#28 思う事言わねば腹ふくる




 糸のような細い雨が降っている。熱をはらんだアスファルトに打ちつける雫がもやを生みだし、膝下の高さで白くけぶっている。

 助手席の夏目は言葉少なだった。なにか問えば簡潔な答えがかえってくるが、彼から話題を振ってくることはない。大学生らしいラフな格好に見慣れていたせいだろう、喪服姿の彼は大人びて見えた。

 数か月前にも身にまとった黒に、どんな気持ちで袖を通したのかを考えると自然と島崎の口が開く回数も減った。

 大江拓弥から託された手紙は、夏目の携える小ぶりなバッグに収められている。通夜か葬儀の場で野間に渡してほしいという故人の希望を汲み、夏目が葬儀に参列して野間に渡すことにした。

 会社の経費として香典代を出そうとした島崎を、彼は遮った。

 

 ――俺個人として出させてください。お世話になった先輩なので。


 あまり長い付き合いじゃないですが、と自嘲じみて笑む彼の目を見、島崎はなにも言わず彼の希望通りに手配を進めたのだった。


 予定よりもやや早く斎場周辺に着いた。周辺のコインパーキングに車を停め、いっこうに止む気配のない雨を眺める。


「大丈夫?」


 心配の言葉がするりと出た。

 横から、ふっ、と息が漏れる音がした。笑うとき特有の息の漏れだった。


「二回目ですよ、それ聞くの」

「マジ?」

「朝イチ、顔合わせるなり言ったでしょ。覚えてないんですか」

「覚えてない」

「ジジイだ」

「そうかも。夏目くん、朝飯はまだかのう」

「はいはい、夜になったら食べさせてあげますから」

「朝に食わせろよ」


 交わす言葉のやり取りも、いつもと変わらない。

 喪服を持参して事務所に現れた彼があまりにも普段通りで、かえって不安に駆られたのは覚えている。その流れで心配の言葉をかけたかもしれない。

 夏目は笑って続ける。


「着替えてきたら、今度は『平気?』って聞いたし」

「それは覚えてる」

「次はなんでしょうね。『元気?』とか?」

「元気?」

「さすがに、元気ではないですね」


 間違いなく彼は失意のなかにいるはずだ。強がっているのかもしれないし、実感できていないのかもしれないし、感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。

 目の前の公道を派手な色のスポーツカーが通り過ぎていく。さああ、とタイヤは飛沫を散らせ、さざ波が立った。


「無理してるわけじゃないです」 静かな声色は、島崎を安心させようとしているように感じられた。「しんどいです。普通に。……普通以上に」

「うん」

「でも、出会う前から分かってましたから。こうなることは」

「そうだね」

「寂しいけど、仕事ですし」

「……」

「理解したうえで大江さんと接するのを選んだのは、俺です」


 島崎を納得させるようでいて、自分を納得させるようでもある落ち着いたトーン。淡々とつむがれる言葉。

 おせっかいと知りながらも、思念が口を開かせる。


「仕事だからって、何もかも割り切れるわけじゃないでしょ」

「そうですね」

「自分で選んだ道でも、しんどいときはしんどいもんだよ」

「それも分かってます」


 それも分かってます。

 大江への接し方について話をした際、隣の彼が放った言葉だ。

 あのときは強い口調だったが、今の言葉はいでいた。


「君がいま何かしらの感情を我慢しているんだったら、仕事だからって理由で押しこめるのは良くないと思う」

「……」

「思うんだけど」眼鏡を取り、服の裾でレンズをぬぐう。「『身近な人を亡くしたことなどおくびにも出さず』って、美談みたいに言うじゃん。仕事に没頭して、とか、大舞台を見事に乗り越え、とかいう言葉が続いて」

「ありますね、そういうこと」

「あれ、別に褒められることじゃないと思うんだよね。悲しいなら悲しいってちゃんと言うべきだろ。感情なんて溜めてもロクなことにならない。負の感情は特に。押しとどめたって決壊すれば自分ごとダメになるし、他人がどうこうしてくれるわけじゃない」

「……」

「原型を保ってるうちは滅茶苦茶になってもいくらでも尻拭いできるけど、我慢した挙句に爆発して型ごと吹っ飛んだら元も子もない。不発弾みたいなもんだって」

「……ご自分の経験からですか、それ」

「どうだと思う?」

「言うと思った。……別に、無理はしてないです。我慢はしてるけど」

「うん」拭きあげた眼鏡を眼前にかざす。ぼやけた視界の先、一台の車が斎場に入っていった。

「恥ずかしい話、電話もらった日はさんざん泣いたし、今も気ィ抜いたら泣きそうですよ」

「泣けば?」

「ダメです。泣いた顔で野間さんの前には行けません」

「なんで」

「この仕事をしている以上、俺が先に泣いちゃダメなんです」

「……」

「約束したんです」


 穏やかだが、根を張った言葉だった。島崎は知らぬ間に込めていた肩の力を抜いた。


「そう。じゃ、気をつけて」

「終わったら連絡入れます」

「うん」


 黒い傘と鞄を手に、夏目は助手席のドアを開けた。むっとした雨の匂いが車内に入ってくる。ばさりと傘が開く音がし、次いでドアが閉まる。

 黒に包まれた背を見送る。濡らすまいと鞄を大事に抱え、まっすぐに背をのばして夏目は斎場へ入っていった。


 しばし入り口を見たのち、島崎はおもむろにシートを倒し、目を閉じた。

 打ちつける雨音に耳を傾ける。女性アナウンサーの声が耳奥で響く。


『番組の途中ですが、速報が入りましたのでお伝えします。画面でもお伝えしていますが、女優の畠山桜子さんが今日の午後八時ごろ、東京都内の路上で――……』


 雨音は母と姉を思い出させる。

 あの日は今日など比べものにならないほどの雨だった。バケツをひっくり返したような天気で、車の運転すら躊躇われるほどだった。

 夏目にかけた言葉のひとつひとつを反芻する。

 不発弾のような感情。

 彼は体験からかと問うたが、答えはイエスでもありノーでもある。


 肉親が亡くなった事実を、島崎はうまく心に落としこめずにいる。理解していながらも、どこか実感がない。長らく連絡を取らずにいた期間があり、再会してもどこか微妙な距離感だったせいもある。

 島崎の記憶の一番奥深くに眠る姉は、ビデオレターに映る姿だ。ようやく絵本の内容を理解できる年齢になった弟に宛てて、彼女は自分のお気に入りの絵本を一冊まるまる朗読してみせた。母は彼女を撮影しながら、「上手ねえ」と優しい声をかけていた。

 彼女が選ぶのは大半が童話で、渡米して以降は英語の絵本を読むのが増えた。しかし、ビデオレターが届くまで徐々に期間が空くようになり、やがて途絶えた。

 両親は細々とやり取りをしていたようだが、その気配は感じ取れなかった。成長するにつれ、姉の存在すらおぼろげになった。父から姉の存在を知らされ、映像を見返して思いだした。

 かつて送られてきていた幼い姉を写した写真を見、成長した彼女と年を重ねた母の顔を想像したが、うまく思い描けなかった。

 

 十八歳を迎える年。父が唐突にカメラを向けてきた日があった。読書くらいしか趣味がなかったのにカメラに目覚めたのかと思い問えば彼は首を振り、言葉を選ぶそぶりを見せてから事情を説明した。


『母さんが、知聡がどう成長したのか知りたくなったから写真を送ってくれ、って』

『今まで音沙汰なかったのに? 勝手だなあ』 率直に述べると、父は苦笑した。

『思い立ったら即行動、の人だったから』

『ふうん』


 できるだけたくさん送ってほしいという元妻の要望をかなえるべく、父は数日かけて息子の写真を撮った。勉強している後ろ姿や食卓で食事をする姿、制服姿で玄関ドアに立つ姿やリビングのソファに身を横たえて読書する姿まで。バリエーション豊かに撮り、「聡美の写真も送ってほしい」と書き添えてエアメールを送ったらしい。

 しかし、礼状こそ届いたものの姉の写真が送られてくることはなかった。

 再びぷっつりと連絡は途絶え、ようやく彼女の姿を見たときには彼女は高瀬聡美ではなく畠山桜子として存在していた。

 写真を送ってから丸一年が経っていた。

 細々とした交流が再開したが、スケジュールの合間を縫って会っても周囲の目を警戒しなければならず、「親子水入らず」「家族団らん」といった単語とは程遠いものだった。

 女優デビューから二年経過した2014年、畠山桜子は日本アカデミー賞に名を連ね、島崎は藤原雅之として本を出版した。


 世間一般の姉と弟がする交流とはまるで違っていた。互いにどこか距離を置いており、遠慮もあった。会話を通じて共通点を探っても、数えるほどしか見つからなかった。姉は読書家に育ったのではという島崎の予想は外れたし、弟はきっとスポーツに打ち込み活発に活動するタイプだろうという姉の予想もまた外れた。

 端的に表現すれば、しっくりこない関係。不思議な交流は続き、予想すらしていなかった形で幕切れを迎えた。

 終わりが分かっている関係であればもう少し違ったのだろうかと考えることもあるが、そのたび、仮にそうだとしても関わり方は変わらなかっただろうと結論が出る。どういう経過をたどったとしても自分たちはうまくかみ合わず、しっくりこないままだったに違いない。


 シートを起こす。弔問客が続々と会場に入っていくのが見えた。

 島崎は、斎場の雰囲気があまり好きではない。

 誰もかれもが沈痛な面持ちをしている。悔いなく逝ったのであれば晴れやかな顔で見送っても良いのではないかと思ってしまう。白と黒に囲まれた厳粛な空気では、誰しも言葉少なになる。

 雨音が続く外の景色をしばらく眺め、ゆっくりと車を出した。目的地もなく車を走らせる。

 自分の葬儀では思いきり場違いな音楽を流し、喪服以外のドレスコードを指定して楽しい会にしたい。

 おそらく、父と義母は自分の意見を尊重してくれるはずだ。松川は「こういう人でしたねえ」と言いながら手筈を整える手伝いをしてくれるかもしれない。事務所社長の吉川よしかわ氏など、そのすじの者と見まがう派手なスーツを着て参列しそうだ。夏目はたぶん、根が真面目だから喪服を着てくるだろう。呆れた顔をして自分の遺影を見上げ、「こういうこと、やると思ってました」と呆れた声をあげて見送るに違いない。

 不謹慎にも考えながら、わずかばかりワクワクした気持ちが沸きあがる。残念なのは、この願望が叶うとき彼らの反応を見ることもできなければ、心境を聞くこともできないことだ。

 雨が一段と強くなる。ワイパーのレバーを落とす。ゆっくりとしたスピードで車は進む。

 夏目は野間を見つけただろうか。野間はどんな顔をし、何を思っているだろう。夏目の話によれば、大江と野間はついに言葉を交わすことはなかったという。

 状況を飲み込めぬまま訪れた永訣に、彼の感情は決壊してやいないか。形を保っているだろうか。あの手紙は、彼をどうするのだろう。


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