#36 隠すより現る
「永井の手紙の話をしてたの」
さらりと松本は言い、島崎を見た。出方を探るようでもあった。
「ああ、渡したやつね」
島崎もいつもと変わらぬトーンで答え、泉にジンジャーエールを頼んだ。夏目は席を立ち、彼女を手伝うべくエプロンをつけカウンターに回る。
グラスを用意しながらこっそりと二人の顔を交互に見比べる。並んで佇む姿はドラマのワンシーンのようにも見えた。流れるピアノのメロディーも、落ち着いた風合いの内装も、カウンターに立つ自分ですらもセットの一部かのように錯覚した。
「記憶違いかもしれないけど」そっと松本が切り出す。「永井が見せてくれた封筒と、色も厚みも違う気がして」
「記憶違いでしょ。俺の記憶ではアレだった」島崎はきっぱりと言い切る。
「ほんとに?」
「俺が封筒と中身をすり替えたとでも?」
「すり替えたっていうより、もっと先がある気がした。残りの部分を持っているとか」
「どうして」
「私が聞きたい。なんで?」
「なんで俺が隠し持ってる前提で聞くわけ」
いなすように島崎は苦笑した。松本は疑い深くその双眸に浮かぶ色を観察している。
ジンジャーエールシロップをグラスに注ぐ。はちみつ色のシロップにレモン汁を適量加え、炭酸水を加える。色が薄れ、炭酸がしゅわしゅわと音を立てる。コースターとストローを添えて島崎にサーブした。小さく礼を言い、彼はストローを薄いはちみつ色に沈みこませる。
「もし、島崎が」松本は視線をそらし、カウンターにある本棚を見つめて言った。「私を思って何かを黙っているとしたら、って考えちゃってさ」
からころ、と氷がぶつかりあう音。塩田泉がフライパンを振るう音。漂うケチャップの匂い。
「俺が松本に気を遣って抜き取った?」
島崎の落とした言葉に、松本は頷いた。「当てずっぽうだけど」
「買いかぶりすぎ。さっさと渡して読んだ松本の反応を観察するよ」
ニヒルな笑みを浮かべて島崎は言う。
先刻までの自分であればその意見に同意しただろうが、松本が発した言葉が引っかかっていた。
島崎は優しい。人に共感できる。相手の感情を深く理解できるゆえに、自らも共感して傷ついてしまう。
彼女の言う通りならば、島崎が松本を思って手紙を引き抜くのもありうる。カウンターを片付けながら島崎の表情の機微を見た。笑みを浮かべた表情は崩れない。
松本は彼の顔をしばし見、だしぬけに夏目に問いかけた。
「夏目くん、大丈夫? この性格悪い雇い主にいじめられてない?」
「えっと」言い淀む夏目をよそに、島崎が口を挟む。
「泣き寝入りするタイプじゃないでしょ。念入りに証拠集めして逆襲するタイプ」
「否定はしません」
「しないんだ」松本が笑う。
「俺の母親、父親の不貞を泳がせて証拠集めてから離婚切り出したんですよ。その用意周到な血は俺にも流れていると思ってます」
そこまで言ってから、眼前の女性が結婚を間近に控えている事実に思い至り、詫びた。
「今する話じゃなかったですね、すみません」
「もしかして私に気ぃ遣ってくれた? 別にいいのに。結婚しても合わなければ離婚するだけだし」
「そういうものですか、結婚って。女性にとっては特別なものだと思うんですが」
「特別かなあ。それこそ特別だってみんなが言ってるから特別だと思ってるところ、ない? 料理上手な子が良い嫁になるって言われたり、ドラマで結婚を急ぐのはだいたい女性だったり……男の人だと、成功の象徴として結婚がクローズアップされがちだよね」
「都合がいいからね」島崎が応じる。「結婚を幸せなものと定義して奨励すれば、子どもが増える確率が上がる。将来の担い手が増えて、国家安泰につながる」
「せっかく『いい人いないの?』攻撃がやむと思ったのに、今度は『子どもはまだ?』って聞かれるのか。ヤダな。そのために結婚するわけじゃないのに」
「どうして結婚するんですか」
夏目は問うた。松本の言葉には、どこか結婚をマイナスなものとして捉えている印象を受けた。
「いろいろある」松本は指折り数える。「一度はしてみたかったから。面白そうだったから。痣のせいで結婚できないって罪悪感を持ってる両親を安心させたい気持ちも多少ある。相手と気が合うし、いい人だから。いい人がどう年を重ねるかを一番近くで見たい。どうすれば彼の価値観ができあがったのか、毎日一緒に生活して観察して解明したい」
「観察して解明」思わず繰り返した。「研究対象みたいですね」
「愛情の第一歩は興味じゃないかな。……あと、一緒にいて楽しい。この痣を気にしないでいてくれるおかげで、私に残っている痣へのマイナスな感情が軽くなりそう。そういうところをひっくるめて結婚したいと思った。もし失敗しても、いい関係でいられそうだし」
「いい人なんですね。会ってみたいです」
「今度連れてこようか」
「ぜひ。サービスさせていただきます」
「じゃあまた、近いうちに」
松本はそう言って立ち上がり、レジに向かった。会計を済ませた彼女を見送りに外へ出る。階段を上がりつつ彼女は言った。
「やっぱり、記憶違いだったかな」
手紙の件だと察し、調子を合わせた。
「どうでしょう。松本さんのために演技をしたのかもしれない」
「抱え込まなくていいのに」
「……島崎さんがもし手紙を隠しているとしたら、言ってくれないのは嫌ですか」
「話せないのは私のことを考えてくれた結果でもあるでしょう。話して欲しいとは思うけど、話そうとしない島崎を嫌いにはならない」
階段を上りきり、松本は夏目をまっすぐに見た。
「私に言えなくても、夏目くんには言えるかもしれない」
「俺に?」
「だって、……言い方が変になるけど、夏目くんはちょうどいい位置じゃん。私とすごく親しいわけでもないけど、島崎とはそれなりに仲がいい。私を知らない人に話すより、少しだけ知っている人に話すほうが良いことってあるでしょう。それに、夏目くんにはなんとなく何もかも話したくなるから」
言葉の意味が分からず、首を傾げた。松本は手で口を抑えて笑っている。
「聞き上手とは違うかな。話させ上手、って言えばいい? 真剣に聞いてくれるし、夏目くんに話したら気持ちが楽になる気がする。私も、島崎が手紙を持ってるかも、なんて話しちゃったしね。本当に勘違いだったらごめん。振り回しただけになっちゃう」
勘違いではないと言いたい気持ちをぐっとこらえた。松本がまだ何か言いたそうにしていたからだ。じっと彼女の顔を見て言葉を発するのを待っていると、彼女は目を細めて言った。
「もし島崎が何か話しても、私には秘密にしてくれる? 私が手紙を受け取る日まででいいから」
彼女の目に迷いはなかった。勘違いかもしれないと言いつつも、島崎が手紙を持っているのを確信している。そう思ってしまうほど揺らぎのない目をしていた。
この人は島崎をよく理解しているのだと夏目は悟った。
「分かりました。そのときは何も言いません」
「ありがとう。板挟みにさせて申し訳ないけど、たぶん夏目くんしか島崎の話を聞ける人がいないと思って」
「他の人だと近すぎたり遠すぎたりするから?」
「そう。ちょうどいい距離感。スープが冷めない距離、って言うの? こういうと、夫婦みたいだ」
「夫婦ほど分かりあってはいないです」
「じゃあ、相棒?」
「そこまで島崎さんの役に立ってないかな」
「ビジネスパートナー? 人生の先輩と後輩?」
「どれも違う気が。雇い主とバイトって関係が一番しっくりくる」
「そう。じゃ、業務のひとつとして聞いてあげて」
「はい。……また来てください」
「もちろん。ごちそうさま」
彼女を見送り、店内に戻る。泉は厨房にいるようで、クラシックピアノが流れる店内には島崎一人しかいなかった。彼は黙々とオムライスを口に運んでいる。
松本の残していった皿を片付けつつ、それとなく口にした。
「永井さんのこと、松本さんから聞きました」
「どんな話?」
「今はどこにいるか分からない、って」
「元気にはしてると思うよ。身体的には」
島崎の言葉に、夏目の手が止まる。かちゃん、と皿が音を立てる。
単語ひとつで、今の永井がどんな状況にいるかが察せられた。
「島崎さんはご存知なんですか、永井さんが今どこにいるか」
「知ってる。会ってはいない」
「松本さんに手紙を渡さない理由はそれですか」
「どっちだと思う?」
「うわ、出た」
呆れたふうを装ってげんなりした声を出して見せれば、島崎はかすかに笑ってスプーンを口に運んだ。
厨房に入り、皿を洗う。泉は奥のパントリーに通じるドアの近くで椅子に座って本を読んでいた。ちらりとこちらに目をやるも、すぐに文庫本に視線が戻る。
皿を洗ってカウンターに戻る。椅子にかけると、夏目の視線はわずかながら島崎よりも高い場所に位置した。
「何が書いてあるんです、あの手紙には」
まるで悪いことをした生徒と面談をする教師のようだと感じた。なあ島崎、松本は本当のことを話してほしいと言っていたぞ。先生にだけでもいい、話してくれないか。そんな言葉が頭に浮かぶ。
「仰天するほどのことは書かれてない」
最後のひと口を食べ終えると、島崎はスプーンを置いて傍らのカバンに手を入れ、クリアファイルを取りだした。透明なファイルの中には、見覚えのある洋封筒がおさまっている。
「松本さんに渡すつもりだったんですね」
「会えたら渡そうかなと思ってたんだ」
「さっき渡せばよかったのに」
「松本に渡す前に、君にも読んで欲しかった」
「俺?」
「気になってたでしょ。いつまでも渡されない手紙と、言葉を濁す雇い主の関係」
「それはそうですけど」正直に認めつつも、夏目は問いを重ねた。「読んでいいんですか。お三方の間で交わされた手紙でしょう」
「いいよ。むしろ、読んだ方が君の今後に役に立つだろう」
クリアファイルごと渡され、おっかなびっくり封筒を取りだす。藍色の洋封筒。見覚えのある字で書かれた宛名。どんな人かもう知っている差出人の名。そっと切れ目から中をのぞいた。手触りからして、二つ折りにした便箋が二、三枚といったところか。
永井が長らく秘めていて、島崎だけが読んだ内容。松本はいまだ読んでいないそれを、夏目は指先で感じた。
「やっぱり、やめときます」
逡巡し、開きかけた便箋を閉じて封筒に戻した。島崎に戻すと、彼は表情を変えずに言った。
「なんで?」
「松本さんが先に読むべきだと思って」
「知りたくない? 何が書かれているか」
「どう思います?」
「うわ、出た」
「いつものお返しです」
思わぬ意趣返しに苦笑をこぼした島崎へ、夏目は言った。
「この手紙は松本さんが読むべきです。でも、何があったかは気になる。……永井さんに何があったか、島崎さんの口から聞かせてください」
「夏目くんってさ、そういうところは律儀だよね」
「まるでそれ以外は律儀じゃないみたいな言い方ですね。否定はしませんけど」
「しないんだ」
ふっと息を漏らし、島崎が視線を外した。その横顔をじっと見る。何から話そうか、どんな表現を使うべきかと思案する顔は、いつになく真面目に見えた。
「取っ掛かりは、高校生のころに起こした事故だったんだと」
視線を外したまま、島崎がぽつりと言った。事故、と心中で反芻する。
洋封筒に視線を落とす。写真で見た、永井の人懐こい顔が脳裏に浮かんだ。
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