錆びた鈴の音




 喫茶店をあとにして、二人は多摩川沿いの土手を歩いていた。



 日が暮れた水辺はより冷たい風が吹きつけるためか、周囲に人はいなかった。冬には虫の音も響かず、ひっそりとした空気が私たちのまわりにまとわりついていた。


「静かだね」


 先を歩く葵衣あおいに呼びかけると、振り返ることなく、そうだね、と一言返ってきた。

 私が思う理想の死について話してから、彼女は口数が少なくなってしまった。


 ――それもそうか。




「昔はさ」


 歩みを止めた彼女はこちらを見る事無く話し始めた。


「弔いあげって三十三回忌とか五十回忌だったんだけど、近年は十七回忌で終わりにするんだって」


「だから、もう、いいかなって」


 一段と強い風が吹き、思わず顔をしかめる。


 狭い視界の中で彼女がこちらを振り返るのが見えた。







「なんで、死んだのか、教えてよ」







 私は十六年前の今日、玉川上水に身を投げた。















 私は笑って首をかしげた。


「死にたかった、というよりも、綺麗な死に憧れたから、かな」


「太宰、みたいな終わらせ方のこと?」


 ああ、そうか。

 高校生の時に感じた部屋の違和感は、本だ。

 太宰 治、北村 透谷とうこく、有島 武郎たけお、芥川 龍之介、金子 みすゞ、川端 康成、三島 由紀夫。

 あまり近代文学を読まない彼女の部屋は、明治から昭和にかけて自殺した作家の作品で埋まっていたのだった。あれらは恐らく私の遺品だろう。


「わざわざ東京まで出てきて玉川上水を選ぶくらいだから、太宰を模倣したんだと思ってたんだけど」

「それだけではないけど…、せっかく死んでみるなら好きな作家と同じことしてみたいってのもあったかな」


 死に場所としてある特定の場所を目指すとき、家を出た瞬間から死へのルートを辿ることになる。そこへ着くまでに迷いや心残りがないことを確認し、躊躇ちゅうちょなく死ぬ準備をするのだ。もし、旅路で躊躇ためらいが生じたのであれば引き返せばいい。やり残したことを思い出したのであれば生きてそれをまっとうすればいい。富士の樹海などの名所に多くの自殺志願者が訪れるのはこういうわけである。

 そこへ辿り着いた者は、「覚悟を決めた」者である。


「私は死にたがりだったわけじゃないよ。ただ、生きることへの執着がなかっただけ。たまたま、死んでみようかって思いついちゃっただけだよ」

「そんな生き物いるのかな。生に執着しないって」

「人間が個人に固執しすぎているだけだよ。自然界の生物は“個”の保存よりも“種”の保存を優先させている。個体の生存は重要ではないんだよ」


 古来の文献によれば、人間は一日に千人が死に、千五百人が生まれるという。その一人に選ばれたことに意味なんてない。

 すべては偶然で出来ている。

“神様”の気まぐれ一つで命の灯は消えるのだ。



「あ、でも私を基準にしないでね。世の中には身体的、社会的、精神的に苦しんで、追い詰められて、どうしようもなくなって死を選ぶ人がたくさんいる。生きるべき命を持って死を選んでしまう人がたくさんいる。…私は感性がバグっていたんだろうねえ」



 口の端を吊り上げてわざとらしく笑えば、彼女は呆れたようにため息をついた。



「幽霊になってもずーっと私に関わってくるくせして死んだ理由とかは一切喋らなかったのに…。ずいぶんベラベラ喋るね」

 彼女はもっとしんみりするかと思ってたのに、と笑う。

 私もこんなに話すとは思っていなかった、と笑う。

「まあ…潮時かなって思ってね。いつまでも葵衣に迷惑かけてられないし」


 かつての日本では死後の魂を故人=個人として弔い、五十回忌を境に祖霊としての集合体に吸収されて魂は個性を失うと考えられていた。

 弔いあげの区切りが早まったのなら、個性を失うのも早まって然るべきだろう。



「あんた、私にしか見えないから本当に大変だったんだよ。私が変な人扱いされるし…」

「それは申し訳ないなって思ってる。でも、私の今の姿を創り出しているのは生きている人たちの想像力だから。誰も想像しなければ見えないんだよ」

 高校に進学した私も、地元で就職した私も、今の私も。

 生者の空想が創り出した幻想なのだ。



「それで、出来たの?」

「うん?」

「綺麗な死は完遂出来たの?」


 うーんと唸りながら目線をずらすと川の流れに逆らうように浮かぶ4羽のかもが目に入った。この流れの上流には玉川上水がある。


「…出来てない、かな。体はすぐに発見されたからキレイだったけど」


 事実は小説よりも奇なり、とはならない。

 自分の死は芸術にはなり得なかった。


「やっぱり、近しい人がいると駄目だね。死が感動的なのはあくまで赤の他人だからだ」

「…だから、死ぬもんじゃないでしょ。もう何も試せないんだから」

「でも一つの真理がわかった。それだけで満足だよ」


 さて、と彼女を見るととても穏やかな表情をしていた。

 ずいぶん前にもどこかで似た表情を見た気がする。






「じゃあね、葵衣」


「…またね」









 長きにわたって続いた関係は、非常にあっさりと幕を閉じた。














「…また、ね。」








 あおい。













 * * *





 カランとドアベルが鳴り来客を告げる。


「おかえりなさいませ、松下さん」

 東が終わりましたか、と声をかければ、松下 葵衣は寂しげにほほ笑んだ。




「東さん、ありがとうございました」

「いえいえ。お役に立てて何よりです」

 東は以前葵衣から幽霊の存在を聞いていた。そして、彼女が区切りをつけたい、終わりにしたいと言っていたことも知っていた。

「シフォンケーキまでご用意していただいて…一つしか食べれないのに申し訳ないです」

 東には幽霊の姿は見えていない。しかし、東はそこに居るかのように振舞った。もちろん、幽霊は実体がないためシフォンケーキもカフェラテも減ることはなかったが。

「松下さんの大事なご友人ですから無下むげには出来ませんよ」

「本当に、ありがとうございます」

 葵衣が深く頭を下げると、東も無言で一礼した。




 カランと再びドアベルが鳴りそちらを見ると、花を抱えた女性が立っていた。


「東くん、これ頼まれてた分のお花」

「ありがとうございます。今日は何の花でしたっけ」

「スカビオサだよ」

 葵衣は横でそのやり取りを聞いていた。カウンターに置かれた紫色の花をじっと見つめると、不思議と花に見入られている感覚に陥る。


「気に入った?」

 葵衣がはっと顔を上げると、花を持ち込んだ女性が目の前にいた。色素が薄いのか、琥珀色に染まっている彼女の瞳が葵衣をじっと見ている。

「お花ってね、人の心に寄り添ってくれるの。だから気に入ったってことは、多分その花と相性がいいんだよ」

 彼女の声はふわふわとしており、それでいてつややかな不思議な声だった。まるで麻薬のようなその声音にくらっと視界が歪む。




 彼女はゆっくりと葵衣の耳元に口を近づけ、ひっそりとした声でささやいた。彼女が何かにうっとりするように目を細めていたことを葵衣は知らない。





「この花の花言葉はね、」












 * * *










 親族のかかわりは薄く今どこにいるかも知らない。



 老々介護で3年前に父を見送った母は5か月前に他界した。



 飼っていたセキセイインコは2か月前に亡くなった。



 仕事は3週間前に辞職した。



 スマートフォンに入っている連絡先は3日前に削除した。



 上京してからずっとお世話になっていたアパートは今日退去した。





 唯一の親友を、さっき、失った。









「…本当に、私みたい」




 花屋の女性からもらった一輪のスカビオサを眺める。



 恐らく、求めれば親友は現れる。なぜならばすべては正者が創り出した存在だから。生者の者のイメージが形をもっただけだから。


「でも終わりにしなきゃね」




 ―あおい。



 ―ねえ、あおい




 葵衣はスカビオサを口に含んだ。


 真っ暗な水面に映る月がゆらゆらとあやしく揺れている。





 ―“綺麗”な死って本当にないのかな。


 ―私にはまだわからないよ。







 ――だって私は試していないのだから。



 ――試してみないとわからない。




 目を閉じてごくりと花を飲み込むと甘い香りが広がった。




















 次の瞬間、水に浮かぶ満月は、衝撃によって生まれた波紋に歪んだ。
















 まぶたの裏に映るのは、故郷の風景でもなく、家族の顔でもなく、親友の笑顔でもなく。スカビオサを丁寧に手渡してくれたあの女性の姿だった。










 ――――『この花の花言葉はね、【私はすべてを失った】だよ』



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錆びたパパゲーノの鈴 結 鴻希 @kuk_8

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