#29 言いたいことは明日言え
一から順番に話すのが苦手。いつも三あたりから話し始めて、「主語は?」って聞いてたな。営業職なんだし、あの癖はもう抜けてるかな。
ちょっとした忘れ物が多かった。トイレで手ぇ洗って携帯忘れるなんてしょっちゅう。『前売り券買ったから映画見に行こう! 泣けるやつだから!』 って誘われた日、チケットは大事に持ってきたのにハンカチ忘れてやんの。服の袖でごしごし拭ってて、俺はそれが気になって映画どころじゃなかった。
人当たり良くて誰とでも話すわりに、肝心なことは自分から言いださない。でも、感情はストレートに表現する。いい意味でも悪い意味でも単純で、そういうところがガキっぽい。
「仕方ねえな」だったり、「可愛いヤツだな」とか「はっきりしねえな」とか。俺は俺で好きなように解釈してて。たぶん、相手への解釈が上手く合致してたから、仲良くやれてたんだろうね。
あ、そうだ。手紙渡すとき、これも一緒に渡してくれる?
脳内で、在りし日の大江が鷹揚に笑っている。彼が楽しそうに語っていた野間
葬儀に参列していた野間は、病室で出会った彼と同一人物であるとにわかに信じられなかった。快活さは消え、丸まった背のせいで最初の印象よりも一回り小さく感じた。
隣に立つ友人男性―おそらく彼も部活仲間であろう、たくましい体躯をしている―に付き添われるようにしてゆっくりと歩を進める姿を見ては、声を掛けることをためらった。
何か言えば、ぎりぎりのところで堪えている感情の堤防が決壊するのではないかと何度も不安に駆られた。
焼香の順番が回り祭壇の前に立った野間は、しばらく動きを止めていた。
どうして俺は、大江の遺影の前に立っているのだろう。
そんな言葉が聞こえてきそうだった。遺族が
出棺前には参列者が一人ひとり花を棺に入れた。
夏目も花を渡された。母の葬儀と同じだな、と思った。
最後に目にした大江は、眼鏡をかけておらず目も閉じていた。眠っているようでいて、しかし起き上がりそうな気配は微塵もなかった。安らかだった。
この人は、本当に大江拓弥なのだろうか。
実はどこかで生きているんじゃないか。
縋りたくなる考えが頭を占める前に、丁寧に花を入れた。
やがて
滞りなくすべてが終わり参列者たちが次々と辞去していく中、軒下で降りしきる雨を眺めている彼に思い切って声を掛けた。
同伴していた同級生らは彼をそっとすることに決めたのだろう、夏目が声を掛ける前に別れの挨拶を済ませて斎場を去っていた。
「野間治智さんですよね。僕のこと、覚えていらっしゃいますか。病室で、一度お会いしたのですが」
彼の反応は鈍かった。「病室? 大江の?」
小さくつぶやき、野間は視線を外した。水たまりにとめどなく波紋を作ってゆく雫を見やり、「そうだったっけ」と思考を放棄したような声が返ってきた。
その場で名刺を差し出し、大江から手紙を預かっていると告げると、彼の目は生気を取り戻したように見開いた。
「俺に? 大江が?」
「はい。お時間をいただけますか。場所を変えてお話させてください」
考える隙を与えず、先だって歩いた。そうでなければ、野間はいつまでもその場に立ち尽くしたままでいるように思えた。
短いやり取りを交わし、斎場から少し歩いた場所の喫茶店に入った。喪服姿の男二人は目立つかと思ったが、周囲の目がこちらに向けられることはなく、窓際の二人席に案内される。
頼んだコーヒーが来るまで、互いに口を閉ざして外の景色を見ていた。
雨は勢いを弱めつつあったが、傘を差さずにいられるほどでもなかった。
うまく、目のピントが合わない。通り過ぎてゆく人々がどんな表情を浮かべているか見ようと努力しても、上滑りしていく。
ぼんやりとした残像ばかりが目の前を幾度も交差する。色とりどりの傘が鮮やかに目に焼き付く。
ウェイターはこちらの服装や醸す雰囲気から何かを感じ取ったようで、アイスコーヒーをサーブする声はとても静かだった。音を立てないように伝票をテーブルに置き、一礼して去っていった。
「すみません、いきなりお声がけして、お時間をいただいて。先ほども説明させていただきましたが、僕は遺言状の配送業をしている者です」
野間の手が動き、内ポケットから名刺入れを取りだした。緩慢な動作で夏目の渡した名刺をテーブルに置き、目を落とす。
余計な情報を一切省いたシンプルな名刺を、野間はじっくりと時間をかけて読んでいた。
「夏目、拓未さん」 ぽつりと声が落ちる。意図せず出てしまったような小さい声。
「はい」
「同じ名前だね。漢字は違うけど」
「……はい」
主語のない言葉が、感情の
清潔で明るい病室。消毒液の匂い。歩くと独特の音が鳴る床。引き戸のドア。
開けた先、上半身を起こして穏やかに笑んでいた人。クリーム色のカーテン。開いていた文庫本。
差し出した名刺を、頂戴しますと律儀に受け取った手。名前を見て、彼も発した言葉。
押し寄せる映像を、腹に力を入れて耐えた。
「弊社では、ご依頼人が指定された方へ遺言状の配送をしています」
平坦を意識して声を出す。島崎の隣で聞き、自分でも繰り返した文言を頭でなぞり、口に出してゆく。野間はじっとこちらを見、相槌を打つこともなく話を聞いていた。
一通りの説明を終えてから、口内を潤すべくカップを手に取る。ひとくち口に含んだタイミングで野間が口を開いた。
「それで、俺に?」
「はい。……通夜か葬儀の日に渡してほしいと言付かっています。こちらが契約書の控えです」
契約書をテーブルに滑らせる。まだ文字を書くことが苦ではなかったころの大江の字が目に入る。
「……あいつの字だ」
「……」
「手紙を、俺に遺すつもりだったんだ」
「はい」
「じゃあ、なんで君は俺に伝えてくれなかったの?」
感情が強く絡まって震えた声が、まっすぐに向けられる。
正面の野間を見た。
怒り出しそうで、泣き出しそうな顔をしていた。
「俺のこと聞いてたんでしょ。だったら、教えてくれても良かっただろ。あいつが病気だってことも、遺言を残したがってることも」
「はい」
「なのに、俺に黙ってて、それで、今になって」
「……」
「ふざけんな」
「……」
「
言葉を紡ぐたび、野間のなかで感情が小さな爆発を繰り返していくようだった。
しゃべり続けるうち、彼の目に浮かんでいた涙は頬を伝い、顎先からテーブルに落ちる。
夏目は、傍らに置いた鞄からハンカチを取りだして野間に差し出した。
「これ、使ってください」
「いらない」
「いいから、使ってください」
「……」
「『あいつ、ちょっとした忘れ物が多いから』。大江さん、そう言ってました」
「……」
「このハンカチは、大江さんが僕に預けていったものです。『あのバカ、香典持ってきてもハンカチ忘れてきそうだから』って」
形見分けみたいで嫌かもしれないけど、受け取ってくれたらいいな。
笑みを崩さずにいた大江の顔が浮かぶ。
野間の視線が、差し出されたハンカチに落ちる。
黒色。綿の素材。ワンポイントのブランドロゴ。それらをひとつひとつ確かめるようにして、そっと手に取り、一寸の間を置いて顔を
「こんなの遺さなくたって、一目会えればそれで良かった」
「……」
「会って言ってくれれば良かった。俺の葬式でハンカチ忘れんなよ、って、直接目ぇ見て言ってくれたほうが、ずっと」
「……」
「ずっと、ましだった」
鼻をすする音。手にしたハンカチで何度も目を
「お預かりした手紙です。お受け取りになるなら、サインをお願いします」
契約書の受領者氏名欄にペンで丸をつけ、添える。
表書きのない白い長型封筒は売られたときと同程度の薄さを保っている。入っている便箋がそう多くはないことを語っている。
ゆっくりとした動作で野間はペンを取り、一画一画に時間をかけて署名した。角ばった、無骨で大きな字だった。
「大江から」唐突に野間が口を開いた。「なんて聞いてた?」
「野間さんのことを、ですか」 問い返せば、彼は黙って首肯した。署名を終えた契約書をこちらに押しやってくる。目元は赤い。左手はハンカチを強く握りしめている。
「親友だ、と」正直に話した。「あだ名のことも教えてもらいました。野間太と大江もんって呼ばれていたんだ、って、楽しそうに」
契約書をしまう。封筒を、少しだけ彼の側に押した。
「どうぞ」
「今、ここで読まないといけないわけ。君の前で?」
「いえ、お持ち帰りいただいても構いません」
「内容知ってるんでしょ。俺の反応見たいの?」
「そういうわけではないです」
どこか突っかかる物言いの裏には、整理できず
大事な人を亡くすと、悲しみや怒り、喪失感とはまた別の気持ちが
焦りや後悔、嘆き、無力感、そういったものの欠片を拾い集めて合わせたような、複雑で目の細かい、繊細で傷つきやすいそれ。
母を亡くしてからしばらく、それは夏目の心に棲みついていた。だが、島崎が母からの手紙を持ってきてくれたのをきっかけに、いつの間にか立ち退いていった。
「怖いですよね」 ぽつり、声が漏れる。
「怖い?」
「……僕の母は病気で3月に亡くなったんですが、このサービスを利用して手紙を遺してくれました」
野間は驚いたようにまばたきをした。「……そうなんだ」
「はい。ほんの少しだけ、怖かったんです。遺言状について何も知らされていなかったから、重大な告白だったらどうしよう、と思って。でも、読んでみれば母らしい手紙で、この先の僕の人生を案じてくれていました」
目を合わせる。泣きはらした目。赤くなっている目元。なんとか人前に立てるよう整えられた外見。そのどれもが、数か月前の自分に重なってしまう。
どうにかしてあげたい気持ちがあった。打ちひしがれている心の傷は、まだ血を流し続けている。止血したい。そうもしなければ、彼は傷が治ったふりをしてしまうかもしれない。流れている血を見なかったことにして、この先の大江拓弥がいない世界に向かって歩き始めてしまう。そうしていつの間にか、流れ出た血は水たまりをつくり、歩こうと思っても歩けない日がやってくる。
島崎さんも、あの日の俺を見て同じことを思ったんだろうか?
こちらをからかう
「怖ぇよ」大きな手が、白い封筒を手にする。「怖くて仕方がない。何年も会わないでいて、病気だったのも知らされなかった。何が書かれているか、怖くて仕方ない。読む覚悟なんてすぐに出来ねえよ」
「……」
「でも、ここで読まないで持って帰っても、踏ん切りはつかないと思う」
「……自分の話ばかりで恐縮ですが、僕も母からの手紙は、配達してきた人の前で読みました」
「知ってるんでしょ。大江が何書いたか、全部」
「はい」
「読んで俺がどうなるかも、予想つく?」
「それは、分かりません」
再び、封筒がテーブルに置かれる。野間はじっとそれを見下ろしている。瞬きもせず、そうしていれば中に入っている便箋の字が読み取れるかのように、じっと見つめている。
大江もそうだった。書き終えた便箋を封筒に入れて眺めていた。「念を込めてるんだ」と笑いながら。夏目が受け取って中身を
呪いみたいなもんだよ。
視線を上げ、便箋越しに大江を見たのを覚えている。いつも通りの穏健な笑みを浮かべた彼がそこにいた。「呪い」などという物騒な言葉を彼が口にしたのをすぐには理解できなかった。
なぜ、と問うよりも先に、大江が訥々と話を始めた。
夏目からの視線を避けるように窓の外を向いていた横顔。窓から射しこむ光に反射する眼鏡のフレーム、閉め切った窓の外から聞こえてくる蝉しぐれ。
鮮明に思いだせる生前の姿。
今ごろ、彼は、火葬場で。
野間は意を決したのか、大きく息を吸い、封筒に手をかけた。糊付けされていない口をたわませ、三つ折りの白い便箋を取りだす。
その様子を見てもなお、夏目の脳裏には大江の言葉が再生され続ける。
騒がしくなりつつある喫茶店の室内で向かい合った男二人は、ともに今はもうこの世にいない人物のことを思っている。
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