#27 会うは別れの始め


 大江が手紙を書き終えたそのときは、夕立のさなかだった。休息をとる時間が日増しに増えこそすれ、彼は最後まで自ら筆を執って野間への手紙をしたためた。打ちつける雨音と雷の近づいてくる音が室内に流れていた。

 遠雷の音を耳にしつつ、夏目は遺言書の内容を確認した。細く乱れのある字を目で追うと感情が刺激されるのを感じたが、自らを諫めた先輩の前で再び失態を犯しはしまいとこらえた。事務的な手続きを終え、受け渡しの日を決めた。


「通夜か、葬儀の日がいいな。夏目くんも参列してよ」

「分かりました」


 あまりに明るく大江が言った。素直に頷いた。

 遊びにおいでよ、と誘うのと同じ調子で、彼の発言には一切のためらいがなかった。自分が病を克服したらという希望を持っておらず、それでいて不用意に夏目が傷つくことを心配しているふうだった。

 この人は、もう自分がいない世界のことを考え始めている。

 そう感じ取ってしまう自分がひどく恨めしかった。自分が揺らげば大江はすぐに悟ると理解し、これまで通りを演じた。

 預かりの業務を終えたことは島崎に報告した。ただ、翌日以降も見舞いに足しげく通っていることは言わなかった。彼にまで気を遣われるのは良くないと感じていた。

 大江のもとを訪れるのはだいたいが午前中で、大学は大丈夫なのかと心配されたが、仮に問題があるとしても天秤にかけるまでもないと思っていた。


 訪問時間が他の誰かとかち合わずに済んだ。彼の友人、あるいは同僚、上司と思しき人たちと廊下ですれ違うことはあっても、病室に入ると大江はいつも一人で夏目を出迎えた。互いに訪問の時間を細かく取り決めているわけではなく、大江もその妙に感心しつつも「君は不思議な雰囲気があるからな」と笑った。

 出入りを重ねるうちに、看護師とも顔見知りになり、大江の家族にも顔を覚えられた。大江は夏目のことを「大学の後輩」と紹介し、夏目もその通りにふるまった。遺言配達サービスの業者だと知られるのははばかられた。彼のために何かと心を砕いている家族に、余計な懸念を抱かせたくないという気持ちがあり、大江との関係を単なる「業者と客」として認識されるのも嫌だった。


 会えば大学の話をし、近況報告をし、野間の話を聞いた。夏目は野間についてだいぶ詳しくなっていた。どういう思考の持ち主で、何の教科が好きかといったことから、野間が大江に話したという幼少期の思い出までをつぶさに。体力が衰え、薬の副作用でだるそうにすることもあったが、野間の話をするときの彼の声には、決まって出会った日に感じたような張りがあった。

 預かり業務が完了してから一週間と少し過ぎたころから、大江の体調はさらに悪化した。発熱する日が増え、顔を見に行っても会えない日が続いた。午後になれば解熱しているのではないかと再び足を向けようとしたり、面会時間ぎりぎりまで会いに行くかどうか逡巡もした。いつか訪れる瞬間が今このときに来てしまっているのではないかと不安で仕方なかった。

 やっと面会できるようになって見舞いの品を手に病室に踏み入れ、最後に会った日からだいぶ生気の薄れた顔を見、夏目は彼に掛ける言葉を探した。

 なんといえばいいか、最近身についてきた語彙をフル稼働しても適切な言葉が見つからなかった。彼が普段かけていたメガネはサイドテーブルに置かれている。裸眼の大江はいくぶん幼く見えた。

 島崎だったなら、彼の心のうちに渦巻くものを軽くする何かを言えたのではないかと、息つく間もなく後悔が押し寄せた。けれども、当の大江は言葉もなくたたずむ夏目に笑いかけた。


「夏目くん、本当によく来てくれるね。ありがとう」

「いえ、大江さんとお話するの楽しいし」

「もしかして、俺が死ぬ日を見届けようとしてる?」


 冗談めかした言葉に、力なく首を振る。探しても出なかった言葉が、するりと口から洩れてゆく。


「そんなわけないでしょう。永遠に来なければいいと思ってます」


 その言葉を受けて、大江はすまなそうな表情を作った。「そうだね、ごめん」と詫び、つかの間、目を伏せた。彼が言葉を紡ぐ前にと夏目はまた言葉を探す。水たまりほどの広さしかない語彙の中から、あれこれと探る。

 大江の右手が、ふいに胸のあたりを抑えた。悪い予感がした。両手では足りぬ数を彼と顔を合わせたからこそわかる違和感を覚えた。「大丈夫ですか」という言葉が喉元を走り抜けてゆくよりも先に、彼の眉間に徐々に皺が寄っていく。視界がナースコールを捉える。夏目は既にその使い方を知っていた。看護師を呼ぶ際に、何をどう伝えれば良いのかも、身をもって学んでいた。


「看護師さん、呼びますか」


 刺激しないよう、声に緊迫感が乗らないよう注意した。大江が頷いたのを見、躊躇いなく押す。対応した看護師に症状を抑え、もう片方の手は背をさする。


「いま押しましたから、すぐに来ます」


 大丈夫ですから。大丈夫ですからね。

 発した声は、大江を安心させるというよりは自分に向いていた。

 大江は大きく口を開け、酸素を求めるように浅い呼吸を繰り返す。血の気が引き、顔色がどんどん悪化していく。何度か問いかけるも、反応が鈍くなっていく。

 シーツを握りしめる左手を、左手で握った。力は弱いが、かろうじて握り返してくれた。意識はまだある。安心させようと、言葉を探す。


 バタバタと足音が聞こえ、看護師がもう到着したのかと振り向いた。

 しかし、そこに立っていたのは制服を着た看護師ではなかった。大きな鞄を手に提げた、スーツを着た大柄な男が入り口に立っていた。肩で息をしている。ここまで急いで来たのだろう。


「大江?」


 たった一言。

 何が起きているのか理解できていないような声色。

 それだけで、夏目は人の好い顔をした男の正体を悟った。

 来てくれたんですね、という思いと、来てしまったんですね、という思いがせめぎ合い、無言のまま彼と視線がかち合う。

 げほ、と大江が咳きこむ。我に返り、背をさする。名を繰り返し呼び、どこが痛いのか尋ねても、返ってくる言葉はない。


「大江、大江、どうしたんだよ、なあ」


 ただごとではないことを察した野間が、よたよたと近寄ってくる。あとから私服姿の男性が続いた。彼もまた表情をこわばらせていた。どこか冷静な夏目の頭の一部は、きっとこの男性が大江に内緒で野間を呼び寄せたに違いないと結論付けた。

 次第に大江の背が丸まってゆく。左手から力が抜けてゆく。


「大江、なあ、聞いてないよ、なんで言ってくれなかったの」


 野間がベッドの反対側に回り、大江の肩に触れた。触れてから、その身体の薄さを感じ、継ぐ言葉を見失ったように見えた。私服の男性が「野間、落ち着け」と制止する。

 大江はかつての親友が眼前にいることも理解できていないようだった。苦悶に顔をゆがめていたが、とうとう身体がぐったりと弛緩した。夏目は即座に脇に手を差し込み支えた。

 ざあっと背に悪寒が走る。慌ただしい足音がして、看護師が入ってくる。すぐに場所を空け、手短に状況を話す。既視感があった。


「大江さん、聞こえますか? 胸が苦しいですか?」


 また一人、病室に看護師が入ってくる。夏目は素早く野間と男性に看護師のためにスペースを空けるよう手振りで指示した。男性が野間の腕を引く。彼はずっと大江を見ていた。状況を理解できていないような、眼前の出来事を信じたくないような表情を浮かべていた。

 この部屋だけ時間の流れが倍速になったのではと感じるほど、ばたばたと視界が変化してゆく。病室に入ってくる看護師が増え、医師が到着し、専門用語が飛び交う。大江の身体に繋がれる管が増える。

 看護師に促されて夏目たちは病室を出た。野間は私服の男性に付き添われ、よろよろとした足取りで歩いていく。夏目はしばらくのあいだ待合室に座り、廊下を行き交う人たちを眺めていた。ばたばたと人が移動すれば、それはつまりそういうことなのかもしれない。

 心の準備をすべく、硬いソファに腰掛け、人の動きをじっと見ていた。だが、その場にいるのを許される時間が終わるまで、そのときは訪れなかった。


 幸い、数時間後に大江は持ち直した。

 翌日。雨上がり特有の湿気を孕んだ暑さをまとって病院を訪れると、顔見知りとなった看護師がそっと教えてくれた。ただ、予断を許さない状況が続いているので面会は当分できないだろう、とも言われた。


「厳しいですか」


 彼女に余計な気を遣わせないよう、自分はもう受け入れるつもりでいるといった姿勢で聞いた。小じわの目立つ看護師はじっと夏目の目を見たのちに、そっと視線を外した。


「免疫が、だいぶ落ちてるみたい」

「……そうですか」


 彼女が言わんとしていることを察した。無意識のうちに手を握りしめていた。

 面会が許可されないことを承知で、翌日以降も時間を縫って病院を訪れた。会えずとも、それとなく大江の状況を聞くことはできた。

 日に何度か意識を取り戻すことはあるが、会話が出来る状態ではない。家族が付きっ切りで傍にいる。調子が良ければ問いかけに頷くが、話の内容を理解しているのかは分からない。

 野間のこともたずねてみた。大柄な体躯の男性は来ているかと問うと、彼もまた毎日のように訪ねて来ているという。


 病院を辞去する。病棟を見上げ、大江の病室の窓を探した。太陽光に反射して、窓が開いているのか閉まっているのか、カーテンが引かれているのかどうかも分からなかった。

 野間の声がよみがえる。どうして、なんで、という彼の切実な声色。

 依頼を受けた段階で、どうにかして野間に連絡を取っていたら。野間と会うよう話をしていたら。今更どうしようもない考えばかりが浮かぶ。大江の決意をじかに聞いて理解していたと思っていたのに、いざ野間を目の前にすると悔恨の念が押し寄せてしまった。

 自分が過ちを犯してしまったのではないか、そしてその過ちは決して取り返しのつかないことなのではないか。じわじわと、水が川べりの砂をこそいでいくように考えが心を侵食してゆく。

 面会が叶うところまで持ち直して、二人が対面を果たしてくれたらどんなに良いことだろうと考えもした。そのたびに、なじられたような苦い気持ちがせりあがる。そうなって嬉しいのは当人達ではない。自分が安堵したい、ただそれだけだ。

 何やかんやあったけれど、みんな幸せになりました、めでたしめでたし。そういうハッピーエンドを迎えて安心したいだけで、自分がした決断への責任から逃れたいと切に思っているだけだ。

 感情と考えが交錯する。ぐるぐると思考が渦巻き、結論を出せないまま沈んでは、形を変えて頭を出す。


 とぼとぼと家に帰り、鞄をリビングに放って洋室に足を踏みいれる。窓を開けて換気をし、仏壇に夏の音を聞かせる。蝉の鳴き声。往来を通ってゆく車のエンジン音。どこかの部屋の住人が布団を叩く音。

 この家に住んでから初めて、夏を一人で迎えている。

 母の写真のそばに置いてある花瓶の水を替えた。一輪挿しのそれには今、ヒマワリが挿してある。線香を上げ、手を合わせる。白檀びゃくだんの香りが、部屋に流れ込む夏の空気に溶けていく。


「母さんも悩んだ?」


 遺影に問いかけた。

 母にも、臨終を迎えるその時まで会うことを拒んだ人がいた。かつての夫であり、夏目の実父に当たる男性だ。

 離婚事由は父の不倫で、勤め先の社員と関係を持ち、母が集めた証拠を前に反論するまでもなく離婚に同意したらしかった。

 離婚成立当時の夏目は小学四年生だった。当初は父と月に一回程度会っていたものの、成長するにつれ何となく父のしたことを理解してからは自然と疎遠になった。


 父は離婚後、不倫相手と再婚した。居心地が悪くなった勤め先を変えるも、不運と言うべきか巡り合わせというべきか、転職先が母の姉の夫の兄の勤務先だったというから世の中は奇妙なものだ。伯母の夫の兄―夏目は彼が自分から見てなんと呼称する間柄かいまだに分からないでいる―は父と面識がなく、詮索する真似もしなかった。夏目が中学に上がったころ、「子どもが生まれた」と話していたというので、夏目には一回り年の離れた母親違いの妹か弟がいることになる。

 母はイベントごとに成長した息子の写真を送ったが、それが送り返されて来たこともなければ、父が近況を知らせてきたこともない。かといって養育費の支払いが滞ったこともない。父が映っている写真は、たとえ彼ひとりしか映っていなくとも一枚たりとて処分されなかったし、夏目が父について問えば母はありのままを話した。

 ただ、病気のことは知らせようとしなかった。同じ大学に通い友人の紹介で知り合った二人には共通の友人が複数人いたが、母は知らせないようにしていた。

 万が一お父さんが来ても会わないからね、と夏目にも言い含めていた。理由を問うと、彼女は腕組みをして目を閉じ、うーん、と唸ってから口を開いた。


『もう別の家庭を持ってる人でしょう。いまさら会って、色々考えて欲しくないな。俺のしたことが原因で、とか、あの時ああしていれば、とか。……可哀想がられる、って言うの? 私は私で人生楽しんで、不自由なく生活して、ランドセル背負ってた子が成人するまで立派に子育てしたわけ』

『うん』

『そのさあ、精一杯生きてきたのを、……志半ばで、とか、まだ若いのに、とか、そういう言葉で括ってほしくないかな。うまく言えないけど。分かる?』

『うーん……』

『わかってない顔してるなあ。拓未には分かってほしいんだけどな』

『難しいよ』

『そう? ……いいの、別に。もうさ、思い出補正掛かってんの。いい人だったなー、離婚したけど元気でいるといいなー、って認識だから知る必要もないし。印象が完結してるし。……あ、そうだよ、そう。完結した漫画をさ、なんだかんだあったけど良い話だったなーって考えてたのに、続編が発表された感じ』

『続編って……』


 元夫を漫画にたとえたのには苦笑いせざるをえなかったが、母の中ではまぎれもなく父という存在は過去の一ピースのようだった。

 母の死後に知らせが行ったのだろう、父は通夜には参列した。夏目は参列者の礼に逐一応じていたはずだったが、どうも心はどこかに行っていたようで、父のことをまったく覚えていなかった。親戚から芳名帳を見せられ、小泉こいずみ由雄よしおの名を見つけ、参列していたことを初めて知ったくらいだ。

 こちらに笑いかける母の写真に、言葉を継ぐ。


「後悔しなかった? 好きだった漫画の続編、気にならないタイプだったっけ」


 室内にぬるい風が届く。前髪がなびく。


「やっぱり会っておけばよかった、って、ちょっとでも思わなかった? もしかして、言えなかったりした?」


 線香が燃え尽きるまで、夏目はじっと母の遺影を見ていた。彼女が何を思っていたのかを図ろうとしては、大江や野間の顔がちらついた。

 

 翌朝、スマートフォンのアラームよりずいぶん早い時間に目が覚めた。二度寝を試みようと寝返りを打っても睡魔は一向に訪れず、身体もしっかりと覚醒していた。

 部屋を換気し顔を洗って着替えを済ませる。炊き上がっていた米を仏壇に供えたとき、スマートフォンが着信を告げた。

 ディスプレイに表示された島崎知聡の名に、直感するものがあった。じっと見おろし、息を吸い、出る。


「おはようございます」

『おはよう。悪いね、朝早いのに。寝てた?』

「いえ、起きてました」

『そう。……さっき、源太郎先生から連絡があって』

「はい」

『大江さん、昨晩に容体が急変して』

「はい」

『……明け方に、息を引き取ったそうだ』


 永遠に来なければいいと思ってます。

 そう交わした日から七日目の、早朝のことだった。

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