#25 後の祭り



「あいつの彼女が家を掃除していることがあって。あいつの部屋とか、リビングを。礼を言うと、『ううん、いつものことだし』って。その子も尽くすタイプで、いろいろやってあげるうち、どんどん当たり前になってて。あいつが帰ってきて、綺麗になった部屋を見てもなんも言わなくて。礼のひとつも」

「……」

「『ありがとうくらい言え』って言ったら、ごめんごめん、って笑って、取ってつけたように礼を言ってた。彼女も笑っていたから、まあ二人が良いのならそれでいいか、なんて納得した。……俺が家事をしてもあいつは礼のひとつも言わなくなったな、って部屋に戻って気づいた。当たり前にやっていたから気づかなかった」


 大江は細い指で口を覆った。気分が悪いのかと腰を上げると、もう一方の手で制される。眼鏡の奥の瞳は、わずかに苦痛を浮かべていた。


「ごめん、気を遣わせたね。具合が悪いんじゃないよ」


 良いわけでもないけど。

 笑えない冗談を言い、大江は口にやっていた手を腿の上に落とす。取り繕うかのように、彼は明るい声をあげた。


「あーっ、思い出してもイライラするっ」

 野間さんにですか。

 ご自分にですか。

 問おうとしてやめる。彼の目が答えを宿していた。

「引っ掛かりを感じると、人間ダメだね。どんどん目につく。夕飯を余分に作るのも、余らせている食材を使いきるのも、洗濯物を取りこんで畳むのも排水口の掃除をするのも全部、俺がやるのが当たり前。挙句、リビングがあいつの物で散らかっていたから注意したら、なんて言ったと思う? 『吉野に掃除させるからいいよ』って。……あ、吉野っていうのがあいつの彼女ね。それで、俺が爆発。もう、自分でも驚くくらいキレた。お前、吉野のことなんだと思ってんだよ、って」


 当時の怒りを恥じているのか、顔を見られたくないのか、大江の手はまた顔に添えられた。


 ――人をものみたいに言うの、やめなさい。


 母の鋭い声がよみがえった。

 高校生のころ、バスケ部に関する話をしていたとき。話の流れで夏目が「後輩にやらせる」だか「マネージャーにやらせる」といった発言をした。瞬間、母はきっと表情を変え、鋭い声で叱った。

 人をものみたいに言うの、やめなさい。

 反抗期真っ盛りだった夏目だったが、いかにその言葉が傲慢さに溢れているかを理解できないほど幼くはなかった。

 しかし、野間治智はるともは違ったらしかった。彼にとってはなんの気なしの一言で、他意も含みもないものだった。

 大江は嘆息した。細い息が、指のあいだから漏れる。


「けどね、不発だったんだよね」

「不発?」

「あいつはさあ、なに言ってんのお前、って感じにキョトンとした顔しててさあ。なんで俺が爆発したのかもよく分かってない顔で、自分が失礼なことを言ってることにも気づいてなくて」

 大江は顔を覆う手に力をこめた。「すげえ怖くなった」

「なんで」思わず口をついて出た。「大江さんは悪くないでしょう」

 夏目の言葉に大江は首を振る。

「俺はさあ、あいつを育ててやったぜ、みたいな自惚れがあったんだよ。俺が面倒を見てやってあいつは一人前、みたいに胸張って、何年も」大江の言葉に、だんだんと力がこもってゆく。「けど、俺が自分の居場所のために勝手に世話して、あいつのなかにあった善性を、……なにかしてもらったら『ありがとう』を言うだとか、人に迷惑をかけないように生活するだとか、そういったものを根こそぎ枯らしちまったんじゃないかと思った。目の前にいた野間が、言葉の通じない化け物みたいに見えた。その化け物にずっと餌をやっていたのは俺で」


 適度に突きはなせば良かったんだ。

 なにからなにまで面倒を見るなんてしなければ良かった。

 どんどん与えられる環境に慣れて、男社会の空気に浸ったあいつは、彼女がいて一人前ってクソみてえな空気で、だんだん吉野のことを自分専属のメイドみたいに錯覚したのかもしれない。

 

 胸中に深く根をはる思いを吐露し、大江は息を吐いた。

 

「社会人になって、ようやく進路が分かれて、住む場所も離れて」 ぽつりと、ささやきが落ちる。「あいつは吉野と別れて、老舗の企業の営業マンになって、ちょいちょい連絡をよこしてきた。俺が爆発したあとあいつは謝ってきたけど、なにを悪いかも分かっていない謝罪を受ける気にならなくて、最後まで気まずいまま別れた」


 いま、お前の会社の近くにいるけど、飯行かない?

 久々に飲みたい気分なんだけど、今度の金曜はどう?

 野球部の先輩が合コン開くんだって。大江は来る?

 大江もん、プレゼンの準備が上手くいかないよ~。助けて~。


 悪い、出張で大阪にいる。また今度。

 せっかく誘ってもらったところ悪いけど、先約がある。

 連絡はもらった。私用で行けない。先輩方によろしく。

 そっちの会社の同期のほうがいい助言できるだろ。俺には畑違いの分野だし。


 大江が断りの文句を幾度送っても、野間は連絡を取ってきた。

 断り切れずに三度に一度は誘いに乗った。なるべく早く切りあげるようにした。


「あからさまだと思われないように細心の注意を払った。ずるいよねえ」


 苦笑いをする彼に、どんな顔をすればいいか分からなかった。


「逃げたくて仕方なかった。一緒にいる間に、あいつが失望させるんじゃないかってずっと気になってた。目の当りにしたら俺は自分を責めると思ったし、罪悪感に耐えられそうになかった」


 大江は顔をおおう手を外した。そっと夏目のほうを向いた。

 眼鏡ごしの彼は、初対面のときの柔らかな印象のまま、柔らかい声色で言う。


「俺は野間に、出会ったころのまんま、抜けてるけど誰にでも愛される男でいて欲しくて、それがあいつの『正解』だと思ってて、……だから、そうじゃない姿を見て落胆したくなかったし、あいつが自分の理想と少しでも違ったときに失望しちまうのが嫌で」

「……」

「結局、自分自分って、自分のことばっかりだったな。……ある日、野間から『話がある』って呼びだされた。ていよく逃げ回ってもしつこく予定を確認してくるから会いに行って、それが、あいつに会った最後」

「話って、なんだったんですか」

「想像した通りのこと」大江は自嘲じみた笑みを浮かべる。「なんか悪いことしたか、ここ一年ずっと俺のこと避けてるよな、あのことをまだ怒ってるのか」


 頬杖をつき、ため息が彼の口から落ちる。

 さまざまな感情の交じった吐息は、深く、それでいて細かった。


「勝手に俺が離れていったと思って、野間は自分のなかに非を見つけてしんどい思いをしてた。ひどいことをしたと思って正直に話した。距離を置きたい、っていうふうに」

「野間さんは、なんて?」

「ショックは受けていた。俺の態度が変わらないのを悟ったら引いてくれた。……『お前が徐々に礼儀知らずで横暴になりつつあった責任を感じてる』なんて言われて、よく受けとめたと思う。きちんと謝ってもくれた」

「……」

「どうしても、いままで通りの関係に戻りたくなくってさ。性懲りもなく勝手に世話を焼いて、あいつを出来の悪いのび太くんに仕立てあげて満足しそうだし、俺があいつに依存していたのも分かったから、自立する機会をくれ、って伝えた。野間も人が良いからさ。俺も自立する、もうお前のことがっかりさせないから、なんて言って」


 それから、もう四年くらいか。

 最初のうちは誕生日にだけ連絡したけど、忙しいのにかまけて、いつからか送らなくなったな。

 野間の近況は、Facebookでなんとなく。転職して、いまは仙台にいるみたい。

 病名聞いたとき、どんだけ恨まれてもいいから、最後まで会わないほうがいいんじゃないか、って思った。

 高校と大学の友達には、とにかく秘密にしてくれ、って言ってある。

 たぶんまだ、あいつは知らないんじゃない? 知ってて訪ねてこないだけかもしれないけどさ。

 最後まで嘘ついて、顔合わせないのは不誠実だと思う。かといって、会えるかって言われると。

 じゃあ手紙でメッセージを残そうって結論出したわけ。情報収集していたら、夏目くんのとこのサービスを知って、ぴったりじゃん、って。

 けっきょく、全部俺のエゴだよね。あいつの感情なんて丸無視。

 あのお人好しなら許してくれるっていう甘えた考えもあるけど。

 俺のワガママで突き放したくせに、最後まで俺は俺のことしか考えてない。

 だからいま、こんな…………いや、なんでもない。


 なにか言いかけて、それを言えば夏目に気を遣わせると思ったのか大江は最後まで口にしはしなかった。夏目も追及はしなかった。

 再び口を開かせれば、彼の言葉は彼自身をひどく傷つけると思った。


「そんなところで、いまはもう連絡を取っていない野間に、手紙を残したい」

「……かしこまりました」


 深く話を掘り下げることはせず、遺言状についての注意を伝えた。

 内容は夏目も見るということ、相続や金銭に関する話題に触れているものはあずかりが出来ないこと。貸金庫で保管し、弁護士経由で依頼人の死亡が確認されてから起算して一定期間後に、受取人に配達されること。受取人は受け取り拒否をすることもあるし、受け取って封を開けない場合もあること。

 それらすべてに大江は丁寧にうなずき、ひとつひとつを理解し、デリバリーウィルの定める約款にサインをし、次いで契約書の必要事項を書き記していった。

 握力が落ちているせいで、彼の字はかすれそうなほど薄かった。

 野間治智はるともとの続柄には、「知人」と記された。


「手紙、今度会ったときでいいかな」

「はい。形式は問いません。手書きでも、打ちこんだ文章でも」


 大江は更に三日後の日程を提示した。

 夏目はそれを了承し、仕事の話はそこで終わった。


「夏目くんは聞き上手だね」手帳に次の約束を書きつけた大江が緩くんだ。

「いえ、大江さんが話し上手なだけです」

「違うよ。君を見ているとポロポロ言葉が出てくる気がする。君になら自分の弱点を晒せる気になる。不思議だね」

「……ありがとうございます」


 褒め言葉かどうか分からなかったが、礼を言った。

 大江の内情や秘めた感情を聞くことで、夏目は彼を他人だとは到底思えなくなっていた。だからこそ彼の言葉は嬉しく感じられたし、心苦しい気持ちも沸いた。

 一時的に預かっていた子猫に情が湧いたときのような。除草剤を撒く場所で、綺麗な花が咲いていたのを見たときのような。


 大江の言葉を聞いてもなお、夏目は彼に、野間と会って話をした方が良いのではと提案したくてたまらなかった。

 彼の抱いている罪悪感はその生育環境ゆえに過剰に抱いているものかもしれないし、野間は彼に感謝しているとも感じられた。

 それでいて、「会えばいいのに」という提案を口にすることは難しかった。蚊帳の外にいる自分がそう伝えることで大江を傷つけ、彼の自尊心を踏みつけにし、選択を否定するのではないかと思った。

 なにより、彼という人の感情に波をたて、怒りを買いたくなかった。

 彼のなかで、「聞き上手の大学の後輩」というポジションでいたかった。


 しかし、大江は夏目の考えていることを見透かすかのように、ごく自然に告げた。

「会えばいいのに、って思ってるだろ?」

「……それは、」

「あ、別に責めてるわけじゃなくて。俺だったら、こんな話聞いたら『ウダウダ言ってねーで会って話せよ、死んだら元も子もねえのに』って思うから」

「えっと」答えに詰まる。彼はにこりと笑う。

「気の利いたこと、言おうとしてるだろ。ありがとう。ごめんね、気を遣わせて」

「すいません、俺、こういうとき、なにを言えばいいか分からない」

「正直だなあ。でも、それがかえって良いと思う」


 眉尻を下げて恐縮する夏目は、継ぐ言葉を見つけようとして視線をさまよわせる。彼の気持ちを和らげるだけの言葉は頭になくて、ああもっと語彙力を身につけていれば良かったと後悔する。

 島崎のように、海原のように広い言葉の海から、ぴたりと彼を救い納得させる一語を見つけられたらいいのに。


「会ったらさあ」 大江はひとりごちた。「会ったら、すがりそう」

「……野間さんに、ですか」

「それもそうだし、なんつーの? 生きることそのものに。あいつにまだ、俺の世話が必要な部分を勝手に見出して、こいつがいるなら死ねない! とか思いそう。……あいつを理由にするのはもうやめたいのに、自分の決心が揺らぐ気がする」


 契約書の控えをクリアファイルに入れ、彼はじっと、自らの書いた野間治智の名を見つめた。


「会いたい。死ぬほど会いたい」


 じじじじ。蝉が大声で鳴いている。

 ごうごうと、近くを飛行機が飛んでいる。

 きゃあきゃあと、遠くで子どものはしゃぐ声がする。


「死ぬほど会いたい。だから、死ぬまで会わない」

 

 空気に溶けこむように発せられた大江の声は、いつまでも夏目の耳に残る。

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