誰を見ても誰かを思いだす
#31 水は方円の器に従う
「よう、元気か」
そう言って隣に座ったのは、スーツ姿の中年男性。胸ポケットにはサングラスを差しており、野太い声とスキンヘッドが相まって独特の雰囲気を醸している。
会計をしている女性二人が、不安げにこちらを見たのが分かった。
あの若い人、怖いおじさんに絡まれているのかなあ。
そんな声が聞こえてきそうな視線を感じてそれとなく視線をやれば、彼女らはそそくさと会計を済ませて店を出て行った。
Tシャツにチノパンといった格好の真面目そうな眼鏡の青年と、スーツ姿のスキンヘッドの
「今の子たち、
売上金をレジに仕舞って、塩田泉が微笑んだ。
「だろうなあ」吉川
「そりゃそうでしょ」 鶴の羽を広げて島崎は笑う。「その外見で態度が優しいほうが怖い」
塩田泉は「本日貸切」と書かれた看板を取りだし、表に出て行く。
入れ違いで塩田薫がジンジャーエールを注いだグラスとホットドッグの乗った皿を持って厨房から現れ、吉川の前に置いた。
吉川は手刀を切って礼をし、グラスを取り上げて島崎の前に
グラス同士が合わさって綺麗な音が響いたタイミングで、店内に流れているピアノ曲がシューベルトの「鱒」からリストの「ハンガリー狂詩曲」に変わった。
喉を鳴らして一気に飲み干し、ビールを飲み終えたときのような声を上げた吉川は、薫に向かってグラスを突き出す。
「薫ちゃん、もう一杯」
「はいよ」
薫が厨房に下がり、泉が外から戻ってくる。
頬杖をつき、しみじみとした口調で吉川は零した。
「マネジメントはストリーマー中心にしといて良かったよ、いっときは子役もやろうなんて話も出てたから」
「吉川さん見たら泣いちゃうんじゃない?」
「俺もそう思う」
島崎のからかい混じりの声に真剣に答え、やり手の芸能事務所社長は宙を仰ぐ。
「俺が原宿の街でスカウトしても、みんな逃げてくだろうよ」
「芸能事務所の社長です、って言っても怪しい仕事だと勘違いされそうですねえ」
「自分のツラには自信と愛着持ってるほうなんだけどな。仕事との相性が悪くて敵わん」
「いいじゃないですか、昭和の男前って感じで」
「お前みたいな美形のほうが何かと得する世の中だろ、今は」
「おだてますね。何か頼み事でも?」
「無い無い、様子見に来ただけ。ああ、
「面と向かって言われましたよ。満面の笑みで」
謙虚で丁寧だが、自分の意見ははっきり言う。反論するときは臆せず論理立てて説明する。縁の下の力持ちだが、意味のない追従はしない。松川のマネジメントスタイルを島崎は好ましく思っている。そのスタイルを年若い彼が確立できているのは、眼前の男による
薫が二杯目のジンジャーエールをサーブし、泉は女性らが座っていたテーブル席を片付けはじめる。
吉川はホットドッグにかぶりつき、「あれ、読んだぞ」と、有名な文芸誌のタイトルを告げた。島崎が寄稿した書きおろし短編が掲載されている雑誌は、今日が発売日だった。
「作風、少し変わったか?」
「変わったと思います?」 おしぼりでアヒルを作って遊びつつ問い返す。
「視点が今までと違うな。第三者目線というか、俯瞰だ」
何度も修正を加えた原稿の内容が脳裏に浮かぶ。
これまでは語り手の身に何かが起こる筋立てを好んできたが、今回は第三者の視点で物語を進めた。傍観者としてストーリーを描写するのは楽しく、筆が進んだ。テーマも、あまり書いてこなかった類のものを選んだ。
真っ先に第一稿に目を通したマネージャー兼ファンの松川は、「新鮮」と表現した。
「『ご自身が俯瞰する立場になったのも影響しているんでしょうね』って言われました」
「俯瞰する立場?」
「副業で大学生のバイト雇い始めたって話、この前したでしょ」
スタンドから紙ナプキンを一枚抜き取り、折りはじめる。
「ああ、配達の。どんな子だ?」
「奢る本人の前で『人の金で食べる飯は美味い』って言うタイプ」
「いい度胸してるじゃねえの」
「あと、お母さんが俺のファンだった」
「『だった』?」
「春先に亡くなりました。……遺言を届けたんです、彼に。その場で何やかんや、かくかくしかじかあって、今はバイトと雇用主の関係に」
「へえ」
「最初は俺のやり方見せたり、一緒にやったりしてたんですけど。先月くらいから一人で任せられるレベルになって、この前は初めて全部一人でやってもらいました」
鶴を折りおえると、先に折ってあったもう一羽と対面させる。そして、二羽を眺めるようにして、おしぼり製のアヒルを置いた。
「彼が依頼人と向き合う姿を見て、自分はこういう風に仕事してたんだな、って思いました。
「自分の姿を映す鏡、ってか?」
「鏡とは違うかな。彼の考えを通して自分の見方が変わることもある」
「良い影響になってんのならいいよ、なんだって」
ホットドッグを綺麗に平らげ、手を軽く叩きパンくずを払って吉川は言う。
「当事者だと気づけんことも多いからな、何かと。……本業のことは知ってんのか? バイトくんは」
「知ってます。小説家なのも、女優の弟だっていうのも。変に詮索しないからありがたい。今どきの若い子って、淡泊でいいですね」
「お前も若いだろうが。……嗅ぎ回ったり変な主張するより百倍いいだろう」
「ですね」
二年前の春、大雨が降った夜。見通しの良い道路で母とともにトラックの前に飛び出して命を落とした姉。人気絶頂の女優・
その首謀者だと騒ぎ立てられた人物は多い。当時売り出し中だった新人女優、交際が噂された若手俳優、所属事務所の先輩女優、熱狂的なファンを自称する有名配信者。心ない言葉が行き交い、裁判沙汰寸前まで火が燃え広がったケースもある。
ファンたちの「彼女が自殺するはずがない」「自分が納得するような結末が欲しい」という願いは理解できる。だが裏を返せば「自殺は認めたくない」「全てが分かるまで引き下がれない」という極端な主張と表裏一体なのではないかとも思えた。
遺書はなかった。
仕事でも私生活でも、トラブルはなかったと聞いている。
思い悩んでいる様子はなかった。予兆めいたものはなかった。
その事実が、今も島崎の袖を引く。何か理由があったのではないかと可能性を探りたがる自分が心の奥から顔を出そうとする。
実の弟でありながら何も知らなかった自分。
仕方がない、両親が離婚して離れ離れになってから十数年も連絡を取らなかったのだから。そう思う反面、連絡を取り合うようになっても彼女の中で自分の存在はさほど大きなものではなかったのだとも感じる。
なぜ、を考えるほどネガティブな感情に
一種の逃げにも思える感情を引きずって、早二年が経った。
「調べてるんです」
ストローでアイスコーヒーを啜る。ずず、と音が鳴り、氷がグラス内で転がった。吉川が眉を上げる。聞いてやるから好きに話せ、と意思表示するときの彼の癖だ。
「知ろうとしない限り、何かあるたびに思いだし続ける気がして。納得できてもできなくてもいい、知ろうとする努力をして気持ちを昇華させたい。……自己満足ですけど」
「……」
「吉川さんには迷惑かからないようにします」
「別に、俺はお前が人気作家の藤原雅之で、畠山桜子の実の弟だって世間にバレても構わねえよ。会社の知名度が上がるチャンスでもあるからな」
「『株式会社ビッグ・ブラザー』なんて悪趣味な名前、知れ渡っても良いこと無いでしょう」
「馬鹿言うな、深くて良い名前だろうが」
「何度も言いますけど、マネジメントする会社の名前としては最悪ですってば」
「候補はいくつかあったんだよ。株式会社ビッグ・ブラザー、株式会社ハーモニー、株式会社ルドヴィゴ、株式会社ニューロマンサー……」
「チョイスが悪い。なんで全部ディストピア小説から取ってくるかな」
「いいじゃねえか、好きなんだよ。そういう話が」
考案した社名を指折り数える吉川に、島崎はため息をついてみせる。彼が読書家で、作家という仕事と島崎の立場の双方に理解があるからこそ、こうして安全に身を隠し作家活動ができている事実を棚に上げて。
席の片づけを終えた泉は、カウンター裏の本棚から本を一冊抜き取って厨房に引っ込んだ。薫が扱う包丁の音が聞こえている。キャベツか何かを刻んでいるのだろう、ざくざくとリズミカルで淀みない。
吉川とここで食事をする際は、二人とも気を遣って外す時間がある。「話しづらいことがあれば今のうちにどうぞ」という、島崎の正体を知る数少ない存在でもある叔母夫妻のささやかな気遣いに、島崎はいつも甘えさせてもらっている。
泉の背が見えなくなるのを認めてから、吉川は小声で言った。
「迷惑かけないっつったって、興信所に頼むのを光星にやらせたら意味ないべや」
「すいません。身バレ防止を優先したら松川さんにしか頼めなくて」
「別にいいけどよ。……誰よ、調べたのは」
姉と噂のあった俳優の名を口にする。松川が太鼓判を押す興信所――芸能関係ならここだ、という興信所があること自体に驚きだったが――に依頼し、俳優の周囲を洗ってみたが不審な点はなかった。事故当日は映画の撮影中で、そもそも当時は一般女性と交際していたようだ。畠山桜子との噂はデマであり、共演者以上の関係はなかった。
マネージャーだった母の交友関係についてもそれとなく探ってみたが、離婚後に姉を連れて渡米して以降は付き合いの幅がぐっと狭まり、家族どころか学友とも疎遠だった。何度か会っていた友人にさえ「建築会社で経理として働いている」と嘘をついていた。
かつて演劇に没頭し、その道に進むことを望んでいた母はチャンスに恵まれず諦めた。だが、家庭の経済環境や生まれ育った場所が夢の実現に大きく影響するとも信じていたようで、安定した地位を持つ父と結婚した。
そうして生まれてきた美しい娘に、自分がなしえなかった夢を叶えて欲しいと願ったことをきっかけに家庭内に不和が生まれ、離婚に至った。
父が以前、話してくれたことがある。離婚に際し、茨城県にある母の実家まで、夫婦で報告に行ったという。
母方の祖父母は義理の息子である父を叱ることはなく、実の娘を手ひどく批判した。そこで母の中にくすぶっていた両親への反発――「もっと裕福だったなら自分は夢を叶えられていたかも」という逆恨みじみた屈折した感情――が爆発し、三人はひどく言い争ったという。
「勘当」という言葉が飛び出すほどの親子喧嘩は収束せず、どうやら母はその後、一度も帰らなかったらしい。成長した姉の写真を送ることも、連絡先を教えることもなかったようだ。
祖父母は死去の報を受けて自宅に押し寄せたマスコミに「彼女が孫娘だとは知らなかった」と話し、世間の耳目を集めた。世間体を守ろうとしたのか、それとも娘の離婚を
マネージャーとして辣腕をふるっていた母のことを、姉が悪く言ったことはない。そもそも、島崎との会話では話題にすらしなかった。こちらに気を遣ったのかもしれないが。
理由になるものは絞られていく。恋愛ではない。母の周囲で何かあったとも考えづらい。母と姉の不和はありえる。だが、ならばなぜ二人とも飛び出したのか。心中だったのか。
「……あと何かあるとしたら、事務所かな」
「ダルタニアンか」
姉が所属していた「ダルタニアン・エンターテインメント」は芸能事務所としては規模が小さいほうだ。モデルや俳優を中心にマネジメントしており、所属するタレントはみな本業のみに焦点を絞り、このところ破竹の勢いのYoutubeへの進出はしていない。社としての方針か、あるいはそういう人材を好んでいるのかは定かではない。Youtubeよりもむしろ海外進出を重要視しており、語学力に秀でるタレントを幾人も
会社設立以来の稼ぎ
「吉川さん、あそこの社長と知り合いなんでしたっけ」
「会えば挨拶する仲だな。飲みに行くほどじゃあない」 ウイスキーのロックを飲むようにジンジャーエールをちびちびと啜り、吉川は続ける。「社長よりはマネジメントを統括してる奴のほうが話すかな。
聞き覚えのある名に、鶴をもてあそんでいた手が止まる。
「話してたな、その人のこと」
「どんなふうに」
「……飯に連れていってもらった、とか、出演作品の感想を細かくくれる、とか」
「確かにあの人は気が利く。光星よりもマメだ。メールの返信も早けりゃ贈答品の返礼も早い。礼状なんか毎回手書きだ」
「芸能界向きの人ですね」
「おまけに、無名だった畠山桜子のポテンシャルを見抜いて引き立てた」
あの日からこのかた、吉川とこれほど姉について話したことはなかった。酒も入っていないのに、ぽろぽろと姉と話していた内容が口からこぼれていく。
「大手の芸能事務所にアピールしまくって軒並みダメだったのが、あの事務所に拾われて一気に開花するんだもんな。分からないもんですね」
「……ん?」
怪訝な顔をする吉川に、島崎も不安になり眉間に皺が寄る。
「なんです?」
「それ、誰から聞いた?」
「姉です。母がいろんなところに売り込んで、自分でもオーディションに出まくったけど箸にも棒にも掛からなくて、小松さんが拾ってくれた、って」
「俺の聞いた話と違うな。小松さんはアメリカでお前の母ちゃん姉ちゃんと出会った、って話したぞ」
「向こうで?」
「ああ。
「そこで姉をスカウトした……」
「スカウトしたのか彼女のほうから来たかは知らんが。向こうで出会ったってのは確かだ。小松さんが自分で言ってた」
「……」
頬杖をつき、考える。
なぜ、姉は事実と異なることを話したのだろう。少しでも苦労しているように見せたかったのだろうか。
事務所に所属するまでの経緯など、バラエティ番組で聞かれるメジャーな質問のひとつだ。大手に断られ続けて中堅規模の事務所に、という話よりも、海外進出を見据えたスカウトにアメリカで見出されたと言ったほうが印象も聞こえも良いだろうに。
だが、そこで思考は行き止まる。姉はほとんどバラエティ番組に出なかった。ドラマに主演しても番組宣伝のためにバラエティに出るのは稀だった。
出演したとしてもせいぜい共演者と作品に関するトークに花を咲かせる程度で、プライベートは極力明かさなかった。
「……会ってみたい」 ぽつりと声が漏れる。
「小松さんに、か?」
「ええ。俺が姉から聞いた話を答え合わせしてみたい」
「……」
「冗談ですよ。会いに行けるわけないでしょ」
黙り込んだ吉川に微笑んでみせる。
こんにちは、畠山桜子の実の弟です。そう名乗ったところで、面倒なことに巻き込まれそうだ。
しかし、小松という男に興味は湧いた。
「また松川さんへの頼みごとができちゃったな」
「止めねえが、バレねえようにやれよ」
「もちろん。探りを入れてるのが吉川さんとこの社員だって分かったら問題でしょ。別に、知ってどうこうしたいわけじゃないですし。何ともなかったならそれでいいんです。あれこれが交じり合ったあの件の、本質を見極めたい」
「本質、ねえ」
「あ、バイトくんの信条が移った」
知らぬ間に夏目の思考に影響を受けていたらしい。くすりと笑うと、吉川は目を細めた。
「面白そうなバイトだな。深い言葉を使う」
「普通の子ですよ。今度連れてきましょうか。吉川さんと会ったら『どこのヤクザかと思いました』って平然と言うと思うけど」
「ただのクソガキじゃねえか」
「あはは。ときどきビビるくらい不躾で不謹慎ですけど、良い子です。気に入ると思いますよ」
「そうかい」
夏目が吉川に会ったらなんと言うか予想をめぐらせていると、吉川が時計を確認して腰を上げた。ほとんど同じタイミングで、泉が文庫本を持って厨房から出てくる。
「帰る? ちょっと待ってて。お土産」
「悪いねいつも。薫ちゃんのクッキー、子どもら大好きで取り合いになんだ。俺の口に入りゃしねえ。はい、釣りはいらねえよ」
「太っ腹なお客さんにはサービスしないとね」
吉川がテーブルに置いた万札を掲げ、泉はいたずらっぽい笑みを浮かべた。薫が紙袋をふたつ持って現れ、一つを吉川に渡し、もう一つを島崎の前に置く。
中にはいつも両手から溢れそうなほどのクッキーと、その日余った食材で作ったまかないが入っている。礼を言って受け取り、島崎も席を立った。
「叔母さん、夏目くんいるときに吉川さんが来たら、俺のこと呼んでくれない?」
「私たちが紹介しないほうがいい?」
「うん。彼が吉川さんを何て形容するか見たい」
「ヤクザだって言うだろうな」薫が巨躯を揺らして笑う。
「どんな生意気な子か楽しみにしてるよ。……ごちそうさん。また今度」
「俺も帰る。ごちそうさま、まかないありがとう。おやすみなさい」
おやすみ、という夫妻の声を背に店を出る。夏特有のむっとした夜の空気はひっそりと姿を消し、過ごしやすい気温だった。じきに薄手の羽織りものが必要になってくるだろう。
階段を上り地上に出ると、目の前の路肩にはすでに吉川の運転手が車をつけて待機していた。
「ご馳走様でした」
「家まで送るか?」
「歩きます。お気遣いどうもありがとう」
テールランプが尾を引いて夜の闇に溶けてゆくのを見送り、自宅方面に歩を向ける。近くの店で飲んできたであろうサラリーマン二人組が、おぼつかない足取りで歩く横をすり抜け、住宅地へ繋がる道へ抜ける。
小松という男について再び考えた。どういう話の流れで姉は名前を出したのだったか。彼女とのやり取りの記憶をたどる。ほとんどが、他愛のない世間話だった。
『先週、本屋行ったの。
「ああ、先週発売になったんだ。なに、買ってくれたの」
『買った。でも、まだ読んでない』
「読んだら感想聞かせてよ」
『私、読むの遅いからなあ。3年くらいかかっちゃうかも』
「その言い方は読む気がないな」
『嘘うそ。ジョークだって』
「ドラマ、見たよ」
『ほんと? どうだった?』
「よくあんな長いセリフ覚えられるな、って感心した。どうやって覚えてんの?」
『台本を音読してもらうの。それを録音して何度も聞く。読むより、聞くほうが覚えられるんだよね』
「俺と正反対じゃん」
『あんなに分厚い本を何冊も書けるほうがすごいと思うけどな』
「ありがとう。……買ってくれた本は? 読んだ?」
『あれれ? 買ったなんて言ったかなあ?』
「下手な芝居すんなよ、さては読んでないだろ」
『ごめんごめん、冗談。撮影が立て込んでて、あんまり時間が取れなくてさ』
「……別にいいけど。体調に気ィつけて」
『うん。ありがと』
数年前の断片的な記憶にもかかわらず、既視感を覚えた。
誰かと、同じような会話を交わした気がする。
マンションの前まで来て、無意識に自室を振り仰いだとき、ふっと思いだした。
『夏目くんさあ、俺の本どこまで読んだの。あれからけっこう経ってるけど一冊くらいは読み終えてくれたかな』
『島崎さんの本……?』
『初めて聞いた、みたいな顔してるけど勝手に記憶をなくさないでくれるかな。さては読んでないだろ』
『冗談ですよ』
時おりとんでもなく不躾で不謹慎な助手の顔が思い浮かぶ。
自分の生活に彼が関わるようになり、仕事への価値観や見方が少し変わった。
では、姉の死について彼を伴って調べたらどうだろう。たとえば、彼が自分の代わりにあの日のことを調べてくれたら、自分はまた少し離れたところから出来ごとそのものを客観視し、何か真実を知ることができるんじゃないだろうか。
エレベーターに乗り込み、5階のボタンを押す。突飛すぎる自分の考えがおかしくて、狭い箱の中でひとり笑った。
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