#23 割れ鍋に綴じ蓋



「どういう人だった?」


 事務所に戻れば、島崎と松川がソファで向かい合わせに座っていた。

 ローテーブルには何枚かの紙が広げられている。部外者が見てはいけない類のものだと察した夏目はキッチンに立ち、自分のぶんのコーヒーを淹れることに専念した。


 話した内容をかいつまんで説明する。同じ大学の先輩だったというくだりで松川は興味深そうに眉を上げた。彼に聞かせていい話だったのかふと疑問に思ったものの、島崎は気にするそぶりを見せない。

 あらかたの話を終えたころにはキッチンにはかぐわしい香りが立ちのぼり、夏目専用となった、黒地に白色で猫があしらわれているマグカップにはなみなみと黒い液体が注がれていた。

 ひとくち含み、キリマンジャロ産の豆特有の風味と酸味を堪能する。冷房の効いた部屋で熱々のコーヒーを飲むことは至上の贅沢に感じられた。


「ずいぶん話が弾んだみたいだね」

 ペンと紙をテーブルに置き、島崎はこちらに視線を向けた。

「今までのどの依頼人の方よりも、話は弾んだかもしれません」

「ふうん」

「なにか、まずかったですか」あまり好意的でなかった返答に懸念を抱き、問う。

「なんだと思う?」

「出た、聞き返し」

 大仰に眉をしかめてみせる。島崎は頬杖をつき、からかい混じりの笑みを浮かべた。

「まずかったですかね、って聞くのなら、君自身どこか後ろめたい感情があるんじゃないの」

「それは否定しません」

 面白がる双眸から逃れるように視線をそらしコーヒーを含んだ。

 二口コンロの、使われておらず綺麗なままの五徳の輝きに見入るふりをする。


「あまり深入りしないほうがいい」島崎は静かに告げた。「いずれは別れる人だから」

 自分が危惧していたことを言い当てられ、しかし言われたところでハイ分かりましたと返答する素直さがあるわけでもない。皮肉交じりの言葉を返した。

「冷たいことを言いますね」

「事実だろ。この事業を始めて一年以上経つが、過半数の依頼は遂行されている」

「知ってます」

 なかばムキになって答えた。感情の波に理性がさらわれている。

 理解していてもなお、島崎の物言いがしゃくさわった。

 大江の年齢、罹患している病の特徴、今の姿。三つのレンズを重ねあわせた一年後の世界で、彼の姿を認めることはできない。半年後ですら難しい。

 彼の死をいたむ日が訪れることを受け入れねばならない事実が、ひどく夏目をぐらつかせる。

「知っていても、知ることをやめられない人っているでしょう」


 強まった口調で飛びだした言葉は角ばっていて、鋭くもあり脆くもあった。

 返す言葉で粉々に打ち砕かれるのではと畏怖するほどには、自分の発した言葉がいかに曖昧で弱く、頼りのない不確かなものであるかが分かってしまった。

 幼い子どものワガママのような、学生アルバイトならではの世迷言よまいごとを恥じる気持ちをいだきつつも、大江拓弥と事務的に接することは難しかった。


「深入りするなとは言ってないよ」島崎はあくまで年長者らしく振舞った。癇癪を起した子どもをなだめる親のように、声音を滑らかにやわらげた。「君はお母さんを亡くして日が浅い。大江さんと親しくなることで、君の精神が平静でいられるかを心配している」

「それも分かってます。ただ、そのことと今回の件は同列じゃない。俺が母を亡くしたことは、大江さんに関係ない。きちんと向き合わないのは、お金を払って大切な時間を削ってくれている大江さんに失礼です」


 一気に言い切る。彼がいなくなった世界で自分の心に残る傷に思いを馳せる。その行為すら、ひどく罪深いものに感ぜられた。

 うまく言葉に乗せて伝えるだけの技量がない。心に根付いたこの感情は、自分の口を通すとひどく陳腐でありきたりな言葉にとって代わりそうで怖かった。

 島崎はわずかに目を伏せた。夏目の感情をろうせず、それでいて自分の意思を明確に表現できる言葉を、脳内に広がる無限の語彙の海からすくいあげようとしている。

 彼の放つ言葉が有する、朗らかさの影から本質を突いてくる鋭さは、今の夏目には耐えがたい。彼が適切な言葉を見つけだす前に言葉を重ねた。


「一人で行かせるんじゃなかった、って、思ってますか」

「それは明確に否定する。そう思う余地が少しでもあったなら最初から頼まない」島崎は心なしか大きく首を振った。「俺の判断で君に任せた。君がこの件についてきちんとした考えを持って臨んでいるのも分かる。……だから、これ以上はなにも言わないことにする」

「そうしてもらえると俺も助かります」

「無理はするなよ」

「しません」

「この仕事のコツは」言い含めるような重みを乗せた声が自分に向けられる。視線を合わせた。眼鏡越しの双眸そうぼうは、いつになく真面目だった。「自分が疲弊しないためにも、極力、他人事でいることだよ」

「……善処します」

「ずいぶん善処する気のない宣言だなあ」 射るような視線が和らぐ。薄く笑む島崎に、つられて夏目もわずかに口角を上げる。

「お気遣いありがとうございます。どうしてもしんどいときは相談します」

「そうしてくれると俺も助かる」

「そちらに行ってもいいですか。見てもいけない書類があるならここにいます」


 遠慮がちに切り出した。松川が慌てていくつかの書類を片付けた。

「すみません、気が利かなくて。お疲れのところを立たせてしまっていましたね」

「いえ、全然。応募の作品ですか」ソファに座る。なるべく書類は見ないようにした。

「応募作品は下読みの段階でして、事前に過去の受賞作や講評なんかを読んでいただこうと。今回は応募数が多くて、時間もかかりそうです」

「でっかい規模なんですか、賞じたいは」

「いや」島崎が答える。目線は手元の紙に落とされていた。「ほかのおもだった賞に比べると、そうでもない」

「藤原雅之が審査員をするとなると急に応募が増えた?」

「良い意味でも悪い意味でも、ね」

「どういう意味ですか」

「どういう意味だと思う?」

「どう意味だと俺は思うと思います?」

「質問を質問で返すなよ」

「思ったんですけど、なんで質問を質問で返す行為は敬遠されるんでしょうね」

「今度は話をすり替えた」揶揄するように島崎が口角を上げた。

「すり替えじゃありません。発展を見せない会話にテコれをほどこしただけです」

「それが答えじゃないかな。質問返しをすると話が進まない」

「じゃあ島崎さんは、会話を停滞させたいときに質問返しをするんですか」

「どう思う?」

「……単純にイラつきます」

「君の感想じゃなくて。……別に、たいそうな意図やポリシーがあってやってるわけじゃないよ。ただの癖だ。死ぬまでずっとこうなんだろうな。最悪は来世も」

「来世も人間になるつもりですか」

「その言い方はひどすぎない? 俺が人間に転生するに値しない人間みたいだ。松川さん、なんとか言ってやってくださいよ」

「僕は、島崎さんが生まれ変わりを信じていることに驚きですねえ」

「信じてるわけじゃない。もしかしたらの話」

「生まれ変わってもぜひ、小説を書いていただけると嬉しいですねえ」のほほんとした松川の言葉を受け、島崎は苦笑する。

「まったく別の職業についているかもしれないよ」

「たとえば?」 夏目が問うと、島崎は上を仰いだ。

「なんだろう、医者とか?」

 ええ、と夏目は露骨に嫌そうな表情をしてみせる。「島崎さんが医者だったら、手術中に指示を仰いでも『どう思う?』って返されて手遅れになりそう」

「僭越ながら、僕も同じことを思いました」

「奇遇だね、俺もだよ」






 *****






 次の約束の日、開いたドアの向こうで大江はベッドに横になっていた。

 こちらを見るなり手を上げ、上半身を起こす。


「お加減はいかがですか」

 医者や看護師、見舞客たちがかつて母にかけたのと同じ文句を彼に投げかける。

 胸の中でかすかに白波しらなみが立った。

「今日は元気かな。あれからなにを話そうか考えていたんだ。メモしておいた」


 彼はサイドテーブルから黒い手帳を取り出した。仕事用に使っていたのであろうビジネスマン向けのデザインのそれ。ゆっくりとしたペースでぱらぱらページがめくられていく。

 打ち合わせ、会議、直行、出張。最初のほうに単語がいくつか羅列されていたが、ページが重なるごとにその文字は姿を消し、検査、病院、早退といった言葉が並ぶ。それも減り、空白のページをいくつか通りすぎてから、今日のページに辿りつく。「13:00 来訪 夏目様」とある。学生アルバイトの自分にさえ敬称をつけてくれていた。

 その下に書きとめられていたメモを、大江は夏目にも見せてくれた。『生育環境、学生時代、野間のこと(3から話す)』。括弧書きの部分が気になった。


「3から話す、っていうのは」

「ああ、野間の悪口。これは後で話そう。一番長くなるだろうから」


 いたずらっぽい笑みを浮かべ、大江は『野間』の文字をトントンと指で叩いた。

 大江は、自分が手紙を遺す相手に野間を指名した理由について、彼自身の家族構成から話しはじめた。


「俺は二人きょうだいの長男で、八歳下に妹がいる。夏目くんと同い年だね。父親は公務員で母親はパートタイマー。妹とは年の差があるから、生まれてからはオムツを替えたりあやしたりした。両親が忙しかったから、近くの母の実家に預けられることが多かったんだ」


 記憶をたどるように大江は窓の外を見た。

 今日も晴天で、抜けるような青の向こうに、夕立を降らすべく薄灰の綿がぎゅうと詰まっている。


「母の実家には、祖父母と母の妹と、その娘が二人いて。娘二人……俺にとっては従妹だね、彼女たちは年子で、上の子が俺の三つ下。母が俺と妹を連れて実家に行くと、女性ばかりの中で男は祖父と俺だけ。おかげで祖父は俺を可愛がってくれた」

「おじいちゃん子でしたか」

「うん。俺だけ連れてあちこち遊びにいく人だった。初孫っていうのもあったのかも。昭和の男、って感じで、よく『男たるもの』について話をされた」


 買ってほしいものを買ってもらえず泣けば、「男ならこんなことで泣くな」。

 妹や従妹に自分のものを取られたことを訴えれば「男なら我慢しなさい」。

 大江の祖父は、可愛い孫に忍耐と思いやりを持った子どもに育ってほしいという一心で、そういった言葉をかけていたという。


「窮屈じゃなかったですか」

 夏目にはピンと来ない話だった。父も母もそれぞれに兄弟がおり、夏目は待望の初孫でも、念願の男孫でもなかった。むしろ、従兄弟たちと年が離れており、親戚の集まりでも末っ子然に扱われていた。

「その時は感じなかった。今となっては、『男だし年上なんだからしっかりしないと』って気持ちは祖父から植え付けられたと言えなくはないけど、別に悪いことでもないし」

 嫌だったという話ではないのだ、と断りを入れてから大江は話を進める。

「誰かの面倒を見るのは苦じゃなくてね。通学班や縦割りの掃除班でも下級生の面倒を見る優等生だったんだ。自分で言うのは恥ずかしいけどさ。中学も高校も、しっかり者キャラで通ったあと、野間とつるむようになったわけ。割れ鍋に綴じ蓋、って感じ。分かるかな」

「はい、なんとなく」

「思えば、出会った環境はあんまり良くなかったのかな、って思うときがある」

「環境?」

「夏目くんは、運動部に入っていたことある?」

「中高とバスケ部でした」

「高校は共学? 女子バスケ部もあった?」

「共学です。女バスもありました」どういう意図の質問だろうと思った。大江は、そうか、と呟く。

「俺はさ、男子校の野球部だった。そこそこ名門でね」彼の口にした高校は、夏目にも覚えがあった。

「野球、強いですよね」

「そうだね。厳しかった。ただ、厳しかった時期を一緒に過ごしたおかげで絆が深まった気がする。毎年集まるし、さっきも何人かで見舞いに来てくれた」


 ちらりと脇のテーブルに大江は目をやる。

 箱菓子にフルーツの盛り合わせが置いてあった。


「野間さんも来てくれたんですか?」

「いいや」大江は緩く首を振った。友人たちが置いていった菓子から視線を外し、自らの手元を眺める。少し間を置き、ゆっくりと顔を上げた。

「言ってないんだ、野間には。入院していることも、病気のことも」

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