#33 足元から鳥が立つ
「読ませたくない部分というのは」
島崎はわずかなあいだ、問いかけてきた夏目の目をじっと見る。
どうしてだと思う? そう問い返そうかと思った。思いとは裏腹に言葉が出ていく。
「伝えたら相手を傷つける。そう分かっていたら、君はどうする」
夏目はわずかに眉を上げた。意味するところを図りかねている目だった。視線をそらし考えこむ彼に、続ける。
「俺のなかでも昇華しきれてないんだ、うまく。話せるときは話す」
「無理して話さなくても大丈夫です」
「いずれ話すつもりだった。誰に話すかを考えていただけで」
書き終えたメッセージカードをひらひらと振って乾かす。祝儀袋に新札を入れ、筆記具を片付ける。
誰かに話すつもりではいた。誰かに共犯者になってほしかった。その誰かを探していた。
不思議と、自分がもう夏目に話すつもりだと気づく。
「ごちそうさま」
万札を一枚カウンターに置いた。夏目の分も込みで、という視線を塩田泉に送る。彼女は察して頷いた。
「しばらく預かりの予定はないから、ゆっくりするといいよ」
夏目の背に言葉をかけて店を出、郵便局へ足を向けた。
これ以上追及されるのを恐れて逃げ出したようだと思って、苦笑いが浮かぶ。
*****
3日ほど経った日の昼下がり、夏目は塩田夫妻の店「café&BAR Demian」を手伝っていた。デリバリーウィルの仕事が閑散期に入ったことで夏目の生活費がひっ迫するのではと心配した夫妻が声を掛けてくれたのだった。
生活に支障を及ぼすほどの減収にはならない予定だったが、これもいい経験だと応諾した。いつも食事代の代わりにこなしていた皿洗いと店内清掃のほか、注文取りや水の提供、簡単な盛り付けを任される。塩田薫の丁寧な指導のおかげで、すぐに慣れた。
普段より客が多い日だった。一組が帰ると一組が来店するといったぐあいで、バタバタするほどではないが適度に忙しい。レジ打ちは塩田泉に任せ、客のいなくなった席から食器を回収していく。
カラン、とベルの音が鳴り、新しい客の来店を告げた。
「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
顔を上げて声をかけたとき、わずかに動揺が走った。
島崎と会っていた女性――松本優紀が立っていた。
長い栗色の髪は結ばず、前髪は横に流している。ゆったりとした赤いニットに黒いスカートを合わせていて、洗練された上品さが漂っている。
彼女は店内を見渡し、カウンター席の中ほどに腰かけた。
右側に座していたスーツの中年男性が、ちらりと彼女を見て動きを止め、何事もなかったかのように彼女から視線を外した。見てはいけないものを見たかのように。
手早くテーブル席を片付ける。厨房に皿を持っていくとき、松本優紀は荷物入れにショルダーバッグを入れようとしていた。その動きで彼女の顔が見えたのだろう、テーブル席に座っていたカップルが意味ありげに目配せをしあっていた。
その一連の動きが、彼女の右頬に広がる赤いアザを見てのことだとはすぐ分かった。
冷水をグラスに注ぎ、カウンターの向かいから提供する。腰を落ち着けてメニューを見る彼女は、周囲の視線など気にするそぶりもない。
「お決まりになったらお声かけください」
「あの、ランチメニューの『その時々のおすすめ』って、今日はなんですか」
「バターチキンカレーとサフランライス、海藻サラダです」
「『店長の気まぐれ』は?」
「カレードリアとトマトサラダ、コンソメスープです」
「今日はカレーの日なんですね」
彼女が微笑む。くっきりと頬にえくぼが浮かんだ。少し悩んでから、彼女は『その時々のおすすめ』とジンジャーエールを頼んだ。
ジンジャーエールを準備しているあいだに、松本の右側のサラリーマンが腰を上げた。去り際に彼がちらりと彼女を見たのを夏目は見逃さなかった。
カウンターに立つ夏目に分かったのだから、松本も分かったに違いない。だが彼女は特段気にもせずスマートフォンをいじっている。
厨房から顔を出し、塩田薫がトーンを落として言った。
「夏目、落ち着いてきたし休憩入っていいぞ」
「じゃあ、区切りがついたら」
そう返してグラスに氷を入れ、ジンジャーエールを注ぐ。ストローを差しコースターを添えてサーブすると、また彼女から声を掛けられた。
「夏目さんですか」
探るような目に、何かあるのかと身構える。
「はい、そうです」
「島崎って知ってます?」
「……ええ、バイトでお世話になっています」
「ああ、やっぱり」
島崎は夏目の話をしていたようだ。ならば、この店のことは彼から聞いたのかもしれない。
「島崎さんのお知り合いですか?」
「大学の同級生。同じ学科で、ゼミも一緒でした。……あ、ごめんなさい。休憩ですよね」
申し訳なさそうに松本は頭を下げた。しかし、数日前にその席で彼女へのメッセージを書いていた島崎の姿が思い返され、小さく首を振る。
「平気です。お嫌じゃなければ、少しお話してもいいですか」
「喜んで。島崎の話、聞かせて欲しいな」
手を洗い、エプロンを脱いでカウンターを出る。彼女は隣の席を示した。腰かけて、ポケットの財布から名刺を取りだし差しだす。彼女もまた自らの名刺を取りだした。
白いシンプルな名刺。彼女の名とSNSアカウント、そして所属する企業名があった。
ダルタニアン・エンターテインメントという名には覚えがあった。名刺に見入っている夏目に、松本は照れくさそうに言う。
「モデルをやっているんです。まだ駆け出しだけど」
「ここって」
島崎さんのお姉さんの、と言おうとして口をつぐむ。
眼前の彼女が、島崎と畠山桜子の関係を知っているか分からない。首をかしげる彼女に、繕った言葉を捻りだす。「畠山桜子さんの」
「そう。私は最近入ったばかりだから面識はないけど。好きな女優だったなあ」
しんみりとした口調で彼女は言い、ストローでグラスをかき回す。口ぶりから、島崎が畠山桜子の実弟だと知っているふうではない。だが、向こうも夏目が知らないと踏んで演技をしている可能性もある。一か八か、賭けてみることにした。
「前から思ってたんですけど、島崎さんって畠山さんと似てますよね」
反応を見るべく、じっと彼女を見る。彼女は目を細めて笑い、頷いた。
「それ、私も思ってた。眼鏡外したらけっこう似てるよね。でもさあ、本人に言ったら『実は生き別れの姉なんだ』って小芝居されてさ」
芝居ではない。事実だ。そう言いたかったが堪える。
島崎は自身を熟知している。芝居がかった口調で言えば冗談だと思われると踏んだうえで言ったに違いない。
松本は、二人が実の姉弟だとは思っていない。
島崎は、彼女に事実を話していない。
「僕は、『どう思う?』って聞き返されました。いつもそうです。何か質問すると質問で返ってくる」
「昔からそうだよ。こっちに余裕があるとそうする。切羽詰まってるときはちゃんと返事する。意外に相手のこと見てるよね」
こちらに心の余裕があるときは問い返す。それは初耳で、考えたこともなかった。
今までどうだったろうと振りかえる。夏目が精神的に参っているときはきちんと答えていたような気もする。相手の心情を
薫がバターチキンカレーと
松本は恐縮しつつも微笑んで皿を両手で受け取った。彼女が笑むと場が華やぐような気がする。相手を和ませるというべきか。
食べながら互いの話をした。松本は最近島崎と顔を合わせたといい、そこで夏目の話が出たのだと説明した。
「『島崎と夏目なんて、正反対だね』って言ったら、笑ってた」
「正反対?」 意味するところが分からずにいると、松本はごろっとしたチキンをスプーンで掬いあげて話す。
「島崎藤村と夏目漱石のこと。島崎は自然主義だけど、夏目は反自然主義だから」
自然主義とは何だろう。国語の授業で習った気もするが、まったく覚えていない。
夏目がいまいち理解しきれていないのを察し、松本は解説した。
「ありのままを描こう、たとえ醜くてもそれが人間だからリアルに描写しよう、っていうのが自然主義。夏目漱石は余裕を持った距離で世間を眺めて、人間とは何か、愛とは何か、みたいなのを書いていたから、余裕派って呼ばれてる」
「リアリストの島崎と、ロマンチストの夏目?」
「すっごくざっくり言うと、そんな感じかな」
自分たちもそうだ。どこか納得した。
島崎はあまり人に期待せず、淡泊な面がある。夏目は「こうであってほしい」と期待をかけて人を見、良くも悪くも人の情緒に振り回される。それを島崎にフォローされもする。
「文学専攻だったんですか」
「そう、国文学科。島崎も私も近代文学専攻」
「学生のころの島崎さんは、どんな人でした?」
夏目の問いに、松本は顎に手をやって宙をながめた。
「たいして変わらないかな。とっつきづらそうだけど、話せば普通。なんとなく周りより大人びている感じ。変なところで冗談言うし……あ」
何かを思い出したらしい松本は、手を止めて笑った。「思いだした。1年のとき、夏に差しかかっても島崎がマスクで、友達のあいだで話題になったんだよね。花粉症にしては長くない? って。その子が授業の合間に島崎を捕まえて聞いたら、あいつ真顔で『警察に追われてるから』って答えて」
「島崎さんらしい」
「でしょ。島崎と一緒にいたのがノリのいいタイプの男子でね。島崎に会うたび、大げさに『今日は大丈夫だったか』『追っ手に見つかってないか』って声をかけて。……いつの間にか島崎は警察から追われてるキャラになってた。本人も嫌がるふうでもなくて、普通に乗っかってきて。おかげで、私はすごく居心地が良かった」
私は、の言葉に彼女を見やる。松本は自らの右頬を指さした。
「この痣、目立つでしょう? 大学の途中まで、ずっとマスクで隠していたの。島崎がいなかったら、年中マスクしているのは私だけだった。……なんて言えばいいかな、島崎がそういうキャラでいたから、私は陰に隠れていられた感じ」
痣についてなんと問おう。どう聞けば彼女を傷つけずに済むのだろう。考えあぐねていると、彼女が先回りして話した。
「気を遣わせちゃったかな、ごめんね。生まれつきのもので、身体はいたって元気」
「すみません、かえって気を遣わせてしまって」率直に詫びた。彼女は首を振る。
「ううん。どうしたら私が嫌な思いをしないか、考えている顔をしてたよ。ありがとう。……『たまにすごく不躾で不謹慎だ』って聞いていたから、意外だな」
おどけて笑う彼女に、自分が島崎の口によってどう描写されていたかを知る。事実無根ですとは言えず、あいまいに笑った。不躾で不謹慎。わりと心当たりはある。
「不躾で不謹慎ですけど、こう見えて内面はナイーブなほうです」
開き直って胸を張ってみせる。笑われるかと思ったが、彼女は目を細めた。
「なんか、似てるなあ」
誰にですか、の問いを視線に託して彼女を見た。彼女はふっと目をそらし、バターチキンカレーを頬張る。
「やっぱり、今のはナシ」
「考えなおしたら似てないと思いました?」
「ううん、それよりは……なんだろう、うまく言えないな。ごめんね、ここまで言ったら逆に気になるよね」
スプーンを持つ細い指。言いづらそうに伏せられた目。瞳を覆うように落ちる長いまつ毛。すべてが様になっていた。そういう演技をしているのではと思わされるほどに。
「不躾で不謹慎だから気にしませんよ」
「やだ、根に持ってる?」
「どっちだと思います?」
わざと意地悪く言ってみせると彼女は手で口を覆った。「言い方が島崎そっくり」
「島崎さんと似てると思ったんですか」
「違う。……さっきの話で、島崎に『警察から追われてないか』って声をかけるようになった人がいるって言ったでしょ。ノリが良くて、いつも島崎と一緒にいたんだけど」
こくりと頷く。松本は夏目の顔をじっと見た。
「その人に似てる」
「島崎さんのお友達に?」
「うん。私も仲良くなって、3人で課題やったり、論文を読み合ったりした」
彼女は目をそらす。ジンジャーエールに手を伸ばし、そっと引き寄せる。
思い当たる名を、静かに口をした。
「永井さんですか」
グラスに伸びた手が一瞬止まる。見開かれた瞳から、困惑があふれだす。
点と点がつながる。箱の奥底で眠る手紙の送り手が、ひそやかに夏目の人生に足を踏みいれる。
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