#32 呉牛月に喘ぐ



 ブース横のカード挿入口に、厚みのあるカードを滑りこませる。「どうぞお入りください」という自動音声とともにドアロックが解除され、小さな個室に入った。

 

 室内は狭く、漫画喫茶の個室ブースと同じくらいかそれより狭い。キャスターつきの椅子の前には操作用モニターと連絡用の受話器がある。左側にはATMの紙幣取り出し口を拡大したようなものが備えつけられている。

 夏目は背負っていたリュックをおろし、椅子に腰かけた。

 入り口で使ったカードをモニター脇の挿入口に入れ、暗証番号を入力する。夏目もこの銀行に口座を持っている。聞き慣れた自動音声に、うっかり自分が設定している暗証番号を入れないように毎度注意を払っている。

 0517、と打ち込むと、ほどなくして取り出し口が静かにスライドして開き、白い箱が顔を出した。


 株式会社デリバリーウィルは、依頼人から預かった遺言状を一定期間後に受取指定人まで届ける業務を行っている。

 手紙を届けるだけであれば郵便業と、指定した日時に届けるのであれば宅配サービスと、扱うのが遺言状であれば司法書士と類似したサービスはいくつかあるが、これらのいずれとも毛色をことにする。

 特に、預かった遺言状は依頼人の「死後」に配送される点、配送までの期間は依頼人の命日を起算日とする点、相続や金銭が絡む遺言状は預かることができない点で、既存のサービスとは一線を画す。

 依頼人は受取指定人に個人的なメッセージしか送れない。受取人が遺言状を受け取ったとき、送り主はすでにこの世にはおらず返事を書くことはかなわない。依頼人の「言いっぱなし」が許されるかたちだが、そうでもなければ言えないことがある人も少なくはない。

 現に、代表である島崎の知人や顧問弁護士である大神おおが氏らの伝手つてで社名とサービスはじわじわと広がり、夏目がアルバイトとして携わって半年近く経つが、それなりに忙しい。

 はじめは島崎と一緒に仕事をしていた夏目だったが、しだいに任せられる仕事も増えた。今では、遺言状を貸金庫に預けることもこなしている。

 銀行が貸金庫業務をしていることも、内部がどうなっているのかも、名義人以外が使用するには代理人登録が必要なことも、その手続きはそれなりに煩雑で時間がかかることも夏目は初めて知った。


 キーケースから小型のディンプルキーを出して箱を解錠する。きのう遺言状を預かったのは米寿を迎えた女性で、孫が来訪してきたかのごとく島崎と夏目をもてなしてくれた。

 金銭に関わることを書いていないか確認する都合上、手紙は内容を確認する旨を夏目が説明すると、「すこし恥ずかしいわねえ」と首を傾げていたが、事前に書いておいたという手紙をすんなりとこちらに渡してくれた。

 手紙は四通あり、受取指定人の娘宛、娘婿宛、孫娘宛、そして夫宛だった。中身をあらためて契約書にサインを貰いつつ、手紙を遺した彼らの人となりについて話を聞いた。

 彼女は自家栽培している野菜を分けてくれた。お返しにと一人暮らしの彼女では行き届かない高所の掃除を二人でこなした。奥の間に足を踏みいれた夏目は、受取人のひとりである夫の写真が仏壇にあるのを見た。島崎いわく、故人への手紙を書いておき、棺に一緒に入れてもらうことを望む人も時にいるのだという。

 

 預かり時に取り交わす契約書は控えを取り、事務所で案件ごとにファイリングする。原本と遺言状はまとめて角2サイズのクラフトパッカーに入れて貸金庫で保管する。預かった日にち、依頼人氏名と配達予定日を書き込んだ付箋を貼り、配達が早い順から上になるよう収納するのが決まりだ。

 なかには、依頼人死去の報を受け取ったらすぐに動かねばならないものもある。


 早期の配達を望む場合は死去後すぐ島崎か夏目に連絡が行く必要があるため、いわゆる「終活」をきちんとしている世代、あるいはデリバリーウィルの利用を依頼人以外の身内が知っている場合がほとんどだ。

 クラフトパッカーの束を順番どおりに入れ替える。一度すべてを取りだし、ひとつひとつならべかえていく。

 いま保管されている遺書のうち、知らない依頼人――夏目の勤務開始以前に預かっており、いまなお存命の人――は、わずかだ。大半は、ふせんを見るだけで依頼人の顔を思い出すことができる。配達まで完了しているケースも多く、事務所で契約書の控えを見るたび、依頼人がどんな人で、どんなふうに受取指定人について語ったのかが思いだされる。

 

 束をそろえて、ならす。

 箱に入れるそのとき、いつも目にする封筒がひとつ、ある。

 透明なクリアファイルに入れられた、藍色の洋封筒。

 ペーパーナイフで開封された跡があり、宛名は「島崎知聡様」「松本優紀様」と連名になっている。字はお世辞にも綺麗とはいえず、おそらく男性が書いたものだ。

 夏目が貸金庫を使うようになったころにはすでに、この封筒は保管箱のいちばん下で眠っていた。島崎はすでに読んだようだから、もう一人の松井という男性のために保管されているに違いないのだが、契約書は添付されていない。

 島崎から貸金庫の使い方を教わった折、この手紙についてたずねた。「これも預かったものですか」と問うと、彼は「預かったけど、いつ渡すかは俺が決めるやつ」と答えた。その返しにこれ以上は触れて欲しくない雰囲気がかもされていて、会話はそこで終わった。


 読もうと思えば読むこともできる。

 ただ、後ろめたさが態度に出そうだと思って読んだことはない。

 ファイルを裏返してみたことはある。「永井宏」と差出人の名が記されているだけだった。


 今日もまた、あざやかな藍色のうえにクラフトパッカーの束を載せる。

 埋もれてしまったこの手紙は、いつ届けられるのだろう。島崎が行動を起こす日は来るのだろうか。箱の鍵を閉め、操作盤の「返却」ボタンを押すとスライドドアが閉まり、箱は依頼人のつづった感情や秘密を連れていった。


 銀行を後にし、学部の友人と合流する。一緒に課題をやる約束をしていた。

 友人の狩野かのうは入学当初、千葉県の自宅から電車を乗り継いで通学していた。

 二年の途中でアパートを借りるまで、彼が終電を逃した日には自宅に招いて泊まらせた。

 賑やかで放っておいても一人で喋り続けるタイプの彼は、喋り好きな母と相性が良く、夏目が席を外していても楽しげに話らっていた。

 逆に狩野のアパートに夏目が泊まる日には、母は手土産代わりにちょっとした惣菜を持たせてくれた。一人暮らしなら偏った食事になりがちだから、と言って。

 狩野もまた律儀な性格をしていて、夏になると大玉のスイカを持って夏目家を訪れた。彼の祖父母の家で採れたという大玉のスイカは甘みが強く美味しかった。


 春先に夏目の母が亡くなった際には、まるで自分の母を亡くしたかのように悲しんだ狩野は、四十九日を迎えるまでたびたび泊まりに来た。一人暮らしで感じる寂しさを知っている彼ゆえの優しさに違いなかった。

 狩野は「バイト始めたら元気になったな」と夏目の復調を喜び、「スイカ、要る?」と今夏も声をかけてくれた。

 彼が持参した大玉のスイカは、まず丸ごと仏壇の母に供え、切りわけたものを墓前にも供え、事務所に持っていって島崎や松川と食べ、塩田夫妻にも差しいれた。


 待ち合わせ場所で落ち合うなり、夏目はリュックから出した小ぶりの紙袋を差しだした。


「スイカのお礼だってさ」


 けさ、事務所に寄ったついでに塩田夫妻の店で朝食をとった。

 貸金庫に寄ってから大学の友達と課題のレポートをすると話すと、薫は「スイカの子か」と尋ね、夏目が首肯すると厨房からこの紙袋を持って現れたのだった。

 中身はいつものクッキーと自家製の燻製だった。酒飲みでよく喋る男なのだと言っていたのを覚えていたらしい。できたばかりの燻製は温かかった。


「わらしべ長者みたいだな、俺」礼を言って狩野は受け取る。「どなたから?」

「バイト先の人の叔母さん。夫婦で喫茶店をやってる」

「バイト先の人って、どっち?」

「質問返しするほう」


 狩野には、島崎を「質問を質問で返す人」、松川を「優しそうだけどキレたらぜったい怖い人」と説明してあった。


「今度連れてってよ、喫茶店。お礼持ってかないと」

「堂々巡りになるだろ」


 狩野は透明な袋に入れられたクッキーを見、「型が可愛い」「アイシングがすっげえ丁寧」と褒め、「手先が器用でファンシーなものが好きな叔母さん」が作ったのだろうと分析した。

 じっさい作ったのは趣味でボディビルをやっていそうな屈強で大柄な夫のほうで、叔母のほうはファンシーよりシンプルを好み、たいがいの日用品を無印良品で買いそろえているらしいのだが、彼が店を訪れたときの反応を楽しみたい気持ちがまさって訂正しないでおいた。


 受講した講義の話をしているうちに大通りの交差点に差し掛かる。目の前で歩行者用信号が赤に変わる。

 この信号長いんだよなあ、と狩野はため息をつくが、次の瞬間にはレポートで取り上げる題材について話しはじめている。こういう気持ちの切り替えが早いところを夏目は特に尊敬している。


 彼の話に耳を傾けながら、何ともなしに向かいの通りをぼうっとながめた。

 斜め前に建っているビルの二階はガラス張りになっていて、有名な喫茶店チェーンの看板がついている。そういえば塩田夫妻の店に行くようになってからチェーンの喫茶店にあまり行かなくなったな、と思っていると、窓際の席に向かい合って座る一組の男女に目が行った。


 右側に座っているのが島崎だった。朝に事務所で顔を合わせたときと同じ服装をしていたのですぐに分かった。

 黒のパンツに白シャツ、黒のジャケット姿であらわれた彼が、めずらしく「この服どう思う?」と聞いてきた。率直に「モノトーンだなぁ、って感じです。カレーうどんを食べるのに躊躇ちゅうちょしそう」と答えると、彼は「なるほど」と考えるそぶりを見せて隣の自宅に引っ込み、パンツはそのままで濃灰のハイネックニットに黒のチェスターコートに着替えてきた。

 「カレーうどんを所望しそうな人と会うんですか」と聞けば、「どうだと思う?」と返してきた。意見を求めておいて正直に答えないのはいかがなものかという抗議を沈黙と目つきに替えて表明していると、タイ料理が好きな人だからグリーンカレーを食べる可能性があると彼は釈明した。


 その着替えた姿で、女性の向かいに座っている。常用している太いフレームの眼鏡はしているが、外出時にいつも着用しているマスクは外していた。


「青んなったぞ」


 隣で狩野が言う。我に返って足を踏みだした。向かいから来る人にぶつからないようにしながら、視線は喫茶店から離れない。

 夏目の視線が上にいっていることに狩野も気づき、その先を追った。


「知ってる人でもいたのか」

「あそこにいる人、バイト先の。質問返しするほう」


 狩野も見あげ、島崎の姿を認めた。「へえ、あの人なんだ。もっとトシいってる人だと思った。デートかな」

「さあ。女の人は初めて見る」


 栗色の髪を後ろで束ね、深緑色のロングワンピースを着た女性は上品な印象を受けた。背もたれに背をつけず、背筋がぴんと伸びているからかもしれない。

 横断歩道を渡り終えるころには彼女の顔の造作も分かるほどになったが、あいにく視界から彼らが外れるかたちになった。

 最後にちらりと彼女の顔を見た。彼女の右頬に、広い範囲で赤い痣があった。

 メイクで隠しているのか色合いはうっすらとしているものの、遠目でも痣があるのは見て取れた。

 狩野も同じことに気づいたようで、いささか声のトーンを落とした。


「女のひと、怪我してたな」狩野が横で呟く。「まさか、DVじゃないよな」

「少なくとも、あの人はDVする人じゃない」

 カッとなって手が出るタイプだったら自分はすでに数十発は殴られているだろうという自信が夏目にはあった。

「じゃあ、父親とかさ。彼氏は別の人で、相談してる可能性も」


 どうしてか、会話がひそひそ声になる。

 図書館に移動してレポートに取りかかってもなお、島崎が介入したらかえってあの女性は酷い目に遭うのではないかと勘ぐってしまい、予定よりも進みが悪かった。

 翌日と翌々日もレポート作成に費やし、ようやく納得のいくものが完成した。


 提出後、息抜きに美味しいものを食べたいと欲して塩田夫妻の店に立ちよる。扉をあけるとカウンターに島崎が座っていて、こちらに気づいて軽く手を挙げた。会釈で返し、あわよくば奢ってくれないかと瞬時に湧いて出た邪心が顔に出ないよう注意を払って隣に掛ける。

 島崎はすでに食事を終えていたようで、手元には金銀の色あざやかな祝儀袋があった。

 夏目のオーダーを取った塩田薫が厨房に下がるまえに、島崎が「おじさん」と呼び止める。


「式を挙げない人への結婚祝いって、いくらが普通なの」

「友達なら三千円から一万くらいだろう。高すぎるとかえって気を遣わせるからな」

 冷やのグラスを持ってきた塩田泉が、夏目の前に静かに置きながらつけくわえる。「現金書留で送るなら一筆添えないと。ご祝儀袋だけじゃないよ」

「そうなんだ。知らなかった」


 島崎は鞄からEVAケースを取りだし、白無地の封筒と便箋を出した。次いで白のペンケースから紺色の万年筆を引っ張りだす。

 EVAケースもペンケースも無印良品で売っているもので、血筋、という言葉が夏目の脳内におどりでる。

 こういったものを携行しているのを見ると、作家らしいな、と思ってしまう。作家が便箋のたぐいを持ち歩くのがデフォルトかどうかは知らないし、島崎以外に作家の知り合いがいるわけでもないが。

 さきに手紙を書くことにしたらしい島崎は、迷いなく書きはじめた。

 自分より数倍きれいな字で「松本様」と宛名が綴られるのを見、あ、と声が漏れる。

 怪訝な顔をして島崎がこちらを見た。


松本まつもと優紀ゆうきさん、ですか」

「俺、夏目くんに教えたっけ……」

 言いながら保管箱を思いだしたのだろう、島崎は軽く頷く。「……そう、その松本。大学の友達なんだ。この前、ひさびさに会ったら報告されてね」

「このまえ? もしかして、タイ料理が好きなひと?」

「そう。けっきょく入ったのは喫茶店だったけど」

「見ましたよ。あそこですよね」


 地名を告げると彼はあっさりと頷いた。「そこ。夏目くん見てたんだ。交差点から手振ってくれても良かったじゃん」

「気づかれなかったら俺が変な目で見られるでしょう」


 点と点がつながる。保管箱の底で眠っている手紙が送られるはずの相手は女性で、島崎の大学時代の友人で、こんど結婚する。

 結婚と聞いてから、ふと彼女の痣のことが思いだされ、おずおずと聞いた。


「松本さんのお顔を見たんですけど、お怪我してませんでしたか」

「ああ」島崎はアイスコーヒーを引き寄せ、ひとくち飲んだ。「あれね、生まれつきなんだって」


 島崎は彼女の痣が血管の先天性異常によるものであること、大学で出会った当時はさらに目立つものだったと話した。メイクで完全に隠すこともできるが、厚化粧に見えると本人がいとうのだという。

 勝手に勘ぐってしまったことに申し訳なさがこみあげ、罪悪感を減らしたくて口にしてしまう。


「すみません、てっきり誰かに殴られたでもしたのかと思ってました」

「俺も最初はそう思った。顔にあざがあると、そう考えちゃうよな」


 島崎のフォローに、かえって反省の念がつのる。


 拓未たくみという名前は「未知を拓く」という意図で名づけた。

 社会に出てたくさんの未知と出会っても本質を見抜けるようになってほしい。


 そう亡き母が記した遺言状を受け取り、配達の仕事に携わるうち、人間には表面に出せない感情や事情などいくらでもあることを知ったはずなのに、こうも単純に見えるものに惑わされる。

 サーブされたアイスコーヒーを一口飲む。いつもより苦く感じられる。


「手紙、渡すんですか。渡す時期は島崎さんが決めるんでしたよね」


 永井さんからの、という言葉は飲みこんだ。

 島崎は便箋に向き直り、最初の一文を書きはじめる。


「渡すかどうか、迷ってる」

「どうして」

「どうしてだと思う?」


 かりかり、と万年筆が文字をつづる音。飄々とした声音。

 聞き返さないでくださいよ、という非難は喉の奥に落ちる。

 お待ち、と薫が湯気のたつオムライスを目の前に置いた。

 皿が置かれる音に紛れて、声が耳に届く。


「一度は渡したんだよ」


 島崎が書く手を止め、頬杖をついてこちらを見た。


「手紙は去年渡した。あそこにあるのは、彼女にどうしても読ませたくなかった部分なんだ」


 

 


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