#26 歳月人を待たず


「俺からの遺言状を読んだら、あいつは夏目くんに怒るだろうな。なんで知らせてくれなかったんだ、とか言いそー」


 大江はどこか楽しそうに言った。細い手がペンを握っている。ペン先が紙に触れるか触れないかのところで、弱々しく動いている。


「だから、まず夏目くんを怒らないようにって文言を入れておかないと」


 手はゆっくりと動く。ゲルインクが文字をつくる。弱い筆跡。鉛筆であったなら、かすんでしまうに違いない力加減。

 ペンを握るのが辛いなら音声でも遺せるという夏目の提案に、大江は首を振り、自ら筆を取ることを選んだ。口を開くと、言いたくなかったことまで言ってしまいそうで怖いのだと零していた。

 二・三文書くたびに休憩を挟まなければいけなかった。手が疲れてしまうのだとすまなそうに言い、休憩中は雑談を持ちかけ、夏目も応じた。彼は、主に野間のことを話した。


 説明や質問をする際、肝心の主語が抜けがち。一から十まで筋道立てて話すことが難しく、三くらいから話す。だから本題に入る前には質問の応酬が入る。ハンカチは持ち歩かないくせにポケットティッシュはいくつも持っている。天気予報の降水確率を、パーセンテージが上がれば上がるほど強い勢いの雨が降るものだと勘違いしていたことがある。

 大江がゆっくりと野間への文章の紡いでいくうちに、夏目は野間治智にずいぶん詳しくなった。一度会ったことがあるのではと錯覚してしまうくらいには、多くの情報を得た。

 遺言状の作成は一日では終わらず、何日かに分けて行われた。大江の体調を危惧し、必ず数日のインターバルを開けた。

 合間に他の依頼をこなす間にも、夏目の頭の中には大江がいた。大学で授業を受けているときや、事務所でひとり読書をしているときにも、病院のベッドの上で大江が何を考えているのかを思っていた。


 そんな日々を過ごすうち、夢に大江が出てきた。

 彼は一人苦しそうに胸を押さえている。ナースコールに手を伸ばすも、寸前で力尽きる。くったりと力の抜けた細い腕が、煌々と月明かりに照らされている。

 あまりの悪夢に飛び起きた。じっとりと汗をかいていて、窓の外から漏れ聞こえてくる蝉の鳴き声が耳障りに感じられた。胸騒ぎのままに授業を放棄して病院に駆けつければ、大江は目を丸くして「あれ、今日だったっけ」と怪訝そうな声を上げた。

 いえ、今日は普通のお見舞いです。そう取り繕ったが、見舞いの品を何も持ってきていないことに気づく。

 彼はこちらの振る舞いから何かを察したようで、「ブドウでも食べる?」と自分宛に贈られたフルーツを差して笑った。


 母を思い出した。

 彼女が徐々に弱っていくのを見るのがつらく、精神的に不安定になって眠れない時期が夏目にはあった。マンションにひとりで帰るたびに、こうしている間に母に何かあったらという気持ちが払拭できず、病院に足を向ける。しかしそれがかえって母を心配させてしまうのではと思い、すごすごと戻る。

 ひどいときは、見舞いを終えてから家と病院を何往復もしたこともある。どうしても不安を抑えきれず、同じ日に何度も病室に顔を出した日もあった。

 母は決まって、穏やかに迎えてくれた。いつも通りに振る舞い、自分宛の見舞いの品を分けてくれ、他愛もない話をした。疲れるほど話し込んでから家に帰ると、いないはずの母が家のどこかにいる気がして、自然と深い眠りに落ちた。

 眼前でおどけてみせる大江の気丈さが、かつての母に重なってゆく。違うのだと心の中で否定すればするほど、視覚や嗅覚が共鳴を見せた。

 母の病室の景色や病院独特の匂いが記憶とだぶついて、急に込み上げてくるものを感じた。鼻がつーんとし、視界が滲んでゆく。


「……すいませんっ」


 詫びて、顔を背ける。手を顔にやる素振りひとつ。それだけでも、察しの良い大江には気づかれたに違いない。言い訳が口をついて出る。


「違うんです、あの」

「うん」

「色々と、思いだして」


 唐突に、「やめてしまいたい」という思いが浮かんだ。

 大江が遺言状を書くところを見たくない。彼が死ぬなんて思いたくないし、彼の死後に彼の書いた手紙を届けることが、自分にはひどく難しいことに思えた。彼のいない世界を想像することが急に難しくなった。あれほど島崎に釘を刺されたというのに、あまり深入りをするなと言われたのに。

 目の前にいる彼と会えなくなる日が来るのが怖い。母のときに感じたのと同じ、未来に対する畏怖が急激に押し寄せてくる。夏目の心をさらわんと、感情が高波と化して打ち寄せてくる。


「大丈夫?」 大江の声は、転んで泣き出した幼子をあやすのと同じ温かさを孕んでいた。

「すいません、みっともないところ、見せて。急に、あの」

「うん?」

「大江さんの、遺言状のこととか、考えだしたら、急に」

「そっか」


 涙を止めようとするのを、大江はしばらく黙って見届けてくれていた。次々に溢れようとする雫を拭い、目を合わせる。

 いつもの優しげな顔ではなく、真面目な表情を浮かべる彼がいた。その表情のまま、大江は口を開いた。


「『つらい思いをさせてごめん』とか『気を遣わせてごめん』って謝れたら俺は楽だけど、そうすれば夏目くんはもっと気に病みそうだから、言わないことにする」

「はい」

「その代わり、社会人の先輩として、ひとつだけ。……その仕事をしている以上、君は泣いちゃダメだよ」

「……はい」

「泣きたくなるのも分かるけど、君が先に泣いたらダメだ」


 諭すような物腰に、こくりと頷いた。

 何よりつらいのは当人なのだと、母のときにも気づいていた。分かっていてもなお、優しさに甘えていたかった。

 母と息子ではない。大江と自分は、依頼人と業者なのだ。自分の立場を胸に刻み付ける。

 泣いていてはいけない。一番つらいのが依頼人なのだと言い聞かせる。泣いてしまったら、依頼人が「かわいそう」になってしまう。


「すみませんでした」深く頭を下げた。大江は笑って手を振る。

「俺が新入社員だったころは、もっと怒られるようなこと沢山したよ。気にすることないって」

「……」

「おーよしよし、夏目くんは頑張ってますねえー」


 おどけた彼が、ひときわ高い声を作って乱雑に自分の頭を撫でる。

 その手の細さと低めの温度を感じて、夏目はまた込み上げてくるものを律した。その手に力が入っていないのがまざまざと感じられ、そう遠くないうちに訪れるであろう彼との永遠の離別を、強く意識せずにはいられなかった。


 遺言状を書く準備は双方出来ていなかったため、雑談を交わした。野間の話は尽きることがなかったが、大江は現在の彼が何をしているかを予想した。

「結婚を考える相手がいたらいいな」「部屋を綺麗に保っていればいいんだけど」「会社の後輩にナメられていないか心配だ」といった言葉を発するたびに、大江は窓の外に目をやった。

 彼もまた、胸中に押し寄せる感情の波に攫われないようにと、理性の岩にしがみついているようだった。


 病院を後にし、そのまま事務所に向かった。コーヒーを淹れ、読みかけの本を一冊、最後まで読んだ。何もしていないと大江のことを考えてしまいそうで、けれども家に帰れば母のことを思い出しそうだった。スマートフォンをるも、流れてくる文字や情報は上滑りするばかりで、ちっとも入ってこない。

 自分の脳内を活字で埋めてしまいたい。物語の世界に没入したい。もう一冊本を持ってこなかったのを悔やみながら、何か読めるものはないか、島崎が置いていった本はないかと事務所の中を探し回った。

 洋室に置いてあるのは会社経営に関する小難しい書類や資料ばかりだったものの、唯一自分の欲求を満たしてくれそうだった「現代冠婚葬祭辞典」を手にリビングに戻り、しばらく読んでいた。新しい知識が蓄積され脳に良い刺激をもたらしたが、物足りなさは残る。

 時計を仰ぐ。七時半を指していた。普段の自分だったら、とっくに帰宅している時間だ。島崎に本を借りればいいのだが、訪れるのは気が引けた。このところ多忙なのは分かっていた。塩田泉の店まで行き何か読ませてもらおうかと腰を浮かせたところで、玄関の施錠が解かれる音がした。


「あれ、今日は遅くまでいるね」

「……お疲れさまです」


 ひょっこりと顔を出した島崎は、部屋着姿だった。小さく会釈をする。


「島崎さんこそ、どうしたんですか」

「小腹がすいたから、お菓子でも拝借しようと」

「忙しいんですか」

「どう思う?」

「……忙しそう」

「まあ、それなりにねー」


 島崎はキッチンの棚から菓子袋をいくつか取りだした。楕円形の深皿をふたつ取り、菓子を適当に盛る。リビングに入ってローテーブルに片方の皿を置いた。ちらりと夏目が手にしている辞典に目をやる。


「冠婚葬祭の予定でもあるの?」

「いえ。手持ちの本を読み切っちゃって、事務部屋を漁ったらこれがあったから」

「インターホン鳴らせばいいのに。本なら腐るほどあるよ、こっちの部屋」

「忙しいって言ったじゃないですか」

「本貸すのにそう時間掛けないでしょ。な」


 皿を片手に島崎は手招きし、隣室に戻っていく。辞典を閉じて後に続いた。

 島崎宅の玄関で靴を脱いでいる間に、寝室兼作業部屋から声が届く。


「どんな本読みたい? 自分で選ぶ?」

 数秒考え、部屋に向かって返す。「選んでほしいです。希望が湧くような感じのやつで」

「ざっくりしてんなあ」呆れ混じりの笑い声。「最近は何読んだ?」


 いくつかのタイトルを述べる。入ってもいいですか、と了承を取ってから室内に入った。デスク周辺は相変わらず本や資料が乱雑に積まれている。洗濯物がベッドに放り投げられていた。乾燥機から出したての衣類がかもす、やわらかな匂いが室内にほのかに漂っている。

 デスク前の壁には小さめのホワイトボードが吊るされ、何かのスケジュールが書き込まれている。その隣にはコルクボードがあり、資料やメモ書き、付箋などがびっしりと貼り付けられていた。


「修羅場って感じですね」

「綺麗なほうだよ、これでも」

「今日、事務所泊まってもいいですか」

「いいけど。家出?」

「仏壇の母と大喧嘩しまして」

「そりゃ大変だ、早めに謝ったほうがいい」


 相槌を打ち、島崎は一冊の本を棚から引き抜いた。それからリビングに移動し、同じように本棚から数冊を選び、ローテーブルに並べ、順番を入れ替える。納得したように頷き、積みあげた本を夏目のほうに押し出した。


「上から読むといい」

「ありがとうございます」


 一番上にある文庫本を手に取る。夏目でも知っている有名な作家の本だった。雲と砂浜が印象的な装丁。裏表紙のあらすじを読む。短編集らしい。最後に「今日を生きることの意味を知る物語」とある。

 二冊目は、海外の作家の本だった。原題からして、フランスの作家か。表紙には蝶が舞っており、邦題にも含まれている。綺麗な題だと感じた。


「夕飯は? 食べた?」

「いえ」

「奢るよ。出前取ろう。叔母さんとこのホットドッグが食べたい」

「配達してるんですか?」

「してない。俺は君の食事代を負担する。その代わり、君が配達員になる」

「なるほど」

「嫌なら普通の出前にするけど、どうする?」

「乗ります。オムライスが食べたい気分」


 島崎は手早く塩田泉に連絡を取り、注文を済ませた。指定された時間に合わせてマンションを出る。

 病院の大江はどんな食事を摂っているのか、そもそも食事を摂れる状態なのかが気になり、その考えを振り払うように時おり首を振って歩いた。途中、コンビニに寄って泊まるのに必要なものを買い足す。

 店に着くと塩田薫が出迎えてくれた。ホットドッグとオムライス、サラダ、そして島崎の夜食用のサンドイッチを受け取る。試作品だ、とタッパーにたっぷり入った鶏手羽元のハニーレモン煮、形がいびつなジンジャークッキーも渡される。預かった現金で支払いを済ませ、領収証をもらう。店は繁盛していて、ほとんどの席が埋まっていた。塩田泉は接客をしていたが、去り際にこちらに手を振ってくれた。

 じっとりと汗ばむほどの暑さが残る夜だった。足早にマンションに戻る。島崎は事務所のテーブルにカトラリーをセッティングしており、松川と何か話をしていた。


「どうも、ウーバーイーツです」

「ごくろうさま」

「夏目さん、バイトの掛け持ちですか」

「そんなとこです」


 夏目と島崎が塩田夫妻の料理に舌鼓を打っているあいだ、松川はノートパソコンを取りだし作業をしていた。


「松川さんも食べたら?」島崎が勧める。「多めに作ってもらったみたいだし」

「お気遣いありがとうございます。あいにく先ほどまで社長と食事をしてまして、お腹いっぱいなんです。すみません」

 頬張ったオムライスを飲み込んでから問う。「何食べたんですか」

「寿司です」

「回らないやつだ」

「ご名答」

「社長さんってどんな人ですか? 島崎さんは会ったことあります?」

「ある。芸能事務所の社長っていうよりは、その筋の人っぽい」

「言えてますねえ。スキンヘッドですからねえ」

「ふうん」

「食道楽で懐の広い人ですから、しょっちゅう社員を食事に連れて行って奢ってくれます」

「人のお金で食べるご飯ほど美味しいものはないですよね」

「金出した奴の前でその話する?」


 食事のあと、松川は小一時間ほど島崎と打ち合わせをしてから帰っていった。島崎も自室に引き上げ、夏目は借りた本を読み始める。

 三年後に地球が滅亡することが明らかになっている設定で、ある都市の団地に住む人々をめぐる話は面白かった。読み進めるなかで、一人の登場人物のセリフが夏目の胸にすっと入り込んだ。


『明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?』

『あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なんですか?』


 言葉を咀嚼する。大江の顔が脳裏に浮かんだ。

 彼が残された時間でどう生きるか、彼の言葉を、どう野間に伝えるか。

 夏目は目を閉じ、じっと考えた。自分に課せられた仕事をまっとうするために明日をどう生きるか、静かな部屋でじっと考え続けた。

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