#24 朱に交われば赤くなる
どうして言ってないんですか。
喉から出かかったフレーズは、大江の継いだ言葉にかき消される。
「実は、もう長いこと連絡を取ってなくて」
懺悔するような口ぶりだった。わずかに目を伏せ、夏目の視線から逃れるように窓の外を見るふりをしている。
照りつける日差しをまぶしがって目を細めた彼を見、夏目は窓際に歩みより薄いカーテンを引いた。
「ありがとう」
「喧嘩したんですか、野間さんと」カーテンでやや暗くなった彼の顔を見つめる。
「喧嘩、ね」噛んで含むように大江は復唱した。「喧嘩というよりは、俺の
目の前の彼が感情的になる姿を、夏目はうまく想像できなかった。
どちらかというと、野間の方が感情的なタイプだと感じていた。会ったこともないくせに。
「男子校だった、って言ったでしょ。高校」
「はい」
「まあ、なんていうか、その」わずかに大江は口ごもる。悪いと分かっていることを告白する前のようなためらいを見せる。「……順番に話そうかな」
「大江さんの話しやすいように」
椅子に腰かける。かしこまって座ると彼が緊張すると思って、失礼だと思われない自然さで足を放り出し、リラックスした様子を作った。
大江はぽつりと言葉を置いた。
「男だから、っていう期待がずっとあった」
「お
「確かに祖父が一番期待していただろうけど、なんとなく、家族全体からも。それと、親戚からも。大江家の男手なんだから、って感じに。俺は俺なりにしっかりした人間でいようとしていて、……ベタだけど学級委員やったり、登校班の班長やったりさ。クラスにあまりなじめない子がいたら声をかけて、突飛な行動を取る子がいたらフォローして」
学校生活を送るうちに、一人は出会う、「面倒見がいい」と形容される子ども。
弟妹がいて慣れていたり、褒めてもらいたかったり、優秀な自分を示したかったり、特に理由はなかったり、なんとなくそういう役割を押し付けられたり。
彼ら彼女らの目的は様々であれ、どこにでもいた。どこででも見た。
「そういうキャラで通していたから、高校に入って野間と会ったとき、こういう奴がいるなら俺がしっかりしないと、って、変に気負った。高校生にもなって自分の面倒も見れないあいつへの呆れもあった。……これで自分の存在意義が証明できるって感じていた部分もある」
「存在意義?」
「あるでしょ、高校入ってすぐに。自分はどういうキャラで、クラスの中でどういう位置づけになるかを探ってる時期が」
いくつもの中学から寄せ集まった子どもたち。なんでもない話をするなかで、その返答や挙動から相手の人となりを探り、自分の友達になりうる存在か、自分より上か下かを無意識に品定めする時期。
たいていは梅雨入り前までにクラス内の立ち位置は固定され、それが最低でも三月まで続く。夏目にも覚えがあった。
「ありましたね、そんなこと」
「だろ? 俺は早々に『野間の面倒見役』っていうポジションを見つけて、そこを安寧の地にしたわけ。面倒を見ているうちに、いつの間にか大江もんなんてあだ名がついた。これで一安心、って思いながら、どこかで野間が羨ましかった」
「自由にふるまっているから?」
大江は小さく首を振った。「努力しなくても、たいがいのものは手に入るから」
どういうことかと夏目は目をしばたたかせた。大江はこちらを見、そう思うのは無理もないといった苦笑を浮かべる。
「野間の話はあんまりしていなかったね。あいつは末っ子長男で、お姉さんたちとは年も離れていて、すごく可愛がられてた。デカい図体してるのに、はるくん、って呼ばれていて。……何度か家に遊びにいくと、その家のパワーバランスがだいたい分かるでしょ。野間の家は誰かがなにかを買ってくると、あいつにまず選択権が行くんだ。ケーキでもお菓子でも、土産ものでも。……はるくんどれがいい? 先に選んでいいよ、って」
口ぶりから、夏目は大江が弟妹に先に選ばせ、母が好きそうなものを残し、余ったなかから自分のぶんをそっと取る姿を容易に想像できた。
長男というのはそういうものなのだろうか。当然のように真っ先に選ぶ権利を与えられていた一人っ子の自分には分からない世界だった。
夏目の様子を気にせず、大江は続ける。
「そういう環境だったからか、あいつは甘え上手で、ときどきすごく駄々をこねて、デカい図体の男がわざとジタバタしてみせるもんだから友達もみんな笑ってた。でも、だいたいは希望を叶えてやってた。仕方ねえなあこいつは、って感じに。野間も野間で、絶対に無理な要求はしなかった。ちゃっかりしていて、人懐こくて、甘え上手で、どこか抜けていて目が離せない。なにかと人目を引くし、みんなどこかで野間のことを気にかけている」
大江はそこで言葉を区切り、一呼吸置いてから続けた。
「しょうがねえなあ、って言いながら気にかけてもらえる存在が羨ましかった。俺はほかの誰かを気にかけるばかりで、心配の対象にはなれなかったから」
「……構ってほしい、的な?」
「微妙に違うかな。なんて言えばいいんだろう。気にかけて欲しかった、とか? 構わなくていいんだ、心配の視界に入れて欲しかった」
自嘲ぎみに笑う姿が痛々しく見えて、そう感じてしまうことにわずかな罪悪感が芽生えた。
「羨ましいし、嫉妬するし、自分が嫌にもなる。自主練を黙々とこなす俺より、やりたくないとか辛いとか零しながらやってるあいつのが監督や先輩の覚えがめでたくて、余計に。……憎みきれれば良かったのに、嫌いになれるほど悪いヤツでもない。俺のことを頼ってくれるし、頼られれば嬉しい。一緒にいると馬鹿みたいに笑いあえて楽しい。めちゃくちゃ楽しい毎日のなかで、ときどき、死にたくなるほど辛い感情が顔をだした。けど、自尊心を削ってあいつの近くにいることを選んだ」
自分がもし、芽の出ない小説家志望だったら。
夏目は一瞬、自らの境遇を彼に重ね合わせようとするあまりに、突飛すぎる考えを浮かべた。
どれだけ書いてもチャンスに恵まれない自分が、島崎と出会ってこの仕事をしていたら、今のような態度で接することが出来るのか。
「どうしてここまでやってるのに、なんで俺ばっかり、って思えば思うほど、あいつの面倒を見るのがしんどかった。あいつは変なところで犬みたいに敏感で、少しでも俺が素っ気ない態度を取ると、なんかあった? って、邪気のない顔を向けてくる。
そうされると、俺の了見が狭いばかりに八つ当たりしている気分になる。なんでもねえよ、それより課題やったのかよ、なんて答えて……友達で、羨望の的で、嫉妬の対象で。そういう感情を持ったまま、高校の三年間を過ごした」
「喧嘩、したことありますか?」 不意に気になってたずねた。大江は頷く。
「あるよ。数えきれないくらい。大半はあいつのだらしなさに俺がブチ切れてた」
そして、その声は懐かしむような声色に変わる。「最初は、あいつは殊勝な言い訳並べるんだよ。でも俺が不機嫌になっていくと、こっちの機嫌を取ろうとして、それがあんまり
情景が思い浮かんだ。腕を組んで眉根をよせる大江のもとに、
たどたどしく言葉を紡いで野間が謝罪すると、仕方ないような顔を浮かべて大江が許す姿も。
眼前の彼をちらりと見た。彼が水分補給をするのを、じっと見ていた。ゆっくりとした動作と、骨が浮きあがるほど細い上腕は見ないようにした。
自分が癇癪を起こしたと言った。
野間が謝りにくるのを待っているのだろうか。
彼が謝罪すべく腰をあげたとき、大江はどこにいるのだろう。
「高校三年間、厳しい上下関係で、男ばっかりのなかにいた」唇を湿らせ、大江は再び話しだす。「今だったら問題になりそうなシゴキじみた暴力もあったし、からかいじゃ済まないレベルの言葉も飛び交った。野球部は強豪だったから、自然とスクールカーストってやつも上位だった。一・二年の頃は上級生から受けたストレスをクラスで発散する。三年になれば、自然と後輩から持ち上げられる」
自分の高校の野球部を思い出した。あまり強くはなかったが、全員が頭を丸めていた。上級生がクラスに来れば頭を下げて迎え、下級生と廊下ですれ違えば逆に頭を下げられる。
あまり上下関係のない、ゆるい雰囲気のなかでバスケットボールに打ちこんでいた自分からすれば、とても奇異なものに見えた。
「体育会系のノリに自分が染まっているのに気づいても、なかなか染み込んだのが抜けなくて。こっちはふざけて叩いたつもりでも、向こうが嫌そうな顔をしたことがあって。夏目くんには通じるかなあ、体育会系のノリ」
「下ネタとか、いじりとか、からかいとか?」
「そう。先輩が帰るまで帰れないとか、先輩の言うことは絶対、とか、風邪くらいで練習休むんじゃねえ、とか。ありったけの理不尽と暴力性を煮詰めた感じ」
「的確な表現ですね」
「あの頃の先輩にかかれば、今の俺は『ちゃんと鍛えてないから病気になったんだ』になると思う。そんで、あの頃の俺だったら真に受けて反省してた」
そういう空気を、ずっと吸ってた。
大江はぽつりとこぼした。
表情が憂いを帯びていて、それが野間との
「その空気のせいで?」恐る恐る口に出す。彼は顎を引いた。
「家賃を抑えたくて、大学では二人で相談してルームシェアした。理系の学部で女子は少なかったし、野球部に入ったから周りは男ばかり。高校の空気感がずっと続いていた。高校と違っていたのは、彼女がいるヤツは優れている、っていう認識」
「あるあるですね」
「夏目くんは?」
「残念ながら、いまのところは」
過去にはいたが、母の病気が発覚してからそれどころではなくなった。しかし、母の話題に触れるのが躊躇われ、最低限の返事にとどめる。
口にしてから、なにが「残念」なのだろう、と我ながら疑問に思った。
「俺も野間も彼女が出来た。俺は先輩に連れて行かれた飲み会で、そういうノリが好きそうな子と。その子のあとも二・三人と付き合ったけれど、どの子とも長続きしなくってさ。振られる理由もいろいろで、構ってくれないとか、お母さんみたいとか、本当のあなたが分からない、とか」
「別れを切りだされるほうだったんですか」
「恥ずかしながら、全部。飲み会のノリで知りあって、押せ押せで交際までこぎ着けて、長ければ一年、短ければ数カ月。……俺がとっかえひっかえしているあいだ、野間はずっと一人の子と順調に付き合ってた。友達の紹介だかで知り合った子。その姿を見てたら、高校時代の感情がぶり返した。なんでこいつはうまくいくんだろう、って。大学でも相変わらず俺はあいつの面倒を見ていて、ルームシェアしてからは家でも。母親かよってくらいに。勝手にね」
「勝手に」 大江の言葉を繰り返す。最後のその一言を、彼は吐き出すように放ったていた。
「そう、勝手に。頼まれてもいないのに、自分のポジションを確立させるために。おかげで大学でも大江もんのままだった。野間は野間太のまま。あいつは俺よりもずっとうまく生きているのに、俺はあいつを手のかかる子どもみたいに扱って、それでいて自分よりうまく立ち回る姿にムカついて、それで」
卒業間近に、爆発した。
大江は小さくこぼした。細い声だった。
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