錆びたパパゲーノの鈴

結 鴻希

予鈴



「一番楽に死ねる方法って何かな」



 振り返った先には空を見上げる彼女の姿があった。

 年が明けて一か月が経つ。

 例年より冷え込む空気に私は身をすくませた。

 早く家に帰りたい。


「…「楽」をどう定義するかじゃない?苦しまずにって意味か、準備するものが少なくて済むって意味か」

 耳が切れそうなほど鋭い冷たさを打ち付ける風から逃れるようにコートのフードを被る。カイロを持ってこなかったのは失敗だった。指がかじかんでうまく動かせない。


「そうだよね。じゃあ、どうすれば“きれい”に死ねるかな」


 そう言って彼女はこちらを見遣る。その瞳はとても柔らかい色をしていた。

「死体がキレイな状態ってことならとりあえず飛び降り自殺はあり得ないかな」

 実際に見たことはないが、想像だけでその悲惨さがわかる。同様に線路や道路への飛び込みも却下である。

 あと入水じゅすいもお勧めしないよ、と付け足す。溺死は苦しいし、発見が遅れた土左衛門どざえもんは見苦しい。


「…見た目もキレイな方がいいけど」

 寒いからだろうか。彼女のその声は少し震えていた。


 ふるりと揺れた長い睫毛まつげが彼女の目を隠す。再び吹いた風は彼女の髪の毛をさらっていく。


「現実の“死”は綺麗なものにならないのかな」




 * * *



 松下まつした 葵衣あおいは死にたがりではない。


 私と葵衣は小学校からの幼馴染で、大学進学を機に彼女が上京するまではよく一緒に遊んでいた。私は地元、彼女は東京で就職したのちも定期的に連絡を取り合い、お互いの仕事の愚痴や恋愛事情など何でも相談しあっていた。相談しあうと言えど、私は常に聞き役だったけど。



 * * *



「どうやって死ぬのが楽かな」

 中学校からの帰り道、唐突に振ってきた話題にぎょっとして葵衣の顔を見ると、彼女はこてんと首を傾げた。

「なっ…急に何さ」

「えー?単純に興味だよ。死ぬのって何だか苦しそうじゃん。だから苦しまずに死ねる方法ってあるのかなーって思っただけだよ」

 あっけらかんとした表情で話す彼女を見て、こっそりを息を吐きだした。


 ウェルテル効果。

 マスメディアの報道に影響されて自殺が増える事象のことをそう呼ぶ。


 彼女が好きだと言っていた楽曲を生み出したミュージシャンが先日自殺したという報道があったことを思い出す。確か自宅で亡くなったのだったか。1月の冬場だったため、腐敗の進行具合は酷くなかったという噂だ。

 そのミュージシャンはそこそこの人気を博していたものの世間的な認知度は低く、マスコミも連日取り上げるようなことはなかった。しかし、ファンの人々の傷心は計り知れない。


「…死にたい、とか、考えてるわけじゃないよね」

 自殺願望を持つ人にかける言葉はより気をつけねばならない。善かれと思って言った何気ない一言がトリガーと成りかねないからだ。

 すると彼女はきょとんとした顔を浮かべ、一瞬間を開けてぷっと吹き出した。

「ないないない!一切そんなこと思ってないよ!」

 あはははっと笑う彼女の様子に、ホッとするやらイラつくやらで、半眼になってめ付けるしかなかった。


 葵衣はひとしきり笑うと、ふとその表情がいだ。それは決して暗いわけではなく、あくまで穏やかな水面のようだった。

 その表情にひやりと身震いし、彼女の名前を呼ぼうとした。

「あおい…」

「死ぬなんてもったいないじゃない」

 凛とした声音に彼女の芯を感じ、思わず口をつぐんだ。

「だって物理的に死は選択できるかもしれないけど生は選択できないんだよ。望んで生まれてくることはできないんだ」

 だから、と言葉を区切ると葵衣は私の目を見つめてきた。その瞳は少し揺らいでいて、の人の死を悔やんでいるのが伝わってくる。そのとき、彼女が勧めてきた曲がレクイエムだったのを思い出した。


「死について、ちょっとしたことでも考えてみたいんだ」

「…そっか」



 倫理的なことや哲学的なことは難しいから簡単に想像できることから始めたい、という彼女の希望で、私たちは“死ぬ方法”について話すようになった。



 首吊り。


 飛び降り。


 入水。


 焼身。


 服毒。


 ガス。


 凍死。


 練炭。


 刺殺。




 もちろん、毎日こんな話ばかりをしているわけではない。好きな俳優やアイドル、アニメの話もしつつ、思いついたときに話題に挙げる程度だった。



 高校は別の学校に進学したが、家が近かったためお互いの家を行ったり来たりしていた。県内でも有数の進学校に進んだ葵衣は勉強で忙しそうで家に行くのは躊躇ためらわれたのだが、彼女が頻繁に招くため交友が続いていた。

 この頃から、彼女の部屋に一つの違和感を感じるようになった。

 全体的なレイアウトが変わったわけではない。コンセプトが変わったわけでもない、と思う。

「この前初めて『若きウェルテルの悩み』読んだんだけど、理解できなかったー。やっぱ恋愛しないとわかんないのかな」

 ベッドに寝転んでいる葵衣は英単語帳を閉じると枕元に放りなげた。

「葵衣がわからないなら私は何もわからないよ」

「えー。とか言って考えるのがめんどくさいだけでしょう」

「外国文学は読んだことないから何も言えません。日本文学でお願いします」

 太宰ならお話ししますよ、とわざと丁寧な物言いで話しかけると彼女は口を尖らせて不満を丸出しにした。


 またある日は彼女が私の家にやって来る。彼女は私の家に来るといつも仏壇に手を合わせる。その仏壇には人だけでなく、昔飼っていたトイプードルのまるも祀られている。彼女もまるを可愛がっていただけに、死んでもなお大切にしてくれているのかもしれない。

「仏壇って不思議だよね。何ならお墓も不思議。そこにいないのにね」

 いつだったか、彼女が私の目を見てそう言った日があった。



 そんな「死」を交わす日常は葵衣の上京とともに消え去り、大人になるにつれて現実の忙しなさに対応するので必死になっていた。




 * * *




「ずいぶんと懐かしいテーマ引っ張りだしてきたね」


 だから久々に逢った親友との会話に「死」が出てきても驚きはしなかった。東京観光にやって来た友人にする話かねとは思ったものの、葵衣の関心事であるのは知っていたから。


気づけば「死」に興味を持ち始めて16年も経っていた。


「思い出にふけるのもいいんじゃない?」


 ふふっと笑う彼女はすっかり洗練されており、都会人という雰囲気が漂っていた。


「最近流行ってる歌がね、歌詞をちゃんと聞くと自殺をテーマにしてるんだ」

 私が芸能の分野にうといことを知っている彼女は、はじめから補足を入れてくれる。出会って十数年も経てばお互いのことは手に取るようにわかる。

「最初はいい曲だなあって聞いてたんだけど、それが“綺麗に死を描いていて良い”“丁寧な描写で心に刺さった”って賛美されるのが不思議でたまらなくて来ちゃってさ」


 本物の自殺に遭遇した時は幻想的だとは思えないのに。


 歌や小説、芸術の中で昇華されるそれは、良い意味で人を感動させる力を持っているのだ。


 或いは実際に起きたことでも、文字化されたら同様の力を具えるのかもしれない。




“死”は文学の中で“綺麗”な事象になり得る。





 寒いからとりあえず歩こうか、と私の横を通り過ぎるとふわりと香水の香りが散っていった。



 東京の寒さは雪国のそれとは異なる。あくまで主観かもしれないが、雪が降ってる方が丸みを帯びた冷え込みなのだ。だから東京の冷たさは鋭利に感じて仕方がない。


 ちょっと暖を取って行こうと、彼女が度々訪れるという喫茶店に入る。閑静な住宅街にひっそりとたたずむ小さな店である。


「いらっしゃいませ」


 カウンターを挟んで喫茶店の店主と見える男性と女性客が談笑していたようで、その笑顔のまま私たちを迎え入れる。

あずまさん、ご無沙汰してます」

「松下さん、お待ちしてましたよ」

 長いことお見受けしてませんで、と話しかけてきた店主は何かを思い出したかのように軽く目をみはった。葵衣の表情はここからは見えないが、なぜだか強張っているように感じた。

 二度三度瞬きを繰り返した店主は、お客様はご友人の方ですか、とこちらに視線を向けてきた。切れ長の鋭い目だが、不思議とキツさは感じず寧ろ柔らかな印象を受ける。

 すると彼女はホッとしたのか肩の力が抜けたようだった。

「…そうです。東京観光に来たので案内してました」

「はじめまして。葵衣がお世話になってます」

 軽く会釈をすると、店主は微笑みを返してきた。イケメンである。



 奥のテーブル席に通され、葵衣は珈琲コーヒー、私はカフェラテを注文した。

「ここのは本当に美味しいよ」

「そう。楽しみだ」

 カウンター内のキッチンにいる店主を見ると、何かを切り分けているようだった。その後ろの棚にはハーバリウムが一つ置かれている。大きく反った紫の花びらが液状に漂う。その姿はとても綺麗なのに、なぜだかそこだけは、喫茶店のコンセプトとマッチしていないようだった。


「…ハーバリウムはキレイな水死体だね」

 ぼそっと呟いたその言葉に、一瞬彼女の目が揺らいだ。

「…キレイ、だけどね。確かに死んでる」

「ねえ、美しい死って考えたことある?」

 今まで「死」の話題を私から切り出すことがなかったためか、彼女はかなり驚いたようだった。私もなぜ話す気になったのかわからない。

「それは綺麗とは違うってことでいいのかな」

「んー、若干違うのかなあ…。難しいけど」

“美しい”と“綺麗”は全くの同義ではない。しかしその違いを言語化するのは難しい。


「日本人にとっての美しい死って、多分、共通してると思うんだ」

「お待たせいたしました」


 私の言葉に被るように店主が注文の品を持ってきた。

「あ、東さん、ありがとうございます」

「いえ…今、大丈夫でしたか…?」

「大丈夫ですよ」

 少し困ったような笑顔で見てきた店主に一言返す。

 珈琲とカフェラテのカップを二つ、そしてシフォンケーキが二つ置かれた。

「こちら、特別サービスです。他の方々には内緒で」

 口元に指を立てて悪戯な笑みを浮かべる店主に、この店が愛される理由があるように感じた。



「それで、美しい死って何だと思っているの?」

 ケーキをすでに平らげた彼女は珈琲をゆっくりと飲んでいた。

「ん?…ああ、そんな話だったね」

「珍しく振ってきたのに忘れるとかありえないんですけど」

「言っとくけど、本当にたいしたことじゃないからね」


「いいよ。」


 彼女のその一言に、不思議と真剣さと緊張が垣間見えた。


 私はそのわけを、多分、知っている。


 目の前のカフェラテとシフォンケーキは置かれたときのまま。






「美しい死は、」







 誰にも気づかれることなく、静かに死んでいくこと。




 潔い死こそが美しい死に方。









 ――かつての×××がそうであったように。





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