#22 梅に鶯
清潔で、とても明るい病室だった。
窓からの光が屈折し、夏目の立つ入り口まで光が領地を広げている。
カーテンは片側だけが閉められ、わずかに開いた窓から風が入り、クリーム色のそれを膨らませ、たなびかせている。
「こんにちは」
穏やかな声が耳になじんだ。短い髪、フチなしの眼鏡からのぞく、垂れ気味の目。病院着を着ていなければ、図書館のカウンターに立っていそうだと思った。
挨拶を返して一礼する。彼は開いていた文庫本を閉じて脇に置き、椅子をすすめた。
「島崎さんから、いろいろ伺っています。わざわざ来てくれてありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
慣れない手つきで名刺を差しだす。彼は律儀に「頂戴します」と言って両手で受け、じっくりと夏目の名を見た。
「夏目拓未さん」 確認するように声を出す。「同じ名前ですね、漢字は違うけれど」
「はい、奇遇にも」
大江はいったんベッドから降りたち、脇に備えつけてある棚から自身の名刺入れを取りだした。
動作はゆっくりとしていて、立つことであらわになった彼の身体の線の細さが、蝕む病の存在を夏目に突きつけた。
慣れた手つきで差しだされた名刺には、夏目もよく知る食品メーカーの名があった。大江の所属は営業部第二係となっていた。
「休職中なんだけどね。復職できるかどうかも怪しい」やんわりと笑む彼に、夏目は返す言葉を探した。しかし、適切な言葉が見つからず、頷くにとどまった。
わずかなやり取りで、大江は夏目がこの仕事にあまり慣れていない者だと察したらしかった。
親戚の口から株式会社デリバリーウィルの話を聞きつけたのだ、と依頼にいたる経緯を自ら話した。声色は終始変わらず、
「親戚は、俺がこんな状態になるなんて思っていなかったみたいで、ある種の冗談として言っていたんだけどね。なんとなく気になって、会ってお話をしてみようと思いたって」
「内容は、島崎から聞いていますか?」
「なんとなく。自分の生い立ちを話して、遺言状を書く。死後に届けられる」
夏目はシステムの説明をした。途中つっかえもしたが、大江は頷きながら黙って聞いていた。
システムの内容。料金体系。遺言状の中身は把握されること。契約書の存在、保管方法。細部まで、夏目は島崎がしていた説明を的確になぞった。
「もし、なにかの奇跡が起きて俺が完治したら遺言状はどうなるのかな」
彼の言いぶりは、とてもそんなことは起こらないが聞いておきたいというニュアンスを含んでいた。
「契約解除は可能です。キャンセル料はかかりません」
「そっか。生い立ちっていうのはどこまで詳しく話せばいい? 初恋の相手の名前も言ったほうがいいかな?」おどけてみせる彼に、夏目の顔もわずかにほころぶ。
「お任せしています。多くの方は、受取人の方との関係について話をされます」
受取人は自分にとってどんな人か。いつからの付き合いか。日ごろどんなやり取りをしていたのか。
それらを語るうちに、自然と依頼人と受取人の関係性や、依頼人が抱いている感情が浮かびあがってくる。
訥々と話す者もいれば饒舌に話す者もいる。言葉の端々に感情を乗せる者、逆に感情を見せまいと平坦な口調を心がける者とさまざまだった。
大江は夏目の説明にうなずき、契約書に目を落とした。
受取人の欄をじっと見つめている。
「契約されるとしたら、誰に渡すかは決めてますか」
そっと問う。彼は契約書を見たまま、小さく頷いた。「離れて暮らす友達に」
「お友達、ですか」
「夏目くんは、学生さんかな」大江は夏目の顔に視線を映した。温厚さが感じられる、柔らかなまなざし。
「はい。大学三年です」
「どこの大学?」
夏目が口にした大学名を聞き、大江は目をわずかに見開いた。「驚いた、一緒だ」
「え、ほんとですか。学部は?」
「社会学部」
「俺もです」
顔を見あわせて笑った。急に、大江を近い存在に感じた。
交わされる言葉が急激に増えた。学科こそ違ったものの、授業や教員の話、大学の施設に関する愚痴、果ては大学周辺の定食屋にまで話は広がりを見せた。
そのあいだに、看護師が様子を見にきた。
身体の大きな中年の女性看護師は大江の体調に異常がないことを確認し、ふたりの会話を聞き、「あら、先輩後輩なの」と夏目に向かって言った。
今日初めて会ったのことは言わず、そうなんです、と笑って受け流した。
看護師が去ったのち、盛り上がりを見せたあと特有の沈黙が部屋に訪れた。
夏目はすでに大江の柔らかな物腰に好感を抱いていたし、何より自分と共通点が多いことから彼のことをもっと知りたいとも思っていた。
「離れて暮らすお友達も、同じ大学だったんですか」
「そう。高校からの同級生。大学も一緒で、部活も一緒」
「何部?」
いささか砕けた口調で問う。
大江のまとう雰囲気は、自然と自分が彼と以前から見知った仲であるかのように錯覚させていた。
彼もまた、無意識のうちに距離を詰めてくる夏目を好ましく思っているふうでもあった。
「野球部。高校の頃はもっと日焼けしていた」 彼は病院着から細い腕をのぞかせる。夏目の腕よりも細く、色も白かった。「俺はレフトで、あいつはショート」
「どんな人ですか」
その問いに、大江の視線は言葉を探そうと室内をさまよった。
「ひとことで表現するなら、そうだな。ちょっと間抜けな犬、みたいな」
「間抜けな犬」夏目が繰り返す。言葉の響きを楽しむように大江は笑った。
「そう。そそっかしくて、いつもキョロキョロと好奇心旺盛に周りを見ている。目を離すといつの間にか好き勝手していて、でも最後には必ず戻ってくる。どれだけ叱っても次の日にはキョトンとした顔を浮かべているような感じ」
彼を知ったのは高校受験のとき。試験と試験の合間の休み時間、周りが必死に持ちこんだ教科書やノートを開いて知識を詰めこむなか、ずっと窓の外を見ている生徒がいた。
参考書片手に英単語を詰め込んでいた大江は、学ランを着た彼の余裕すら感じさせる振る舞いが強く心に残った。
彼の視線の先をなんとなく追った。校庭をじっと眺めていた。そこで活動する未来の自分を想像しているのかと思いを巡らせた。
休み時間じゅう、彼は頬杖をついてひたすらに校庭を眺めていた。余裕ぶったしぐさにも見えた。その悠然とした態度を見ることで、大一番を前にささくれだっていた大江の神経はしだいに鎮まっていった。
無事に合格して迎えた入学初日、クラスメイトの顔を覚えようとしていたら、窓の外を見ていた男子生徒と同じクラスだと気づいた。
部活見学ではともに野球部を訪れていて、彼もまたこちらを認識しており、そこで初めて詳しく話をした。すぐに打ち解け、仲良くなった。
「なんであのとき窓の外を眺めていたんだ、って聞いたら、『ここに入ったらどんなやつと一緒に野球をするのか想像してた』って言っていた。熱心な奴だなあと思った。人懐こい性格だから先輩にも好かれていて、いじられ役ポジションで」
そそっかしい彼の性格を、大江は把握していった。約束の時間を一時間きっかり間違えていたり、腹筋をしているうちに何度身体を起こしたか忘れたり、水曜日は部活が休みなのにやる気満々で部室に行こうとしたり。
熱心に練習に取り組み愛嬌のある彼が犯すミスを、先輩たちはたいがい「仕方ない」で済ませた。しょうがないやつ、とよく口にした。
野間は重要な局面ではびしりと締まるタイプで、その反動で平時にうっかりをやらかしてしまう、というのが野球部の共通認識だった。
走攻守、どれをとっても同学年の部員より頭ひとつ抜きんでていた彼が無用な嫉妬を受けずに済んだのは、そのうっかりと彼の性格のおかげでもあった。
同じクラスだからという理由で大江が彼のお目付け役に任命され、何かと彼をフォローするようになるまで、そう時間はかからなかった。
明日の練習場所や練習内容の確認にはじまり、ストレッチや筋トレでは彼と組み、彼が回数を間違えれば訂正した。いさんで放課後に教室を飛びだそうとする首根っこを掴んで「今日は水曜だ」と伝えたことも何度かある。
「オーバーワークぎみだったら無理にでも休ませたし、バッティングがうまくいかないときにはフォームを見てやった。向こうも、俺の自主練に付き合ってくれた。二人一組みたいに捉えられて、あいつへの伝言を俺に言われたりもした。選択科目も一緒で、ずっと同じクラスだったから」
「仲が良かったんですね」
「それなりに喧嘩もしたけどね。俺は強情だから、自分が悪くないと思ったら謝らなかった。あいつは叱られた犬みたいにシュンとしてて、あんまり犬そっくりだから俺が笑っちゃって、それでなんとなく仲直りしたりもした」
同じ大学を受験し、合格。
上京後も交友は続き、大学野球部でも大江は野間の女房役として自然と認識され、ときに彼への伝言を頼まれ、ときに野間が伝言をあずかった。
だが、彼があずかってくる伝言はどこかに齟齬があり、なにかあれば大江は野間に苦情を申したて、そのたびに野間は叱られた犬のごとくシュンとした。
そこまで彼が話したところで、ふたたび看護師が様子を見にきた。ふと思い出したように彼は病室の時計を見、このあと会社の同僚が会いに来てくれるのだということを言った。
「じゃあ、今日のところはこれで。またお話を聞かせてください」
夏目は腰を浮かせた。彼の都合を確認し、三日後に再訪することを決める。
それまでに色々と思い出しておくから。大江は静かに言った。
「ごめんね、ちゃんと契約もせずに思い出話ばかり」
「いえ、面白かったです」本心から同意した。むしろ、野間という男の人となりについて、夏目も強く興味を抱いていた。「野間さんのうっかり話、もっと聞きたいですし」
「そう言ってもらえるとありがたいな。あいつがしでかしたこと、きちんと思い出しておかないと」
「そんなにたくさんあるんですか」
「あるよ。あいつの高校のあだ名、『のび太』とか『野間太』って呼ばれてたくらいだし」
「大江さんのあだ名は?」
「『ドラ』。それか『大江もん』」
「ははは」
笑みがこぼれた。なにかミスをするたびに大江に泣きつく野間が頭に浮かんだ。
助けて大江もん。なんだい野間太くん。またなにかうっかりミスでもしたの。
そんなやり取りが、頭の中で再生された。
もし食べられるなら、と差しだした塩田薫の手作りクッキーを、彼は喜んで受けとった。互いに丁寧に挨拶をして、また三日後に、と辞去した。
見舞いの品らしき包みを持ったスーツの男女と、病室を出てすぐにすれ違った。
なんとはなしに、互いに会釈した。彼らは予想通り、大江の病室に入っていった。
病院を後にし、灼熱のアスファルトの上を踏みしめて来た道を戻る。
そそっかしい野間治智は、今どこで何をしているのか考えた。
それから、ドラえもんが未来に帰ってしまうからと一人でジャイアンに挑むのび太の話を思い出した。
この先もし大江が遠いところへ行ってしまったら野間は大丈夫なのだろうかと、顔も知らない他人のことをしばらくのあいだ考えた。
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