#30 合わせ物は離れ物


 死ぬほど会いたい。だから、死ぬまで会わない。


 契約を正式に交わした日、大江はみずから書いた野間の名を見つめて言った。空気に溶けるような声で、確かに言った。

 その言葉に潜む真意を知ったのは、遺言状作成に終わりが見えてきた日のことだ。きっかけは夏目の話だった。

 特集や付録が気になって雑誌を購入するも、買ったことに満足して読むまでに時間がかかるのだという話をした。


「買う、っていう行為じたいがゴールになっちゃって」

「分かる。買うと満たされる」


 大江は手紙に目を落として応じた。「満足すると気持ちは落ち着くよね。興味も薄れるっていうか。片思いの相手の方が、付き合った相手よりも強く思い出に残るってこと、ない?」

「あります。やって後悔したことより、やらなかった後悔のほうが残る感じ」

「そうそう」


 楽しげに相槌を打っていた大江が、ふと手を止めた。ペンを持ったまま、天井を見上げる。


「同じなんだよね、これも」


 これ、が何を指すのかを理解し、夏目は彼の手元を見た。

 開かれた白い便箋、細く連なる字。


「会わなければ後悔するでしょ。後悔してくれたら、ずっと覚えていてくれる。けど、会ったら……最期に会えて良かった、って思うだろ。満足しちゃうじゃん」

 ペンを手に取り、手でいじりながら大江は続ける。「だから会いたくない。心に傷をつけてでも、後悔させても恨まれてでも、少しでも残っていたい」


 大江は小刻みに何度もまばたきをした。夏目の視線から逃げるように顔をそらし、目を擦る。

 不調を押してでも書き続ける手紙に書かれている内容を、夏目は知っている。

 一文を書くのにどれだけ頭を悩ませ、何度も書き直している手紙。短い文章で、そう多くはない文量で綴る言葉。

 話を聞くうち、おぼろげに捉えていた大江の考えは徐々に輪郭を帯びていっていた。

 大江がどんな感情を抱いているのか、今は手に取るように分かる。分かってしまっている。


「あーあ」 自嘲じみた声で彼は笑った。「会わなければ大丈夫かと思ったんだけど。薄れたり、区切りがついたりするのかも、なんて期待してたのに」

 何をどう返せばいいか分からなかった。ただ、窓の外を見ている大江の横顔を眺めていた。

 ゆっくりと夏目のほうに向きなおり、大江は言った。


「俺さあ、怖くて逃げたんだよ」

「逃げた?」 小さく問い返す。

「一緒にいるうちに、知られたくなかった。……友達のままが良かった」

「関係が崩れるのが、怖かった?」

「それもあるし、あいつのことだから、知ったら後悔しそう。気づけなくてごめん、って謝ってきそう。別にそうしてほしいわけじゃないから」大江は目を閉じ、小声でかみしめるように言った。


「あいつは優しい。馬鹿みたいに優しい。優しいから合わせてくれる。俺のペースに合わせて、俺の主張をかなえようとしてくれる。……さすがにこればっかりは、合わせて欲しくない。合わせようとする野間を見たくない」


 静かに語る声は、ほのかな熱を孕んでゆく。


「会ったら、縋る。全部の感情振り切って、会わないために払ってきた努力を無駄にしてでも言っちまいそう。けど、言ったら苦しめる。先が長くない俺に何をしてやれるか、って、あいつは悩む。そうしたらもう、呪いになっちまう」

「呪い……」聞こえないほどの声量で復唱した。しかし彼には届いていたようで、大江は笑む。

「そ、呪い。何も変わらない友達のままでいたい。でも忘れて欲しくない。会っちゃいけない。あれこれ考えた結果が、これ。

 いなくなってから後出し。後ろ足で砂ぶっかけていくようなもんだよね。さすがの野間太も怒るだろうな」

「怒ってほしいですか」

「うん」あっさりと頷く。「怒ってほしい。怒り続けて欲しいね。恨んでもいい。これから先に出会う人全員に、俺の悪口ボロクソ言ってくれても別にいい」

「……」

「そのほうが、深く長く覚えていてくれるでしょ。だったら、憎まれてもいいよ」


 ペンを置き、大江は両手で顔を覆った。「80歳なんだって」

「何が、ですか」

「男の平均寿命。80歳。俺ら28だよ。先、長すぎでしょ。あいつ、何歳まで生きるんだろうなあ。馬鹿だから風邪もあんまり引かなかったし、身体も頑丈だからあと五十年くらいは余裕で生きるだろうな。いい感じの人と結婚して、子どもが出来て、家買って、子どもが巣立ったら今度は夫婦二人で老後送って、孫とか、ひ孫くらいまで……」


 自分のいない世界を楽しげに想像する姿に、母が重なる。

 ぐっとこらえた。こらえても、脳が勝手に母の声を再生する。


『拓未はどんな大人になるかなあ。どんな人生送るつもり?』

 ――分かんないよ、先のことなんて。

『結婚してもしなくても、子どもがいてもいなくてもいいから、楽しく生きなさいよ』

 ――母さんみたいに?

『そ。私は私で、楽しく生きてきたつもりだから。楽しく恋愛して、結婚して、あなたが生まれて、育てて……』

 ――楽しかった?

『うん、とっても』


「たった数年しか、一緒にいなかった」


 独り言のように、大江はつぶやく。


「あの馬鹿の人生は、これからも続く。数年なんてあっという間で、俺がいた世界より、俺のいない世界が当たり前になるんだ」


 野間さんは、大江さんのこときっと忘れないです。

 軽々に口にする気にはなれなかった。

 約束出来るのは他ならぬ野間だけなのだと、よく分かっていた。






 *****






「読む前に」 取りだした便箋を開く前に、野間は言った。「話、聞いてくれる?」

「僕で良ければ」

「ありがとう。……さっきは、八つ当たりしてごめん」

「いえ、お気になさらず」

「読んで、また君に八つ当たりするかもしれない」

「構いません」


 少しでも気が楽になるなら。出かかった言葉を飲み込む。

 近くの席で、客同士が大きな声で笑った。そのせいで、夏目は野間が零した言葉を拾いそこねた。


「……い」

「すみません、なんと?」

「実感がない。……違うな。実感してるのに、理解できない。棺の蓋が閉まるのを見たのに、どこかにいるんじゃないかって思ってる。LINEすれば返事くれるんじゃないか、電話したら出るんじゃないかって、ずっと。こんなことになるなんて思ってなかった。何かの拍子でまた会うようになって、……元に戻れるんじゃないかって」

 言葉を継げずにいると、気を遣わせていると野間は受け取ったようで、表情と口調を和らげた。

「どうして連絡取らなかったのか、あいつは君に話した?」

「はい」

「そう。『なんでさっさと会いに行かなかったんだろう』って、思った?」

「大江さんが手紙を書き終えるまでは、思ってました」


 野間はちらりと手にした便箋に目をやる。そして、便箋から目をそらすように視線を店内に彷徨さまよわせる。


「避けられてると思った、はじめは。大江が一度、ひどく俺を怒ったことがあったから、それで愛想を尽かしたんだと思って」


 大江が長らく罪悪感を抱いていた出来事。彼に注視し甲斐甲斐しく世話をすることで、かえって野間の価値観をゆがめてしまったと後悔するに至った出来事のことを、野間は話しづらそうに告白した。


「強引に会って嫌われたくなかったし、仲直りはしたかったけれど、あいつにはその気持ちがないように思えた。避けられるのがしんどくなって直接問いただしたら、距離を置きたいって言われて」

「聞いています。野間さんは、その提案を了承されたとも」

「了承、するしかなかった。あんなにしんどそうな顔をして話されて、嫌だ今まで通り楽しくやろうぜ、なんて言えなかった」

「しんどそう?」

「『お前は何も悪くない、俺の問題だから』って、何度も言われた。かえって苦しかった。俺は今まで楽しく過ごしていたつもりだったのに、どこかで大江に居心地悪い思いをさせてたのが申し訳なくて、気付かなかった自分にも腹が立った」


 わずかに野間の指に力がこもる。便箋が揺れる。


「マヌケな野間太は頼れる大江もんに甘えてばっか。……それが辛くて、大江は俺から離れて別の居場所を見つけたがってるんだと思った」

「……」

「だったら、俺が引き留めるのもおかしい。そう思って距離を置いた。もう一回仲良くなるチャンスがあれば、そのときはあいつを傷つけない奴になろうと思って、自分を見直して」

 野間は大きく息を吐いた。広い肩が呼吸に合わせて下がる。

「共通の友達には、俺は俺で元気にやってるって印象づけて、それとなく大江にも伝わるようにした。俺がダメダメだったら、あいつは自分を責めるだろうし。……自意識過剰かもしんねえけど、俺がちゃんとしてないと、大江が安心して別の居場所を見つけられない気がして」

「安心……」 夏目は小さくつぶやく。

 

 大江と初めて会った日。野間について聞いたとき、脳裏に浮かんだドラえもんの話が不意に思いだされた。

 ドラえもんが未来に帰ることが決まったら、のび太は当初、泣いて抵抗した。しかし、ドラえもん自身も、のび太が心配で帰りたくないのだと話す。それを聞いたのび太は一転、自分のことは自分で出来るとドラえもんに言って安心させてやる。

 運悪くいじめっ子のジャイアンと会ったのび太はその日、何度殴られても立ち向かい、ボロボロになってもなお、ジャイアンに縋りついて叫ぶ。


『ぼくだけの力できみに勝たないと、ドラえもんが安心して帰れないんだ!』 


 そうして、自分ひとりの力でジャイアンに勝ったのび太は、涙を流すドラえもんに言う。


『勝ったよ、僕。見たろ、ドラえもん』

『勝ったんだよ。僕一人で。もう安心して帰れるだろ』 


「気にしないようにしてた。連絡もしないようにした。取り返しのつかないことをしたんだろうから、許してもらえるまで出来ることやろう、って思って。……恥ずかしい話、二十歳はたち過ぎてやっと、自分のことを自分でやるようにした」


 夏目の脳裏に、目の前の男が四苦八苦しながら自立していく姿が勝手に描かれる。

 何かと世話を焼いてくれた親友の不在が、どんな重みと喪失感を彼に与えたのかを測ろうとする。


「大江はずっと……お兄ちゃんだから、って下の子の面倒見て、後継ぎだから、って家のことも気にかけてて、そのうえ俺みたいな甘ったれの面倒まで見てて」


 野間は宙を仰いだ。「自分のことは二の次で、家を出て、俺と離れて、やっと、やっとだったんじゃねえのかな。それが……」


 声を詰まらせ、彼は便箋をテーブルにそっと置き、ハンカチで強く目元を拭った。


「会えば良かった」涙声が響く。「嫌われてでも会えば良かった」

 伝うものは途切れず、彼はハンカチを押しあてたまま、ぽろぽろと話した。

「離れてる間に気づいて、伝えたいこともあった。……伝えたら大江が苦しむとも思った。……あいつはずっと、兄貴らしく振る舞うことを求められていて、家族の人らも、早く結婚してほしいみたいなこと言ってて……関わり続けたら、俺はきっと言っちまう。そうしたら、大江の信じる『正しさ』から道が逸れていくんじゃないか、って。

 違う、って感じた大江に拒絶されたら俺は立ち直れない。そうやって理由つけて逃げて、そんで……」


 黙って聞いていた夏目は、たまりかねて言った。


「読んでください」

「なに?」聞き取れなかったのか、野間が赤い目でこちらを見る。

 懇願するような口調で、夏目はもう一度言う。自然と口調が強くなってしまう。

「読んでください、大江さんからの手紙」

 野間はいきなり口調を強くした夏目にわずかに驚きを見せたものの、ハンカチを横に置いた。

「ごめん。ぐだぐだ話して」

「違います、そういうことじゃなくて」

「いいから。……ちゃんと読むから」


 べらべらと言い訳を連ねるのはいい加減やめろ、というふうに取ったらしかった。

 違うんです、と強く否定したくても、自分の言葉は今の彼に届きそうもなかった。


 野間は目元を指先で拭い、目を閉じて、ひとつ、ふたつと大きく深呼吸をし、意を決して便箋を開き、大江の手紙を読み始めた。


 文字を目で追うさまを見つめる。

 野間の目線はゆっくりと動く。

 動いては、戻る。


 じっと見ていては気が散るだろうと気づいて、夏目は視線を外した。

 降りつけている雨は勢いを弱め、雲の間からわずかに晴れ間が見えた。もう少しすれば雨も上がるだろう。明日になれば、前日までの雨など嘘のように晴れて、蒸し暑い日が続くに違いない。


 紙をめくる音がする。ちらりと野間をうかがう。

 彼は、音もなく涙を流していた。隣を通ったウェイターが心配そうに彼のほうを見た。夏目は「大丈夫です」の意を込めて小さく会釈した。近くの席の客が、それとなくこちらの様子をうかがっているのが分かった。

 野間の視線が下がる。手は少しずつ上がる。

 綴られた文の最後まで、はらはらと涙しながら彼は読み終え、静かに便箋を置き、右手で目を覆った。


「ばかやろう」


 涙交じりの声。「あの馬鹿、ほんと馬鹿だ」

 野間は自分に向けるように続ける。「……離れなきゃ良かった。会えば良かった。理由つけないで、ちゃんと言っておけば」


 分厚い肩が小刻みに震え、雫がテーブルに落ちる。頭は下がり、半ばテーブルに突っ伏す姿勢になっても、野間は話し続けた。もはや夏目に言っているのではなく、この場に大江の魂が漂っていて、彼に向かって言うかのように。


「母さんみたいだなんて思ったこと、無えよ。お前は他の誰かに取って代わる存在じゃない」

「この先どうすればいい? お前がいないと意味ないよ」

「どうしていないんだよ、馬鹿」

「ごめん。意気地なしで、ごめん」


 野間は繰り返し詫びた。

 その姿に、夏目は彼のこの先を案じずにはいられなかった。

 後を追ってしまうではないか。心を病んでしまうのではないか。彼のこれからを想像しようとすれば、自らの胸が張り裂けそうになる。


 彼はこの先、昨日食べた夕飯を忘れても、取引先の担当者の名前を忘れても、友達の誕生日を忘れても、大江のことは決して忘れないだろう。

 大江と再会したあの日の光景、息を引き取ったと聞いたその時の空気の温度、祭壇に飾られた遺影、棺におさめられた彼の姿も、手紙のことも。

 嗚咽が聞こえる。渡したハンカチが役に立たなくなりそうなほどの涙が目を伝っている。

 

 ――俺が『会って話をしてください』と強く言っていれば、大江さんはそうしてくれたんじゃないか?


 今さらどうすることもできない考えが浮かび上がる。

 しかし、そう思うことすら、許されたいと自分が思っている証左に過ぎなかった。

 野間の涙がテーブルに落ちるのと呼応するかのように、雨脚はまた勢いを強めた。

 頭の中に何度も去来する考えを振り払うことも出来ず、夏目はただ、じっと座っていた。




 *****




「おかえり」


 後部座席に傘を入れてから、助手席のドアを開け、身をすべらせる。見送ったときと同じトーンで島崎は声をかけてきた。


「迎え、ありがとうございます。無事に終わりました」


 静かに会釈し、シートベルトを着用する。カーラジオが控えめな音量で流れており、陽気なラジオパーソナリティがリスナーから寄せられた手紙を読み上げている。


『東京都にお住まいのラジオネーム、ミニキャットさん19歳からのお便りです。“最近悩んでいること。遠方に住んでいる友達と、このまえ電話中に些細なことで喧嘩してしまいました。LINEで謝ろうか、電話をしようか、いっそ会いに行って謝ろうか悩んでいます。ティオさん、アドバイスをください”。……うーん、会えるなら会ったほうがいいんじゃないかな。顔を見たら話せること、あるじゃないですか。僕なんかはねえ……』


「野間さん、大丈夫だった?」

 パーソナリティの声にかぶせて、島崎が聞く。

 小さく頷く。

「しばらくは泣いていました。……泣きながら手紙を読んで、何度も読むうちに少しずつ落ち着きを取り戻して……火葬場に行っていたご友人から連絡があって、合流して」


 友人の一人は、病室で幾度か夏目も見たことがあった。向こうも夏目を認知していて、互いに会釈をした。もう一人は玉木という、野間にすべてを話し大江と引きあわせた男だった。

 二人に名刺を差し出し、大江から預かった手紙を渡したと告げた。

 片方の男性が野間を先導して先に店を出、夏目は会計を済ませるべくレジに向かったが、玉木が制して支払いを済ませた。礼をし、甘んじることにした。

 玉木は夏目に、野間が頑として火葬場に同行することを拒んでいたことをさりげなく話した。


「見たくなかったんだろうな、火葬されるところ。……嫌でも実感させられるから」


 先ほどまでの光景を思い出したのだろう、彼は言いながら指で目元を拭った。

 母の骨を拾い上げたとき、自分も感じた。

 それまで、この世のどこかにいると思っていた彼女が、手の届かないどこかへ行ってしまった気持ち。写真や思い出の中に母が閉じ込められてしまったような喪失感。


 手紙の内容は本人にしか伝えられないが、野間は大きなショックを受けているのでどうか目をかけて見守って欲しい。別れ際にそう告げ、深く頭を下げた。玉木は頷き、友人が運転する車の助手席に乗り込んだ。クラクションを短く鳴らしたのち、車は駐車場から出て行った。


「これから先、野間さんに『大丈夫』になる日が来るのかは分からないです」


 憔悴しきった顔の野間を思い返し、率直に告げる。

 島崎は黙ってウィンカーを出し、ハンドルを切った。

 かっちんかっちんと鳴る音に耳を澄ませ、ラジオを聞かないように努力しつつ、夏目は続ける。


「俺のしたことが正しかったのか、自信が持てないんです」


 たった数枚の便箋に込められた、今際の告白。

 大江の笑みが蘇る。

 夏目もきっと、このさき、何度も大江のことを思い出す。

 刺す様な日差しを肌に浴びるたび、風にそよぐカーテンを見るたび、病院に一歩入ったときに、彼は夏目の脳裏に現れることだろう。


「これから、『ああだったら、こうだったら』って思うことがあると思います」

「そうだね」

「そのたびに、俺は大江さんのことを思い出すと思う。あのとき俺が野間さんに連絡せずに手紙を預かったのは正しかったのか、そのたび悩むと思います」

「うん」

「悩んで悩んで、その時々にどんな結果を出しても割り切れない気持ちが残って。……俺にとっても、大江さんは一生忘れられません」

「うん」

「島崎さんは、いますか? そういう人」

「んー?」島崎は穏やかに答える。「いると思う?」

「どうだろう」 夏目はわずかにシートを倒し、窓側に身を傾けた。「分からない」


 小さく鼻をすする。

 分からない。自分がしたことは正しかったのか。最善だったのか。

 大江の依頼を反故にしてでも、野間を呼び寄せるべきだったのか。

 通じ合っても相手がいない苦しさを、野間に与えて良かったのか。


 二人が自分の前で涙を流した姿がフラッシュバックした。

 ぎりぎりのところで堪えていた涙腺の防波堤が瓦解した。

 島崎の指が伸び、カーラジオの音量が少し上がった。

 それに甘えて、夏目は小さく嗚咽を漏らして泣いた。

 


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