#37 明鏡も裏を照らさず


 先を継ごうとした島崎は、ためらう素振りを見せ、夏目にたずねた。


「俺はどうすればいいと思う?」

 穏やかな表情の彼に、夏目は思うがままを答えた。

「何があったか話してくれなければ、答えられません」

「分かってる。聞く前に言っておこうと思ったんだ。話し終えたら同じ質問をするから」

「どうすればいいか迷っているんですか。島崎さんともあろう人が」

「まるでいつもは即断即決してるみたいな言い方だな」島崎が軽く微笑む。「否定はしないけど」

「でしょうね」


 束の間、静寂が訪れた。島崎は夏目のほうを向いていたが、視線そのものは背後の本棚、そこに並べられている本のタイトルを見ているように夏目は感じた。


「たとえば、君がさ」

「はい」

「何かにコンプレックスを持っていて、ふさぎ込んでいたとする」

「はい」

「そのコンプレックスを、ある人物のおかげで克服できた。その人の言葉がきっかけで」

「素敵ですね」

「だろ。でもその人の言葉が、君が思う意図で発せられたわけじゃなかったら?」

「どういう意味ですか」

 夏目は考えた。だが、結論が出る前に島崎が言葉を発した。

「俺の本、読んだ?」

「全部ではないですけど」

「あれは?」彼は、代表作のひとつである法廷ミステリーシリーズのタイトルを口にした。

「それは、全巻読みました」


 主人公の弁護士は、親しみやすさと鋭い観察眼を併せ持ち、人見知りせずどんな相手の懐にも入り込む。胆力とコミュニケーション能力を生かして様々な人物から証言を引き出し、担当事件の全貌を明かしていく法廷ミステリーシリーズは、藤原雅之の名を世に広めるきっかけとなった。島崎と会う前の夏目ですら、藤原雅之の名を聞けばその作品が出てくるほどだった。

 裁判員制度の内実や法廷内のやり取りにおけるリアリティは本業の人々からも太鼓判を押されている。作品では尊属殺人やいじめ、安楽死や老老介護の末の殺人といった社会問題に根差したテーマを取り上げてきた。

 夏目は特に、主人公の人柄が好きだった。他者の事情に深入りしたことで深い心の傷を負った過去を持つ主人公は、依頼人と距離を置き、ビジネス上の関係を保とうとする。しかし事件を深く調べ依頼人が置かれて来た環境が明らかになるにつれ、依頼人に強く共感し、共感することそのものに思い悩む。


 4冊出ているシリーズタイトルを思い出して夏目は気づいた。主人公の名は、永来ながらいあつしといった。永井宏。永来篤。


「永井さんがモデル?」

 島崎は頷いた。「あれは学生のときに思いついた。永井を見ていて思ったんだ。こいつが弁護士だったら、って。……今では本人とだいぶかけ離れたキャラになったけど」

「ああいう人なんですね、永井さんは」

「あいつに似てるのは最初の一巻くらいだよ。それ以降はむしろ、君に似ている気がしないでもない」

「俺に? どこがです」

「他人の感情をよくよく考えすぎるところ」

「じゃあ、モデル代として印税の1割ください」

「撤回する。君には1ミリも似てない」

 顔を見合わせて笑った。夏目は静かに続ける。

「永井さんは知っていますか、モデルだってこと」

「知らない。言ってないし、言えないよ」


 言えない、の言葉に引っ掛かりを覚えた。島崎は深く息を吐き、頬杖をつく。視線を落とし、グラスに浮かぶ氷を見つめ、彼は言った。


「高校生までは普通だったらしい。バイクで通学中に事故に巻き込まれて、後遺症が残った」

「怪我ですか」

「違う。目に見えない後遺症」島崎は夏目を見た。「ソウボウシツニン。知ってる?」


 そうぼうしつにん。そうぼう、しつにん。

 何となく、二つの単語が合わさったものだと思った。夏目の頭は「そうぼう」を「双眸」と変換した。


「目?」

「そのソウボウじゃないな」島崎は誤変換にすぐ気づき、備えつけのナプキンを抜き取り、万年筆で「相貌失認」と書いてみせた。

「……顔のこと?」

「うん。『相貌』は顔。『失認』は、分からない。……要は、顔が分からない。失顔症ともいう」

 失顔症、の単語がナプキンに加えられる。

「顔を見ても、誰だか判別できない?」

「そう。人の顔はちゃんと見える。目がある、鼻がある、口がある。でも、それらを特徴づけて分類する脳の機能が障害を負った。特徴と顔を紐づけて覚えられない。……そこの棚、3段目の左から5冊目」

 だしぬけに島崎が指を差した。振り返り、言われた場所の本を抜き取る。直立した少年がこちらを見ているイラストが目に入る。小川洋子の「博士の愛した数式」。

「読んだことは?」

 夏目は首を振った。「相貌失認の話ですか」

「ちょっと違う。この作品には、記憶が80分しか持たない数学の先生が出てくる。大事なことはメモにして身体中に貼りつけているんだ。記憶がリセットされた瞬間のためにね。……永井はそれが人間の顔においてのみ起こる、って言えば分かりやすいかと思ったんだけど」

「今度読んでみます」

「気が向いたらでいい」


 本を傍らに置く。島崎は続けた。


「永井は隠すのが上手だった。手紙で告白されるまで気づかなかった」


 ピアノが奏でる旋律が静かに店内に流れる。

 これまでできていたことが、ある日を境にできなくなった。それを隠し続けた。

 永井が、島崎や松本らと並んでいた写真を思い出す。彼の目に、島崎はどう映っていたのかと夏目は考える。







 *****






 夏目に話して聞かせながら、島崎の頭にはもうすっかり覚えた手紙の文面がよみがえる。多くない文量のそれを読むたび、永井と一緒にいた日々が思い出される。

 相貌失認という症状は知っていたが、詳しくは知らなかった。手紙を読んだのち、自分で何度も調べた。


 永井は自らを軽度だと書いていた。事故に遭うまでに既知の仲であった人々の顔は問題なく認識ができる。だから事故後もしばらくは大きな問題なく過ごすことができた。重度だと、家族の顔すら覚えることができないのだという。

 家族以外には黙っていた。そう知られている症例ではない。目に見えない障害を有する者は、一見すれば健常者と何も変わらない。そのぶん障害を理解されづらく、理解を阻む。

 無理解から発せられる言葉ほど人を傷つけるものはない。そう彼は綴っていた。


「努力すれば覚えられる、的な?」夏目は小さく零した。

「そう。コツを掴めば覚えられるだとか、いつかは治るだとか」

「治らないんですか」

「脳の腫瘍が原因で起こる症例もある。そういう場合は腫瘍を取り除けば軽減するケースはある。ただ、先天性だったり、あいつみたいに事故の後遺症で起こったりしたら、大半が一生の付き合いになる」

「一生……」

「自分が一番疑ったと書いていた」


『いつかは治る、治療すれば治る、コツを掴めば良くなる。ずっとそう思ってた。でもどうにもならなかった。一生付き合うなら、もう周りに言って回ろうと思った』


 相貌失認であるのを隠していたのは、いつかは治ると信じていたからかもしれない。

 家族以外に告白する相手として、彼は島崎と松本を選んだ。告白しようと思った彼がどんな心持ちだったのか、島崎は文面から必死に読み取ろうとした。


『二人なら、変に心配しなさそうだし。下手な言葉をかけないだろうし』 


 彼は、明るく書いていた。


「島崎さんは、違和感を覚えなかったんですか」

 夏目が問う。糾弾するのではなく、純粋に疑問を呈しているトーンだった。

「気づかなかった。思いもしなかった。隣にいる友達が、実は人の顔を区別できていないかも、なんて思わないだろ」

 発した言葉は、意図せず言い訳がましさを帯びていた。

「自然だったんですね」

「当時はそう思っていた。でも、言われてみれば思い当たることもある」


 自分だったらどうだろうと何度も考えた。

 高校の間は何とかなっただろう。既に見知った顔が多いから。大学では新しい友人が増える。覚えられなかったら。そのせいでトラブルになったら。

 もしかすると、永井は高校在学中に必死に人の顔を覚える練習をしたのかもしれない。顔以外で区別するところを見つけ、脳内で候補をサジェストし、絞り切れなければどちらにも通じる話題を振る。そういう努力を重ねていたのかもしれない。それほどに大学での永井は普通だった。


 誰に対しても同じように気さくな口調であったり、あまり人に頓着しない気質であったりも、彼が相貌失認を周囲に隠すための盾だった可能性もある。人を間違えても「永井なら」で済ませられる土台を、入学当初から作り上げていたのではないか。それともあの性格は生来のものだったのか、今となっては分からない。

 あの朗らかで人懐こい永井がそう振る舞っていたことは島崎にある種の衝撃をもたたした。少しも疑わなかった自らの愚鈍さには腹が立ち、申し訳なさを感じた。

 そこまで話し、夏目を見上げる。


「ここまで話したら、分かるだろ? 松本に読ませたくない理由」

「……なんとなく」


 大学での永井を思い出す。人気者だが、進んで人に話しかけはしなかった彼。声を掛けられたら軽く手を挙げて「おう」とだけ返していた。

 あれは、相手が誰だか分からなかったからではないか。

 毎日が私服の大学生活、服装で特徴を掴むのは彼にとって有利に働いただろう。だが、たった一瞬のうちに声をかけてきた友人が誰かを見極めるのは難しかったに違いない。


「俺と松本はさ、違ったんだろうね」


 自らの名を呼んだ彼の声が蘇った。廊下の先で、自分に向かって手を振る永井の姿。

 彼が、身体的特徴や話し方といった材料をかき集めずとも判別できた、たった二人。

 年中マスクをしている眼鏡の男。顔の広範囲に痣があり、マスクで隠している女性。


「だから、松本には読ませたくないんだよ」


 松本は、永井の言葉に救われたと言っていた。彼女の痣を、永井は何度もフォローしていた。それも個性だ。覚えやすいからいい。周囲の無理解に悩んだ彼女に、知らないんだから浅いことしか言えないだろう、と反論もしていた。取り繕った言葉でその場を凌いでも意味がないとも言った。その言葉をきっかけに、松本は痣のある自分を肯定できた。


「松本の中じゃ、永井は『正常に顔が見える人』なはずでしょ。痣を見て家庭や育ちを決めつけられてきたあいつは、永井が痣に固執しない人間だと知って希望を抱いた。この人は私を見た目で判断しない。決めつけない。痣のある自分を理解してくれている」

「……でもそれは」夏目がつぶやく。島崎が引き取る。

「前提から違っていた。永井はそもそも松井がどんな顔をしているか分からない。あの痣は永井にとって、松本を見分ける目印だった」


 真相を松本が知ったらひどく傷つくのではないか。希望を抱くきっかけになった言葉が、欲しかった意味とは別の意味で発せられたものだと知ったら。目に見える痣で苦しんだ彼女が、永井が目に見えない障害で苦しんでいたと知ったら。

 積み上げられていた彼女の自信や自己肯定感が崩れはしないか。脆くなってしまいはしないか。自らを責めはしないか。 

 島崎は、ずっとそれを恐れていた。


『二人のことはずっと……マスクと眼鏡、マスクと痣で見分けてた。ここだけの話な!ごめん、ずっと言えなくて』


 その一文を読んだとき、島崎は永井の告白を松本の目から遠ざけることを決意した。


「あの」夏目がおずおずと言った。「永井さん、身体は元気、って言いましたよね」

「うん」

「心を?」

「そう」

「就職したから?」

「どうだと思う?」


 問い返すと、夏目はややむっとした顔をした。なだめるように島崎は言った。


「俺も噂でしか知らないんだよ。本当は、あのシリーズを出版したときに会って話したかったのに」


 永井は島崎の文章力を買っていた。文章力を生かせる仕事に就けと何度も言った。


 ――記者になれんじゃね? そしたら、俺の取材しに来て。週一連載でさ、『永井宏の足跡をたどる』とか、そういうの。それまでに何かしらでビッグになっとくわ。ろくろ回すポーズで写ればいいでしょ? 練習しとく。

 ――コピーライター向いてるよ。広告の賞取ったらさ、スピーチで『大学時代の友人に勧められました。永井、見てるか!』って言ってよ。

 ――小説家もありだな。どんなの書く? 俺の名前使って。我ながら気に入ってるんだ、この名前。でもそのまんまは困るから、いい感じにもじってほしいかも。え? ヤクザ小説? やだよ! 真っ当なキャラにして!!

 

 念願かなって彼の名をもじった弁護士を世に送り出した矢先、音信不通となった。電話もつながらず、メールもLINEも通じない。


 友人伝いに、心を病んで実家に戻ったと聞かされた。

 永井は事務用機器メーカーのメンテナンスを担当する部署に就職した。決められたルートを回り、機器のメンテナンスや営業を行う仕事。入社当時は何度か連絡を取り、仕事が楽しいと言っていた。

 その仕事も、彼なりに適性を見極めたに違いなかった。そんなことはおくびにも出さず、「適当に選んだ職場で」上手くやれてラッキーだ、と笑っていた。

 訪問先の人と仲良くなり、訪れるたびに菓子を貰うから太ったかもしれないと腹をつまんで見せた彼の笑顔を、島崎はよく覚えている。


 その人当たりの良さを他部署の上司に買われ、営業部門に異動となって状況は変わった。異動先は新規開拓に力を入れており、覚えなければならない人の数が格段と増えた。

 電話対応はできるが、対面しても顔が覚えられない。どちらさまですか、とも言えない環境だっただろう。元の部署に戻りたいと申し出ても却下された。

 友人はこう話していた。


『あいつさ、元の部署に戻りたくて“人の顔を覚えられない”って訴えたんだって。でも上司が、努力が足りないとか工夫しろとか言って許さなかったらしいよ。……まあ上司の気持ちも分からないでもないかな。名刺交換したときに、その人の特徴書いとけば後からでも思い出せるし、けっこう工夫しだいで人の顔って覚えられるもんだから。……俺もアドバイスしたけど、なんかイマイチ響いてなくて。永井って、変なとこで要領悪いっつーか、努力の方向間違ってるっつーか』


 瓦解するまで長くはなかった。営業職として働き続けるうち、永井は致命的な対人トラブルを起こした。顔が認識できてさえいれば起こりえなかったミスだった。得意先を怒らせ、永井の代わりに謝罪して回った上司からは疎まれ、周囲の見る目が厳しくなった。


「うつ病になって退職して、今は実家にいる。毎年、年賀状だけが届く」

「実家も引っ越したみたいだって、松本さんは言ってました」

「うん。連絡取れなくなってからしばらくして、引っ越し先の住所から俺の実家に年賀状が来てた」

「どうして松本さんには出さなかったんでしょう」

「学生のころからアパート暮らしだったからね、松本は。とっくに引っ越しただろうし出しても届かないと思ったのかも」

「やりとりは、年賀状だけですか」

「実家を何度か訪ねたけど居留守使われてダメだった。近所の人が言うには、ほとんど家から出ない引きこもり状態らしくて」

「……そうだったんですね」

「だからさ、夏目くん」

 島崎は、なんと声を掛けようか迷った目をしているアルバイトに問いかける。

「俺は、どうすればいいと思う?」


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