すべて愛しき我が子たち
#39 賽は投げられた
#39 賽は投げられた
「
大教室での講義を終え、筆記具をしまっていると前方から歩み寄ってきた女子学生に声をかけられた。同じ学科の
「残念、昨日終わった」
「なあんだ。苦労してるなら文献選ぶの手伝おうと思ったのに」
「星、俺はまだ終わってないよ」隣席の
「狩野くんはすぐに終わらせられるでしょ。なんだかんだ言ってできる子なんだし」
「それだと俺が出来ない子みたいだ」
口を尖らせ指摘すると、星は口を手で押さえて笑った。耳のフープピアスが揺れる。と、入り口にいた女子生徒が星に向かって声を張った。
「リリ、食堂行こう」
「はあい。じゃあね、また明日」
「また明日」
手を振って教室を出て行く彼女を見送る。白シャツにロングスカート、スニーカーというシンプルな装いだが、背が高く足も長いからか何を着てもよく似合う。
狩野が横から肘でつついてくる。「星ってお前に気があるよな」
「そんなことないと思う」
「あるよォ、絶対。おばさんが亡くなったとき、すげえ心配してたし」
「それは星も同じ境遇だったからだろ」
ペンケースとファイルを鞄にしまう。
春先に夏目の母が亡くなり、数日講義を休んだ。復帰した日、星は夏目の元まで来て悔やみの言葉をかけ、休んでいた間の講義のノートと紅茶の詰め合わせを渡してくれた。少しでもリラックスできるようにと彼女が選んだものを夏目はありがたく受け取り、眠れない日は紅茶を淹れて飲んだ。
彼女は何かと夏目を気遣って声を掛けてくれた。幼い時分に姉を事故で亡くしたのだという。喪ってすぐはいつも通りに振る舞っていたが、心が状況を把握できていなかっただけで反動が大きかったと彼女は言った。あまり無理をしないようにと何度も言い含められ、夏目は素直に従った。幸い、反動が大きくなるほど気持ちは落ち込まなかった。喪失感を払拭するような出会いがいくつもあり、落ち込む暇がなかったともいえる。
その出会いの契機となった人物に思いをはせる。締め切りが近いらしいが、欲しかった本が発売されるから外出すると言っていた。マネージャーの松川もさぞ頭を痛めているに違いないと思いつつ、先を行く狩野の背を追った。
*****
本当に痛いときは「痛い」と声が出ないものか。島崎は妙に冷静だった。知らぬ男に路地裏に連れ込まれ、暴行を受けているのに頭はクリアだった。
その矢先、後方から腕を引っ張られた。状況を把握する前に狭い路地裏に連れ込まれ、腹に一発、拳を喰らった。きれいにみぞおちに当たり、あやうく事務所で飲んだ緑茶を吐き出すところをなんとか耐えた。くずおれ、腹を押さえて攻撃した相手を見上げた。
「島崎だな」
若い男。年頃はそう変わらない。爆発したようなボリュームのある黒髪には金が混じり、白いシャツに灰色のパーカー、黒いパンツ、ハイカットのスニーカー。どこにでもいる若者に見えるが、パンチの威力からしてそれなりに鍛えているだろうと思った。
「そうですけど、何ですか?」
腹に手をやり、細く呼吸をしながらも返事をする。想定外の出来事にパニックになるかと思いきや、頭は冷静さを保っていた。それが気に入らなかったのか、男はしゃがみ込み、胸倉をつかんでくる。かけていた眼鏡の位置がずれる。
「あちこち嗅ぎ回ってんじゃねえよ」
どすの聞いた声が落とされる。何に対しての言葉か理解するより先に視界が白くはじけた。殴られた、と後から脳が理解する。眼鏡が転がる音。親父にも殴られたことないのに、という有名なセリフが浮かび、こんな時なのにやはりそのフレーズは出てくるのかと思わず笑みがこぼれる。
「ヘラヘラしてんじゃねえっ」
腹に蹴りが入り、さすがに苦しい声が漏れた。骨が折れた音はしなかったが痛いものは痛い。くの字に身体を曲げて地面に倒れる。通りの向こうで車が行き交うのが視界に入る。一本入った場所で何が起きているかを知らずに歩いてゆく人々。
倒れた身体に衝撃が入る。蹴られている。防衛本能から身をちぢこめて頭を守った。見知らぬ男は執拗に腹や背中を狙っていた。鈍い音がするたびに身体に衝撃が走る。いつまで続くのかと恐怖心がもたげたとき、通りを歩く足音のひとつが止まったように聞こえた。
「おいっ、何してる!」
若い男の声。駆けてくる音。暴漢は蹴るのをやめ、小さく舌打ちした。
「警告はしたぞ」
そう言い残し、男は走り去ったようだった。路地の奥へ足音が消えていく。声をかけた男性は「待て!」と言いながらも、島崎の介抱を優先させた。肩に手が触れる感覚。
「大丈夫ですか……え、あれ、島崎さん?」
驚きを隠せない声に目を開く。ゆっくりと男性を見上げると、見覚えのある青年の顔があった。頓狂な声が出た。
「
「怪我の具合を見るので動かないでください」
青年――
「いってえ……」
「骨折はなさそうですね。とにかく、警察と救急を呼びます」
「救急車はいい。自分で病院に行ける」
「駄目です。内臓が破裂していたらどうするんですか」
スマートフォンを取り出して彼は手早く警察と救急に連絡を取った。次いでどこか別の場所にも電話をした。話ぶりからして彼の母――三神法律事務所に席を置く神崎
すぐに事務所にいた神崎弁護士と大神弁護士が駆け付けた。救急と警察はほぼ同時に到着し、島崎は人生で初めて救急車に乗った。大神弁護士が付き添い、真悟は警察に事情を聞かれていた。
念のため受けた検査は問題なく、手当てを受けながら警察の聴取を受けた。見知らぬ男に殴られたとだけ話した。入院の必要はないと診断を受け、念のために診断書を取った。そのまま警察署に直行し、被害届を出してからふたたび三神法律事務所に戻った。昼前に事務所を出たはずが、夕暮れが近づいていた。
「ひどい目に遭ったね。お大事にして」
神崎弁護士は頬にガーゼを貼った島崎を見るなり、心底気の毒そうに声をかけた。
「真悟くんが来ていなければもっとひどい目に遭っていたと思います。本当にありがとう」
真悟に向かって深く礼をすると、彼は恐縮したように顔の前で手を振った。
「いえ、俺も犯人は取り逃がしちゃったし」
「もうっ、せっかく竹刀持ってたんだからコテンパンにすればよかったのに」
神崎弁護士は息子を小突く。この春に進学した大学の剣道部で1年生ながらレギュラーの座についた彼ならば、男を返り討ちにするのは容易かったかもしれない。
「そうしたら真悟くんが捕まっちゃいますよ」
笑おうとしたが唇の端が痛み、顔が歪む。したたかに殴られたおかげでじんじんと熱を帯びていた。
島崎の無事を見届けた真悟は、丁重に見舞いの言葉を掛けて事務所を出て行った。元々は母に届け物をするために通りかかったらしかった。入れ替わりに夏目と松川がやってきた。会う予定だった松川には事の顛末を知らせてあった。仕事場に暇を潰しに来た夏目が居合わせ、二人で来たに違いない。
深刻に受け取られては困ると鷹揚な素振りで手を挙げてみせる。
「やあ」
「やあ、じゃないですよ。心配させないでください。大丈夫ですか。どうしたんですか」
夏目は呆れた声で矢継ぎ早に問いを投げた。
「俺が聞きたい。知らない男にいきなり路地裏に連れ込まれて暴行された。ドラマみたいだった」
「お加減はいかがですか」松川が心配そうに言った。見ての通りだと両手をあげてみせる。
「骨折はしてないし右手は無傷。締め切りを伸ばしてもらえなさそうなのが残念だね」
「冗談を言えるほどにはお元気ということで何よりです」
大神弁護士に促され、4人で応接室に入った。事務員の壮年男性が緑茶の入った湯のみを人数分置いていった。ドアが閉まったのち、夏目が口を開いた。
「心当たりはあるんですか?」
「警告だと言っていた。あちこち嗅ぎ回るんじゃない、とも」
「ダルタニアン・エンターテイメントを調べていることでしょうか」松川が顎に手をやり考え込む。「だとしたら実際に動いている僕に何もないのは不自然なように思いますが」
「俺が指示しているのを知っているのもね」
大神弁護士が口を挟んだ。「本当に襲った男性に見覚えがないんだね? 依頼人だとか、受取人でもなかった?」
「ないです。あんな典型的なヤンキーと関わったら忘れるはずがない」
「誰かの命令で動いているんじゃないですか」夏目が言う。「ドラマだとたいがいそうだ」
「その線もなくはない。とすると頼んできたのは探られて困るダルタニアン側ってことになる。警告するというのは埃があるって自白してるようなもんだけど、いいのかな」
「とはいえ、しばらくは動かないようにしましょうか」松川が決定事項のように述べた。「警告で済んだから良かったものの、次はどうなるか。しばらくはお一人で外を出歩かない方がいい」
「独身男性に一人で外出するなっていうのはなかなか無理な相談じゃないかな」
「仕事場で原稿に専念いただければ可能かと」
にっこりとビジネススマイルを浮かべる松川に、げえ、と分かりやすく嫌な声が出た。その声に呼応したかのようにスマートフォンが着信を知らせて震えた。表示された相手を見、電話に出る。しばし話をし、通話を終えてから松川のほうを向いた。
「せっかく仕事に没頭できるかと思ったけど、残念。社長から会食のお誘い」
「そんなの断ればいいのに」夏目が白い目で見るが、島崎は構わず続けた。
「それが、社長は君さえ良ければ会って話してみたいってさ。今夜19時、銀座。どう? 人の金で高い肉が食べられる」
「社長命令なら仕方ないですね」
「現金なアルバイトだなあ」
「会食の時間は時給って出ますか」
「しかも強欲ときた」
*****
指定されたのは繁華街の奥まった場所にある隠れ家のような鉄板焼き店だった。道が分かるという松川の車で移動した。
今日ぐらいは安静にすべきではと彼は心配していたが、島崎は大して気にしていなかった。湿布のおかげで頬の腫れはだいぶ引いている。身体には痣が残るが痕になるほどではないだろう。
「監視カメラばかりの東京で手荒な真似をすれば容易に足がつく。今回は逃げおおせたとしても、警告以上のことを俺に仕掛けるなら完全犯罪はまず無理だと思う」
「そうかもしれませんが、いささか警戒心が薄いように見受けられます。島崎さんご本人でなく、周囲に
「それは認める。アプローチの仕方は変えようとは思ってる。今日の今日でそこまで考えるほど俺はタフじゃない。うまい肉でも食って英気を養いたい」
「……落ち着いていますね。その胆力は本当に尊敬します」
「尊敬がてら締め切りを伸ばしてもらえると助かるけど」
「それはできない相談ですね」
取りつく島もないと苦い顔をしていると車は停まった。
島崎も初めて入る店だったが、松川は何度も来ているようで手慣れた様子で二人を先導した。
「おお、悪いな、いきなり。……お前どうした、その顔。痴話喧嘩でもしたか」
「そんなところです、痴話喧嘩ですのでどうぞお気になさらず。夏目くん、ビッグ・ブラザー社長の吉川
「初めまして」
「よろしく。噂はかねがね。島崎が世話になってるね」
吉川は名刺を取り出し、夏目も倣った。半個室のテーブルは4人が座るとちょうどよいくらいで、吉川の前に夏目を座らせ、その隣に島崎が掛けた。送るだけのつもりだった松川も吉川に引き留められ、4人での食事となった。
興味深げに夏目が吉川を見ているのに気づき、茶々を入れる。
「堅気じゃなさそうだと思ってるだろう」
「どこの組の人だろうと思ってました」
さらりと言ってのける夏目に吉川が大声で笑った。「噂通りだな。不躾で不謹慎」
「島崎さん、デマを広めないでくださいよ」
「だいたい事実だろ」
吉川がおすすめだというメニューが次々に運ばれてくる。夏目はエスカルゴを食べるのは初めてだと少し興奮していた。吉川から投げかけられる質問――大学で学んでいることや日ごろの島崎の様子について――に返事をしつつ、どの料理も美味しいと言って綺麗に平らげていく。旺盛に食べる人が好きな吉川はすぐに夏目を気に入り、あれも食えこれも食えと注文を重ねた。
「やっぱり人のお金で食べるものは美味しい」
「本当に正直な奴」ハイボールのグラス片手に吉川が豪快に笑う。「正直なのはいいことだ。島崎のところでバイトさせとくには勿体ないな。インターンでうちに来ればいい。なあ松川」
「ええ、島崎さんの原稿の回収がスムーズになると思います」
ジンジャーエールのグラスを手に深く頷きながら松川が言う。本心からの発言に見えた。
陽気に酒を飲み進めていた吉川が声のトーンを変えたのは、夏目がトイレに行くと席を外した直後だった。
「で、どうしたんだよその顔。マジで」
顔を近づけて声を落とした彼に合わせる。「探るなと言われて路地裏でボコられました。知らないチンピラに」
「小説みてえな展開だな。お前の一番好きな作家のよ、テロリストのなんとかって」
吉川は島崎が敬愛してやまない作家の作品を挙げた。主人公であるアルコール中毒のバーテンダーが店じまいをしたところでやくざに暴行を受けるシーンがある。
「俺はアル中じゃないし、ボクシングの心得もない」
「目星は?」
「知らない男でした。誰かが頼んだんでしょう」
松川は個室の出入り口付近をそれとなく注視していた。戸が引かれ、失礼しますと会釈をして愛想のよい店員がウーロン茶のグラスを持ってきた。そのとき、通路を歩く一組の客が松川の顔を見て、おっという顔をしたのを島崎は見逃さなかった。
「あれえ、松川さんじゃないですか」
「
「ということは、吉川さんもいるのかな?」
よく日に焼けた、眼鏡をかけた細身の中年男性が軽く手を挙げた。スーツのジャケットを小脇に抱えている。手首にのぞいた腕時計が高価なものなのは疎い島崎でもすぐに分かった。男の顔を見た一瞬、松川の顔に緊張が走ったのを察して警戒を深める。それが伝播したのか、入り口に背を向けていた吉川は眼光鋭く振り向き、そして破顔した。「ああ、浅田さん。奇遇ですね」
浅田と呼ばれた男はいやいやと頭を掻く。「ウチは社内の打ち合わせついでにね。そちらは?」
「うちもです。新人マネージャーに良いものを食わせようと」
吉川は応じ、島崎を指した。なるべく存在感を消すべく、会釈のみにとどめる。そうか、頑張ってね、と浅田は気軽に声を掛けた。酒が入っているのか少し陽気だった。
「吉川さん、また今度、ゴルフ行きましょう! ねっ」
「ええ、もちろん」
「すいませんね、いきなり。僕らはもう帰りますので」
浅田は隣を指し、二人組で来ていることをアピールした。隣に立つ男は背が高く、浅田に負けず劣らず日焼けしている。浅田よりは若く見えるが50代には違いない。吉川が愛想よく隣の男にも軽く頭を下げた。
「
その名にはっとする。小松。聞き覚えのある名だった。ダルタニアン・エンターテイメントのマネジメント統括部長。
今は亡き姉――女優・
そっと視線をやる。相手もこちらを見ていた。目が合い、向こうが先に笑った。浅田よりも日焼けした顔。不釣り合いなほど白い歯がのぞく。目は笑っていないように見えた。警戒の目。同じ眼差しを自分も向けていると島崎は理解していた。
「今度ぜひ。積もる話もありましょう」
小松はそう言った。芯の通った声だ。誠実な男が醸す雰囲気がある。だが表向きが誠実であろうと、チンピラを雇うことはできるかもしれない。
視界の奥で、夏目がトイレから戻ってくるのが見えた。どう見ても学生という風貌の彼を見たら、このテーブルがどういう取り合わせか疑われるかもしれないと思ったが、浅田と小松は会釈をしてすぐに去った。
彼らの背をきょとんとした顔で見つめ、夏目が席に戻る。入れ替わりに島崎は席を立った。追いかけようと足が出口に向かうが、寸前で理性が押しとどめた。追ったところで何をするのか。今は何もできやしない。
同じ店にいたのは奇遇だろうか。なぜ島崎の顔の怪我に言及しなかったのか。湧きあがる疑問を携え、足が向くままに出口付近にあるトイレに入った。二つ並んだ個室はどちらも空いていた。何をするでもなく、湿布を貼った自分の顔を鏡で見つめた。
これは偶然か。狙っていたならいつから店にいたのか。吉川は知っていたのか。彼からの食事の誘いは急だった。だが反応を見るに吉川と浅田らがグルだとは考えづらい。とすれば、三神法律事務所から出た松川の車を尾行していたと考えるのが自然だろうか。
つい先ほどまで鷹揚に構えていたはずが、心臓が早鐘を打ちだす。眼鏡を取り、湿布をはがして顔を洗った。冷たい水が気持ちを落ち着かせる。切った唇に水が滲みた。
背後で、音を立ててドアが開いた。傍らのペーパータオルで乱暴に顔を拭く。眼鏡に手をかけるより先に、入って来た人物が言葉を発した。
「よく似ていますね」
声の主を見やる。伊達眼鏡を介さず、クリアな視界で捉える。小松は出入り口をふさぐようにして島崎の前に立っている。値踏みしている目だと感じた。
「誰にですか?」
「分かっているでしょう」
「父親似だとは思っています」
しらばっくれると、小松は目を細めた。島崎は先に仕掛けた。
「お会いしたのは偶然でしょうか?」
「どうでしょう。あなたはどう考えますか?」
質問に質問で返され、わずかな苛立ちが胸に広がる。いつも自分はそうしているというのにだ。それよりも、名を知られていることのほうが気になった。
「僕の名前をどこで」
「個人事業主でしょう。少し調べればお住まいやお仕事はすぐに分かります」
小松は暗唱するかのように住所を述べた。仕事場の住所だった。そしてつけ加えた。「あまり深入りしない方がいいこともあります」
何が、と追及する前に小松は踵を返し、去った。甘ったるい香水の匂いが場に残り、革靴の立てる足音が妙に耳についた。ドアが閉まってからようやく島崎は腕を動かし、伊達眼鏡をかけた。
席に戻ると心配そうに3人が見てきた。正直にトイレで交わした会話を話そうと思ったがやめ、何ともないふりをしてサーブされたばかりの高い肉を食べた。合間に訪れた異分子のことは忘れようとした。開始から2時間が経ったあたりで会はお開きになったが、そのあいだに夏目は3回はインターンに来るよう勧誘されていた。
「松川さんはもう動かなくていいです」
上機嫌でレジにいる店員と雑談を交わす吉川の背を見たまま、隣の松川に囁いた。彼は表情を変えず小声で返した。
「心変わりする何かがおありで?」
「本人から釘を刺された。俺の周囲も探られているらしい。さすがにこれ以上はやめるよ」
「……分かりました。お役に立てず申し訳ありません」
「とんでもない。お互い、わが身第一でいよう」
店頭に飾っている有名人のサイン色紙を眺めている夏目に目をやる。仕事場を知られている以上、松川や夏目に何があるかも分からない。
松川が自宅まで送ると申し出、夏目は自宅に帰るのが不安なら寝る場所は提供できると提案した。前者を受け入れ、後者は丁重に辞退した。吉川は何かあったらすぐに相談しろと気遣ったが、ややおぼつかない足取りで助手席に乗り込むなり、あっという間に眠ってしまった。
吉川の鼾をBGMに車は夜の街を走る。何ともなしに外を流れる景色を眺めていると、夏目が口を開いた。
「トイレで何かありましたね」
大きくなってきた吉川の鼾にかき消されそうな声量だった。尋ねていながら、確信している声音でもあった。
「目ざといな」
「戻って来たとき、顔真っ青でしたよ」
「そんなに顔に出やすい? 俺」
「人間、自分が思っているほど繕えないもんです」
「深いことを言うなあ」笑いが漏れる。「直々に詮索するなと言われたよ」
「どっちに」
「想像に任せる」
「どうするんですか」
「職場の住所を知られてる。君や松川さんに迷惑をかけたくない。ダルタニアンを探るのはやめようかと」
もしかしたら今も尾行されているかもしれない。ふと思って振り向いたが、22時過ぎの東京の道路には車が溢れていた。自分たちに目を光らせている存在がいるのか、いるとすればどの車なのかまで島崎には分からなかった。前方を見つめる。光の尾がいくつも連なっている。
「じゃあ、別方向から探るのはセーフでは?」夏目は伸びをして言った。
「別って、どの方向」
「一番身近な人ですよ。いるじゃないですか。畠山桜子に近い存在で、島崎さんとも縁のある人」
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