今際の告白
#21 可愛い子には旅をさせよ
「行けなくなった?」
思った以上に素っ頓狂な声が出て、夏目は手で口を塞いだ。
放った声は眼前の島崎が押さえている玄関ドアから廊下に滑りでていき、わりに大きく響いて聞こえた。
島崎は後ろに合図をし、室内に入る。するりと松川が続き、そっと扉を閉めた。
いつも涼やかな表情を浮かべている松川でもさすがに今日の暑さは身にこたえるようで、冷房のゆきわたった空間に身を置いたことに一息ついている。
多忙な生活を送る雇い主は、すまなさそうな顔を浮かべ目の前で謝意を示すがごとく手をあわせている。松川が深々と
「夏目さん、申し訳ありません。ある文芸賞の選考委員を務めている先生が、急きょ入院することになりまして。島崎さんに代理のご依頼があって、その打ち合わせが」
「なにかと融通をきいてもらっているところだから、できれば断りたくないんだ。悪いけど、今日の依頼人のところは夏目くんひとりで行ってもらえるかな」
「なんだ、そういうことでしたら」夏目は声音を和らげた。島崎が軽く首を
「そういうことでしたら、って、どういうことだったらダメだったの」
「島崎さんの過失だったら嫌味のひとつでも口から出ていたかもしれないなあ、と」
「平然とした顔で言われると微妙な気持ちになるなあ。こう見えて、俺はデッドラインを破ったことはまだない」
「島崎さん、『まだ』という副詞をお使いになると今後破るご予定があるのかと勘ぐってしまうので差し控えていただくとありがたいのですが」
「冗談だって」
松川と島崎の応酬を眺める。
顔出し厳禁主義の島崎はオンライン会議で切り抜けるのだろうが、果たして文芸賞の選考委員とはどんな打ちあわせをするのかが気になる。
勝手なイメージだと、いくつもの作品を読まなければならない大変な作業のようだが。
「俺は大丈夫ですけど、今後の仕事に影響は出ませんか」
そう問うと、それ、と島崎がこちらを指さした。
「しばらく本業にかかり切りになる。ある程度選考は進んでるんだけど、応募作を読む時間を作らないといけない。それに付随して、あれやこれやの原稿にかけられる時間が少なくなる」
「必然的に、副業に精をだす時間がなくなる?」
「そういうこと。……今回の依頼人とは何度か連絡を取っていて、それとなく探りを入れたら若い人のほうが話しやすいって話をしていてさ。念押しで夏目くんのこと話したら、君ひとりで構わないと言われた。だから、今回は夏目くんだけで受け取りまで完遂してほしい」
「分かりました」
森文香への配達以降、ぽつぽつと受取と配送の業務は続いていた。
依頼人や受取人のもとに赴くたびに島崎は説明する内容を指導し、七月に入れば説明自体を夏目が行い、島崎が横で控えているくらいになった。
それでも、こなした件数としては十件にも満たない。
依頼人から遺言状を受け取って一週間後に配達日が来たパターンもあれば、この前の配送案件は五月に受け取ったものだった。
仕事のたびに夏目は双方の感情に寄り添い、島崎は相変わらずどちらにも一定の距離を置いていた。
「四月の頭に正式採用してから三か月を過ぎたし、試用期間も終了だな。一人でやってみて思うこともあるだろうし、ひとまず頑張ってみて。依頼人も、気のいい優しそうな人だから」
「誰かのご紹介ですか」
「源太郎先生のお客さんの甥っ子だったかな。電話で聞きとった内容はこれ」
メモ用紙を渡され、目を通す。島崎の、男性にしては整った読みやすい字で依頼人の情報がつづられていた。
大江拓弥、二十八歳。都内企業勤務。現在入院中。入院している病院名と住所、病室の番号、病名が添えられている。
「オオエタクミ、って読む」
「たくみ」夏目の声は興味を帯びた。「俺と一緒だ」
「タクミ同士、色々話しておいでよ。終わったら俺にも報告よろしく」
「分かりました」
「夏目さん、すみません本当に。ご迷惑をおかけして」腰を折る松川に手を振る。
「いえいえ、こんなの迷惑のうちに入りません」恐縮していると島崎が苦笑した。
「俺が悪いことをして、松川さんが詫びを入れにきたみたいな構図になってる」
「言えてる」夏目もつられて笑みが出た。「悪ガキがガラス割って、親が謝りに来たみたいな」
「僕の母もよく謝りに行っていたので、自然と言い方が似通ってしまいましたね」
「松川さん、ガラス割るような子どもだったんですか? 意外」
「いえ、姉です」
「ああ、なるほど」
依頼人とは一時に約束を入れていた。十一時過ぎではあったが、塩田泉の店で昼食を取ってから電車で向かえばちょうどいい。
いつものリュックにあずかったメモ用紙、契約書と筆記用具、メモ用のルーズリーフ、名刺入れが入っていることを確認した。
黒革の名刺入れは源一郎先生おすすめのブランドの品で、多少値は張ったが社会人になっても使えるからと太鼓判を押されたものだ。
名刺は島崎のものと同じ
「じゃ、行ってきます」
「よろしくねー。あ、叔母さんに夜は行くからって伝えといて」
「分かりました」
「お気をつけて」
二人に見送られて玄関を出る。
なんだか「はじめてのおつかい」みたいだなと思っていたら、島崎が後ろでぼそりと「はじめてのおつかいみたいだ」と笑い交じりに言っているのが聞こえた。
塩田泉の店に寄り、預かった伝言を届けてホットドッグを食べた。
店内は相変わらずフジ子・ヘミングのピアノ曲が流れていた。昼時が間近ということもあり数組の客が来ていたが、夏目が食べ終わるころには貸し切りになった。
「ノクターン」が流れる空間で、塩田薫がテーブルを拭き、泉はグラスを磨いている。
「文芸賞の選考委員って、どのくらい作品を読むんですか」
「うん?」 眉をあげた泉に、さっき聞いた話をする。
「選考委員か」テーブルを拭きあげた塩田薫は嬉しそうな声をあげた。「出世したなあ、あいつも」
「どれくらい読むかは私にも分からないな」磨き上げたコップがことんと音をたてて置かれる。
「俺、文芸賞ってどれくらい応募があるの知らなかったんです。さっき調べたら、二千作も応募がくる賞もあるんですね」
「ウェブで応募できる賞なら、もっとかもしれない」
「それを審査するんだから、島崎さんはすごいですね」
夏目の感嘆の声に、泉が笑った。何かおかしいことを言っただろうかと怪訝に思っていると、彼女はこちらに気づき、笑んで言う。
「君が知聡を褒めたところを初めて聞いたと思って」
「え、嘘でしょう」
「嘘じゃねえよ」 と、薫。「俺も初めて聞いた」
思い返してみる。ここ三カ月、週に一回以上はこの店で食事をし、少なからぬ回数、島崎のことが話題に挙がったはずだ。自分はそんなに彼に対して愚痴をこぼしていたか。彼の叔母夫婦に対して失礼ではなかったか。
彼らが笑っているのがせめてもの救いだった。気まずそうに夏目は小さく咳ばらいをする。
「今後は、もっと敬意を持って接しようと思います」
「今まではさほど持ってなかった?」 泉がまた笑う。
「そうかもしれません」
「そう言える奴はちゃんと敬意を払ってるよ」
塩田薫がカウンターに戻り、水道で布巾を洗いはじめる。屈強な彼の手で絞られるふきんが可哀想にすら見えてくる。「失礼な奴ほど、自分は敬意を表してるって口に出すからな」
「本人に言ったことあるんですけど、俺。島崎さんのためを思って、とか、島崎さんを尊敬するから、とか、そんな感じのこと」
「知聡はなんて?」
「なんで棒読みなんだ、って」
「ははは」薫の豪快な笑い声が店内に響いた。
「選考の話だけど、それなりに絞られた作品を選考委員が読んで、講評しあって決めるんじゃないかな。委員同士も作風が違うから、作品の受けとり方も違うだろうし」
「そっか」
視線を外して、カウンター後ろの本棚を見やる。
三か月の間、月に十冊のペースで読書を進めた。これは夏目にしては天文学的な数字で、かつ驚異的なスピードだ。人生で最も読書に時間を費やしたと言っても過言ではない。母が生きていれば、「もっと早くに読んでいてくれたら感想を話しあえたのに」と言われかねない。
母のいない空虚を埋めるべく始めた読書は、時間を忘れて没頭できた。
毎朝毎晩、彼女に線香をあげるときに、自分がどこまで読んで、どう思ったかを伝えている。
作者本人に直接感想を伝えたこともあり、そうすると彼は母の本棚にありそうなラインナップからおすすめを教えてくれた。順繰りに読んでいくと、なんとなく、ほかの作家と島崎の作風の違いというのが見えてきた。
島崎の小説は、ピタゴラ装置のような、からくり人形のような、自動車のような印象を夏目に与えた。
登場人物のひとりひとりが部品のひとつであり、彼らの言動や行動がうまく組みあわさることで物語を形成する。人物描写は淡々としているが発言はユーモアがある。
彼の観察眼がなせる技かもしれないが、表面上は分からない人間の奥にひそむ感情を、ひそやかに言葉の節々や行動に織り込んでいる。
人物の発言量はさほど多くないが、発言で与えられる情報に過不足もない。極限まで無駄という脂肪をそぎ落とした文章というボクサーは、ときに鋭くパンチを繰りだし、読者の脳を揺さぶる。
「これまで読書をしていなかった子とは思えない観察眼だ」泉にそう褒められ、照れくさくなって笑う。
「本質を見極められる人間になれと母に言われたものですから」
「なら、小説をたくさん読むといい。漫画やアニメにも優れた人物描写は沢山あるけれど、小説はその人の心の
塩田泉は、食後に塩田薫謹製のクッキーを出してくれた。猫の形にくりぬかれたクッキーはバターの風味がしっかりと感じられて美味しかった。
薫が土産にとラッピングした包みをふたつ、渡してきた。依頼人への挨拶の品だと言われ、ありがたく受け取る。
自分の食べた皿と他の客が残していった皿を洗い、ついでに店内の掃き掃除を手伝ってから店を出た。冷房の効いた店を出て地上に続く階段を上がっている
地上は地上で太陽光をアスファルトが反射して、照り返しがきつかった。
日陰を選んで進み、電車の中では島崎のメモを見ながら、説明する事項を脳内でまとめていた。
最寄りの駅からは歩いて病院へ向かう。
優しい人、と言っていたが、どんな人だろう。名前が同じなのだし、少しでも打ち解けることが出来るといいのだが。
夏目は、自分と共通点が多い人ほど仲良くなるのが早い。大学の友人はいずれも趣味や嗜好が似通っている人たちばかりだし、高校の友人もそうだ。
むしろ、共通点は少ないが不思議と友達でいる、という存在はいないに等しい。何かしら自分と似通っている部分がある。
そういう点では、島崎と何かしら共通する点があるからうまくやれているのだろうか、と思いがよぎった。
片側二車線道路の脇の歩道、緩い坂道になっているところをセミの鳴き声を聞きつつ進む。
両親が離婚し、互いに親ひとり子ひとりで育ったところは共通している。とはいえ自分はひとりっ子で、彼には離れて暮らす姉がいて父も再婚したらしいが。
しかし、それ以外の共通項が見つからないことに思いいたる。
理論的に考え客観視する島崎に対し、夏目は感情ありきで考えるきらいがあるし、島崎は大雑把で自分はそこそこ几帳面だ。夏休みの宿題を開始一週間以内に片づけていた自分からすれば、島崎がぎりぎりまで仕事をためこんで松川をやきもきさせているのは理解しがたい。
とりとめのないことを考えているうちに病院に辿りついた。総合病院の名がついているだけあり建物は大きく敷地も広大で、駐車場を突っきって入り口に向かうも、どこから入ればいいのか分からず無駄に外を歩いてしまった。
面会受付をすませたころには、玉のように浮かんでいた顔の汗もだいぶ引いた。伝えられた病棟に行き、リノリウムの床を踏みしめながら大江拓弥の病室を目指す。
病院独特の消毒液の匂いをかぐと、つい数か月前まで入院していた母の姿が否応にも思い出される。
母を亡くしてからの数か月が途轍もなく早く過ぎさったことや、母を失った自分は途方に暮れてふさぎ込むに違いないと思っていたのに、現実では新たな人間関係をいくつも構築して妙なバイトをしていることに思いが及んだ。人生、何があるか分からない。
大江の病室は個室だった。掲げられたプレートの名を確認し、時刻を確認する。ちょうど一時。
扉を、人差し指の第二関節を使ってノックする。軽い音はたやすくスライド式の扉に跳ねかえり、廊下に音をたてる。
「どうぞ」
優しい声がした。
声からして、優しい、と感じた。
失礼しますと告げ、部屋に入った。
初めて一人でこなす仕事が、始まる。
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