第12話 絶対、ない



 翌朝。


 いつものように、目を覚ます。

 枕元の時計が指し示すは五時半。

 まだ眠っているレンカを起こさないように細心の注意を払いながらジャージを持って脱衣所に行き、着替えて支度をする。


 先に歯磨きや洗顔から。

 肌のケアは大事だとエルナに口を酸っぱくして言われたが、色々と手間がかかるために憂鬱ゆううつだ。

 効果をそこまで実感できないのもやる気を半減させる理由の一つ。


 だが、やらないと俺の柔肌は荒れてしまう。

 ……あれ? 『無限再生レナトゥス・コード』でなんとかならないか?


 そうは考えたものの、実際行動に起こしてしまうと何か大切なものを失ってしまう予感がしたので思考を振り払う。


 プラスチックの桶にぬるま湯を溜め、洗顔料をよく泡立てる。

 手のひらを逆さにしても落ちないくらいの濃密な泡を作ったところで、満を持して洗顔を開始。

 擦らず、優しすぎず。

 いい塩梅の力加減で肌を揉むように撫でて、じっくり数十分をかけて洗った後、ぬるま湯を手ですくって泡を落とす。

 そんな工程を何度と繰り返し、洗い終えた肌はもちもちのぷるぷるだ。


 水気をタオルで拭い、ようやくジャージへ着替えて寮の外へ。


 外に出てみれば、眩しい朝日が燦々さんさんと降り注いでいた。


 気持ちのいい朝の清涼な風が一つに束ねた髪をなびかせる。


「……さて。今日もやるか。初日だし、散策も含めてゆっくり行こう」


 呟いて、敷地内を走りだした。

 俺の朝はランニングから始まる。

 もう体に染みついた日課のようなもので、やめろと言われても難しい。

 気分で距離は変わるものの、時間的には大体三十分ほど。


 というのも、実戦では魔力循環による身体強化を施すが、素での身体能力を鍛えておけば効果も高まる。

 命がけで戦う以上、準備は万全にしておくべきだ。


 寮の前に伸びる石畳の道を見据え、一歩を踏み出す。

 規則的な呼吸を心掛けながら足を動かし、ランニングシューズの靴底が鳴らす靴音が静かな朝の景色に響いていく。

 澄み切った空。

 学園の景色が前から後ろへと流れる。


 噴水広場を抜けて訓練場を横目に走り抜け、同じく朝早くから鍛錬をしていた生徒にぎょっとした目で見られた。

 不思議に思いながらも駆けていると高く古めかしい時計台が六時を告げる重厚感のある鐘の音を響かせる。


 ここらで今日は一区切りにしよう。

 寮に戻り軽くシャワーを浴びて上がると、いい時間だ。

 肌触りのいい下着を履き、未だに残る違和感を意図的に払拭しつつもブラウスを羽織り、ボタンをかける。

 上下が一体化したワンピースを被り、ボタンをかけて背中に腕を回してファスナーを上げた。

 腰骨のラインに合わせ、横のファスナーを上げてからスカートの丈を調節。

 花弁のように広がる裾を正して緋色のネクタイを締め、全体のバランスを鏡で確かめる。


「……こんなものかな」


 微調整をして納得したところで黒いソックスを履いて一先ずは準備完了。

 よし、と表情を作ったところで目覚ましの音が鳴り響く。


 時計を見れば六時半を刺している。

 食堂が開く時間でもあるが、例によって混雑が見込まれるため少し遅めの時刻にセットしておいた。

 だが、一向にレンカが起きる気配がなかったため、様子を見に行くと。


「うーん……これは起こしたほうがよさそうかな」


 それはもう、見事に熟睡であった。

 静かに寝息まで立てて、ふかふかの布団に顔をうずめている。

 くしゃりとなった金髪は手遅れなほどに寝癖がしっかりとついて、直すのが大変そうだ。

 目覚ましの音など彼女の耳には聞こえていないのだろう。


 こうも心地よさそうに寝られると起こしにくい。

 しばし考え、ため息をついてレンカのそばへ。


「おーい。朝だよー」


 軽く肩を揺すってみると、レンカは「んん……」と短い声を漏らして身じろぐ。

 そして、ちょうさなぎから羽化するかのような緩慢かんまんさで瞼がゆっくりと開き、眠気を残した蒼玉そうぎょくの瞳と視線が交わった。


「……んぅ、ぁ……ふぇ?」

「もしかして寝ぼけてるの? おはよう。朝だよ、レンカ」


 訳が分からないと言いたげなレンカへ朝の到来を告げると、ややあって「あ」と口をぽっかりと開いた。

 そして、頬がみるみるうちに赤く染まる。

 胸の前で枕を抱き締め一度顔を埋めた後に、おもむろに顔を上げて、


「――これはその……完全に寝ぼけていました」

「レンカはお寝坊さんなんだね」

「もうっ、今日はたまたまです! いつもはちゃんと自分で……自分、で……」


 すすーっと語尾が弱くなり、レンカの目が泳ぐ。

 これは日常茶飯事なのだろう。

 皇宮でメイドさんに起こされていた姿が透けて見えるようだ。


 とはいえ、寝起きは悪くないらしい。


 すんなりとベッドから出て、カーテンを開けた窓から差し込む朝日を浴びている。


 まるで深窓しんそうの令嬢……間違いではないか。

 レンカはこんな調子ではあるものの、第三皇女なのだから。


「幻滅したりしないから大丈夫。それより、早く準備しないと朝食を食べ損ねるよ」

「……そうですね。着替えるので少し待っていてください」


 言って、レンカは脱衣所へ。

 着替えが終わるのをリビングでぼうっと待っていると、軍服に着替えたレンカがリビングに顔を出す。


「お待たせしました、カズサさん」

「ん。じゃあ、いこうか」


 レンカと合流して食堂で軽めの朝食をとり、部屋に帰って荷物を携えれば準備完了。


「時間は……七時四十分。まだ余裕あるね」

「どうします? ホームルームは八時二十分からですし、時間を潰すにしても教室で待つにしても微妙ですね」

「……遅れるよりは先に行っておいた方がいいんじゃない?」


 訓練校は一分一秒たりとも遅刻厳禁。

 例外はあっても、適用されることを望むべきではない。


 そんなわけで俺とレンカは『魔術科』の教室へ向かった。

 扉を開けると、早くに来ていた数人の視線が流れる。

 玉虫色の感情を一身に受けながら窓際の席に並んで座り、荷物を置いて一息つく。


「人気者は大変だね」

「私ではなくカズサさんを見ていたのでは? 今日もとても可愛いですし」

「……それはない。絶対、ない」


 全力で首を振る。

 動きにつられて長い白銀の長髪が揺れ、頬を毛束がぺしぺしと叩く。

 自分でやっておいてこちょがしい上に折角時間をかけて整えた髪が崩れるのを察して、面倒が増えたと眉間を揉んだ。


 髪へ手櫛をかけつつ、今一度視線の矛先を辿る。


『魔術科』の生徒は男より女の割合のほうが多い。

 これは魔術を行使する上で男女の人体構造による差異が大きく関わっているが、今は置いておく。


 なんにせよ、直接手を出してこないなら構わない。


 鞄から教科書類を出しつつ、授業内容を頭にうかべる。


「今日は魔術概論と戦術学、魔王生態学だっけか」

「皇宮でも一通り習いましたね。カズサさんは?」

「私も勉強してた……あんまり自信ないけど」


 座学は室長に引き取られたときに仕込まれたが、実戦ばかりの日々で抜けているところがあるかもしれない。

 特に魔術概論。

『魔王』と戦うときは二種類のと身体強化程度しか使わない上に、理論より感覚派なのだ。


 まあ、教科書を見れば思い出すだろう。


「あ、午後は戦闘訓練もありましたね。そっちのほうが私は心配です……」

「座ってるよりは楽かな」

「カズサさんらしいですね」


 レンカが微笑みを浮かべた。


 ……なんだろう、とても誤解されている気がする。


 明確な肯定も否定もしないまま、二人で雑談に興じながら時間を潰すのだった。

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