あそこから出てくる

千本松由季/YouTuber

あそこから出てくる

 親戚をたらい回しにされて育って、もうとっくに自分の家が分からない。知らない男に買ってもらったエルメスの靴を売った。渋谷の街を裸足でうろつく。

 また知らない男。大きなカメラを持っている。ちょっと撮らせて、と言ってる。知らん顔して通り過ぎる。男は走って私を追い越すと、私の顔を撮る。私は黙って歩き続ける。男はまたシャッターを切る。私は腕で自分の顔を隠す。男は諦めない。

 私は走り出す。足に鋭い痛みを感じる。立ち止って足の裏を見た。

「なにしてる! こんなに血が出て」

お前のせいだろ? 割れたビール瓶が転がっている。身体の中から出てくる私の血。こんなに赤いんだ。こぼれたビールに絡まって歩道を流れていく。ゆっくりと……。


 知らないうちに季節が変わった。夏になった。写真家の名前は伊澄(いずみ)という。簡素なアパート。私はおままごとみたいに、彼に料理を作ったり、掃除をしたりする。彼の本棚から適当に本を選んで、漢字の勉強をする。

 ベッドに入って、目を閉じる瞬間、壁に貼ってあるガムテに気付く。ベッドの上に乗って、やっと届く高さ。触ってみる。穴が開いてる? そこだけ冷たい。

「これはなあに?」

「あれはね、絶対はがしちゃだめだよ。あそこから面倒なものがたくさん出てくるから」

「どんなもの?」

 伊澄は、撮った写真を何枚か持って来る。蝶々の羽が生えている変な生き物。赤ちゃんみたいな、天使みたいな。部屋の中をたくさん飛び回っている。渦になって。みんな違う羽。形も色も。誰かが一枚一枚、丁寧に描いたような。

 こんなのほんとにいるわけない。これってきっと、ただの寝物語、真夏の夜の夢……。


 いつも思ってた。地球上の生物はこんなに美しくて、こんなにバラエティーがあって、大昔、誰かがデザイン室に籠って、一生懸命描いたに違いないって。スケッチして、色を塗って。だってこんなに精巧な羽。

「可愛い」

「へえ、君にはこれが見えるんだな!」

「他の人には見えないの?」

「見えない。なんで誰もいない部屋の写真をこんなに撮ったの? って聞かれる」

 動画もある。百匹以上、竜巻みたいにぐるぐる楽しそうに飛んでいる。歌ってる? 古い歌。ベートーヴェンよりモーツァルトより古い歌。一匹が降りて来て、カメラのレンズを悪戯っぽく覗く。はっきり見える。赤ちゃんみたいな、天使みたいな。巻き毛で可愛い顔をしている。私は、あ、って声を上げる。

「やっぱり君には見えるんだな」

その羽はピンク色にグリーンの縞がある。こんなに透けるような薄い羽根で、どうして飛べるんだろう? 大きさは雀くらい? 多分。

 あそこから出てくるんだ。私はまたベッドの上に乗ってガムテを見た。頑丈そう。布製で。どうなるんだろう? もしこれをはがしたら。


 伊澄がいつもいない時間に帰って来る。

「清夜(せいや)、俺、しばらく帰れないから」

彼はキャリーバッグに服を詰めて、一番大きなカメラと一緒に玄関に置く。

 それから私の細くて頼りない身体をしっかり抱いてくれる。背中のファスナーを下げられて、着ていたワンピースが床に落ちる。私は裸にされてベッドに寝かされる。焦って服を脱ぐ彼を見る。私の冷たい身体を、外から帰って来た彼の、熱くて大きな身体が覆う。彼が私の女の部分を探っている。私も手を伸ばす。彼のそれはいつものより大きくて、いつものより熱くて、いつものより硬い。

 彼は無理やり私にそれを入れようとする。やっと気が付いて、私が全然濡れてなくて、絶対入らないって悟って、やっと私にキスしてくれる……身体中に。しばらく帰れないってどういうこと? 

 ベッドがこんなに揺れているのに、私の目が壁のガムテを追っている。そこに焦点が当たって離れない。

 伊澄は多過ぎるくらいのお金を置いて出て行った。


 お腹が痛い。何度もいかされたから。君はすぐいっちゃうからつまらない、と伊澄に言われた。昔、他の男にも言われたことがある。私は彼を送りもせずに、ベッドの上で、気だるい身体で、セックスの余韻に浸っている。私の心臓がまだこんなに速い。

 ドアを叩く音がする。だんだん激しくなる。複数の男の声がする。ドアを開けろと言っている。あんたが開けなくても俺達がこじ開けるから、と言っている。伊澄のバスローブを着て立ち上がる。ドアのチェーンをかける。

 そうすると、彼の熱い液が、あそこから流れ出てくる。私の太ももの内側をなぞって行く。ゆっくりと……。私は足を閉じる。それがどこにも行ってしまわないように。

 男達がドアをこじ開けた。でもチェーンがかかっている。私はドアを閉めようとする。男が靴の先をドアの隙間に差し入れる。私と目が合う。

「君、だれ? 伊澄慎士(しんじ)のなに? 職業は? 名前は?」

私はその時初めて、伊澄が下の名前じゃなくて苗字だって知った。私は伊澄のことなにも知らない。

「警察だ」

男は私に手帳を見せる。警察手帳なんて見たことないのに、どうしてそれが本物だって分るの?

「捜索令状もある」

捜索令状なんて見たことないのに、どうしてそれが本物だって分るの? 

「どうして開けない?」

 私は頑固にそこにいて、チェーンは切られて、十人以上の捜査官が入ってきた。一人だけ女性がいて、その人が私に手を挙げるように言って、バスローブの上から私の身体に触る。私はなにも持ってないわよ。くすぐったくて笑い声をあげる。その声に、男達が全員私の方を振り返る。

「貴女いくつ?」

女性が聞く。私は遥か昔、子供の頃に、なにかあった時は黙るのが一番いいと知った。

 父方の伯母が住んでいた海岸沿いの家。私は小学生で、十歳くらいで、伯母のいない時、彼女の夫がよく私を膝に乗せて、お人形にするように髪を梳いた。裸にして、寝かせて、股を開かせて、彼は私のそこを見ながら、自分のものを最後までやって、その瞬間、大きな声を出して、震えながら、あそこから出てくるものを、私のお腹に出した。それは私の横腹を流れて行った。ゆっくりと……。そのことも誰にも言わず黙っていた。


「この金はなんだ?」

私は答えない。捜査官達は、伊澄の写真をめくっている。「チャイルド・ポルノグラフィー」という言葉が聞こえる。

 私はあまり学校へ行ってないから幼く見える。でも警察で取り調べを受けて、私が二十歳だって分って、私はまた帰って来た。ここしか行く所がなかったから。彼の置いていったお金で、ドアを直した。

 伊澄から連絡が来た。不起訴処分になったから、もうすぐ帰れる。私はそれがどういう意味なのか調べた。だけど彼はなかなか帰って来なかった。寂しかった。

 私は伊澄のことをなにも知らない。彼はある時、突然怒り出した。

「清夜、君は俺に全然興味ないだろ?」

私はなにに対しても興味はない。興味持った振りでもした方がよかったのかな? 

 彼が好きだって言ってた、デイヴィッド・ハミルトンの写真集。本棚から出して、ページをめくってみた。古い写真。一九七0年代の。伊澄はこんな女が好きなのかな? 金髪で美しい少女達。エロティックな写真。ソフトフォーカスで。

 確かに伊澄の作品と少し似ている。警察がほとんど持って行ってしまったけど。気が付くと、彼のコンピューターもなくなっている。

 一人でおままごとの続きをやった。ドアの辺りに散らばったゴミを掃除した。土足で踏み込まれたから、それも綺麗にする。食事は二人分作って、一人で二日かけて食べた。一日が長かった。部屋を眺めていても、どこも静かで灰色に見えた。


 夜、ベッドに潜ると、ガムテ付近の壁から音が聞こえる。誰かが足で蹴ってるような音。うるさいな、と思って、私は布団を被った。伊澄の匂いのする布団。蹴る音が大きくなる。彼はなんて言ってた? 「あそこから面倒なものがたくさん出てくるから……絶対はがしちゃだめだよ」本当かな? あんなところから出てくるのかな?

 声が聞こえる。天井の方から。子供の声。キャッ、キャッって、うるさい。今度は、私のすぐ側の壁からも聞こえる。私は伊澄がいないのに、彼がいつも寝てる場所を空けて、壁にくっ付いて寝る。だから音がよく聞こえる。

 眠れなくて、それがどのくらい面倒なものなのか、調べてみた。天使には普通、白い鳥のような翼がある。でも、黒い翼のも、蝶の羽の生えたのもいる。私は混乱する。蝶の羽は普通、妖精に生えている。多数決でそれらは妖精であると判断した。

 今度は妖精について調べた。確かに面倒なもののようだ。人に悪戯したり、騙したり。シェークスピアの『真夏の夜の夢』にいっぱい出てくる、って書いてある。

 いつまでもそうしているうちに、壁のガムテがはがれだした。布製の頑丈なガムテだけど、もうすぐ開けられようとしている。慌てて背伸びをして、くっ付けようとしたら、小っちゃな足先が出てきてそれを阻む。

 私は手をはなした。どうして? 面倒を起こしたかったから? 寂しかったから?

 ガムテが落ちて来て、私の足元に着地した。信じられない数の妖精達。寝室はすぐにいっぱいになった。でもこれは私のせいじゃない。あそこから勝手に出てきただけ。みんな色が違う。色の数ってこんなにたくさんあったんだ! みんなで喋ったり歌ったり、とてもうるさい。古い歌。そんなに昔の国から来たのかな?


 誰かが玄関のドアをノックしている。妖精達がうるさくて気付かなかった。耳を澄ますと、伊澄の声。ドアを直した時、カギも付け替えたんだ。

「伊澄」

私は伊澄が彼の苗字だって知ってからも、やっぱり伊澄と呼んでいた。少しやつれて無精髭が伸びている。こんな人だったかな? ほんとかな? 彼をよく見た。抱き締められて、髭の痛い頬ずりをされる。

 彼は部屋中を飛び回っているもの達を見る。

「ああ、やっちゃったね!」

「やっちゃった。たった今」

私の手の中に、二匹の妖精が乗ってくる。ピンクのと、水色のと。不思議そうに私を見上げて、羽をぱたぱたさせる。生きている。確かに。

「へえ、君には懐くんだな」

伊澄がその二匹に手を近づけると、すぐに飛び去って行く。

「これって、どうなるの? なにを食べるの?」

「基本、蝶々だから、砂糖水で十分。そのうち飽きたら、自分の国に帰って行くよ。ちょっと暗くすると……ほら」

静かになった。みんなお行儀よくしている。あそこの壁の穴から光が出てくる。あの向こうに知らない国がある。


「寂しかった」

私にしては本当のことを言った。伊澄はやっとキスしてくれた。帰って来て初めて。唇に。

「俺は未成年を撮ってるけど、大手モデルエージェンシー通して、親の承諾書も取って。だから大丈夫だって知ってた。芸術性が高いって検察官に褒められた。びっくりした。光栄だよな」

彼は笑った。私は甘えて伊澄の胸に飛び込んで、そしたら、いつもびくともしなかった彼の厚い胸が痩せてしまったのに気付いた。私がここに一人で、寂しかった間に、それだけの時間が経っていた。

 ベッドで抱き合う。彼がしたそうだったから、私は好きにさせた。ベッドの枠にたくさん見学者が座っている。彼は激しくて、私はいつもみたいにすぐいっちゃって、でも彼は終わらなくて、私は何度もいって、大きな声が出て、また壁の穴を見詰める。あそこの穴から出てくる光が、天井を横切って、反対側の壁に映る。ベッドが大きく揺れて、妖精は何匹もばたばた落ちた。床の上から小っちゃな声で、ちぇっ、って言ってるのが聞こえた。


 警察から押収された伊澄の写真が帰って来た。コンピューターのデータも無事だった。彼に頼まれて写真を整理した。二人でやって三日かかった。私はあの時の目付きの鋭い男達のことを思い出していた。

 あの時私は、なにを聞かれても黙っていた。それは過去、私が学んだことだから。もうあまり思い出さなくなっていた私の過去。伯母の夫。私を裸にして、あそこから私のお腹にあれが出てきて……そこを伯母に見られた。

 彼女は夫を無視して、般若の顔で私の髪を鷲掴みにして吊り上げると、頬を思いっ切り叩き続けた。繰り返し繰り返し。私の顔が腫れ上がった。男は終わったばかりの萎えたものを出したまま、私達をただ見詰めていた。私の口の中が切れて、生臭い血が口の中から溢れ出てきて、そこから私の胸まで流れていった。ゆっくりと……。

 私は泣かなかった。泣いても誰もなにもしてくれないのを知っていたから。すぐ他の親戚に送られた。忘れようとしたから、ほんとに忘れていた。


 私は靴を履かずに外に出た。電車に乗った。人々が裸足の私のことを見る。渋谷で降りた。週末の。伊澄と会ったあの路上に立ち止った。人々が私にぶつかって、悪態をつく。私は自分の過去を思い出さなくてはいけない。伊澄と会う前の。

 補導されない年になったら、親戚の家を出て、路上生活を始めた。いつも金を持ってそうな、ずっと年上の男に付いて行った。お金をくれて、住む所を与えてくれて、男は気紛れに私を抱いて、私を着せ替え人形にして、高い服を買ってくれて、夜の街を連れ回して、夜の女達は私のことを綺麗だと言ってくれた。男は嬉しそうだった。

 私はそれまで自分が綺麗だということを知らなかった。


 夜になった。電話が鳴った……。伊澄だった。清夜、どこにいるの? 私は黙っていた。いつ帰って来るの? 彼の声がだんだん泣き声になっていく。……どうしたら帰って来てくれるの? 

「私はまたここから始める」

「ここってどこ?」

 何人かの男が私に話しかける。私は無視する。頭のおかしい女だと笑われる。警察を呼ばれると嫌だな、と思って歩き出す。数時間歩いたら、足が痛くなって、誰にも見られない、野良猫しか知らない路地裏に蹲ったりしているうちに、なにかに魅かれるように、伊澄と出会ったあの道に戻って来た。

「清夜!」

伊澄の声。どうしてここに? って言おうとして見たら、彼の両肩に一匹ずつ妖精が乗っている。それ等は銀色で、三匹目が金色で、空中にいて、きらきらの鱗粉を撒きながらこちらに向かって飛んでくると、私の頭に蹴りを入れる。

「痛い!」

「ほら、みんな心配して怒ってる」

 伊澄は私をデパートに連れて行った。お伽噺の王子様のように跪いて私に靴を履かせる。ぴったりだった。

 またアパートに戻ってきた。妖精達は、あの動画みたいに渦を巻いて飛んでいる。楽しそうに笑いながら。見ると、撮影用の背の高い扇風機が回っている。あ、これだったんだな、って思って、扇風機のダイヤルを回してみた。強風になって、彼等は天井や壁にぶつかって、床に落ちる。みんなが私を睨む。

 毎日少しずつ妖精の数が減っていく。最後の一匹がいなくなった時、伊澄がまた壁に新しいガムテを貼る。

「クリスマスになったら、また出て来る。俺達にハレルヤを歌いに」

ほんとかな? ほんとにそんなことあるのかな?

 伊澄は私に微笑んで、壁のガムテを指差す。

「……あそこから出てくる」

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