#35 嘘つきは泥棒の始まり



「元気だとは思う」


 地上に出るまで松本を見送るべく、ともに店を出た。

 日光が射しこむ階段を一段ずつ上りながら松本は話した。


「連絡を取る手段がないの。LINEはやめちゃったし、メアドも変わったし、実家は引っ越したみたいだし。こっちから連絡する手段がない」

「最後に会ったのはいつですか」

「卒業して……一年経つか経たないかくらい。三人でご飯食べに行った。そのときは、おかしいところは何も」


 かつ、と彼女の履くヒールが音を立てる。最後の一段を上がり、地上に立つと冷たい風が迎えた。「寒いね」と松本はゆるく笑った。


「何か月か経って、永井がLINEを退会したのを知って。島崎に聞いても何も知らないって言うし。そこからずっと連絡取れてない」


 なびく髪を押さえ眉を下げる彼女に、夏目は何を言おうか逡巡した。保管されている手紙には触れられない。島崎は彼女に何も言っていないようだ。何より、永井の生死すら分からない。

 継ぐ言葉を考えている夏目の顔を、松本はのぞき込んだ。


「湿っぽい話しちゃったね。ごめん」

「いえ、そんなことは」

「また来るから。今度は夏目くんの話もいっぱい聞かせて? じゃあ」


 ひらりと手を振り、彼女は雑踏に溶け込んでいった。すれ違う人々がわずかに自分の顔に視線を向けるのを気にもせず、颯爽と歩いていく。

 夏目は胸中にわだかまった思いをどうすることもできず、美しく去りゆく背を見送るばかりだった。




 *****





 松本はその後も何度か「café&BAR Demian」を訪れた。モデルの仕事がさほどない今は事務所の海外渉外窓口担当を兼務している彼女は多忙に違いないが、店に来る日はゆっくりと食事を楽しんでいた。

 今日もおすすめランチを食し、食後のコーヒーを追加で頼んでいた。夏目がカップの準備をしていると、彼女のスマートフォンが鳴動した。

 綺麗な発音の英語で応じ、流ちょうに会話が進む。片方の手ではタブレットを操作し、英語がびっしりと書かれている資料を眺めていた。

 静かにコーヒーをサーブする。松本は視線を上げ、にっこりと微笑んだ。柔らかい笑みに照れくささを覚える。


 自分がもし同級生だったら、彼女に恋愛感情を抱いたかもしれない――。心の片隅で冷静に分析しつつ、空いたテーブルの食器を片付けにかかった。中年男性二人組が先ほどまで座していた席は、ゴミや食器がきっちりと分けられていてありがたかった。

 塩田泉は厨房で夜の仕込みに入り、薫は松本へ「ゆっくりしていきなよ」と声をかけ、「準備中」の札を入口に掛けてから買い出しへと出ていった。

 フジ子・ヘミングの奏でるピアノの音色が静かに流れる。シューマンの『トロイメライ』がかかっている。クラシック音楽に疎い夏目も曲調には聞き覚えがあり、最近になってようやく曲とタイトルが一致した。


 下げた食器を洗い終え、各席に備品を補充し、売上金が合っているかレジを確認した。最初はひとつの工程ごとにまごついていたが、今やすっかり慣れた。

 金額が合っていることを泉に確認してもらい、夏目も昼休憩に入った。


 たっぷりと粉チーズがかけられたナポリタンの皿を手にカウンターに戻る。松本も仕事を片付けたようで、コーヒーを飲んで一息ついていた。


「来るたびにシフト入ってるけど、島崎のほうは大丈夫なの?」

「ここしばらくは仕事がなくて」


 水の入ったグラスとナポリタンの皿を、カウンター越しに彼女の隣席に置く。彼女のグラスにも水を注いだ。エプロンを脱いてから彼女の横に座り、手を合わせてフォークを取る。


 彼女には遺言配達の仕事をしていることや、春先に母を亡くしてから一人で暮らしていることも話した。

 彼女もまた色々な話をした。永井は寝坊が多く、島崎がよくモーニングコールをしてやっていた。ゼミの友達と神保町に行くのが楽しかった。永井は食品サンプルのキーホルダーを集めるのが好きだった。卒業論文では松本が与謝野晶子を、永井が芥川龍之介を、島崎が夏目漱石を取り上げた。大学の同級生は、個人事業主になった島崎がちゃんと生活できているかを心配している。


「仕事が無いのは夏目くんも島崎も困らない? 平気?」

「俺は大丈夫です。島崎さんも、なんとかなると思いますよ」

 なにせ本業は大人気作家なのだから。

 その意を込めて言ったが、松本は異なる捉え方をした。

「そっか、株でけっこう儲けてるみたいだしね。それに、島崎ってピンチでもたいがいどうにかなっちゃうし」

「そうなんですか?」フォークでパスタを巻きながら返すと、松本は楽し気に頷く。

「そう。人気の講義の抽選から漏れても辞退者が出て繰り上げ当選したり、提出期限に厳しい先生の授業で課題を忘れても、たまたまその日は休講になったり」

「悪運が強いんだ」

「そうとも言う。よく、ガチャ引くの頼まれてたよ」


 島崎の学生時代の話は新鮮だった。夏目は彼を人と交流したがらないタイプだと思っていた。小説家という職業への勝手な思い込みもあったし、遺言配達の仕事で見せる彼の一面がそう見えるのもあった。夏目と違ってスマートフォンを手にしている時間が短く、担当の松川とばかり交流を持っているようにも見えたのも一因かもしれない。

 しかし実際は彼もまた年相応に友人関係を持っており、事業の先行きを心配してくれる友人が多くいることは意外だとも思い、同時にわずかながら安堵を覚えた。


「……島崎さん、普通に友達いるんですね」

 ぽろりと口から出た本音に、松本は笑う。

「馴れ合わないタイプだと思ってた?」

「なんとなく、独断と偏見で」

「私からしたら夏目くんがそう思ったほうが驚き。社交的とまでは言わないけど、一匹狼でもないよ。人の好き嫌いが少なくて、いろんな人と知り合い。……一人の世界が好きなタイプだったら、もう少し視野が狭いんじゃない?」

「考え方がしっかりしているのは人と交流しているからってことですか?」

「相手の環境と立場を理解して発言するところ、あるでしょう」

 そう問われるも、頷くような事例が思い浮かばず首を傾げる。

「よく分からないです」

「優しい人だってこと」松本は目を細めた。「人を理解しようとして、共感しすぎて自分がつらくなっちゃう。それが嫌だからわざと距離を置いて接する。夏目くんがいつも見ている島崎は、後者そっちなんじゃないかな」

「俺には、あれが素に見えますけど」


 何もかも知り尽くしているかのような余裕を島崎から感じることは多々あった。小野美佐代と春彦の断絶の裏にあった事実を話したときや、大江と深く関わりすぎるなと忠告してきたときがそうだった。

 共感しすぎて自分がつらくなる。その言葉は島崎から遠く離れた場所にあるものに思え、夏目はただ首を傾げるばかりだった。

 松本は夏目を面白そうに眺め、問うた。


「アルバイトは楽しい?」

「楽しい、って言葉が合っているかは分からないけれど、やりがいはあります」

「……そっか、亡くなった人の手紙を届けるんだもんね」

「つらいときもありますし、泣きそうにもなります」

「我慢しないで泣けばいいのに」

「仕事を受けている身として、泣かないと決めたので」

「偉いね。どんな手紙があるの?」

「いろいろあります」情報を漏らさないよう、ぼかして答えた。「最期だから言えることを書く人もいますし、いつも振る舞っているように書く人もいます。今だから言える秘密を遺す人もいる。一言だけの人も、何枚も書く人も」

「相手によるのかな。手紙って、意外に難しいよね」


 彼女の指がグラスに伸びる。手にしたグラスを口元に持っていったとき、彼女の動きが静かに止まった。


「……実はね、卒業前にタイムカプセル郵便を出し合ったの。三人で」

「未来の自分に手紙を書くっていう?」


 そのサービスは夏目も知っていた。未来の自分に向けて手紙を書くと、指定した期日が経過したのちに届けられる。内容によっては写真やUSBメモリ、小包も預けることができる。

 デリバリーウィルの業務内容を聞いて真っ先に思いだしたのもこのサービスだった。だが、デリバリーウィルでは依頼人の死を起算日とするため、より依頼人の意を汲むことができる。死後すぐに届けて欲しいという希望はタイムカプセル郵便ではできないだろう。


「言い出しっぺは永井で、面白そうだからやってみよう、どうせならお互いに出してみよう、って。受取人は島崎にしたんだよね。私も永井もアパート暮らしで、実家に戻る予定がなくて。実家暮らしの島崎が適任だと思った」


 藍色の洋封筒がよぎる。銀行の貸金庫の底で眠る永井の手紙が思いだされる。

 なんともないふりをして聞き続ける夏目に、松本は訥々と語った。


「配達日は去年に設定していて……島崎から連絡が来て、会って渡された。島崎からの手紙と、永井からの手紙。特に重大な告白があるわけでもなくて、普通の手紙だった。島崎のは」

 言葉を切った松本に、そっと尋ねる。

「永井さんのは?」

 いったん迷う素振りを見せてから、松本は夏目と目を合わせた。

「私と島崎に別々に出すんじゃなくて、二人に宛てて一通書かれてた。これからもよろしくな、って感じの手紙で……でも、私の記憶と少し違っていて」


 グラスを置き、その水面を見つめながら彼女は続けた。


「永井が、出す前に封筒を見せたんだよ。『ここに俺の全財産の行く末が書いてあるから心して読んでくれ』とか、バカなこと言ってさ。紺色の封筒で、厚みがあって、表に島崎と私の名前があったのを覚えてる。……島崎から渡された封筒は明るい青色で、何も書かれてなくて、厚みもなくて……先に島崎が開封して読んだんだろうけど、それでも便箋の枚数が明らかに少ない」

「……」

「私と島崎で内容を分けた感じでもなかった。二人に宛てた手紙で、終わり方も不自然じゃなかった。けど、本当はそのあとに続く文章があって、島崎が抜き取って私に渡したのかな、って勘ぐっちゃって」

「……島崎さんに聞いたことは?」

「なんとなく聞いたけど、はぐらかされちゃった。夏目くん、何か聞いてたりしない?」


 困ったように笑む松本に、言葉が詰まる。

 黙って首を振った。松本は「だよね」と肩をすくめた。


「私の記憶違いかも。ごめん、変なこと言って」

「いえ」


 動揺が身体に出ていないかと気にしながらも返した。松本は特段気にもせず、グラスに口をつけた。

 視線をどこにやろうかとカウンターを所在なさげに見やる耳が、音を拾った。

 カラン、と軽い鐘の音。ドアが開かれるきしみの音。

 音の出所を見る。松本も同じ方向を見、夏目を振り向いて笑いかけた。


「すごい、噂をすれば本人が来た」


 チノパンにパーカーとラフな格好をした島崎が、あくびをしながら近寄ってきた。


「なに、俺の悪口?」

「まさか。学生時代の島崎の話を夏目くんにしてた」

 松本の隣の椅子を引き、島崎は背負っていたリュックを下ろす。

「夏目くん、本当? 根も葉もないこと吹きこまれてない?」

「本当です。島崎さんって意外に友達多いんですね」

「相変わらずストレートに言うね、君は」

「俺の長所です」

「短所でもある」


 呆れた声音で返す島崎の横顔を盗み見る。いつもと変わらず、どこか余裕が漂っている。

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