#38 鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす
「どうすれば、って」
夏目は答えに窮した。
島崎は穏やかな目で見つめている。助けを求めているふうではない。からかっているわけでもなさそうだ。島崎の奥底にある問題を解決へと導く糸口を夏目が知っているのではと期待しているように見え、口ごもる。
その様子を見、島崎は再び口をひらいた。
「ときどき、怖くなる」
「なにがですか」
「あれを書き続けること。永来篤という弁護士を世に出し続ける行為」
「永井さんを思い出すから?」
「少し違う」彼は紙ナプキンを一枚抜き取り、折りはじめた。「永井がどんな状況にあるかを考えずにあの人物を登場させたのは軽率だったかもしれない。読書家のあいつが、あの本を読む可能性はゼロじゃない。もし読んだらどう思うか、怖い」
「自分によく似た人物がフィクションの世界で活躍していることをマイナスに捉えるかも?」
「そう。塞いでいる気持ちを軽くするために手に取ったのがあの本だったら、ショックを与えるんじゃないか。俺が書いたと気づくんじゃないか。……いっときはシリーズを畳もうかとも思った。でも、その頃には永来篤は俺だけのものじゃなくなっていた」
小説の世界を飛び出した永来篤は多くのファンを魅了した。映画の世界に羽ばたき、若手俳優にキャリアアップの道を示した。法曹界を目指す学生にエールを送り、一般市民に新法を浸透させる契機にもなった。スペシャルドラマが放送された際、永来の弁舌シーンは多くの反響を呼んだ。今もなおスクリーンショットやシーンを切り取った動画をSNSで使うユーザーも見かける。
島崎の存ぜぬところで、彼が顔すら知らない誰かに影響を及ぼす存在となっている。
「作家はそういう仕事。理解も覚悟もしていたつもりだった。自分が
「……」
「言い訳がましいって思った?」自嘲気味に島崎は笑う。夏目は首を振るが、彼は続けた。「俺は思うよ。いつか永井が読むんじゃないか。藤原雅之が俺だと気づくんじゃないか。暴露されたらどうしよう、なんて疑う自分がいる。でも自分から明かすのも怖い。逆恨みされたら俺は立ち直れない。書くことをやめもしない。だったらこのまま知らんぷりを通そうか。いつまで? 永井がまた働き始めると決めたとき、また連絡をくれるようになったとき、俺はどうすればいい? 打ち明けるか、隠したままにするか。……ずっと葛藤してる。このままでいいのか、このままがいいのか。松本に隠し通したままでいいか、いっそ言うべきか」
彼は折りあげた白い鶴をそっとカウンターに乗せた。
「俺は、どうすればいいかな」
島崎の声が落ちる。夏目はじっと鶴を見つめた。その先にある、島崎の顔を極力見ないようにした。
言葉を発するのにひどく勇気が要った。普段なら意図せずとも勝手に出てゆくのに、喉奥に
どの言葉を選べば島崎の気持ちを軽くできるか、どの言葉を選べば松本の意を
以前は、心情を代弁する言葉すらうまく見つからなかった。今は、言葉を知っていても
夏目の感情を察したらしい。島崎はふっと笑った。
「ごめん、困らせるつもりはなかった」
「すみません。気の利いたことも言えなくて」
「聞いて後悔してる?」
「いいえ」しっかりと首を振った。「それは否定します」
「君を共犯にしちゃったな。……松本には言わないで欲しい。俺が言うときまで」
「訪れるんですか、その日は」
「さあね。未来の俺に聞いてくれ」
他人事のように言う島崎に、夏目はようやく笑む。
「分かりました。覚えておきます」
島崎は伸びをすると席を立った。厨房に向けて「叔母さん、ごちそうさま」と声を張った。
しばし間があり、塩田泉が顔を出した。手には紙袋があり、彼女はそれを島崎に突き出す。
「ホットドッグとサラダ。あまりもの」
「ありがとう。夏目くんもまたね」
「依頼の予定はありますか?」
「しばらくないと思う」
紙袋を掲げつつ手を振り、島崎は帰っていった。
彼が去ったあとも、閉じたドアをじっと見続けた。
これからも彼は悩み続ける。自分は何を言うべきだったのか、どう接すればよかったのか、どう接していけばいいか。
松本にどう話そう。あるいは、松本の知っている事実を島崎へ話すべきか。
悶々としつつ、視線を下ろす。白い折り鶴がこちらを見つめ続けていた。
*****
松本は3日ほどあけてから店を訪れた。撮影がひと段落したと言い、手土産を持参した。
おすすめメニューのハヤシライスを頬張る姿はこれまでと変わらないように見えた。彼女は雑談を振り、夏目は世間話に応じた。天気の話をし、撮影の裏話を聞き、大学生活について話をした。
昼のピークが過ぎ、客がまばらになったころ、松本は食後のコーヒーを頼んだ。コースターを添えてアイスコーヒーをサーブしたのち、夏目は彼女のほかに唯一残っていた客のためにレジを打った。
カウンターに戻って手元を片付ける。客から見えない位置に、「博士の愛した数式」が置いてある。暇を縫って読みすすめ、そのタイトルが意味しているものがようやく何か理解できそうなところまで辿り着いていた。
カウンターの向こうの松本を見やる。彼女も夏目を見ていた。音がしそうなほどに視線が交わり、反らすべきか微笑むべきか戸惑い、首を傾げてみる。
松本はイタズラが露見した子どものように舌を出した。
「ごめん、盗み見してた。どう切り出そうと思って」
「いえ。島崎さんのことですよね」
「私には秘密にしてって言ったのにね。どうしても気になって」
言うべきか。言わざるべきか。
松本は「秘密にして」と言った。島崎が何を言おうと、松本が手紙を受け取るその日まで言わないでいて欲しいと。
島崎が夏目に話をしたという事実は伝えてもいいだろうか。疑問が頭をもたげる。松本はやはり手紙はあったのかと胸をなでおろすか、伏せられている内容がさらに気になるかだろう。
岐路に立たされる。伝える道と伝えない道。どちらを選んでもどこかで後悔する気がして、知らぬ間に心臓が早鐘を打つ。
「別に、いつも通りでしたよ」
口から言葉が零れ出た。言葉が松本に届いた瞬間、島崎の共犯になることを心に決めた。
「そっか。私の勘違いかな」
「俺に話さなかっただけの可能性もありますから、どうでしょう」
「そうだね」
松本は微笑み、少し目を伏せた。「ここだけの話、していい?」
「島崎さんの弱みでも握らせてくれるんですか」
「それは次までに探しておく」
歯を見せて笑う松本に、夏目もつられる。彼女の笑みは静かに引き、視線の先、本棚に並ぶハードカバーの背表紙を見つめ、鮮やかな色のリップが映える唇が、静かに開く。
「島崎は私のことを思って嘘をついているのかと思った」
「なぜ?」
「たぶん永井は、目に見えない障害を持っていたから」
目線を本棚に向けたままで松本は言った。
夏目もまた視線を外す。数日前、紙袋を手にした島崎が立っていたあたりに目をやり、沈黙を守った。
松本は
相貌失認のことを、彼女は失顔症と呼んで話した。
最初は疑いもしなかった。交流が深まってから少しした頃、永井と島崎の会話で違和感を覚えたのがきっかけだったという。
ある日、講義室に現れた島崎は珍しくマスクをしていなかった。眼鏡もいつもと違っていた。彼はいつものように永井の横に座った。
永井は隣に座した島崎に挨拶をせず、それとなく観察しているようだった。その探り方は、後方に座っていた松本にもなんとなく察せられた。
「いきなり隣に座ってきたのが誰かを見極めているかに見えたの」
「島崎さんは気づきました?」
「永井のほうが早かった。『いつもと違うから他人だと思ってソワソワしたじゃん、おはよう』とか言って。島崎もからかわれたと思ったみたいだった」
「よく、気づきましたね」
「たまたま失顔症のことを知っていたから。痣で悩んでいたころ、差別について調べたときに知った。目に見えない障害で起きる差別に関する記事を読んで」
疑念はその年の冬に決定的なものとなった。インフルエンザが流行し、キャンパス内でもマスクを着用する学生が増えていた。廊下を一人歩く永井を認め、松本は後ろから肩を叩いた。
振り返った永井は、しばらくは声を掛けたのが誰だか理解できていないようだった。
「私だと気づくまでかなりかかってた。失顔症を知らない人なら悟られなかったレベルだと思うけど」
「周りがマスク姿ばっかりで気づくのが遅れたんでしょうか」
「それに、たまたま私は病み上がりで声もガラガラだった」
手元のグラスに夏目は視線を落とす。柔らかい布で丁寧に拭きあげる。
そこから詳しく調べたと松本は続けた。彼の症状が生まれつきのものだとも理解した。隠すのが上手だと思い、知られたくないのだと察して周囲にも秘密にしていた。最も近い場所にいる島崎ですら違和感を覚えていなかったのだから、きっとこの先も彼は隠し通せる。島崎も周囲も、失顔症自体を知らないに違いない。
「私はいつも、周りにどう見られるかを気にしていて。相手が自分と会話をするときに何を思っているか、嫌そうな顔をしていないか、表情や挙動を無意識に観察する癖があった。おかげで違和感を覚えて、そこにたまたま知識があったから気づいただけ。よくよく考えたら、永井は生まれつきのもので苦しむ辛さを知っているから、私の痣をなんとも思わなかったのかも」
夏目は訂正しなかった。永井の相貌失認が事故による後天的なものである事実を黙した。先天的なものであったがゆえに自分を理解できたと信ずる松本の思いを、どう扱っていいか分かりかねた。
永井が心を病んだと友人伝いに聞き、真っ先に原因に思い至った。そして、かつて互いに送りあった手紙にその告白が書かれており、事実を知った島崎が自分を不用意に傷つけまいと黙っているのではないかと思い至った。そう松本は結んだ。
「手紙を読んでも私は大丈夫。傷ついたり、へこんだりしない。その気持ちを込めて島崎にパスを投げたけど、うまく行かなかった」
「正直に伝えて欲しかったですか」
「どっちかな。分からない」松本は夏目に向かって首をかしげてみせる。「隠してきた島崎の気持ちを踏みにじるような気がするし、一人で抱え込んでいるとしたら、それが不安。ああ見えて人の気持ちをよく考えるタイプだから」
書き続けることが怖いと漏らした島崎の表情を、夏目は思い返していた。
自由に生きている大人だと感じていた。最低限の義務を果たしつつ、自分好みに作り上げた空間で楽しく生きている人だと勝手に思っていた。作家という肩書きが夏目にある種の偏見をもたらしたのかもしれないし、島崎自身がそう振る舞っているように見えた気もする。
自分は彼を表層的な部分でしか見ていなかったのではないか。ふと、思いがよぎる。
夏目の気持ちをよそに、松本は言葉を継いだ。
「これ以上は聞かない。言わないって島崎が決めたなら、私も無理には聞かない。それに、ぜんぶ間違ってるかもしれないし」
「間違ってる?」
「実は永井は、私たちと縁を切りたくてそういう嘘をついているだけかもしれない。本当はどこかで楽しく生きている。それか、おうちで元気に過ごしている。家に引きこもっているからって、欝々と過ごしてるとは限らないでしょう。株のトレーダーとか、Youtuberとかになっていて、悠々自適に楽しく暮らしているかも」
「……」
「『かわいそう』って言うから、『かわいそう』になるって話、前にしたよね」
夏目は頷く。彼女の顔に広がる痣を見て「女の子なのにかわいそう」と声をかける人によって、彼女は自らが惨めになる感覚を抱いた。
「永井が今どうしているか聞いたとき、私も『かわいそう』って思いそうになった。でも違うと思って。社会から遮断して得られる幸せだってある。私が思いかけた『かわいそう』は、社会通念で作られた普通から外れたことを『かわいそう』だと定義しただけ。本当にそうかは本人にしか分からない。……だから、あんまり深く考えないほうがいいのかとも思う。自分が傷つけたとか、気付けなかったとか、言ってくれればよかったのに、とか。私はどうしたって永井の苦労は想像するしかできない。永井がどれだけ大変か説明してくれても、全てを理解はできない。欲しい言葉を掛けるのも難しい。もちろん、島崎に対しても一緒。……あのね、夏目くん」
「はい」
「いつか島崎が言おうかどうか迷う
彼女はとっくに理解しているのだと夏目は思った。何が起き、何を思って島崎が口をつぐんでいるのか知っている。
「島崎は優しい」松本は穏やかに言った。「優しくて相手のことをよく考えているから、ときどき本当のことに気づけない」
「俺には、なんでもお見通しに見えます」
「きっとそのうち、夏目くんだけが何かに気づくときが来るよ」
「来ますかね」
「たぶん」
「さっきは『きっと』って言ったのに」
「もしかすれば」
「可能性がどんどん下がっていってる」
口に手を当てて松本が笑う。
「私はさ、発言はすぐ翻すし、嫌なことはしたくないし、吹っ切れたふりして今も痣は気にしてるし、それでいて案外図太いの。モデルを名乗るからには突き詰めたいし、同じような境遇の人が『負けてられない』って思う人間になりたい。ごちゃごちゃ言われてもね。そうやってこの先も生きて、いつか永井の目に私の姿が映って、あいつもしぶとく生きてるんだ、って元気になってくれれば嬉しい。島崎が、こんだけ図太いなら何言っても大丈夫だろ、って思うような人間にもなりたい」
「そうですか」
「また三人で会えたらいいとも思ってる」
「永井さんと話してみたいです」
「すぐ仲良くなれると思うよ」
少しばかり永井の話をした。食べ物の好みや、苦手な教科の話。派遣型のアルバイトをしていたこと。ボードゲームが好きで、インディアンポーカーがすこぶる弱い。
しばらく雑談に花を咲かせたのち、会社に戻ると言って松本は腰を上げた。会計をし、外まで見送る。
階段をのぼり、雑踏が音をなす通りに出ると、彼女は夏目に振り向いた。
「夏目くんを共犯者にしちゃって、ごめん」静かだが、はっきりした声だった。「勝手に重い荷物を背負わされて、困ってるでしょう」
「いいえ、と言えばウソになります」正直に答えた。「ただ、話してもらわなかったら俺は島崎さんをよく知らないままだったとも思う」
「あいつからも何か聞いたんだ?」
「どっちだと思います?」
「やだ、島崎みたいなこと言わないで」
「冗談ではなく。聞いていたら、どうしますか」
「変わらない。本人が言うまで待つ」
「ですよね」
「もちろん」
「じゃあまた」
「ええ、今度はお連れ合いの方もご一緒に」
「うん。ごちそうさま」
「ありがとうございました」
胸の前で小さく手を振り、松本は通りを歩いていく。姿勢正しいその後ろ姿をじっと見送る。
島崎から聞いた話と、松本から聞いた話に、大切に錠をかけてしまい込んだ。
自分しか知りえない感情の交錯を胸に秘める。永井が島崎に託した洋封筒を思い返す。
島崎と松本、双方の共犯となった自分。飄々とした島崎が懊悩するのを目にするのかもしれないし、知りえなかった彼の姿を認め、彼への印象や接し方が変わる可能性もある。
それが人と関わることなのだと、唐突に夏目は理解した。自分だけの視点に他者の視点が加わり、見方が大きく変わっていく。どんでん返しの小説のように、新たな事実が増えてゆく。人と関わるたびに作り上げた世界と価値観は上書きをされていく。自分はそんな世界にいて、誰かの影響を受けもすれば誰かに影響を及ぼしもする。
あの手紙が松本の手に渡るその日、自分はその場にいるだろうか。いつか訪れるであろう、訪れて欲しいと願ってやまない未来に思いを馳せてから、夏目は地下へと続く階段を静かに下りはじめた。
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