞を読んでいる男性に目をやった。チラリと見えるそこにはイギリスで記録的な地震があったことがデカデカと載っていた。今朝ニュースがやっていたからわかるが、この状況であまり負の事柄を見たくはなかった。

「まあそういう日もありますよ……」

ブツブツと言いながら俺も目の前のコーヒーを飲んだ。自分たち3人は立ち寄った喫茶店で今日の成果について語っていた。今日は長野県まで来ていて、過去最長の旅路とはなったがその成果はあまり芳しいものではなかった。先生が何年もかけて調べていて、それらの手がかりが少ししか分からなかったというのにすぐには見つからないというのは確かなのだが、如何せん悠長にできない分焦りが見えていた。

「情報を精査して見ても結局は中山が何かしでかす、それには七条がキーパーソンであること。情報戦については何歩も先にあいつがいる。負けているからと言って腐るわけにもいかない。だから追いつく努力はしなければならない」

「私が記憶喪失にさえなっていなければ何か変わったかもしれませんね……」

「まあ、そんなたらればの話をしたところで意味はない。とはいえ時間があまりなさそうなのがネックだな……。具体的に時間の指定はされていないんだよな」

「とりあえずは言ってなかったですけど……」

準備に時間がかかるとは言っていたが何をどれくらいなのかは知らない。本当に情報戦では負け越していた。先輩を守ると豪語したのはいいが本当にできるのだろうかと心配になって来た。

「七条のことを中山は恐れている……。だがあいつが七条の能力に恐れる要素はない。ここが味噌なはずなんだ」

「先輩の能力が進化して本当に例外なく先輩のことを忘れてしまうとかですか……?」

その言葉に先輩はぎょっとした顔をした。しかし先生は首を横にふった。

「その可能性は極めて薄いと思う。確かに七条の能力は今までの話で考えると例外ではある。だが進化、もとい変化するというのは実例がない。大体能力に進化ないしは変化があるのだとすれば能力者全員にあいつを脅かす可能性が生じる。それを考慮に入れていないはずがない。つまりそれは起こらないと考えたほうがいいはずだ」

「じゃあ一体何を……」

その質問に先生はしばらく考えた後、俯いたまま口を開いた。

「七条のそれではない部分を恐れている……。つまりもう一つの能力について恐れているのかもな」

「もう一つの能力って……!」

何か知っているのかと思って先生の方をむくが、またもや首を横に振った。

「あくまで可能性の話だ。お前から聞いた中山の話を整理すると能力は一人につき一つではないのだろ?もうそう考えるしかない気がしてな……」

「でも私この能力以外に何か目立ったことって特に何も起きてない気がするけど……」

「そうだろうな。まあ今のは煮詰まった末の戯言だと思って流してくれ」

そういうと先生は残ったコーヒーを一気に飲み干し、伝票を持って立ち上がった。

「もういい時間だ、今日のところは帰ろう。また来週あたり他の地域を探ってみるとしよう」

その声に呼応し俺もコーヒーを一気に飲み干した。先輩はそうはせず、飲みかけのまま席を立った。その表情はどこか思いつめているようにも思えた。そうして喫茶店を出て家路へと着く。この間しゃべるものは一人もいなかった。全員が全員様々なことを考えていたからだろう。今わかっていることといえば僅かに残された資料が全て事実と異なるということ。これが一体何故なのか。それを探っている。しかしこれといった完全な解決方法というのは見つかっていない。自分たちはとりあえず事実が書かれた書物を探しに各地を転々としている。これが果たしてするべき行動なのか誰も分からなかった。でもこれ意外に起こせる行動が思いつかないのも事実で、誰もこの行為に苦言を呈することはなかった。そこにあるのは見せかけの自信と、それがどうにか解決の手がかりとなって欲しいという願望だけだった。


翌日の放課後、俺は先輩とともに新聞作成のための取材へと出かけていた。いくら状況が状況だとしてもこれだけは続けたいという先輩の願いのためにその地へと赴いていた。

「ちょっと待ってください……」

「なんだ情けないな。男の子ならむしろ前で私のことを待ってくれるくらいでいて欲しいものだ」

不満を募らせながら先輩は立ち止まった。情けないとは思うが俺はその場所でかなり息を切らしていた。というのもそこは山。自分たちは涌井山という場所にいた。標高はそこまで高くなく、初心者でも登りやすいことで有名な地元から近いところにある山だった。しかしその初心者とは登山初心者であって、ずぶのど素人が楽々登れるという話ではない。もとより運動なんかに縁のない俺は先輩についていくので精一杯だった。

「もうすぐ山頂だよ!ファイト、ファイト!」

俺を鼓舞しながら先輩は悠々と俺の前を歩いていく。人から忘れられてしまう先輩にとって自分というものが自分を証明する手立てだった。だから努力で身につくことは基本なんでもできてしまう。ピアノに水泳、テニスに野球。そのほか多分人が思いつくことはあらかたできると聞いた。その専門の人に勝てるほど完璧にとはいかないのだろうけれど、素人に比べたらなんでもできてしまうのだろう。今日の登山もその一つだと思うと末恐ろしい。棚に上げて先輩の能力をいうのなら時間というものを最大限に活用した生活を送ることのできる能力とも言えるのではないだろうか。そんなことを考えながら俺は必死に険しい山道を登る。

「お疲れ。頂上だ」

そして歩くこと数十分。ようやく山頂に着いた。見晴らしがいいその場所は先輩のマンションの展望台に通ずるところがあった。見えている景色は違うけれどその壮大さという観点では同じだと思った。

「ここではどうやら何度も道がループしたり、道なりに進んだのに、気づいたら崖の目の前だった、とか幽霊に襲われたとかいろんな怪異現象が起きているみたいだから来たかったんだ」

景色を背景に意気揚々と先輩は喋る。さっきも言った通り、今日ここにいるのは何も山に遊びに来たわけでは当然ない。山というのはその壮大さ、聡明さ、神秘さから不思議な話は後をたたない。それは自分たちの地域とて例外ではない。そして当然近くに山があればその山がその噂の出どころになる。だからその噂の検証に自分たちは来ているというわけだ。

「さっきも言いましたけど、そういうのは夜起きるもんじゃないんですか」

ただ一つその検証の穴を突くのなら今来ている時間帯だ。放課後すぐに向かって、現在時刻は五時になったくらいだ。時期が時期なだけにもうあたりはだいぶ暗くなって来ているとはいうものの、今日はだいぶ晴れているというのもあって綺麗な夕日がそろそろ見れるかと言った具合だった。えてしてこういう怪談話は夜中起きるものだ。夜中に山登りなどプロでもしないことをする気は無いものの、この検証でいいのかと先輩にいう。

「甘いな、海斗くん。そんな記事、書くこと自体良くないことなんだよ」

「どういう意味ですか?」

「夜の山、自分たちが見事何事もなく登頂したとする。それを記事にして真似する人たちが出たらどうする?安全を保証したわけではない。でも捉え方によってはそうとも取れる。その記事を覚えている期間は確かに少ない。でもそのせいで何かあったら私は責任取れないよ」

「まあ、確かに」

先輩のその言葉に少し頷く。「それにさ」と先輩は続けた。

「この景色、とても綺麗じゃん。『涌井山。夕方は安全。天気がよければ絶景も見られる』ってかいたほうが、みんなが幸せだと思わない?」

一本取られたというより他にない。今となっては先輩が怪異の類を信じている理由もわかる。ただ無闇矢鱈に盲信しているわけではない。先輩が取材して書く新聞は、読んでもらう人がいかに楽しいかを基調としている。最近のあれこれで忘れていたがそれを度外視にした新聞を書くはずがなかった。

「加えて、この景色を一緒に君と見たかったっていうのが少しある」

先輩は笑ってそう言ってくる。眼前に広がる葉のない木々たちは太陽の赤みを加え、綺麗に彩られていた。それは今までの紅葉の時に見せていた顔と遜色が無いのではないかと思えた。ふと思った。ここの木々たちは春には新芽を咲かせ、夏には新緑となり、秋には紅葉をして、冬には雪を積もらせるのだろう。そうして今は太陽を実らせている。この木々たちが葉をつけない瞬間などないのだ。冴えなく、悲しい時でも誰かの力を借りて美しく輝くことが出来る。それは簡単に見えてとても難しいことだ。景色の一つとなった目の前の女性はそうなることが出来たのだとその時思った。

「最近忙しいよね」

こちらは見ずにふと先輩はそんなことを言ってきた。

「そうですね。悠長にはしていられなさそうですしね」

俺はそれに毅然と答える。忙しいのは仕方がない。このままでいると先輩にとっていいことは起きない。そう直感は言っていた。それは3人の共通見解でもあった。だから言ってしまえばこんなことをしている暇も惜しいくらいだった。だが先輩はその返事に少し悲しそうな顔を浮かべた。

「なんでこうなったのかな」

「え?」

予想もしていなかったその一言に単純な疑問を投げかけた。しかしなおも先輩の顔は曇ったままだった。

「君と出会って、新聞も作って、お互いに秘密も話して、他に私のことを知っている人も増えた。今までの私からするとどれも幸せの出来事でしかない。でもなんで私は今、皆は今こんなにも大変なんだろう」

「それは……先輩の能力を消すために……」

先輩の髪を山風がなぞる。吹き荒れるわけではないが確かにその風は先輩の顔を隠した。

「その話を聞いた当初は本気でそれに向かった。私が喉から出るほど欲しかった何気無い日常が手に入るかもしれないって思ったから。でもやっぱりそう上手くはいかない。先生も力になってくれて、いろんな資料を見せてくれて解決の糸口の先が見えた気がした。それもやっぱりうまくはいかなかった。そして無理なんだってあるときから思い始めた。最初から解決の策なんて存在してなかったんだって思うようにした。だったら諦めがつくと思ったから。でも君に、先生にそのことを伝えるわけにはいかない。これだけ頑張って私のことを救おうとしている人たちの行為を無碍になんて絶対にできない。だから日が経つにつれて、時間がないという話を聞くにつれて、私はどんどん怖くなった。それは私がどうこうされてしまうからということじゃない。それを完遂できなかったときの二人が感じるだろうその感情が私に伝わってくるのが……」

先輩は言葉をそこでつまらせた。そんなことを思う必要はない。そう俺は断言できなかった。なぜなら俺は必ず後悔してしまうから。このまま解決せず、先輩に何か嫌なことがあるとわかってしまったら俺は絶対に自分を恨むから。無力な自分を必ず呪ってしまうから。だからこそその感情を必死に隠そうとしていた。だがその必死さは隠すどころか悟らせてしまったのだ。救うはずの計画は知らず知らずのうちに先輩を苦しめていた。

「このままで私はいいから。この後に起こることは運命だと受け入れるから。私のことを大切に二人が思ってくれている。それがわかっただけで私は十分だから。もうこれ以上私を救おうとするのはやめようよ。私は君が、先生が、誰よりも大事なの。だから傷つけたくないし、苦しめたくもない。だからもう……」

先輩はかすれ声で俺にそう言ってくる。俺はそれに顔を歪めながら答える。

「…………嫌です」

とりあえずその言葉だけが出た。しかし先輩は首をふって続けた。

「ううん。駄目。もうやめよう。もう君たちの理想は矛盾を呈そうとしているんだよ。私のことを思うなら。思ってくれるのなら……」

「………嫌——」

「駄目なんだ……!」

先輩は涙を目に溜めながらそう俺に叫んだ。その顔はこの世にある全ての感情を孕んでいるかにも思えた。

「私は……私は……!君のことが……海斗くんのことが……!」

「だからこそです……!」

今度は俺が先輩の言葉を遮った。手は血が滲むほど固く結ばれ、歯も欠けるかと思うほど食いしばりながら俺はそう叫んだ。

「俺だって……。俺だって飛鳥先輩のことが……!でも……!」

その瞬間唇を噛んだ。口の中は血の味がした。だがそんなこと気にも留めず続けた。

「この感情は本物ですか……?」

「え……?」

「自分たちが感じているこの思い、感情は本物ですか……?」

俺は弱々しく先輩にそう言った。

「俺は心の底から飛鳥先輩のことを尊敬しています。一生かかっても返せないほどの恩義を感じています。だからこそ先輩のことが好きです。でもこの感情はどこからくるものですか?」

唾を飲み込み、下を向いた。

「この能力がなかったら、俺は先輩に出会うことはないでしょう。こうして同じ部活に入って、新聞を作って喋ったり、展望台から星空を眺めることはなかったでしょう……。それに飛鳥先輩の能力がなければ俺なんかよりもよっぽどいい男性に出会えていたと思います」

「それは……」

先輩は言葉を詰まらせた。俺はそれをしっかりと聞き、うつむいた。

「この出会いが、こうやって出会うことが必然だったとか、偶然だったとかそんなのはどうでもいいんです。どんな状況であれ、こうして出会えたことは素直に嬉しいですから……。だから……!」

俯いた顔を上げ先輩のことを見た。

「ただの、普通の七条飛鳥先輩を俺は好きになりたい……! そしてただの、普通の芹沢海斗を好きになってもらいたいんです……! 運命も偶然も必然も、そんなもの関係なかったんだって世界に言いたい……! だから俺は先輩の能力をなくすことを諦めきれません。俺もなくすことを諦めていません。お互い何の縛りも制限もなくなって、お互いが本当に笑える日がくるのを俺は諦めたくないんです……」

俺はそう言い切った。おこがましいなんて言葉じゃ表しきれないだろうことを叫んだ。俺の思う感情と先輩の思う感情が一致しているとは限らない。だからわがままに限りなく近い独りよがりのただの叫びだ。そうわかってはいた。それでもこれが俺の思う心からの本心だった。そうして俺がそのまま下を向いていると突然抱きしめられた。

「ごめんね……。私が諦めてちゃ、駄目だよね……」

そこで感じた温もりを俺は一生涯忘れることはないのだと思う。だから俺も強く抱きしめた。

「必ず、必ず先輩のことを救いますから……!」

太陽はもう直ぐ沈みそうになっていて、限りなく赤く見えた。その光は煌々と二人を照らしていた。

問題。

それは簡単に人のことを笑わせて、興奮させて、時には幸せにすることだってできるもの。でもそれはいとも簡単に人を悲しませ、怒らせて、時には人を殺すことだってできるもの。これは一体なんでしょう。

嘘。

物理法則というものをとったこの世界に残された人間の扱うことのできる唯一の魔法とも言える。

今日もそれで人が何人も救われ、何人もの命が失われた。

なんのものでも、使いようだとはよくいうが、その典型とも呼べるのではないだろうか。

使い方を誤ればそれは何人もの人を殺すナイフとなり、使い方さえ合っていればそれは何人もの人を救う加護にもなる。

一見そう聞けばそれは案外悪いものではないようにも思える。だが実際はどうだろう。

事実でないことを告げる。その性質上悪い方向に傾きやすい。世の中にそれを悪いものと判断しない人はいない。だからここでは嘘は悪だとすることにする。

この世が思う、正しいというものを定義づけるのなら、嘘をつかないということはその一つに数えられるだろう。その行為は誰からも褒められて、尊敬される。誰もがそうするべきであるものだと口を揃えていうのだから。

ではもう一つ話をしよう。

ある人は説いた。この世界に生を受けた時点でその人は善人なのだと。道徳的に善であると。つまり嘘をつくことはあり得ない。だがたまに出てしまうのは自己研鑽の及ばなさだとする考え。

性善説。孟子が唱えた人間の本質にまつわる説だ。

果たしてそれは本当だろうか。

人の不幸は蜜の味。それは良くないことだと定義づけたのになんでそんなことを自分たちは感じてしまうのか。それはつまるところ人の不幸というものがこの世を回しているからだ。

そんなはずはない。そう思った人がいたかもしれない。だが私はおかしなことは一切言っていない。

誰しもが人を蹴落としたい、見下したいと思い、誰よりものし上がりたい、上にいたいという欲望がこの世を回している。それが経済だ。競争なくして資本主義は成り立たない。原始時代に戻ることがないのだとするのなら、経済を回すという思想は切っても切り離せない、現代人の本能とも言えるだろう。

では先ほどの話に戻ろう。

人は生まれながらにして善。それを、自分を律することで守っているのだと。

嘘というものが善の対極にあるのだとすればそれは嘘だ。

誰しも本能で人を蹴落としたいと考えている。つまり嘘をついて出し抜きたいと考えているのだから人の本質が善であるというのは矛盾だ。

嘘をつきたくなく、仕方なくついてしまうというの自体嘘だ。

嘘をつきたいが、しないという方が正しい。

逆説的に性悪説がこの世界の本質と言える。

誰もが本質的には悪だから嘘をついてしまっても仕方がない。だが、自分を律することでそれを最小限にしていくのだと。

ならば彼は一体何者なのだろうか。

嘘というこの世の真理を一切合切嫌い、自分の信念でそれをつくことをしない。だから生まれて今まで彼は嘘をつくことをしなかった。

それは素晴らしいことだとわかっていても到底できることではない。

私はそれがどう見えたのだろうか。

今まではできたかもしれないが、今後そんなことができるはずがないという呆れ?

そんなに頑張って、もう楽になってもいいんだよという憂い?

そんな人間がいるはずない。もういい加減嘘を嘘で塗り固めるのをやめろという怒り?

それとも………………憧憬?

馬鹿馬鹿しい話はこれくらいでいいだろう。

最後にもう一つだけ。

悪は必ず正義に正される。

こればかりは仕方がない。正義はいつだって正しいのだから。そうでないものを悪とするならそれを滅ぼす方がいいに決まっている。

では問題。正義とは一体なんでしょう。

正解は多数派。

ではもう一問。


この世界が正しいのであるのなら果たして正義のヒーローはどちらだろうか?

「はいこれ、来週までに返却してね」

本の匂いと小さく聞こえる図書館司書さんのだけがこの部屋を占めていた。入った瞬間から世界が違うと感じてしまうのはなんとも不思議な感覚だ。

「本当に大きいんだね、うちの図書室って。私、寄ったことがないから新鮮」

目の前に積まれた夥しい数の本たちを眺めながら先輩は呟いた。俺と先輩は学校の図書室に来ていた。灯台下暗しではないけれどなんだかんだいって一回も調べていなかったところだ。今月分の新聞作成に目処がたった自分達はできる限りの事をしようとしていた。ただ平日にできることなどたかが知れていて、とりあえずということできていた。

「海斗くんはよくくるんだよね。ここ」

「そうですね。普通にいろんな小説とか借りるんですけど、一番は自分の読みたい小説、ここでなら最新刊買わずに読めるんですよね。学生の特権かと思いまして毎週きてますね。先輩も本好きなら是非とは思いますけど」

「うーん。まあ、私の部屋を見たらわかると思うけど割と収集癖があるからさ、借りるという行為が名残惜しく感じちゃうんだよね。せっかく吸収した知識なのに返すのかーって思っちゃう」

「あー、確かに。でもそういう人も一定数いますよね。一巻から最新刊まで本棚にないと気持ち悪い、みたいな」

「そこまでじゃないけど、蓄積が私にとっては重要だからねー」

なんて話を小声でしつつ図書室内を闊歩する。自分たちが向かっているのは雑誌、新聞紙コーナー。見たらわかる通り、ここに通っている生徒の大半が受験生だ。そんなものを読みにくる生徒の方が少ないのでそのコーナーは部屋の隅っこの方に追いやられていた。先輩の図書館間見学も兼ねているおかげもあり、着く頃には図書館内のあらゆるコーナーを見ることができた。

誰もいないその場所で自分たちはお目当ての資料を探し始めた。

朝日、読売、産経、東スポ———

週刊文春、SPA、週刊大衆———

様々な雑誌が置かれていた。ただ、これだけあって、古典資料があるとはいえ、一高校の図書室。十数年前のものがポツリと置かれているわけもなく、出だしとしては不調だった。

「まあ、あまり期待はしていませんでしたけどね」

そう呟くと先輩は首を横にふった。

「いや、まだ捨てたもんじゃないらしい。これを見ろ」

そう指差す先には紙が貼られていた。

『バックナンバーは司書までお声がけください』

なるほど、どうやらここにない過去のものは別のところに貯蔵されているらしい。さすがとしか言いようのない貯蔵量だと思った。高々雑誌を残す意味とはと思ってしまうが自分たちにとっては都合が良かった。

「有るか無いかは別として、とりあえず聞きに行きますか」

「そうだね」

今度はどこかに立ち寄ることもなく一直線にカウンターへと向かった。

「こんにちは」

「お、芹沢くんじゃ無いか。隣は……」

瀬島さんは訝しげな目で先輩のことを見た。いつもは一人でくることが多いから新鮮に見えたのかもしれない。

「私は新聞部部長、七条飛鳥です。いつも芹沢くんがお世話になっているそうで」

「なんですかその言い方は……」

「間違ってはないでしょ?」

「そうですけど……。お母さんかなんかですか」

そんな一連のやりとりをポカンと瀬島さんは見ていた。それに気づいた俺はすぐに頭を下げた。

「申し訳ないです……」

「いや、別に仲がいいのは構わないのだけれどね。それで今日はどういった要件で?」

「はい、雑誌のバックナンバーを探してもらいたくて」

「もちろん構わないよ。何年前の何をかな?」

「今から十年前の七月のものをお願いします」

その言葉を聞いた瞬間検索するためのパソコンをいじる手が止まった。

「ちなみになぜ今になってそんな古い雑誌を調べているの?」

「私たち今東海道新幹線脱線事故について調べていまして、それにまつわる何か記事は無いものかと思いまして」

瀬島さんの言葉に先輩が答えた。その言葉に瀬島さんはかなり思案している様子を浮かべた。そうしてもう一度検索用のパソコンに手を伸ばしカタカタと打ち込み始めた。

「うーん。あるにはあるんだけれど、地下のあまり整理されていないところにあるらしくて取りに行くとなると少々時間がかかりそうなんだよね。今日中となると厳しいから明日とかでもいいかな?」

「あー……。そうですか……。わっかりました。全然構いません。いいよね?」

「えっ……。ああ。大丈夫です」

「ありがとう。そういえば、明日には君のいつも借りている本の新刊が届くそうだから、それも含めて明日芹沢君きてくれる?」

その顔は真に迫る表情だった。

「あ、はい。わかりました……」

「都合がいいね。それじゃあ明日海斗君頼んだよ。とりあえず今日のところは帰ろうか」

先輩のその言葉に俺は無言で頷いた。

「うん。それじゃあ明日までには用意しておくから。また」

そういって瀬島さんは笑顔で自分たちを見送った。

「思い出が消えることを考えると明日行っても用意はされていないよね。明日一人で注文頼むのお願いしてもいいかい?」

「あ、了解です」

眉間にしわを寄せながら俺は先輩のその言葉に頷く。

「あの感じだとここの資料はここ最近で手を書けられて様子はなさそうじゃない?もしかしたら有益な情報が手に入るかもね」

意気揚々という先輩に「そうでといいですね」と暗めに一言告げた。その様子を悟られたのか「どうかした?」と聞いてきたが「大丈夫ですと」笑ってみせた。その言葉に安心したのか「そっか」と言いながら鼻歌交じりに先輩は階段を上がっていった。俺はその後をとぼとぼとついていく。

何故?

先輩の後を追いながら俺はそのことだけを考えていた。そんなことをどうして思うのか。それは何故なら瀬島さんは大きな嘘をついたからだ。

俺の能力が示すには、自分たちが所望した雑誌のバックナンバーはすぐに手に入る。雑誌の類、新聞の類が整理されていないという段階で能力がなくとも怪しむところだが、能力はそれを決定打にした。では何故そんな嘘をついたのか。期限を引き延ばすことが目的であるのだとしたらこの時間で隠蔽でもしようというのだろうか。もしくは改竄か。しかし、どちらにせよ、そうするなら事前にやればいいだけのことである。それ以前に無いと一言いえばそれで住む話だ。つまり瀬島さんは自分たちを陥れようとしてその嘘をついたわけでは無いということだ。それに、そうであることを俺に確信させるもう一つの嘘を瀬島さんはついていた。明日、新刊はこの図書室にはこない。確かにその本の新刊が出るという話は出ていた。だがその本の新刊はまだ発表段階であって、発売すらしていない。それが明日届くなど理屈が破綻していた。見え見えの嘘だ。これこそ能力など必要がない。だがこの嘘に気づかない人物が一人存在する。この二つの嘘が表すことは——。

「俺一人で来いということか……」

先輩には聞こえないくらいの声でそう呟いた。瀬島さんが俺の能力、ないしは先輩の能力を認知しているかどうかに関わらず、瀬島さんは俺一人だけをこさせようとしている。ここで俺がそれを裏切り先輩に告げたとしたらどうなるか。やめたほうがいい。自体がややこしくなるだけだと俺は悟った。能力を知っているならまだしも、知らなかったとしたら単純に情報を受け取れなくなるだけだ。双方においてメリットのあることはこのまま秘密の暗号だと思って一人で瀬島さんに会いに行くことだ。嘘をついているわけでは無いが先輩に隠し事をまたしていることに少し心が痛んだ。

 新聞作りをするわけでも無い自分たちは、部室に戻り次第帰り支度を始めた。特に何も広げていない俺はカバンを持ち、素早く部室を後にすることにした。あまりの挙動に驚かれたが「急用があるので」と一言告げたら納得したようだった。そしてすぐに俺は一階に行き、物陰に隠れながら先輩が帰るのを確認し、図書室へと向かった。入るとまたさっきの匂いが鼻腔を刺激した。嫌いな匂いでは無いはずなのに少し、不快感があった。俺は他に何も目もくれず、カウンターへと向かった。再度の登場、加えて真剣な表情で本も持たずカウンターにきた俺に瀬島さんは眉一つ動かさなかった。

「少し本でも読んで待っててくれるかい?」

そう告げると俺の手に一冊の本が手渡された。そしてこちらを見るわけでもなくさっき同様に事務作業へと戻っていった。今ここで何をいっても追い返されるとわかった俺はおずおずとその本を片手に誰もいない机へと向かった。

『本の住人』

そう銘打たれたその本は分厚いハードカバーの本だった。とてもじゃないが今日中に読み切るものでは無い。だがその量からして直ぐには終わらないということを表しているとも読み取れた。図書室を閉めるまで待っていてほしいということだろうか。早くあの言葉の真意を知りたかった俺だが、こんなところで口論するほど常識知らずでは無い。黙って従うしかないかと思い、俺は渡された本を開いた。

 内容は一人称視点で書かれたミステリー小説だった。普通の高校生があらゆる事件や揉め事にあう。その主人公はその事件に会うたびに「こんなの本の世界でしかない」としきりに叫ぶ。そうしてあらゆる事件を解決するにあたり、自分が本当に本の世界の住人なのではないかということに気付き始める。そして段々とメタ視点になっていって——。

「最終下校時刻になりました。校内に残っている生徒は速やかに荷物を片付け、下校してください。最終下校時刻になりました————」

天井からアナウンスが流れ始めた。気がつくともうすぐ八時を回る時刻になっていた。存外本が面白く読みいっていたらしい。周りを見渡しても、勉強する生徒もまばらになっていて、場所によってはもう電気が消されていた。俺は今ここにいる理由をもう一度思い返し、瀬島さんの方を見た。それに気づいたのか瀬島さんの方もこちらを見て、手招きをしてきた。その指示に従い俺はほんと荷物を持ってカウンターへと向かった。

「どうだいその本。かなり面白かっただろ。借りていくかい?」

「え、まあ……。じゃ、なくて。話が——」

すると瀬島さんは人差し指を唇に添えた。

「ここは図書室だ。静かに。その話はここが図書室として機能しなくなった後ね」

わかったかい?という風に俺の方を見た。「わかりました」と一言加え俺は全員が出ていくのを外でまった。そして待つこと数分、完全に誰もいなくなったことを確認した俺はもう一度図書室へと入っていった。

「お待たせ。それじゃあ行こうか」

話し始めるわけでもなく瀬島さんはある方向へと歩いていった。

「地下、ですか?」

「そう。君に見せたいものが二つほどあるから。持ってくるのは少々手間でね」

こちらをみずにエレベータのボタンを押した。十秒ほどまった後、重厚感のある黄色いドアが開いた。招き入れられるに従い、俺もそのエレベーターに乗る。初めて乗るものだった。いつも視界にはあったものの縁遠いものだと思っていたそれに乗っているというのは不思議な感じがした。そして直ぐに地下一階へとついた。ドアが開き、見えたのはほぼ暗闇で、非常灯がぼーっとついているだけだった。その非常灯が照らしているのはずらりと並んだ黒い背表紙の本だけで、不気味だというのが正直な感想だった。そんなことを思いながらエレベーターからでると「そこで少し待ってて」と瀬島さんが言うので少し待っていると部屋全体の灯りが灯った。その全容はあまり天井が高くない一つの大きな部屋だった。その部屋の中は鉄状の本ラックが、人一人入れるくらいの隙間を開けて所狭しと並んでいた。無機質というのがふさわしいその部屋の内装に少し恐怖すら感じた。

「ここはほとんどの人が入らないからね。少々カビ臭いが我慢してくれ。それじゃあ目的の場所まで行こうか」

瀬島さんは俺に後をついてこいという風に振り向きながら歩き出した。俺はそれに黙って従い、歩いていく。俺はその間今起きている状況について瀬島さんに聞くことにした。

「瀬島さんは一体どこまで何を知っているんですか」

コツコツと無機質なヒールの音を立てながら瀬島さんは歩いていく。その歩を休むことなく俺に質問に答えた。

「私は詳しいことは何も知らない。ただ知っている情報があるだけ。これを伝える人を私はずっと待っていた」

「何も知らないって……。能力とか、どうして先輩のことを覚えているとか……。そういうこともですか」

「『能力』ね……。確かにそういうのがないとおかしいのか。私はてっきりパラレルワールドなのかと思っていたけどそうとも考えられるか」

その質問に対し瀬島さんは意味深な言葉とともに少し笑った。

「君の言う『能力』というのがもしこの世にあるのだとしたら本当に私は知らない。私がわかっていることは七条さんをなぜか覚えているということと、事実が書き換えられているということだけ。今日になって君も覚えているということがわかったけどね。でもそれが何故なのかは本当にわからない。『能力』と言うものがあるのだとすれば彼女の能力がある程度どんなものなのか想像はつくけれど、それだって推測の域は出ない」

瀬島さんはきっぱりとそう断言した。しかし、だとしたら今この状況はどういうことなのかが気になった。何も知らない瀬島さんが俺に伝えたいこととはなんなのだろうか。

「着いたよ」

その言葉とともに瀬島さんは歩くのをやめた。そこは他のブースと何一つとして違わず、鉄のラックに所狭しと何かが乗っている。今回でいえば雑誌のバックナンバーだ。ここにあるのかと軽く目を通していると、瀬島さんはポケットから鍵を取り出した。そうしてそのラックの一番下の鍵のついた部分を開けた。中には二つほどのUSBと神の束が入っているのが見えた。

「君は東海道新幹線脱線事故について調べていると言ったよね」

「まあ、そうですね」

「そうなるとこれはやはり関係のある話なのね」

そういうと瀬島さんはそのラックの中からその紙束を出して見せた。

「その事故、私の記憶が正しければ死亡者は全員、1021人のはずなの。どう?」

「そのはずです。絶対に忘れません」

「だよね。私も大事な娘をなくしているから忘れるはずがないの。それに……」

俺は差し出されたその紙束を読む。しかし注意深く読む必要などなく、その内容は一ページ目から俺の目を射抜いた。

「これって…………」

大々的に見出しがつけられたそこには

『東海道新幹線脱線事故 驚異の全員死亡 何が原因? 車掌はその時? 医療関係者は?』

俺たちがあの当時嫌になるほど見続けてきた内容が書かれたものがあった。遺族関係者への不躾な質問攻め、死人に口無しと言わんばかりの車掌への責任押し付け、ありもしない陰謀論を説き、テロと疑う記事。三人がのどから手が出るほど欲しかった、憎たらしくも俺の知る真実が書かれたものだった。俺はもう一度そのことが書かれた紙の束をペラペラとめくる。

「これは……なんです?」

その質問に瀬島さんはうんと頷く。

「それは週刊『日本事実』のその当時の生原稿。この内容は世に出回ることがなかったから世界の異変に耐えられたのかもね」

「ということは、瀬島さんは……」

「そう。元そこの記者だったものだよ。今はこうして図書館司書やらせてもらっているけどね」

はははっと笑うと、瀬島さんは自分のことについて語り出した。

「私は元そこで働いていた。それこそなんとか砲じゃないけれど、どうやって仕入れたかもわからないようなそんなダークなネタを私も当時たくさん入手して、それを世に出すことをしていた。虫がいい話だってことは十分わかっている。人の人生を崩壊させておいて何がとは思うはずなんだけど、私はあの事故で最愛の娘をなくしている。その内容を書くことを私は心の底から嫌がった」

当時の記憶を思い出したのか顔をしかめつつ、俯いた。

「担当からは外れた。でも、私は他の人たちからすれば恰好なネタの宝庫。当然いろんなことを根掘り葉掘り聞かれた。そうして出来上がった原稿がそれ」

使われていた本物の写真もモザイクこそ掛けられているが、瀬島さんだと言われればわかるものだった。俺は子供だったこともあり、俺の祖父ほどこう言った聞かれ方はしなかった。それですらかなり不快だったというのに、自分の仲間からネタのためとはいえそういう風に聞かれるというのはどんな気持ちになるのだろうと想像しただけでおぞましかった。

「人の痛みはその人にしかわからないというのは本当だってその時わかったの。悪いことをしているのだから素っ破抜かれても仕方ないって当時は思いながらやってた。でも、状況は私とは全然違うけど、こういう風に何でもかんでも暴かれるというのは本当に嫌なんだなって分かった。その内容が世にでることだけはどうしても避けたかった私はパソコンのデータと生原稿を持ち出してその会社から逃げ出した。当然そんなことしたらクビで、いろんな縁あって私はここにいるというわけ」

そこまで言い切ると瀬島さんは近くの棚に手をついた。今まで言わなかったことを完全に吐露したのだろう。表情からその疲労具合が見て取れた。

「じゃあなんでこれ、捨てたり、処分したりしなかったんですか? 持ち出すことができたなら処分することだって可能だったのでは?」

持ち出すまでの理由はわかっても、こうして今でもその原稿が手元にあることは不思議だった。そう聞くと瀬島さんはまたもや軽く笑った。

「まあ、腐ってもジャーナリストだったんだってことだと思う。芹沢くんから見てもこの記事良くできていると思わないかい? 捨てるという選択はできなかった。私なりに罪悪感があったんだろうね。私の一存だけでこの記事を世に出さないという選択をとったことを。本当は内心、これを報道しなければ、伝えなければと思っていたのだろう」

それを聞いて俺はハッとした。

書いてある内容は確かに凄惨なものだ。もう見たくないと何度も思った。そんな内容を自分の関係のない位置から安全に書くという行為を俺はどうしても受け入れ難かった。でも話を聞いた今ならわかるが、それは必要なことなのだ。それをしなかったらニュースは存在しないし、再犯率、再事故率だって増える。俺がそうだっただけでその情報を求めている遺族だっているのだ。だからその内容を伝える人、機関、施設というのは必ず必要だ。俺よりもその手の業界に深く携わっていて、なおかつ大人な瀬島さんにとって自分が犯した行為に対する罪悪感は計り知れなかったのだろう。

「私の話はこれくらいでいいかな。先ほど言った通り、私はこの世界の奇妙な部分を知っている。君もそれに気づいたからこの情報が目新しく見えたのでしょう?」

「そうですね。まず資料自体あまり残っていないのですが、残っていたものは全員死亡という表記はなされていませんでした」

「そうだね。まあこの資料は生原稿であって、本物の雑誌として出されたものではないから信憑性を疑うなら確かに難ありだけど、私を信じてくれるというのならそこに書いてあることは確かにあの日以降何度も放送されていたものと相違がないと思う。だから芹沢くんに渡しておくよ。私は君たちがなぜいまになってこんなことを調べているのかは知らないけれど、是非とも七条さんと話し合って何かの手がかりにしてほしい」

瀬島さんはあらかじめ持ってきていた紙袋の中にそれらの資料とUSBを入れて渡してくれた。俺はそれに頭を下げてお礼を言ったが、少しきになることがあった。

「ありがとうございます……。でもこの内容ならこの場に先輩を呼んでもよかったのではないですか? 説明する手間もありますし……」

その言葉に瀬島さんは鋭い目つきでこちらを見た。

「これは私の取り越し苦労の可能性があるから先に聞いておくね。芹沢くんは七条さんについて特殊な点として何を知っているの?」

「えっ……。まあ、先輩は一日経つとあらゆる人の記憶から思い出が消えてしまうという能力を持っている、ということですかね」

「なるほどね、それ以外は?」

「いえ、特には……」

「彼女が君に何か隠しているそぶりはある?」

「それはないと思いますけど……」

嘘がわかるので。と言いかけたが言うのをやめた。おそらくそんなことを聞いているわけではないと感じたからだ。瀬島さんはその言葉に首を横にふった。

「そうだよね……。まあ見てもらったほうが早いよ。芹沢くんさっき言ったよね、全員死亡という表記が一切なくなっているって」

「はい。自分たちが持っている資料には1020人死亡って表記がなされていました」

「じゃあその一人ってどういう見解を持ってる?」

「……非常に悩ましいとこです。それが手がかりになると思って色々調べてはいるのですけれど、これといった確かな情報は出てこなくて……。表記から鑑みるに生存者なのではないかと考えられるのですが、推測の域は出ていません」

その言葉に瀬島さんは頷いた。

「まあそう考えるのが妥当だと思う。メディアはインパクトのあることなら絶対に使いたい。全員死亡ならそう表記するだろうね。なら逆はどうなんだろう。生存者が一人いる。そう表記するのもおかしくはないよね」

「まあ、確かに。インパクトはありますね」

「この世界のメディアが悪いように腐っていないのだとすればそこを血眼になって調べると思う。でも、そうなっていない。君から七条さんの能力とやらを聞いて私の中では全て合点がついたよ」

目的地に着いたのか瀬島さんはまたもや鍵を取り出し、ラックの下の部分を開けた。そこには黒い背表紙の本が一つだけ置かれていた。瀬島さんはその本を手に取り、大事そうにそれを抱えた。

「ここに書かれていることは、かなりショッキングな内容だと思う。私としてもとてもじゃないけど見たくないもの。だけどここに書かれていることは確かに伝えなくてはならないものだと私は思っている。とりわけ君には。準備ができたら見て欲しい」

手渡されたその表紙には

『東海道新完全脱線事故 死亡者一覧』

とだけ書かれていた。重厚感のあるその本は見た目よりも何倍も重く感じる。しかしそれごときではうろたえない。なんせ何度も見た書物だ。どこの図書館や施設に行ってもこの本は見た。しかしその本から得ることのできる情報はほとんどない。見るたびに胸が苦しくなるだけだ。だから中を見ることはせず、決まって一ページ目を開く。そこだけみればこの本は十分だということがわかっていた。だから俺はいつものようにそうした。

「…………!」

思わず目を見開いた。いつもなら書いているはずの文言がそこにはなかった。

死亡者 計1021人

確かにそこにはそう明記されていた。思わず俺は瀬島さんの方を見た。瀬島さんは悲しそうな表情を浮かべ頷いた。

「そこには君たちの知らないもう一人の死亡者が書いてあるよ。見るのは十ページ目だけで大丈夫だと思う」

俺はそれに従いページをめくる。あ行から始まったその一覧は、十ページ目でさ行のし、を迎えていた。

その瞬間全身に電撃が走るのを感じた。俺は別に死亡者のすべての名前を覚えているわけではない。記憶しているのは自分の両親と先生の奥さんの名前だけだ。橋下ではあまりにも遠すぎるし、芹沢でも満たしていない。でも確かに瀬島さんはそこをみればわかるといった。自分でそれが何故なのかを考えないようにして、そこに書いてある名前を注視して見ていった。

ふと、俺は物珍しい名字がそこで目に入った、いや入ってしまった。俺は吸い込まれるようにその名字を辿った。

「…………なんで」

同姓同名であるのかもしれない。確率論でいえば低いかもしれないが、ない話ではない。年齢。いや、同い年の同姓同名。あり得ない話ではない。

でも俺にはそれが俺の知る人と同姓同名を持つ別の人物を指すわけではないことがわかってしまった。俺は心の中で軽く願ったのだろう。

先輩ではないよな、と。

だからその本は俺に確かに伝えてくれた。

ホント

俺の目にはその文字が浮かんで見えた。


あまりの衝撃に耐えられなかった俺はそこで失神してしまったらしい。気づいたら図書室のソファーの上で寝転がっていた。目を覚ますと近くには俺のことを気遣ってくれている瀬島さんの顔が見えた。

「あ、俺……」

「よかった。このまま目覚めなかったらどうしようかと思っちゃった」

安心したのか瀬島さんはやつれ気味に笑った。

「こうなることは薄々わかってはいたけどいざとなると焦るものだね」

「あ、いや、すいません……」

「いいよ。そりゃさっきまで一緒にいた人物がもう死んでいるなんて言われたら失神の一つや二つしておかしくはないからね」

なんとか場を和ませたいのかはははと乾いた笑いをするが、内容が内容なだけにそれは図書室の中で寂しく響くだけだった。

死亡者一覧 十ページ二行目、そこには確かに

七条飛鳥 7歳

と書かれていた。これがまぎれもない俺の知る七条飛鳥先輩であることは俺の能力が示していた。

「あれは、どういう意味なんですか?」

理解が追いつかない。いや、したくないというのが本当だろう。しかし理解しなければならないというのは事実だ。俺は生唾を飲みながら聞いた。

「どういう意味も何も、あれが事実だよ。彼女こと七条飛鳥さんは死んでいるんだ」

「しかし……」

その通りと言いたげに瀬島さんは頷いた。

「だけど、それはあくまでも私たちが“元”いた世界の話。この世界での七条さんは生きているよ」

「元……?今の世界……?」

聞きなれないその言葉に俺は思わず顔をしかめた。

「そう。この世界はおそらく私たちがいた世界とは違うパラレルワールドなんだと思う」

「どういう……」

「何かの拍子で私たちはあの東海道新幹線脱線事故で唯一、七条さんだけが生き残る世界に飛ばされたんだと思う。その証拠に私たちはそうではない世界を知っていて、他の人たちはその事実を知らない」

「…………つまり今自分たちが暮らしているこの世界はあの事故が起こる前とは違う世界だってことですか?」

「うん。そうとしか考えられない。芹沢くんが手にしている本は本当のことを書いているし、東海道新幹線脱線事故において全員死亡ではないということに疑問を抱いているのはかなり少数の人物だけだからね」

かなり少数、俺や瀬島さん、先生などを加味するとおそらく能力を持っている人物だけということだろうか。

「私も確証がなかっただけど、今日君と話して多分自分の中で整理がついたと思う。君が言っていた能力って私の仮説が正しければその人が望んだことが能力となって反映されるっていう仕組みだったりしない?」

その言葉に俺は首肯する。

「だったらもうわかるんじゃない? どうして七条さんがあんな能力を持っているかってことが」

俺はすぐに考え始めた。

事故。唯一の生存者。そのことが書かれた記事がないこと。人の記憶から消える能力。記憶喪失…………。

俺が今まで聞いた様々なピースをつなぎ合わせていく。すると一つの答えが浮かび上がった。しかし、気づけば俺は下を向いていた。

それは当たり前に起こることだった。でも当事者でかつあの年齢の彼女にそれが耐えられるわけがなかった。

「……回避する策はなかったということですか」

「難しいだろうね……」

先輩は生きていた。ただそれだけのことである。

前の世界は一度置くとして、この世界では飛鳥先輩はあの事故で唯一の生存者になる。世の中が1020人という甚大な死亡者に焦点を当てることはもちろんだ。しかし、その唯一生き残ったその子に焦点を当てるというのも筋が通る。

先輩が当時どんな怪我をしたのか、はたまた何もなく生きていたのかはわからない。しかし、それに目をつけられたありとあらゆる人たちから質問攻めにあったことは想像に固くなかった。記者が、他の遺族の親族が、テレビが、彼女に意見を求めてくる。

事故起きた時の状況は? その時あなたはどこに? あなたが見たものを話してください。

当然それを止めようとする人、彼女を慰めようとする人も出てくる。

前者からは絶大な嫌悪を、後者には絶大な罪悪感を齢7歳にして経験することになったということだろう。先輩からすればただ生きていた、ただそれだけだというのに。

そんな彼女が思いつくことは


「皆の記憶から私を忘れればいいのに」


という誰も傷つけない選択だったのかもしれない。

その願いは天に届いた。

ほどなくして皆の記憶から七条飛鳥と関わったという記憶がなくなった。この世界に1020人という記述だけが書かれたものがあったのはその内容が七条先輩についての記載をしようとしなかったから。また逆に事故すら記述がないものが大半を占めるのはほとんどのところが七条先輩にコンタクトを取ろうとしたからだ。

『私と関わった人の記憶から私との思い出を失わせる』

見事にその能力は彼女の願いを聞き入れたというわけだ。

その後本当にその能力が働いた彼女は大いに驚いた。しかしいいことだけではすまなかった。一日経てば誰でも先輩のことを覚えていなくなってしまったのだから。赤の他人ならまだしも、自分の両親にさえ。その衝撃でパンクした先輩は記憶喪失ということで自分を保とうとしたのだろう。起きてからは自分の能力を受け入れることで今の先輩になったというわけだ。

この話、誰が悪いというわけではない。デリカシーの問題を考えるのであれば問いただしてくる人が悪いと言えるかもしれない。しかし記者ならいざ知らず、遺族の人がどうしてと思う気持ちは少なからずあると思う。それを問い質したところで亡くなった方は帰ってはこない。それでも何か言いたくなるというのを否定することは出来なかった。

「今話したことすべてを鑑みて、私は七条さんにこのことを伝えることをしなかった。どんな綻びからそのことがバレるかわからなかったから、あちらから接触があるまでは覚えていることも黙ってた。誰も彼女のことを認識していないのは見ていてとても心苦しかったけれどね……。だから今日君が、七条さんと歩いて談笑している姿を見て本当によかったと思った。それと同時にこのことを伝えるべきだともね。まさかいきなりその話題だとは思わなかったけれど」

はははっと瀬島さんは笑った。俺はその姿にまたもや笑うことはできなかった。

「まあ、こんなこと突然言われても困るよね。でもね、ここまで言ってもはや無責任だろと言われるかもしれないけれど、あくまでも事実確認ということを忘れないでほしい。いずれ何かの機会にこの事実を知る日が来るかもしれない。その時に君がそばにいてしっかり支えられるようにと思ってのことなの。二人とも知らなかったら何が起こるかわかったものではないでしょ? 君で気絶だもの。本人ならどうなるかわからない。その時に事実を知っている君が彼女の支えになってほしい」

瀬島さんは懇願するように俺の手を握った。

「確かに七条さんは死んだという事実がある。でもそれは前の世界の話。今私たちが生きているこの世界では紛れもなく七条さんは生きている。この事実もまた不変。加えて彼女は人から忘れられてしまうという悲しき能力も持っている。だからどうか彼女のことを忘れない君が側にいて、彼女を助けてあげて。私はこうして君に伝えることで精一杯。私にはおそらくそれくらいの力しかない、だけど君には漠然とだけど何かを変えられる力がある気がする。だから頑張ってね」

橋本先生同様にずっと見続けてきたからこそ思う信念のようなものを感じた。なぜそうなっているのかがわからない瀬島さんにとって、ただ悲しき事実だけを知っているというのは本当に苦しかったのではないだろうか。

「分かりました。必ず」

その握られた手をもう一度握り返して返事をした。


その翌日俺は怒涛の一日を過ごすことになった。

昨日用意しておくという口実を作った雑誌類を取りに行くという話だった俺は先輩の指示を受け、もう一度図書室へときていた。ついでだからと瀬島さんにお礼を言い行った。しかし瀬島さんは昨日のこと、ましてや先輩のことを一切覚えてはいなかった。嘘が見破れる俺にとってそれが本当であることは火を見るより明らかであって、ひどく困惑した。そんな呆然とした足取りで戻っている時だった。俺は何者かに後頭部を殴打され、そのまま誘拐されることになった。

何者とはいったが概ね検討はついた。それは意識が薄らいで行く最中確かにその首謀者らしき人物の声音を聞き取ったからだ。

「もう十分気は熟しましたね。大変ご苦労様でした。芹沢くん」

「な………。な、中山…………」

俺はまたあいつに負けたのかと心の中で思った。

目覚めた。辺りを見渡す。立ち上がり自分の所在を確認した。するとすぐに自分がどこにいるかはわかった。

「病院……?」

思わず呟きながら俺は服装を見た。青色のやけにゆとりのある一張羅。どこからどう見ても病院着だった。なぜ自分がそんなものを着て、病院にいるのか皆目検討もつかなかった。しかしそれをすぐにわからしめたのはとてつもない頭痛だった。俺は立っていられず、ベッドに寄りかかった。

「意識が戻ったのか。これこれ、あまりすぐに立っては危ないじゃないか。芹沢君。君は頭部をひどく打っているのだから」

すると忌々しく、憎たらしいその顔が俺の目の前に現れた。忘れもしないその人物。

「中山……」

怒りを込めながら俺は重々しくその名前を口にした。

「その顔ができれば大丈夫そうだね。そりゃそうなのだが」

中山はひらひらと手を振り、おどけてみせた。

「これはお前の仕業だろ」

「さて、何のことか。記憶が混濁しているようだ。君は呆然としていたら階段から落ちてしまい、頭部を強く殴打したのだよ。幸い一命は取り留めたみたいでよかった」

「……人間の皮を被った悪魔が」

「ほめ言葉として受け取っておこう」

俺の能力が中山の言葉を嘘だと判断した。どこまで人間が腐ればこんなことが出来るというのだろうか。怒りを通り越して呆れの領域だった。

「どちらにせよ君はその頭部が完治するまでこの病院にいる必要がある。すでに君のことを面倒見てくれる祖父母たちにも伝えてある。じきにまた見舞いでも来るだろ」

「また……?」

その言葉に引っかかりを覚えた俺は思わず時計のカレンダーを確認した。

十二月一五日

殴打されたのが先輩の話を聞いてから翌日の話だ。その日は記憶が正しければ十二月八日だったと記憶している。つまり一週間も寝ていたということになる。

「先輩は……!」

自分の心配よりも先に先輩のことが頭によぎった。ここにいるということは学校を一週間以上も休んでいたことになる。どうしてもそこが気になってしまった。

「あー。彼女ね。七条さん。さて今は何をしているのだろうね。私の調べによると彼女は学校に通っていないそうだけれど」

「な………! どうして……! おい答えろ、中山!」

平然と言いのける中山に罵声を浴びせる。頭がひどく疼くのを感じたが気にしなかった。

「まあ、そう焦るな。とりあえずお爺様に元気な姿でも見せたらどうだね」

すると中山は俺との会話を切って誰かに挨拶をした。バタバタと音がすると思ったら病室に見慣れた顔が見えた。

「大丈夫か、海斗」

「お、おじいちゃん……」

まぎれもない自分の祖父が息を切らしてそこにはいた。今日にでも目覚めるという話でも聞いていたのか、タイミングよく病室にきていた。

「いや。よかったです。一時はどうなるかと……」

「そうですね。こちらも無事手術が成功してよかったです」

当たり前のように嘘を吐きながら話す中山のその姿に俺は怒りが満ちた。

「おじいちゃん、こんな奴の話を聞くな! こいつは詐欺師なんだ!」

「おい、海斗、どうした」

俺の怒号に不安そうに祖父が返してきた。

「いや、術後こういったケースは少なくないのです。どうやら海斗君は少し虚言癖が後遺症で残ってしまったそうで……。それもすぐに回復しますのでしばらくの間は……」

「虚言癖はどっちだ! おじいちゃん覚えていないの? お母さんのおばあちゃんががんで死んだって話が嘘だって話したじゃん! こいつはその時の医者なんだよ!」

俺はまくし立てながら祖父にそう訴えた。しかし祖父はこちらを哀れむような視線を向けて中山に向き合った。

「どうぞよろしくお願いします……」

「もちろんです。誠心誠意当たらせていただきます」

「海斗、しばらくは何もせずここでゆっくりとしなさい。日頃の疲れだそうだから。それじゃあおばあちゃんにも伝えておくからね。いや、目覚めて本当に良かったです。よろしくお願いします」

「はい」

祖父は中山に何度もお辞儀をして病室を後にした。その病室には俺と中山二人だけが残された。

「虚言癖、大変そうだな」

中山はニヤついた顔でそう俺に言ってきた。今すぐにでも殴りたかった。しかし体はいうことを聞いてはくれなかった。持ち上げた拳はすぐにベッドに落ちた。

「俺の家族に何をした……!」

「何。別段何かをしたわけじゃないさ。少しばかり記憶の改竄をね。私と君の家族では少し相性が悪いのでね」

「…………!」

その言葉に声すら出なかった。体が健全であれば俺はすぐにでも飛びかかっていただろう。それが叶わないのも中山のせいだと思うともう何かが事切れそうだった。気がつけば治ったはずの握りこぶしからまたもや血がにじみ出ていた。

「ま、ここまできてしまった時点でゲームエンドだからね。七条さんの話を含めて色々と話そうか」

聞きたかったのだろと言わんばかりの表情でこちらを見てくる。俺はただそれに対して睨みつけることしかできなかった。

「さて、私の忠告を守らないで君は彼女とかかわり、どれだけの情報を手に入れることができたのかな。まあ、知らないからこそ彼女と関わっていたとも考えられるわけだが」

馬鹿にするようにこちらを見てくる。

「色々聞きたいことはあるが……。君が一番知りたかったであろう情報である能力を消す方法。これを君は知ることが出来たかい?」

その言葉に俺は無言で首を振った。

「そこがわからないともはやお話にならないわけだが。まあいい。教えてやろう。能力を消す方法、いや消えてしまう方法というのは『自己の能力に納得する』ことだ」

「どういう意味だ……?」

「単純さ。自分が持つ能力に対して『あってよかった』と思った時その能力は消えるということさ。これが私にとってはかなり忌避するべきことなんだ」

怖い怖いと言いながら中山は自身の体を抱いた。

「お前が持つ能力が消えるからか?」

俺はすかさず質問をした。中山は人間というものの不快さを十分に嫌う。だからこそ嘘という不確定要素を消すために自身に嘘がわかる能力を宿した。それが消えるのは中山にとって嫌なことに違いはない。そう思って聞いたが違うようで、あきれた様子でこちらを見てきた。

「もし消えるようならばもう一度付け直せばいいだけさ。私のは自前なのだから。わかっていないようだから聞くが君は一体私が何をやろうとしているか知っているかい?」

その質問にも俺は首を横にふった。

「そうさ。分かるはずがない。なぜなら何もする気はないのだから」

「は?」

思わずそう声に出ていた。しかし中山は当たり前のように続けた。

「だってそうではないか。私はいまなそうと思えばなんだってすることができる。苦労など必要がない。金が欲しければいくらでも生み出すことができるし、子供騙しではないが世界制服だって私にかかれば一瞬だ。そんな私が主だって何かをしようとする必要などない」

「だったらなぜ俺たちをこんな目に……」

その言葉に中山は首を大きく横にふった。

「しかしそんな私にとって嫌なことが一つある。それはこの世界自体がなくなること。これだけは私にはどうすることもできない。なんでもできる、そんな世界を私は手放したくはないのだよ」

「質問の答えになってない。はぐらかすな」

「何をおっしゃるのですか。質問はしっかりと返しましたよ? 私はこの世界を失いたくない。だから君たちに少し割りを食ってもらっているとそういったではないですか」

「意味がわからないぞ……。俺と先輩、何が世界と関係があるっていうんだ」

その言葉に中山は笑った。

「君は知っているだろ? 若干違うのだが、この世界は元いた世界の並行位相、パラレルワールドであることを。それが七条飛鳥によるものだということを」

「先輩によるもの……?」

「おっとそこには気づいていなかったか。そうだ。これは彼女のもう一つの能力なんだ。

『自己の生存する世界を創造する能力』これが彼女の持つもう一つの能力さ。まあ能力というのにはあまりにも甚大で、荘厳で、常軌を逸しているわけだが」

「世界を創造する能力?」

「ああ。元の世界、東海道新幹線脱線事故にて全員死亡を記録した世界。その世界で彼女は一つの大きな願い事をしたんだ。『私は死にたくない』とね。神はその願いを答えることにした。だが残念なことにどの並行世界にも東海道新幹線脱線事故を免れるものはなかった。だから神は彼女にある能力を授けた。それが先ほど言った『自己の生存する世界を創造する能力』。だがそれはあくまで自己の生存に重きを置いている。だからこの世界ではあの事故で唯一彼女だけが生き残るというわけのわからない世界になっているというわけさ」

その後の話は瀬島さんから聞いた話と同じだった。一人だけ生き残るというそれを嫌がった先輩がもう一つの能力を発現させさせ今に至るという話だった。

「しかしそれは幸か不幸か上手い作用に働いた。都合よく彼女はこの世界を恨むことになるわけだから」

「それのどこが幸福だっていうんだ」

そう聞くと中山は大きく頷いた。

「これが全てなんだ。いいか、私は言ったよな。能力は消えると。それは自身の納得によるものだと。では整理しよう。彼女は世界を創造する能力を持っている。それを持っていて良かったと納得した場合この世界はどうなる? そう、無くなる。だが彼女の『自身を忘れさせる能力』のおかげでそれはあり得なくなった。彼女は常に恨み続けるであろう。なんでこんな世界があるのだとね。結果的にこの世界は彼女が死ぬまで無くなることはない。ほらこれは実にいいことに傾いた。だが、」

中山は俺の方を睨みつけてきた。

「なぜだかわからないがそんな安定した世界を崩壊させようと暗躍する悪者が出てきた。それが君だ。芹沢海斗」

俺は言いたいことがわかったから何も答えずにただ唾を飲み込んだ。

「この世界はな、七条飛鳥を幸せにしてはいけないんだ。こんな世界が、こんな能力があって良かった。そう思わせてはいけないんだ。その弊害はもう出ているのだぞ? 最近世界各地で自然災害が多発しているだろ? つまり世界が崩壊している兆しなんだ。あのまま彼女を幸せにし続けていたら速度を増しておそらく一気に崩壊するだろうね。ああ、悍ましい」

「お前、何を言っているのかわかっているのか……?」

黙っていたがあまりの発言に声を震わせながらそう聞いた。だが何をというようににやけた顔で返してきた。

「何を言っているというのはこちらの台詞だ。この世界の異変に気づいているのは七条飛鳥を観測することのできるごく一部の人間のみ。他の人々は何も変わっていないと思ってこの世界を生きている。ならば聞くが、誰も知らない一人を犠牲にして世界を維持することができるのと、誰も知らない一人を大事にして世界を崩壊させる。世の中の人々はどちらを選ぶだろうか。それをしようとしている君とそれを守ろうとする私、果たして正義のヒーローはどちらだろうか」

「でも……!」

「いいね。その悲劇の主人公のような顔。愛するヒロインがここまでコケにされているんだ。そりゃ怒ってしかるべきだ。とはいえ、ここまで計画のうちなのだがね」

「どういう意味だ……」

うんうんとにど中山は頷く。

「私は安心したいのだよ。不確定な要素は徹底的に排除したいたちでね。だからそのために君たちのその恋心とかいうものを利用させてもらったわけだ」

「せ、先輩に何をしたんだ……」

「何もしていないさ。下手に手を加えて自殺でもされたらたまったものではないからね。だから彼女には単純にこのことすべてを伝えたのさ」

はっはっはっと中山は高らかに笑った。

「いや。面白いよね。人の絶望の顔を見るというのは。それに加えて七条さんは実に頭の回転が早い。ある程度のことを話したらすぐにすべてを理解して、項垂れたよ。いやあの時笑わなかったのは自分に拍手をしたいものだ」

「全部って……」

心底楽しいというように中山は笑いながら俺にその内容を告げた。

「自分が幸せになることはこの世界を崩壊させるということをすぐに自覚したのだろうね。世界を崩壊させて自身も死のうと考えただろうけどそれは同時に自分の大切な人たちを殺すことにつながるともすぐに理解した。彼女に残された道はただ何もせず誰とも関わらず生きていくということだろうね」

「そんな……」

あまりの出来事に俺は固まった。怒りを通り越してもはや諦念が自分の中で支配していた。そんな表情にまたもやはっはっはっと中山笑った。

「私は彼女に感謝をしなければならない。こんな世界を作ってくれてどうもありがとう。私にはそう言った事実を変更する能力は生み出せないからね。そしてそれを維持するために自らを犠牲にしてくれてどうもありがとう、とね。ま、そういうわけだから彼女は君のことを思って、この世界のことを思ってもう二度と世の中に出てくることはないだろうね。この世界を守るために彼女は尊い犠牲になったというわけだ。自分が巻いた種だから自分で処理するのが当たり前ではあるのだけれどね」

そういうと中山はコツコツと歩き出した。

「先輩は……。七条飛鳥さんは生きたいとただそれだけを願ったのに……」

「生きることは出来ているだろ。人並みではないにしろ。まあ、君と出会うことがなければこんなことにはならなかっただろうけれどね」

そう吐き捨てると中山は病室を後にした。


翌日、翌日、そのまた翌日と俺はただ生きるだけの人間をした。いっそ俺が死んでしまった方が先輩は楽になれるのではないかと何度も考えた。だが時折くる自分の祖父や祖母を見るとそうも出来なくなってしまう。先輩だってそんなことを絶対に望んでいないことなどわかっていた。負の連鎖を続けるわけにはいかない。だから何かしなければいけないが何をしたらいいかがわからない。何か行動することがまた何かの悲しみを産むかもしれないと思うと本当に胸が詰まった。結局は嘘がわかるだけのただの一般人に過ぎないのだ。俺が先輩を救おうと思うこと自体おこがましかったのではないかと挫けそうになっていた。きっかけがあれば俺はいくらでも堕ちてしまうだろう。そんな自覚があった。

「やっと入ることができた」

だからこそこの訪問は俺にとって悪いものなのかもしれないと心の中で思ってしまった。

「橋本先生……」

「なんで面会謝絶になんかしてるんだと思ったら、されてただけか。久しぶりだな。元気、ではないか」

なんとも複雑な顔をして先生は俺の横の椅子に座った。

「どうしてここに」

「どうしてもクソもあるか。お前が頭を強打して病院に運ばれたとなれば駆けつけるのが教師として、顧問として、協力者として当然だろ」

ありがとうの意味を込めて俺はお辞儀をした。

「しかし、今日になるまで入ることすらままならなかった。警備が随分と硬いな。面会謝絶だって言われた時は意味がわからなかった。とはいえあえてよかった」

先生は愚痴を言いながら近くの椅子にきて来たコートをかけた。

「…………電話とかするべきでしたね」

「まあ仕方ない。状況が状況だし。結果的にこうして会えているわけだからな」

先生は笑って俺のことをなだめた。だが俺はうつむいたまま動けなかった。

それは嘘だろ? 

心の中で誰かがそう言ってきた。俺はその姿勢のまま口を開いた。

「……いや。電話しなかったのは多分自分の意志です。すいません」

その言葉に先生は分からないというように首を傾げた。

でも俺の言ったことは間違っていない。本当に屑だ。そう思った。

起きて中山から話を聞いた後俺はすぐにでも先生に電話して聞いた話を伝えるべきだった。だがそうはしなかった。何故か。意気消沈していたから。携帯電話が手元になかったから。何も手につかなかったから。だからしなかった…………。

違う。違う。違う。

そんなのは都合のいい解釈だということは心の何処かでわかっていた。岸田俊子俺は何も成長していなかったのだ。先輩と出会って幾分か大人になったと思っていた。だがそれすらも幻想だった。俺は先輩と出会うまでの自分に逆戻りしていた。

しない、やらない理由を見つけて、こじつけて、それに縋る。

嘘がわかる。それを言わない理由を見つけて、縋っていた昔の自分と何も変わってはいなかった。

でも、それでも俺は怖かった。何故しなかったのかは冷静になればすぐにわかる。自己防衛。ただその一言に尽きた。俺は怖かったのだ。

————だ。そのことを改めて自覚するのが怖かった。先生にそのことを話すということは改めてその事実を認めなくてはならないということだ。俺はそれをどうしてもしたくなかった。認めたくなかった。こうして今まで頑張ってきたものが全てなくなってしまう。それを先生に伝えることが、それを自覚することが本当に嫌だった。

「はっきり言うなら今日、今日以降も先生と会いたくなかったんです……」

「…………」

その言葉に先生は何も言わなかった。先生の表情は驚くわけでもなく、真摯に俺の言葉を待っているようだった。

「俺は屑ですから……」

そう言うと先生は軽く俺の頭を小突いた。そして固く結ばれた口元を緩めた。

「自分のことを卑下するな。お前は何も悪くないんだから。どうせ中山になんか言われたんだろ? いいから話してみろよ」

先生は困ったような、笑ったような顔をした。俺はその顔に思わず涙を流した。そして決意を固めた。全てを話して、もう終わりにしようと。

俺は先生に知っているだけのことを全て話した。この世界のこと、先輩のこと、俺がなぜ病院にいるかのこと、そしてほぼ全てに中山が関わっていると言うこと。それはもう報告なんかではなく、もうどうすることもできない結論をただただ述べている、そんな気分だった。諦念、諦観、観念。ありとあらゆる自分の中での諦めの気持ちを載せた。

「だから……もう……」

言い終えて俺は『無理だ』。その言葉を口にしようとした。今まで一度たりとも言ったことも思ったこともないその言葉を。俺は何となくわかっていた。それを言ってしまった瞬間全てが終わるということを。恐らく後戻りはできない。でも言わなくては進まない。そうとも思っていた。

「だからもう……」

「だからもうなんだ」

言おうと前のめりになった瞬間先生がそう俺に言って来た。

「だからもう諦めるのか。だからもう無理だと思うのか。そうなのか?」

目を見開き俺を煽るように先生はそう言ってきた。

「そうか残念だ。俺の知っている芹沢という男はそういうやつじゃないと思っていたんだが。どうやら期待外れだったようだ」

先生は呆れたというように首を傾げた。その言動に何かが切れてしまった俺は目をつむり、体を震わせそして先生を睨みつけた。

「話を聞いていなかったんですか! もうこんな状況じゃ救うことなんて……! それにこれ以上続ければ他の人にまで迷惑をかけてしまう……。俺はもう……」

「そうか」

先生は立ち上がって、病室の窓の方まで歩いていった。今の今まで気がつかなかったが、外には僅かながらの雨が降っていた。その時に初めて先生の肩が若干濡れいていることにも気がついた。

「俺は元医者だからわかることがある。なんせ、こういった経験は何度だってして来たからな。手術をしたくない。怖い。死にたくないと、大の大人ですら叫ぶことがある。そんな時俺はいつも言う言葉がある」

先生は振り返って、俺の方を真剣にまっすぐな眼差しで見て来た。

「願い事っていうのは願ったって叶わないことの方が多い。でも、願わない人が叶うことはない」

先生はそう言いのけた。

「お前は嘘が嫌いなんだろ? お前は嘘を憎むんだろ? それで自分がそうなっていたら元も子もないじゃないか。お前は俺になんて言ったんだ? 『先輩を救う』。そう言ったじゃないか」

そこまでいうと先生は笑った。

「だからお前が言うべき言葉は、言いたい言葉はそんな言葉じゃねえはずだ。自分に嘘をつくなよ。どんなに絶望的でもお前の信念は曲げるな。らしくない」

先生はボロボロに泣いている俺を見て笑って頷いた。俺はその言葉に促されるように口を開いた。どんなに打ちひしがれていても、どんなに絶望の淵にいてもずっと持っていたものがあったから。

「俺は…………! 俺は…………! 先輩を…………! 救いたい…………!」

その言葉を聞くと先生は俺を抱きしめた。外をみれば雨はやんで少し晴れ間が見えていた。


「かなり状況は特殊になっているようだな」

「まあ、そうですね」

落ち着きを取り戻した後もう一度話の整理を始めた。主観を出し切った俺の説明では不十分な点が多くあったからだ。

「とはいえ、あまり俺の計画には支障を来さない気がするがな」

「何か案が……?」

「案、というにはお前頼りではあるんだが」

先生は少し思案した後こちらを見た。

「俺はその話を聞いていくつか疑問が思い浮かんだ。まず一つはなぜ中山が芹沢のことを殺さないのか」

なんのためらいもなく先生は言って来た。

「殺すって……」

「いやなんらおかしいところはない。あいつは自分の利益があることなら人殺しだって厭わない、そんな奴だ。でも今回の計画、あいつは七条の嫌世を狙って芹沢を泳がしていたと聞いたが、怪しい。それだとリスクの方が大きい」

「リスク?」

「簡単な話だ。そんなことをしなくても七条はこの世界を壊すに至らないからだ。『他者の記憶から自己の思い出を忘れさせる能力』。そんなものを持ってしまった時点でこの世界を好きになることなんてないはずない。結果的に世界を維持するにつながる。あいつの目標は何もしなくても達成できたはずなんだ。だからあえてお前を泳がすのは自暴自棄にでもなって自殺されたり、想定よりも早い段階で世界が崩壊することのリスクを考えると割りに合わない。だったら芽を潰すように俺ならばはじめから殺すと思う」

先生は手でナイフを作り俺の腹に刺した。

「でもあいつはしなかった。いや、しようとは必ずしていた。でも出来なかった。それが正しい答えなんだと思う」

「出来ないって……。まるで俺が死なないみたいな……」

先生はその言葉に鼻で笑った。

「あながち間違いではないかもしれんぞ。さっきの話もそうだが、いまの状況だってそうだ。ここまで芹沢、お前を気にかける理由が見当たらない。頭部を殴打された時点で殺したって構わなかったはずだ。それを、手術をして病院で看護。マッチポンプだ。とてもじゃないがそこまでする意味もメリットも思いつかない。それが確かに七条を錯乱させないためだという意見もわからなくは無いが、だとしてもこうして七条救出作戦を練っているくらいの反乱分子だ。生かしておく方のリスクが大きい」

「まあ、確かに……」

自分が死ぬか死なないかの話の時点でなんともいえないが、先生の話には整合性があるように思えた。確かにこの状況、気にも留めなかったがおかしいと言われたらそうな気がする。俺の祖母の時はお金の為だったが、それだけでいとも簡単にあいつは人を殺せる。今回は世界の維持だ。お金よりも大切なその案件に対して人一人くらいあいつなら殺して当然だ。それをしないのは何故? それが情といった類では無いことは知っている。だから理由があるはずだ。でもそれがイマイチ思いつかなかった。何故ならあいつがいうことは嘘がなかったから……。嘘がない?

「でも、先生。中山は俺に対して一切嘘はついていません。信じられないかもしれないですけど、俺はあいつの話の中にそれらしき反応を見て取れませんでした。そこまで深い理由があるのならもうボロが出ていても——」

「俺は女だ」

「え?」

橋本先生は俺の言葉にかぶせて訳のわからないことを言って来た。

「俺は女だ。どうだ? これをお前は嘘だと見抜いたか?」

「そりゃ。見ればというか、なんというか……」

至極当たり前のことを言う先生に困惑の表情を浮かべながら返す。しかしそうでは無いと先生は首を横にふった。

「そう言った話じゃ無い。『能力』でそれを感じ取れたかと聞いているんだ」

「え……。あっ」

突然のことであったということはあるかもしれない。でも二度のその発言に対して俺の能力は反応を示さなかった。

「どういうことですか?」

「これまた単純だ。俺は心の中で『好きな人は』と付け加えながら口にした。それは別に嘘でもなんでも無い、ただの事実だ。おそらくこれを利用されたんだろうな」

その言葉に思わず目を丸くした。

「じゃあ俺は口に出ている言葉が嘘だとしても、当の本人が嘘だと思っていないなら気づけないということですか?」

「まあそういうことだろうな。あいつはお前が、嘘がわかる能力者だということを知っている。自分自身もそうであるのならその対策は容易に出来たんだろう。あいつの言ったこと、全てが嘘では無いにしろ完全に鵜呑みにするのは良く無いだろうな」

「そんな……」

そんな言葉が溢れた。忌み嫌ってきたとはいえ、この力のおかげで助かったことは何回もある。でもそれを利用される時が来るとは思わなかった。

「だからとりあえず今回の話は中山の話は完全ではないと言う程で始めたい。つまり、中山は何らかの理由で芹沢を殺せない。じゃあそれは何なのか。それに対して裏付けるように俺はある一つの理由が思い浮かんでいるんだ」

「それって言うのは」

固唾を呑見ながら先生にそう聞くと、先生は頷いた。

「『嘘がわかる』と言う能力の他にもう一つの能力がお前にはあるんじゃないかと言うことだ」

「もう一つの……能力……」

先生の言葉を反芻させる。先輩同様俺にも別の力があると言うことか。とはいえ思いつく節はなかった。

「俺は最初お前から七条のことを視認できる理由が、嘘がわかること。能力を嘘だと認識しているから忘れない。そう説明を受けた時点で少し違和感があった。前にも言ったが、少々こじつけがすぎるのではないかってな。そこで色々精査していった結果、俺の予想は間違ってなかったことが判明した。突然だが、白神って覚えているか?」

「え、透明人間のですか?」

「そうだ。お前が入院中俺も色々調べるに当たって、とりあえず身近な人から聞いていくかと思って白神に色々話を聞いたんだ」

そこから先生は白神さんに質問したことを淡々と述べた。先輩のこと、あの日のこと、それ以前の話や、能力について詳しく聞いたということを話した。

「そこで一つ気になる点があった。白神は能力を学校で使ったのは窃盗が起きるより以前、詳しく言うのなら九月の段階で使っていたと話した。これは別段おかしな点じゃない。窃盗するに当たって本当にこの学校の生徒が誰にも自分がわからないのかというのを試したかったのだそうだ。分かりたくはないが、筋は通っていると思わないか?」

その質問に首肯する。俺が同じことを考えたならそうするだろうと思った。

「だからあいつは丸三日もかけて学校中を授業中問わず闊歩し続けたらしい。全ての教室に入っては自分が見えていないことを確認するためにいろんなことをしたらしい」

聞けば変なポーズや格好をして来るのはもちろんのこと、最終的には服まで脱ぎ始めたと言う。

「でもここに疑問点があるのがわからないか?」

またもや先生は俺に質問してきた。しかし、いまの話を聞く限りだと俺にはわからず首をふった。

「よく考えろ。授業中に突然入ってきて、変なことをしだす女子生徒がいる。当然お前の教室にも入ってきただろう。それをお前は気がつかないはずがあるか?」

「あっ」

質問の意味がわかった俺はそんな声をあげた。確かにおかしい。俺は白神さんを視認できる。ただ入ってきて何もせずに出て行ったなら最悪気がつかないことがあってもおかしくはないが、前述したようなことが起きていて気がつかないはずがなかった。

「そう。そこがおかしいんだ。いまでもお前が白神を見ることが出来ることは確かなんだとは思う。だがそれは、白神の試し期間より後に何かが起こったからだと考える方が正しい。九月の時点では当然ながら嘘がわかる能力はあった。つまり、白神のことを認知できるのは嘘がわかる能力とは関係ない何かが働いたということだ」

「それが俺の知らないもう一つの能力だと……」

「七条の話も含めてそう考えるのが妥当だと思う。それは中山が恐れていることにも繋がるんじゃないかともな」

そこまで言い切り、先生は持ってきたペットボトルのお茶を口にした。

「具体的に何の能力なのかは……」

おずおずと聞いて見るが先生は首をふった。

「そこまでは分からない。でもそれについて中山は詳しく知っていると思う」

先生は俺にいくつかの紙の束を渡してきた。

「お前から中山の話を聞いた後色々と中山について調べていた。病院をやめて研究者になったはずだが、こうして中山は自分の病院を構えている。推測の域は出ないが、研究費用が必要になったんだろう。だからまた働き始めた。今でこそここの名前は『中山総合病院』となってはいるが、もともとここは別のやつが構えていた病院だということも調べたらわかった。無事に研究を終え、能力を行使できるようになって現在に至るのだろう」

紙を見てみると元々ここは『木嶋総合病院』という名前であったことが書かれていた。またその創設者、写真とともに載っている木嶋太晴医局長は現在行方を眩ましているとも書かれていた。

「疑問なのは病院という多忙な中であいつはいつどこで研究していたかだった。調べによるとMRIとかがあるこの病院の地下フロアに誰も行ったことがないという鍵のかかった部屋があることがわかった。恐らくそこを改造して研究に励んでいたんじゃないかという結論になった」

言われるがままにページをめくるとその詳細について詳しく書かれていた。

「じゃあその研究員は誰なのか。まずはこの部屋を全面的に使用することを許可した人物木嶋太晴はそうだろう。でもそれだけでは多分足りない。この病院の地下フロアは午後五時には閉鎖する。だからこの一週間お前の見舞いに来た際、誰がその時間以降そこに行くかを張り込んだ。結果行ったほぼ全員がこの医局の人だということがわかった。外部からは雇っていないらしい」

次のページにはこの病院の医者の名簿がずらりと並んでいた。その中にマーカーで示されている人がいて、その人たちが先生の言っていた人たちなのだろうと推測がついた。

「最後はそいつらのシフト表だ。中山のやつと合わせてそいつらがちょうどいない時間帯をピックアップしてある」

「つまりこの時間帯に……」

その言葉に先生は頷いた。

「侵入して、何かの情報が得られれば御の字だ」

その言葉に俺は首肯した。

「パスロックは4桁の数字だということがわかっている。番号自体はわからないが、お前の能力があればそれくらい見抜くのは余裕だろ?」

「多分大丈夫です」

人は当然、書類やその他諸々にだって俺の能力は通じる。パスコードだって手当たり次第確認をとればできないことはないはずだ。そう思って俺は頷いた。すると先生は俺の肩に手をおいた。

「ここまで言ったが、今回のこの件かなりのリスクが伴うと思う。行く場所は敵の本拠地といっても過言じゃない。中山がその場所になんらかの仕掛けをしていないはずがない。だから危険だと思ったらすぐにでも逃げるんだ。これは約束だ」

「わかりました」

その姿勢のままうんと先生は頷いた。

「諦めず、歩み続ければこうして道は必ずつながる。お前が守りたい、信じたいものは絶対に裏切らない。今回がダメならまた別のものを探しに行けばいい。挑戦し続けた先に必ず答えはある。それは絶対に悲しいものではない。だから諦めるな」

宿るその目は実に真剣な眼差しだった。その時俺はふと思った。

皆のこの眼差しに何度救われて来たのだろう。

道を違いそうになった時、いつだって皆俺にこうした眼を向けてくれた。その度に俺は救われて来た。救われてばかりだ。そう思った。だからそれに俺は応える必要があった。もう俺が折れることはない。

「はい」

たった一言だけが病室に響いた。それは実に簡素で、頼りなさすら感じた。だが二人の間にはその言葉だけで十分だった。


少年は思った。

この世は理不尽で溢れているのだと。

少年は思った。

この世は嘘を許容するのだと。


でも少年は思った。

そんなことはおかしいと。

でも少年は思った。

そんなはずはないと。


だから少年は願った。

もう二度と嘘をつきたくないと。

だから少年は願った。

そんな嘘を見抜くことが出来ればいいと。


その日から少年は嘘をつくことをしなくなった。

それは自分の意志で。

その日から少年は嘘を見抜けるようになった。

それは誰かの意志で。


しかし少年は嘘をついた。

それは簡単に、実直に、なんの疑いもなく。

しかし少年は嘘をついた

「————ないじゃないですか」と


いや、少年は嘘をついていないよ

世界はそう声をかけた。

少年はいつだって真実しか喋らないよ。

世界はそう声をかけた。


だって少年はこの世界で嘘はつかないのだから。

世界はそう声をかけた。

十二月二十三日。世の中はもうすぐ起きるたくさんの行事にうつつを抜かしている時期だろう。クリスマスに大晦日、そして正月。冬場の連休となればそうなってもおかしくはない。もしかしたら自分もそうだったかもしれない。只、今はそんな事を考えている暇はない。なんせ敵の本陣の目の前にいるのだから。

目の前にはでかでかと黄色と黒のテープで彩られ、『関係者以外立入禁止』と書かれたドアがあった。中山の研究室。ついに決戦の日が来た。関係者かそうでないかと言われれば関係者な気がするなと屁理屈を捏ねながら俺はそのドアの暗証番号を入力していく。

2010

最初からそれを入力してもおかしくない、そう思える番号だった。

入力すると機械音とともにそのドアの扉が開いた。少し歩いた先にもう一つの扉があった。まずいかとも思ったがそこには特に鍵はついていないようだった。おれは一度深呼吸をしてドアノブに手をかけ、開けた。

パッと見たところ人はいないようだった。そのまま歩みを進めた。中は2つの部屋に区切られていて、片方がミーティングルームのような場所で、机の上には所狭しと紙が乱雑に置かれていた。そしてもう片方が実験室のようだった。実験室には用がない俺は恐る恐る、ミーティングルームに入っていった。すると突然、

「誰だ」

と実験室の方から声がした。ひどく慌てた俺は逃げようと思ったが、どうやら腰が抜けてしまったようで、その場にへたり込んでしまった。謎の人物はどんどん自分の方に近づいてきて俺の目の前でとまった。

「背格好を見るにこの医局のものではないな。侵入者か」

黒縁メガネに白髪を携えた、五十代半ばの顔立ち。そう喋ったのはこの前写真を見たばかりの人物だった。

「木嶋さん……」

質問に応えるわけでもなく、思わずそんな声が溢れた。木嶋太晴。この病院を中山に取られた張本人がそこにはいた。てっきり中山によって殺されたと考えていた俺はバレたことと同じくらい驚いてしまった。しかしその驚きは俺だけではなかった。

「なぜ、私の名前を……」

木嶋さんはなにか不思議なものを見たような表情を浮かべ、そう呟いた。その発言にすべてを把握した俺は逃げるわけではなく、話を持ちかけることにした。

「俺の名前は芹沢海斗です。なにかその名前に聞き覚えはありませんか」

「芹沢……。お前が、中山が言っていた奴か。道理で。まあ、ならば話は早い。さっさとここから出ていってもらおうか」

木嶋さんは地面にへたり込んでいる俺の腕を掴んで引きずろうとした。しかし俺はそれに抵抗した。

「俺に協力してくれませんか」

「何?」

引きずる力を緩め、木嶋さんはこちらを向いた。

「あなたは中山に脅されているのではないですか?」

「だったらなんだというのだ」

「俺は今中山に対抗しようとここまで来ました。もしかしたらあなたも救うことができるかもしれない」

そう言うと木嶋さんは掴んでいた俺の腕をほどいた。

「特に君には厳重で注意しろと伝えられている。そんなことがばれたら私はついに消される。私には家族がいるんだ。そのリスクを私に背負えと」

きっとおれのことを睨みつけてきた。だが俺は怯まずに思いの丈をぶつけた。

「でも中山に従ったままだと一生このままですよ。いいんですか。誰もあなたのことを覚えていないそんな世の中のままで。家族すらも脅しに使われているそんな世界で」

「…………」

木嶋さんは口を固く結んだ。

「厳重に注意しろと言われた理由を御存知ですか? もし知らないのであればそれはあなたにとって都合がいいからと考えられませんか? だから中山はその詳細を伝えなかった、そう思いませんか? 死ぬかもしれないという天秤、俺に賭けてみませんか」

俯く木嶋さんにそうまくしたてた。数十秒の沈黙の後木嶋さんは振り返った。

「君の言うとおりだ。老い先短いこの人生、変えられるチャンスが有るならそれを選ぶべきだ。こっちにこい。お前に賭けてみる」

「ありがとうございます」

ようやっと立ち上がった俺は木嶋さんの後を追った。その先は所長の机らしきところで、木嶋さんは何やらパソコンを弄っていた。

「私とて反逆の意思を持たなかったわけではない。あいつのパソコンに入ることくらいはできる」

いくつかのパスワードをくぐり抜け、やっとのことで見慣れた画面になった。そして木嶋さんはあるファイルの前まで進めた。

「私が手伝うことができるのはここまでだ。ここには日本にいる能力者たちの名前と能力が一つにまとめられているらしい。どうやらここには能力が掛けられているらしく私にはその内容を読むことが出来ない。だが、断片的に知っている情報だと君は中山に似た能力を持っていると聞いた。だからもしかしたら読むことができるかもしれない。後は君次第だ」

そういうと木嶋さんはデスクトップとマウスをこちらに向けてきた。俺は心の中で見ることができるはずだと強く願い、そのファイルをダブルクリックして開けた。

暫くのロードの後その画面が映し出された。見ることが出来た。思わずうなずいた。

俺はスクロールをして目的の場所まで向かった。するとほとんどが黒で書かれている中一際目立つように赤文字で書かれている場所があった。それは先輩の欄だった。

『七条飛鳥 世界を創造する能力及び他者の記憶から自己の思い出を忘れさせる能力 現実改変系統 実現不可能 要検討』

その欄だけはわかりやすくそう書いてあった。だが別段驚くことはないと俺はスクロールを進めた。するとすぐにもう一つ赤文字で書かれた部分があった。せの部分は一個一個みていくつもりだったが、その必要はなかった。

『芹沢海斗 嘘をつかない能力 現実改変系統 実現不可能 最重要検討』

そこに書かれていたのは俺の名前だったからだ。しかし驚くべきはそこではなかった。そこに書かれていたものは俺の知る能力ではなかった。横に読んでいくと

『その能力により加えられた能力:嘘がわかる能力 七条飛鳥を忘れない能力 白神聖良を視認できる能力 死なない能力』

先生の言っていたことは本当にあっていたのだということが判明した。嘘がわかる能力は先輩や白神さんとは無縁であるということ。俺は別の能力をもっていたのだ。まさか嘘がわかる能力は副産物だとは思わなかったが。

『嘘をつかない能力』

そこにはそう書かれていた。見たことも聞いたことも、言ってしまえば自覚したこともなかった。だが、自分の能力だからだろうか。漠然としたそれは見た瞬間にどんなものなのか俺には判断することが出来た。そして俺はすべてのピースがつながったのを感じた。

「ありがとうございました」

その後他の内容にもざっと目を通し、俺は木嶋さんにお辞儀をした。それに対し木嶋さんは別にというように首を横に振った。もうこの部屋に用事がないと思った俺はすぐにでも外に出ようともう一度木嶋さんにお辞儀をしてドアノブに手をかけた。

「どうせあいつにはこのことがバレているに決まっている。君はどうかはわからんが、私は消される。どうだ、私の賭けは成功したのか」

俺が部屋から出ようとしたとき、特に気にもしていなさそうに俺にそう聞いてきた。

「『木嶋総合病院』ぜひ頑張ってください」

俺は振り返ってそう言ってから足早にその部屋から出た。俺はその足で公衆電話のある場所まで急いだ。そして着いた俺はポケットから財布を取り出し、すぐに電話をかけた。


「お疲れさまです」

中山は何度目かのその言葉を聞く。そして近くにあるコーヒーをすする。実際中山は疲れてなどいなかった。疲れる必要など彼にはなかった。この世界にいる限り彼自身不都合があることがあればすぐにでも消すことができる。そんな生活をしていて疲れるはずなどなかった。しかしそんな彼にもどうすることは出来ないことがあった。

『嘘をつかない能力』

彼にとってそれだけが懸念材料だった。中山はありとあらゆる能力を作ることができる。ただしそれにも制限がある。それは事実を変えるようなことは出来ないということだった。単純な話、この能力という物自体脳の異常発達によるものであるということが前提にあることがわかればその理解は早いのではないだろうか。能力とは言えども所詮は物理法則に準じている。嘘がわかるのは相手が嘘をついたときの本来の人間なら気づくことの出来ない微細な何かを感じ取る機能が発達したから。周囲の人の記憶を消すことができるのはある一定時間の人の記憶を消す音のようなものを生み出せるように脳と指が発達したから。物理法則に則っているのなら、理論の構築さえ出来ればその程度なら容易にできるのが中山だった。しかしプロトタイプ、いわゆるあの事故の関係者の能力の中には理論を構築できない者がいた。それは物理法則に干渉する能力を持つもの。大なり小なりそういった力を持つものの脳は発達しているわけではなかった。もうそれは神様からのギフトというしか説明がつかないものだった。例をあげるのなら七条飛鳥だ。ある程度の物理法則なら無視することができるこの世界を作った張本人。加えて自分自身との思い出を忘れさせる能力を持っている。前述したとおり中山はある一定期間かつ、特定の内容しか消すことが出来ない。だから七条飛鳥の能力はそれを大幅に上回るものだといって差し支えがない。中山とてその例外ではない。毎夜十二時の日課である能力者表を見ることがなければ忘れている。この素晴らしき世界を維持するためには彼女なくしては成り立たない。だからその能力がなくなっては困る。彼女にとっては不幸なことであってもその2つの能力は本当にうまく噛み合ったと言える。彼女はこの世界を生きているだけで恨み続けるのだから。たとえ納得することがあっても、良かったと思うときは一度だってくるはずがない。だから重要だとはいえ、過干渉する必要もなかった。むしろ変に関わり、気に触るようなことを話、自殺されるくらいなら不干渉を貫いたほうが幾許か双方においてメリットがあると言えた。つまり中山としては平然と世の中をただ生きてさえくれればよかったのだ。しかしそうはいかないのがこの世界だ。当然その例外をくぐり抜け、彼女のことを覚えている人物が現れた。それがあれ程の能力を持っていて且つ、中山の知り合いだとはまったくもって思わなかったわけだが。

芹沢海斗。

彼は特異中の特異点だった。この世界が生んだ化け物といえる。

『嘘をつかない能力』

淡々と書かれたそれはべつに心構えという話ではない。彼は嘘をつかない、いや違う。彼は嘘をつけないのだ。彼が話すことはすべて本当になる。それがたとえどんなに突拍子のないことでも。彼が1+1を3だといえばこの世界はそのように動くことだろう。とてもじゃないがそうなった以降の世界を想像することは叶わないわけだが。彼は嘘をつけない。だから彼が七条飛鳥のことを忘れないと言ったら忘れないし、透明人間が見えるといえば見ることができる。彼が存在する自分に安寧は来ないと中山は思っていた。彼が一度願えばそれがどんなものであれ実現するのだから。だから中山自身何度も彼を殺すことを計画立てていた。存在しなければ問題ないそう思って。脳を一たたきした際はほんとうに殺せるように頼んであった。しかしそれは死ぬことなく延々と修復をし始めた。手術と謳い、出来得る限り最大の手を尽くして彼を殺そうと努力をした。それでも彼は死ななかった。意思というのは往々にしてありえない結果を出したりする。彼はそれの究極系とも言えた。彼はどこかの段階で、いつかの段階でそういった類の願い事をしたのだろう。無茶苦茶である。でも彼がこうしてこの病院にいて私の話を真面目に聞き、立場的に上にいるのは一つの大きな奇跡が起きていたからだ。それは彼自身が自分の真の能力に気づいていないということだった。『嘘をつかない能力』。そんなものに気づかない人間がいるのかと誰もが思う。人は冗談でも軽い嘘をついたりする。そのたびに異変がおこってしまうというのが彼の能力だ。気づかないはずがない。それでも彼はその能力を知らない。なぜか。それは単純明快。彼は能力を得て以来一度だって嘘をついたことがないからだった。だから彼の身の回りに一つとして異変は起こらなかった。とてもではないが人間の出来得る芸当ではない。でも彼はそれをやってのけた。だから目に見えてわかる『嘘がわかる能力』という主の能力の副産物しか彼は知らなかった。これは中山にとっては好都合の何者でもなかった。彼はそれを利用し、また彼の持つ『嘘がわかる能力』も利用してすべてを手中に収めることに成功した。追々能力を自分自身の意志とは関係なく消すことのできる能力が出来上がるまではこのまま大人しくてもらうつもりだった。とはいえ、すぐには諦めないのが彼だということも知っていた。だから中山は最近彼が自身の研究室に乗り込んだことを知っていた。即刻なにか手を打つべきだと思うかもしれないがそうはしなかった

「私を見るなりすぐに立ち去った。なにもここでは起きていない」

反応なし。全ては自分の傀儡である木嶋に任せていた。普通ならこんな言葉信用するなんてことは出来ない。だが中山には嘘がわかる。中山の能力を知らない木嶋が嘘をついたかどうかは言葉を聞けばすぐだ。人を信用するというのが一番怖い彼にとってそれが真実だと明記されるというのは一番の彼の実験の中での成功例だと言えた。

手術終りのコーヒーを飲みきった中山はおもむろにスマホを取り出し、あるアプリをつけた。位置情報アプリ。能力をどれだけ作ることが出来たとしても中山自身が所持することができる能力は二つが限界だった。軽めの手術をすることにより取り替えることは出来てもそれ以上を行使することは出来なかった。基本的に中山は『嘘がわかる能力』と『記憶を消す能力』をデフォルトで持っている。中には特定の人物の位置がわかる能力も開発することが出来たがそんなものはこの世の技術進歩でいらないものだった。だから科学の力でどうにかできる部分はそれに任せていた。

登録していた人物は当然芹沢海斗。この病院に入れていた時点で手首と足にはそれぞれGPSをつけておいた。下手な動きをすればすぐに動くためだった。なんの変化も起きていないだろうと思ってそれを覗いたところありえない位置に光っていた。

「…………どういうことだ」

中山はそう呟き椅子から立ち上がった。一瞬頭が真っ白になるもその場所へと向かうために走り出した。この世のすべてを理解した後の彼にとっては走る、焦るという行為は無縁だった。それがこうして走っているという現状を彼自身そこまで飲み込めていなかった。

「おつかれさまです」

その場所に着くや否や様々な人から総挨拶される。中山が来たところというのは医局の人が待機している事務処理を行うスペースだった。そんな挨拶に目もくれず、ただその光が指す場所に向かう。中山は引き出しを開け、その機械をおもむろに机の上に出し叫んだ。

「誰がこの器具を芹沢からとった。私の命令があるまでは絶対に取るなと約束したはずだが」

その声に呼応し、その部屋はしんと静まり返った。しばしの静寂の後おずおずと何人かの医者が手を上げた。

「それをとったのは私達です……」

「なぜそんな事をした。理由があるなら早く話せ」

「えっと、上からの命令でどうしようも無く……」

「上からの命令? どういうことだ」

「これが届いたんです……」

後ろの方からその紙を持ったもう一人の医者が現れ、見せてきた。

「東京帝国病院から芹沢海斗さんをうちの病院に移転させるようにと督促状が……。それも理事長直々に……」

「そんなわけ無いだろ。こんな小さな病院、なぜ東京の大病院が目をかける」

中山はその医者から紙を奪い取った。しかしそこに書いてあったのは紛れもなく本物の督促状だった。嘘を見抜ける自分自身の目は誤魔化せない。だからこそ焦った。

東京帝国病院理事 長谷川慎太郎。

判子まで全て本物だった。つまり紛れもなくこれは帝国病院からの督促状であった。一体なぜ誰がこんなピンポイントに芹沢を誘拐するようなことをしたのか。それだけが気になった。

「この病院からだすためにはあれは外さざるを得ず……」

「最早やってしまったことはどうでも良い。誰が、いつこの手紙を持って来たんだ」

「あ、それならこれを渡せとその人から仰せつかっていまして」

あまりの返答の速さからか、いや、想像していなかった応えが返って来たことによるものだろう。そう言って紙が差し出された時、嫌な予感が中山を支配した。準備が良すぎる。そう感じた。わざわざ俺宛に手紙だと? 誰が。当然理事長ではないはずだ。だったら誰が。俺を知る人物。こんなことをしようと考える人物。

そこまで考えた後一人の人物が中山の脳裏に浮かんだ。

その嫌な予感をぬぐいきれないまま中山は手渡された手紙を開き、読み始めた。そしてすぐさまそれをグシャグシャに握りしめ、地面に打ち付けた。

「橋本の野郎…………………!!!」

体はわななく震え上がり、下を向いた。そしてもう一度叫んだ。

「ここにいる全員に告ぐ。一刻もはやく芹沢海斗を奪還してこい!」

最早意味のない空虚な叫びが院内に響いた。


正義とは一体なんなのか。

正義とは世界を救うことなのか。

正義とは世界を犠牲に一人の人物を救うことなのか。

正義とは…………。


恐らくそれは一生涯に人間が考え付くものではないのだろう。

それはどんな悪人だって、どんな善人だって。

誰もがそれを望み、そうであることを望む。

それはどんな悪人だって、どんな善人だって。

自己をそうだと謳い行動する。

言ってしまえばそんな不安定な概念に明確な何かは存在しないのだろう。


だったら今回片方の正義が破れたのはなぜなのか。

何が勝敗を分けたのか。

それは片方の詰めの甘さだったのだろうか。

それは片方の戦略が勝ったからだろうか。

概ねどちらでもない。

勝負を挑んでいる時点でどちらにせよ片方は勝てないのだ。

だったら片方は運が悪かったのか。

多分それすらも違う。


結局はどちらかが正義のヒーローで、どちらかが悪にならなければいけないからだ。

それはどちらなのか。

非常に難しい話ではあった。

でも片方が正義の定義を決めてくれたのだからそれに従うことにしようか。

その人によれば正義は多数派らしい。

ではもう一度問おう。

正義のヒーローはどちらだろうか 

「橋本先生こんばんは」

「おう。はよ、乗れ。追っ手が来てるかもかわからん」

先生の催促に従い、素早く乗り込んだ。

「目的地は七条の家でいいんだな」

「はい。あと頼んであった……」

「ほらよ。作るの大変だったんだぞこれ。まあそれは良いとして、先に言っておくが家の中にはいなかったぞ」

「わかってます。ありがとうございます」

先生はぽいっと俺の方に鍵を投げた。それは先輩のマンションのスペアキーだ。作った方法までは詳しく聞かなかったが、概ね先輩が学校に来ていないという状況を逆手にとったのだろうと考えられた。

「それにしても良く俺のことここから出せましたね。あの腕輪と足輪。外さないとこの病院から出ることができなかったので。今日の昼くらいから心配だったんですけどすんなり行って、罠なんじゃないかと疑いましたよ」

その言葉に先生はニヤリと笑った。

「そりゃ色々いけないことやっているからな。鍵の件もそうだが、色々バレたら俺の人生が危ない」

「具体的に何したんですか」

「今の俺は教師、つまり公務員な訳。兼職は当然だめ。だが今の俺は……」

ほらと言いながら先生は首から下がったカードを見せて来た。そこには若かりし頃の先生と思しき写真と名前が印字されていた。右下には『東京帝国病院』の文字があった。

「医者を兼業している。お前をこっちの病院に移すという約束を理事長からもらうための代替案として提示されちまった。どこまでも俺の腕が欲しいらしい。鈍っていると言ったんだが聞かなくてな。まあでも仕方ないから教師はやめなきゃならん」

「なんかもう色々とすいません……」

「良いさ。こうしてお前を迎えにこれたという事実で今までの全てが報われるってことなんだろ?」

「そうですね……」

俺は少し俯きがちにそう言った。

「なんだ。なんかまだ心配事でもあんのか」

「心配事というか寂しさみたいなものが……」

その言葉に先生は眉をひそめた。

「聞かないつもりだったんだが、お前の知ったこと、これから起こること聞いても良いか?」

「ええ、もちろん。言うつもりでしたし」

俺は一つ深呼吸をして俺の能力について、そしてこれからどうするかについて話した。

「そうか……」

全てを聞いたあと暫くの間沈黙が流れ、なんとも複雑な顔をして先生はそう呟いた。

「そんな気落ちすることですか。先生にとっては嬉しいことの方が多いと思いますが……」

そう言うと先生はミラー越しに俺のことを見た。

「馬鹿を言うな。俺はお前らとこうして出会えたことだって大事な俺の人生だ。そこにどんな顛末があろうとな」

「先生……」

「俺と出会ったことで、お前一人だけが成長したように思っているだろ。そんなの傲慢だからな。人は人と関われば大なり小なり経験値を得るんだ。それがマイナスに運ぶことは当然ある。でもプラスになることの方が大きい。俺がこうして行動できているのはお前らの諦めなかったその姿勢のおかげでもあるんだからな」

「そう言ってくれるのは本当に嬉しいです」

先生はその言葉に鼻で笑った。

「全く……。ほら到着だ」

気がつけば高くそびえ立つ楠を越え、先輩のマンションの前にいた。その瞬間なんだか胸が詰まった気がした。俺は手に鍵だけを持ち、外に出た。それに釣られ先生も外に出てくる。

「これで本当のお別れってわけか」

「そう、ですね……」

さっき同様胸が詰まり、うまく言葉が出てこなかった。すると先生はため息をひとつ付いてこちらをみた。

「全く最後まで手が焼けるな。なんでわざわざこんなことを言わなければならないのか」

「何がですか」

そう聞くと先生は息を大きく吸って話し始めた。

「いいか、大体そんな能力があるなら俺の助けとか一切必要ねぇじゃねえか! お得意の力で鍵でも羽でもなんでも作って自分でこいや! なんならこの工程必要あるのか? さっさと終わらせた方が後腐れなくてよかったんじゃねぇの?」

「それは……」

俺が何か反論しようとした瞬間、先生は俺の頭を撫でた。

「でもこうして俺にわがまま言ってんのはお前が律儀にも俺に最後の挨拶をしたかったからだろ。さっさと言って、さっさと行け」

先生は柔らかく笑った。俺はその笑顔に涙が出そうになったが、なんとか堪え、佇まいを直し、未だ嘗てないほどの綺麗なお辞儀をした。

「本当にありがとうございました。俺がこうしてここにいるのは紛れもなく先生のおかげです。先生はいつだって俺たちのことを見てくれて、影ながらも協力してくれました。こうして別れるのは寂しいですが、またいつの日か会えたら」

「おう。頑張れ。俺たち能力者たちの悲願を叶えてくれ」

先生はもう一度笑い、俺を送り出した。


マンションに入り、すぐにエレベーターへと向かう。そして手元の鍵を差し込み、Rのボタンを押した。先輩は恐らくそこに居る。そんな気がした。これはあくまでも勘であり、なんの確証もない。ただ先輩ならそうするだろう、そう思ったのだ。エレベーターはすぐにその階へとつき、扉が開いた。そして大きな展望台をみるとそこには人影があった。その人影は俺のことをみるなり強張ったが、すぐにこちらへと歩いて来た。

「どうしてここに居るのか……というのは野暮なのかな。海斗くん」

「そうかもしれません。お久しぶりですね、先輩」

「はぁ。どうやら明日からはここに居ることすら駄目になってしまったようだね。全く、私を助けたいのならそれくらい配慮してくれなくては。君は全部を知っているのだから」

「すいません。どうしても先輩に会いたくて」

その言葉に先輩は顔を強張らせた。そして目を瞑り、外の方を向いた。

「なんでそう君は無責任なんだい? 私もこんなことは言いたくないけれど、死ぬよ。私といると。それでもいいの?」

「それは嫌ですね。死ぬというのは怖いですから」

「だったら……!」

先輩は涙ながらにこちらを向いた。

「だったらここに来ては行けない。私と会ってはいけない。これはお願いだ。私に君と過ごしたあの日々が悪いものだったと思わせないでくれ………。このままだと君のことを恨んでしまうかもしれない。それだけはそうしても避けたい………」

先輩は涙ながらにそう言って来た。俺はその言葉を受け止め、頷いた。

「でも先輩。俺がどうしてここにいるか分かりますか?」

「それは私に会いに……」

「先輩も言ったじゃないですか。そんな無責任なことをするなって。その通りです。ただ会いに来たのでは無責任だ」

「じゃあ……」

もう一度俺は深く頷いた。

「先輩を救いに来ました」

そして俺は笑った。あまり笑わない俺はその表情があっているかも分からなかったが、多分できていたと思う。先輩はその言葉に怒りをあらわにし、近づいていきた。

「そんなことできるわけが無いじゃない! 私はこの世界の創造主なのよ! 私がその能力を失ったらこの世界はなくなる。私は幸せになってはいけないの! 救いにきたなんてそんな甘い言葉で私を惑わせないで!」

俺はその言葉に首を横にふった。

「そんな悲しいこと言わないでください。そんな嘘を俺にぶつけないでくださいよ。俺は先輩の本心が知りたいんです。先輩はどうしたいんですか?」

そういうと先輩は事切れたように俺の胸に顔を埋め、叩いた。

「私だってただの人として生きたい! 君とただなんでもない日常を歩みたい! 花見に行きたい! 花火を見たい! 何処かに出かけてたわいもない話をしたい! でも……。それは叶わない……。だって私はこの世界の……」

「そうですよね。この世界は先輩に優しくないですよね。先輩をこんなに泣かせているのはこの世界のせいです。だから違う世界にいきましょう」

「へっ……」

涙ながらに先輩は間抜けな声をあげ顔を上げた。

「だからこんなしょうもない世界から別の世界に行きましょう。それは全世界誰もが望んだ世界に。あの事故が起きない世界に」

その瞬間外が大きく光りだした。みると空から見たこともないような大きな流れ星が光っていた。どうやら世界が崩壊する兆しらしい。今頃は外で大きなニュースが乱発していることだろう。

「でも、それって……」

その穴に気づいたのだろう、先輩は俺の服を強く握った。

「はい。あの事故が起こらない世界です。だから俺たちが会うことは理論上あり得ません。先輩は先輩の人生を、俺は俺の人生を歩むことになりますから。先生だってあの事故がなければ教師になっていないわけですから、こうして集まることはないでしょうね」

今まで見ていた星々が張り付いた天井からこぼれ落ちるように空から降ってくる。絶望なまでの天災であると言うのにとても綺麗に見えた。

「それは……」

「でも、俺たちはまた会えますよ」

高らかにそういった。

「どうしてそう思うの?」

先輩のその言葉に俺は大きく頷き、笑った。

「俺は嘘が嫌いですから」


「———————!」

芹沢海斗はその日初めて嘘をついた。

誰もが嘘だったらいいのにと願った。

そんな嘘を。


八月八日夜。海斗は何気無くテレビを見ていた。時期としては夏休みの真っ只中。番組だってその人達向け仕様になっていて大して面白くもないというのが海斗の心境だった。

「大事な人ね……」

そんなつまらない番組はそっちのけで、海斗は手に持った一つの紙切れを横になりながら眺めた。それは、

『東京帝国病院 外科医 橋本秀人』

加えて電話番号が載っている名刺だった。知り合いのものかと言われればそうではないと答えるだろう。知り合いどころか、海斗はこの人を全くと言っていいほど知らなかった。何となく聞き馴染みがある、その程度の認識だった。では何故こんなものを持っているのかと言えば今日のある一幕が原因だ。それは買い物をした帰り道、何の気なしに自転車を漕いでいたらとある喫茶店の前について、入る気など更々なかったのに入ってしまったのだ。俺はその店主に言われるがままに席に着き、コーヒーを注文した。するとカウンターに座っていた白衣を着た一人の男が俺の前に現れこの名刺を渡してきたのだ。はたから見たら訳のわからないことのオンパレードだ。しかし海斗自身それを罰暖気にしてはいなかった。というのもこれが初めてではなかったからだ。ことの発端は恐らく祖母の時だろう。齢8歳という年齢で海斗は祖母が出されていたガン申告に対し、セカンドオピニオンを要求した。子供の戯言だと最初は一蹴されたものの、彼の一晩中にも及ぶ号泣の末、祖母は別の病院で検査を受けることとなった。すると驚くことに祖母のガンは見つからなかった。三、四と別の病院でも検査をしたが、終ぞ見つかる事はなかった。このことを海斗は鮮明に覚えてはいなかった。小さかった。そう言われてしまえばそこまでだが、なんだかその時は自分が自分でなかったような感覚があったのだ。それは時たま海斗を支配した。ある時は両親のご飯に対し突然涙を流し、

「お帰りなさい。お母さん、お父さん」

と言い出したり、ある時は中学校に向かうはずが、まだ行きもしない、海越高校の方面に向ったりとその形態は様々だった。でもその度に海斗は何度も胸を締め付けられるような何かを感じていた。そして

『思い出せ』

そう海斗の体は訴えてくるのだ。

記憶喪失になったという話は聞いていない。だから何を思い出すのかと言われればわかってはいなかった。でもその主張は間違っていないという事は海斗自身がよくわかっていた。だからそうなった時はそれに従うようにしていた。何かを思い出すきっかけだと思って。

『東京帝国病院 外科医 橋本秀人』

もう一度その名刺を眺めた。

橋本秀人。

読めば読むほど味がする気がした。海斗は思った。

俺はその人を知っているのだろうか。いつの日かあったことがあるのだろうか。

そう思わせる原因はその人の発言にあった。近づいてきてその人は海斗に

「まだ思い出していないか」

そう言ってきた。まるで忘れていることが、そして思い出すことが前提にあるような口ぶりだった。海斗自身、自分に起こっているあらゆることが気になっていた。だから知っているであろうその人からいろんなことを聞きたかった。しかしその人はそのことについて多くは語らなかった。

言ったところでどうせ信じはしないし、意味がない。だから自分でゆっくりでいいから思い出せ。そう言っていた。

そしてその人は帰り際に

「お前には思い出さないといけない大事な人がいるんだから」

と言ってその喫茶店を後にした。俺はその言葉がどうしても気になっていた。海斗は自分のこの胸の苦しみはそこにあると半ば確信していた。だから思い出したい。でも思い出せない。そんないじらしさがあった。

取り敢えず名刺をまた財布の中にしまい、テレビを見始めた。リモコンでチャンネルを変える。するとある局がやっていたとある番組が目に入ってきた。

倉田川花火大会。

テロップを見たところそう銘打っていた。倉田川はここから自転車を走らせて十分程度のところにある河川だ。毎年時期になるとそこで花火大会をやるのが恒例だった。いつもなら気にも留めず、やっていたとしても外なんか一切見ない海斗だったが、その時だけはどうしてもその映像から目が離せなかった。そして気付いた時には海斗は外に出ていた。両親からどうしたのかと何度も言われたが、返す言葉もなく、ただ一心不乱にそこにいかなければという気持ちだけが先行していた。

漕ぐこと数分。荒い呼吸と汗を掻きながら目的地へとついていた。そこは時間はもう八時をすぎているというのにやけに明るいという印象を受けた。それは大会のための照明だけではなかった。着物や屋台、だれかが身につけている装飾物至るものがきらめいて見えたせいだった。そう思った瞬間海斗はとてつもない喪失感に襲われた。

「なんで俺はここにいるんだ……」

思わずそんな声がこぼれてしまうくらいには自分がどうしてここにいるのかの検討がついていなかった。それは目の前の煌びやかなものが余計に自分に対して場違い感を与えてくるからだということも分かった。

「帰ろう……」

海斗はそう呟くとトボトボときた道を戻った。

「いっ……」

すると目の前で一人の浴衣を着た女性が倒れるのが見えた。その人は足元を抑えているようで、見た感じ下駄の鼻緒が切れたように見えた。

「大丈夫ですか?」

海斗は思わずそんな声をかけていた。普段ならそんな正義感もあったものではないというのにこの時だけはなんだかそう声をかけなければ、いや助けなければ。そう体で感じた。

「いや。すまないね。如何せん、慣れていないものを履いたり、着たりするのは存外億劫なものだ」

海斗の予想通りその人は自分の下駄を持ち上げ、鼻緒が切れているのを見せてきた。

「これでは目的地には行けそうにない」

残念そうにその人は笑った。

ズキッ

その人の悲しい顔を見たからなのだろうか。そう胸が痛むのを感じた。海斗は唾を飲みこみ言葉を発した。

「どこに行きたかったんですか? なんなら俺が連れて行きますよ」

その一言は自分の予想をはるか越えていった。当然二人は知り合いなんかではない。少なくとも俺は目の前のその人は知らなかった。だから側から見たらただのナンパにしか見えず、彼女が手負いの状態であることを加味するならたちが悪すぎた。しかしその人は特にきにするわけでもなく、ありがとう、と笑って立ち上がった。

「それでは甘えてしまおうかな。少し離れた高台に行きたくてね。そこだと花火が見やすい」

「えっと……。じゃあ……」

しばし逡巡した後、俺は屈み、その人に背を向けた。

「これでよければ」

「助かるよ。ありがとう」

ズシリと感じたことのない重みが海斗の背中に乗った。本当に今日はよくわからない。何をどうしたらこんなことになるのか。その人といえばなんの疑いもなく海斗の背中に乗り、目的地の案内をした。もう成り行きに任せるしかない。そう海斗は心の中で思った。

そして背負いながら歩くこと数分、その間二人は何も話すことはなかった。しかし、それをどう思っていたのか背中の女性は俺に声をかけてきた。

「今日は祭りだ。花火大会だ。だというのに君は随分と元気のなさそうな顔をしているように見える。何か悩みがあるのならこのお礼も兼ねて話を聞こうか?」

「えっ……。やっぱそういう顔に見えますよね」

「ああ。とてもじゃないけど花火大会にきた人には見えないね」

「ですよね……」

はははっと乾いた笑いをする。こればかりは仕方がない。こちとら半分来る気など更々なかったのだから。そう思って海斗は話始めた。

「実はこういうこと多くあって……。今日もなんか突然ここに来なきゃって思って何にも持たないでここまで来たんです。気づいたらもう体が動いていたというか、なんというか」

おかしな話をしている自覚はあった。でもこれが全てなのだ。しかし背中から聞こえた声はそれを嘲笑するものではなかった。

「そうか……。それはなんというか奇遇だな。私とてこんな身なりをしているが、果たして明確な目的があったかと問われればノーと答えるのが正しい。君同様なんとなくここに来なければと思った次第なのさ」

「へー……。そうなんですか。こんな偶然あるものなんですね」

そう聞くとその人は微かに笑った。

「偶然があまりに重なるとそれはもう必然ともいう」

「誰の言葉ですか?」

「さあね。言いたくなっただけさ」

そんな話をぐだぐだと続けているとどうやら目的地に着いたようだった。そこは本当に見晴らしが良く、チラホラと人が見えるがその数はあまり多くないようで穴場スポットといった感じだった。

「ここで大丈夫ですか?」

「うん。ありがとう」

海斗はゆっくりと体を屈み、その人を下ろした。

「せっかくだから君も見て行くといい。今日どうしてここに来たかはお互いそれを見て判断するとしよう」

「そうします」

二人は少し歩いた先にベンチがあるのを見つけそこに腰掛けた。

そしてその場にいること数分。貫いていた沈黙を破るように音がなり、空に満開の花火が咲いた。

「どうだい少年。ここから見える景色は相当なものだろ?」

その花火と共に彼女はこちらを向いてそう言ってきた。俺はその言葉に対しかける言葉がすぐに思い浮かんだ。というかそれ以外が思いつかなかった。

「そうですね。先輩」

花火の光で鮮明に見えた隣のその人の表情は一瞬驚いて、そして笑って、そして泣いた。

「本当にそう思っているのか?」

その人は泣きながら俺に聞いてくる。だから俺はそれに笑顔で答えた。

「はい。だって俺、嘘が嫌いですから」

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fict fact シャーロット @Charlotte8

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