#34 知らざるを知らざると為せ是知るなり
「島崎から聞いたんだ? 永井のこと」
「お名前だけ。どんな
小さな嘘をついた。島崎から聞いてはいない。永井の残した手紙が存在するのを知っているだけだ。
松本はジンジャーエールを手にし、ストローに口をつけた。ジンジャーエールが駆け上がり、口へと入っていく。喉を潤してから彼女は続けた。
「風変わりな人気者。喋り上手で賑やか。人当たりも良くて、いると場がパッと明るくなる人」そしてスマートフォンを手繰りよせ、画像を見せた。「後ろの列の真ん中が、永井」
どこかの店で撮られた一枚。内装からして居酒屋だろう。十人ほどの男女が前後二列に分かれている。前列は椅子に掛け、後列は立っている。全員、学生のようだ。
後列中央でポーズを取っている永井と写真越しに目が合う。細められた目、笑みを見せる口からは白い歯がのぞいている。顔つきは素朴だが、どこか親しみを感じた。彼は両手で着ているTシャツの胸元を引っ張り、協調させていた。白地に黒の明朝体で「卒論」と大きく書かれている。おどけたポーズと表情には愛嬌があった。
彼の左隣には島崎が写っている。トレードマークとも言えるマスクは外している。穏やかな笑みを浮かべ、手のひらを上にして隣の永井を示している。「こいつのTシャツに注目ください」と言っているようだ。
島崎のさらに左に松本がいた。右手を頬の近くに寄せ、ピースを作っている。顔の痣はピースサインでさほど目立たない。たまたまこのときがそうだったのかもしれないし、写真撮影ではいつもこうなのかもしれない。
「変なTシャツ」率直な感想が漏れる。
「卒論の追い込み前に、ゼミで決起集会したときの写真なんだ。永井が自作してきて、卒論提出日まで毎日着てきた」
「ムードメーカーだったんですね」
「うん、いつの間にか輪の中心にいた。本人はあんまりワイワイ騒ぐほうじゃないけど、返しが面白くていじられる。本人は学校で誰かと会っても自分から声かけないタイプ。人気者のイメージとはちょっと違う」
「そのあたりが“風変わり”?」
「そう。人懐こいのに意外に淡泊。田中に話しかけられてしばらく盛り上がって、別れたあとで『小林のヤツ、今日も元気だったな』って言ったり」
「友達の顔と名前を覚えてないんですか」
「その場で楽しく会話できればオッケー、みたいな考えでね。訂正したら『え、田中だった? いっけねー』で笑って済ませちゃう」
再び画面を見下ろす。この笑顔でそう言われたら許してしまいそうだ。間違われても「仕方ないなあ」と苦笑いして終わりそうな雰囲気があった。
カレーを食べながら、松本はさらに永井について話した。
1年のころはさして接点もなかったが、専攻を絞るにあたり顔を合わせる機会が増え、次第に仲良くなった。三人は卒論で扱う分野が似通っており、師事する教授も一緒だったことも手伝って三年の半ばごろからは授業以外で会うことも増えた。レポートや論文の読み合いであったり、図書館での勉強会であったり、食事会であったり。
島崎のパソコンが壊れたらデータのサルベージに松本と永井が協力し、永井がインフルエンザに
「友達よりも戦友に近いかな。……周りからは不思議がられたけど。そういうことにならないんだ、って」
「そう、とは」
「好いただの、惚れただの、腫れただの、寝ただの、なんだのかんだの。年頃の男女が仲良ければ聞きたくなる気持ちは分かるけど、そういう先入観に苦しめられていた身からすれば、微妙な気持ち」
「先入観って」そっと彼女の顔をうかがった。「痣についての?」
こくりと頷き、松本はスプーンでカレーをすくう。「もう慣れっこだけど。……虐待されてると思われるのも、複雑な家庭で育ったって勘違いされるのも。私はまだいいよ。両親はもっと大変だっただろうね」
オムライスの最後のひと口を口に運ぶ。どことなく後ろめたい気分があった。彼女を一目見たとき、自分もまたそう思った。
「すみません、俺も最初はDVを受けてるのかな、って思っちゃいました」
正直に詫びた。松本は軽く手を振る。
「謝ることない、普通はそう思うのが当たり前だと思う。この症状の知名度が低いのは仕方ないし。別に、思うだけならいいの」松本は言葉を加えた。「そうに違いない、ってスタンスで来られると困っちゃう。知らないおじさんに虐待だと勘違いされて両親が怒鳴りつけられたこともあるし、児童相談所に通報されたこともある」
塩田泉がカウンターに入り、二人のグラスに冷水を注ぎたした。ライスをカレーの側に寄せながら、松本は続ける。
「意外と痣のこと聞かれなくて。DVか虐待なんだろうなーって誤解したままで接してくる。聞くのが気まずいのかな。でも……さっきの話に戻るけど、男女の関係になるとグイグイ聞いてくるじゃん。島崎と永井、どっちがタイプ? どっちがかっこいい? 付き合うならどっち? って。『顔に痣のある人はDVか虐待を受けている』と『仲のいい男女は恋愛関係になる』、同じ先入観なのに片方はタブー扱いでもう片方は深入りしてもオッケー。同じ扱い方でいいのにさ」
「本当に虐待かDVだったらと考えて及び腰になる気持ちはあります、正直言うと」
「それも分かる。だからなるべく自分から言うことにしてる。生まれつきの痣ですよ、って。……そうすると、また別の先入観をぶつけられちゃうけど」
松本は苦笑いを浮かべた。夏目はオムライスを食べ終え、杏仁豆腐にとりかかるところだった。
デザートスプーンを手に想像してみる。生まれつきの痣。遠巻きに噂する人に、自分から情報を開示する。これは生まれつきのもので、虐待ではない。そう伝えたときの相手の第一声。
「……『かわいそう』?」
「ほぼ正解。ちょっと足りない」
人差し指と親指で「ちょっと」のジェスチャーをし、松本はウインクした。
何が足りないのかと頭を巡らせる。と、正面に立った泉と目が合った。小耳にはさんでいた彼女なら分かるかと思い、「俺にはピンとくるものがないです」の意を込めて首を傾げてみせる。
泉はふっと表情を緩めた。「人の顔見て首を傾げないでよ」
「泉さんは分かりますか?」
彼女は松本を見、話に入っていいのかと問うように眉を上げてみせる。松本は微笑んで会釈した。
「お久しぶりです。大学以来ですね」
「
「ありがとうございます。……お店、ぜんぜん変わってなくて安心しました」
「変わったのは本のラインナップと、バイトがひとり入ったことくらいかな」
泉はそう言って夏目を示した。在学中は松本もこの店に来ていたようだ。
「泉さんなら分かりますよね」松本が水を向けると、泉は夏目が脇によけた平皿を回収しつつ言った。
「『女の子なのにかわいそう』」
「それです」楽しげに松本は笑う。「耳にタコができるくらい言われました」
なるほど、と思った。言葉に潜んでいる先入観を拾いあげる。
顔に痣があるのはかわいそう。顔は綺麗なほうがよい。
女の子なのに痣があってかわいそう。女の子は、綺麗な顔でなければ。
男性であれば「男の子なのにかわいそう」とは言われなかっただろう。男性にはまた別の先入観が当てはめられる。男は元気でやんちゃなくらいがいい、男は泣いてはいけない、といった類の。夏目も何度か「男の子なんだから泣かないの」と言われた経験があった。
「今は『呪い』って言いますね、そういう言葉」
「いいネーミングだよね。確かに呪いだったもん」
松本もカレーを食べ終え、杏仁豆腐に手を伸ばした。
「女の子はキレイじゃないといけないのに私は生まれつきダメなんだ、って思った。人間関係に何かあると、痣のせいで気持ち悪がられたんだなって考えたし。こんな顔の子から好かれても迷惑だと思って好きな人を諦めたりね。言われるたびに、じわじわと、こう、仕立て上げられているっていうのかな」
両手でろくろを回すような手の動きを見せる松本の顔は真剣だった。
「生まれつきかわいそうな人って、いないでしょ。誰かが『かわいそう』って言うから、その人は『かわいそう』になる。私がどんなに痣を気に入ってポジティブに生きていても、誰かから『かわいそう』って言われた瞬間、私は『かわいそうな人』になっちゃう。『かわいそう』のレッテルを貼られて、望んでもいない『かわいそうなルート』が用意される。……男の人もあるでしょ。男らしくしなさい、長男なんだから、後継ぎなんだから、みたいなの」
「ありますね」
「夏目くんも言われたりした?」
「俺は」記憶を手繰りよせ、答える。「一人っ子だから甘えん坊だ、とはよく言われました。男だからああしろ、みたいなのは少なかった。ただ、そういう言葉を掛けられて育った人には会ったことがあります」
口から言葉が出ると同時に、脳は勝手に映像を再生した。
クリーム色のカーテンが翻り、夏の日差しが窓から入る。
清潔で明るい病室。フチなしの眼鏡、優しげな顔立ち、穏やかな声。
交わした言葉を思い出そうとすると、鼻の奥がつんとした。
大江はそうだった。女性の多い家に生まれ、後継ぎだと祖父に期待をかけられていた。その期待に応えようとしたとも言っていた。
話していた声音やその姿が思い返され、目をつぶる。心が感情の高波にさらわれないよう、ぐっとこらえた。松本がこちらを見ていないことを願った。
「初めてここに来た日、マスクしてたよね」
夏目の様子を察したのか、話の矛先を変えるように泉が言った。はい、と松本は答えた。
「外すとき、一瞬周りに目を走らせたのを覚えてる。他の人がどう思うか不安そうな感じで」
「ビクビクしてました。誰かにまた『かわいそう』って思われるんじゃないか、痣を見て嫌な思いをする人がいるんじゃないか、って」
「途中からしてこなくなったよね。今日もしてない」
「馬鹿らしくなっちゃって。隠したところでなくなるものでもないし、顔を覚えてもらうのにいい特徴だってポジティブに考えることにしました。それに」
言葉を切った松本を見る。今度は彼女が追想の表情を浮かべた。
「ずっと『かわいそう』だと思っていた自分を、永井と島崎にいい意味で否定されたから」
手元の杏仁豆腐に視線を落とし、彼女は静かに話した。
「ポジティブになろうと努力しても上手くいかなくて。初対面の人に説明しながら『ちゃんと分かってよ』って期待をかける自分がいる。自分のありのままを受け入れたくても、この顔を見て目を
小さく舌を出してみせる松本。夏目はそのしぐさをする彼女を可愛らしいと率直に感じた。
「ある日、痣の話になって……永井は『それも個性だ』、『覚えやすいからいい』ってフォローしてくれた。確かに、あいつは私を誰かと間違ったりしなかったけど。でも、おざなりな慰めに聞こえて怒ったの。知らないくせに分かったふうな口きかないで、って。そうしたら逆に『知らないんだから浅いことしか言えないだろ』って返された」
「……俺には、開き直りに聞こえますけど」
「うん、開き直り。『俺はどうしたって、松本の苦労は想像するしかできないもん。松本がどんだけ大変か説明してくれても、欲しい言葉はかけられないと思う』。ズバリ言い切った。あいつらしかったな」
「だから不満を言うな、って言いたかったわけじゃないでしょう?」
「もちろん。『きちんと理解できないのに、救いになりそうな言葉を捻り出すほうが不誠実じゃねえの? 取り繕った言葉で救われてもその場しのぎでしょ?』って聞かれて、うまく返せなかった」
両手を組み、顎に乗せて松本はつぶやく。泉が皿を洗う音がやけに大きく聞こえた。
「内心、もっと理解してほしいと思っていたのかも。私の悩みを一緒に背負って、私の葛藤に答えを出して欲しい。そういう気持ちがあった。永井が席を外したら、島崎がフォローのつもりだったのかな、こう話したの」
松本はセリフをそらんじるように、島崎の言葉を語った。
――理解って難しいね。“自分は理解されている”って満足感は、相手に依存しないと感じないでしょ。理解されていると思いたければ、相手が理解してくれることに頼らざるをえない、っつーか。でも頼れる人が出てきたら、その人に依存しそうで怖くない? ちょっと違う理解のされかたをしたら修正したくなったり、自分が自分を理解しているのと同じレベルを求めたり。それはもう『理解』というより『支配』なわけだし。
「こましゃくれたこと言うね」泉が呆れた声をあげた。「そういうとこ、父親そっくり」
「そうですか? 私はストンと落ちましたけど。図星だったからかな」
松本は控えめに笑った。
頭の中で咀嚼する。自分を理解してほしいと欲すれば、相手に理解を求める。理解してくれる人がいても、もっともっとと欲が出、支配に転じる。
「……分かってほしい気持ちがエスカレートしたら、対等な関係じゃなくなるかもしれないですね」
「私もそう思った。『きちんと私を理解して!』って思う時点で相手を統制したがってる。相手を“私をきちんと理解するべき人”って先入観で見ちゃいそう」
「……つまり、『他人は完璧に理解できない』、と」
「そう。あと、『自己肯定感は自分で養うのが一番』。……私は理解してほしいんじゃなくて支配したがってたのかもしれない。そう思ったら胸に落ちるものがあって」
松本は訥々と語った。その経験を機に、自分が本当はどうありたいかを自らに問いかけた。マスクをするのは過去の経験からで、今の自分や未来の自分のためではないという気づきを得た。そこから「本当はどうしたいか」を考えて行動するようになった。
「自己肯定感を高めたらチャレンジ意欲が湧いて、いろんな人と出会えて、今ではモデルになって……なんだか分かりやすいサクセスストーリーみたいで笑っちゃうね」
「モデルになったのは、なりたい職業だと気づいたからですか」
「語学が得意で、そういう仕事をやっているうちに縁があって。痣を会う人会う人に説明するのいい加減ダルいし、有名になったら説明の手間が省けるかも! とか思って。……昔だったらそうは思わなかったな。気づかせてくれた二人に感謝だね」
最後のひとくちを口に入れ、松本は手を合わせた。
「ご馳走さまでした。……私ばっかり話しちゃった。島崎の話を聞かせてって言ったのに」
「いえ、興味深かったです」
「夏目くんは聞き上手だね。ぽんぽん話せちゃった」
スマートフォンを手にした松本は、時間を確認するなり立ち上がった。「わ、行かなきゃ」
「お仕事ですか?」
「うん、近くでね。また来るから、おしゃべりに付き合ってくれる? この時間ならいつもいるの?」
「だいたいは。……あの」
立ち上がった彼女を見上げる。彼女は小さく首をかしげた。
「永井さんって、今は」
どうしてるんですか、の言葉は飲みこんだ。銀行のあの箱に手紙が入っているということは、と構える自分がいた。
もうこの世にいない。そう返されるのを覚悟して聞いた。
「永井ねえ」松本は目を細めた。「今、どうしてるのかな」
「連絡取ってないんですか」
「取れないの」
その言葉に秘められた意味を探ろうと脳が働けば、自然と目がしばたく。松本はバッグを肩に掛け、椅子を戻しながら言った。
「就職して少し経ったころから、音信不通になっちゃって」
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