#19 世は情け



「受けとりの前に、署名をお願いします」


 感情を乗せず、事務的に告げる。

 森文香はすすりあげながら細い指でペンを取り、署名をしたためた。遺言状の入った封筒を彼女の前に差しだす。


「では、確かにお渡しいたしました。先日も申しあげましたが、秘匿義務はありません。ご両親に見せても構いません。ご自由になさってください」


 森は封筒を手にとり、開けようとして止まり、赤くなった目で島崎を見た。


「ひとつ、うかがってもいいですか。島崎さんに聞くことじゃないかもしれませんが」

「なんでしょう」

「菊池さんのおこつを、うちで引きとることはできるんでしょうか」


 島崎は、一寸のを置いてから首を振った。


「血縁者以外の方が引きとることは、原則認められていません」

「でも、誰も名乗りでなければ、無縁墓地に埋葬されるんですよね」

「はい」


 そんなこと。

 か細い声で彼女は漏らした。現像された写真を手にとり、額に押しつけて泣いた。

 

「このままじゃ、無縁仏になっちゃいます」

「……」

「無縁じゃないです、私たちはお世話になりました。ほんのすこしの時間だったけど、でも、確かに縁があったんです」


 ふみちゃん。

 優しげに彼女を呼んだ、生前の菊池の姿がよみがえった。

 ホームレスたちに声をかけ、自らの退職金をわずかばかり切りくずして買った食べ物を分け与えていた。

 国が栄えるったって、陰で苦しい思いしてる人を放っておくのは悲しいと、公園のゴミを拾いながらぽつりぽつりとこぼしていた。


 俺だってねえ、いまは雨風凌げる家があって、なんとか働いてこれたけどよ。

 別にこれは、俺が頑張って来たからじゃねえぜ。俺に恩をくれた人のおかげで、俺は恩返しをしてるんだ。俺のやってるこたぁちっぽけかもしれないけど、俺のしたことで誰かが喜んで、ほかの誰かに優しくしてくれるなら、こんなにうれしいことはないね。


 善意はめぐる。場所を変え、時を経てもめぐる。

 菊池宗助からの恩を受けた誰かが、このさき誰かに善意で何かをするかもしれない。そういう人で満ちてくれればいい。島崎は心から願った。

 叔父の録音した彼の肉声が残っていることにそこで思いいたり、森宛てに送る約束を取りつけた。


「おひとりで読んだほうが、きっと良いでしょう。我々はここで失礼します。音声データは、追って御社宛てに郵送いたします」


 辞去の意を見せると、泣きはらした目で彼女は礼を述べた。

 父と母にも必ず見せると言い、官報が印刷された紙を貰えるかと申し出、島崎は快諾した。

 そこに書かれた文を見て彼女の父母が何を感じるか、つかの間考えた。

 立ち上がって礼をする。会計票を取ると、夏目が彼女に言葉をかけた。


「応援しています」

「……ありがとうございます」


 互いに深く礼をし、別れた。

 喫茶店を出る。駐車場方面に足を向ける。ガラス張りの店内がちらりと見えた。

 森文香が便箋に顔をうずめ、肩を震わせているのが分かった。

 決して上手とは言えない字で書かれた最期の手紙。島崎はその一文一文を思いかえした。夏目もまた、彼女が遺言状を読む姿をじっと見ていた。

 なにが書かれていたのかを、彼は聞かなかった。


 二十年。彼らの遠からぬ月日に思いを馳せる。

 いっぽうは忘れ、いっぽうは忘れずにいた日々の記憶と、彼らの中に芽吹いていたものを思った。

 森文香がタイレイフーズでその力を発揮しているのは誰の影響か。両親のみならず、彼女を取り巻く人々が彼女に影響を与えたことは間違いない。菊池宗助はそのうちのひとりだろうか。忘れられた存在であった彼が、無意識的に彼女の心の奥底に残っていたのだろうかと考えた。

 善意はめぐる。人はまじわる。互いに互いへ影響し、知らぬ間に根を張る。


 島崎の脳裏に、敬愛する夏目漱石文章が浮かんだ。暗記するほど読みこみ、島崎自身の指標にもなっている文章が、するすると浮かんだ。


『子供と違って大人たいじんは、なまじい一つの物を十筋二十筋のあやから出来た様に見窮みきわめる力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情をほしいままに吸収する場合が極めて少なくない。本当に嬉しかった、本当に難有ありがたかった、本当に尊かったと、生涯に何度思えるか、勘定すれば幾何いくばくもない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中まんなかに保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単に一片の記憶と変化してしまいそうなのを切に恐れている。――好意の干乾びた社会に存在する自分を甚だぎごちなく感ずるからである』



 *****



 島崎は翌日、塩田薫から受け取った音声データを森文香宛に送った。

 音声データのほかに、記事のコピー、菊池宗助が所属していたボランティア団体の連絡先、彼がよく訪れていた公園の所在地、そして塩田薫が撮影していた菊池宗助の写真を同封した。

 タイレイフーズのCMの封切りは、予定よりも早かった。

 「善意はめぐる」の続編として公開されたCMは世間の耳目じもくを集め、再生回数もうなぎのぼりである。

 夏目はテレビ番組で二度、森の姿を見た。大人気CMの発案者として登場した森は、当初顔をあわせたときの溌剌とした印象をそのままに、キャスターやタレントたちの質問によどみなく答え、企業の顔として宣伝の務めをまっとうしていた。


 彼女から株式会社デリバリーウィルの事務所に小包が届いたのは、遺言状を配達してから二週間ほど過ぎたころである。

 テレビは何かにつけて「平成最後の」という言葉を枕詞に使っており、きたる令和の時代を待ち望んでいるようでもあり、平成という言葉が旬を過ぎるまえに使えるだけ使ってやろうというあけすけな思惑も感じられなくはなかった。

 島崎には事前にメールで連絡があったらしく、夏目が事務所で課題をやろうとドアを開ければ彼がいたので驚いた。

 思わず、自分が開けたのは事務所のほうで合っているかとドアを閉めて表示を確認したほどだった。


「合ってるよ」 夏目の考えを見透かしたように、マグカップ片手に島崎が言う。

「だいたい俺しかいないから、びっくりしてしまって」

「ちょうどいいところに来た。荷物が届いた。森さんから」


 リビングのテーブルの上に、大きめの段ボールがひとつ。島崎は、スマートフォンで自らに届いていたメールの文面を見せてくれた。

 新潟から両親が上京し、ともに武蔵野市役所におもむいて遺品を確認したことと、ダメもとで遺骨の引きとりを提案したが、やはり難しいと言われてしまったことが書いてあった。

 父も母も官報の文面を見て思うところがあり、どうにかきちんと墓で眠ってあげられないかと思っているという。父はあの赤いタオルを見、そのくたびれ具合と綺麗に手入れされたさまを見て、周囲をはばかることもなく涙を流していた、とつづられていた。

 菊池が所属していたボランティア団体にも連絡を取った。活動日は決まっていたが自由参加がルールだった団体では、菊池の死さえ知られていなかった。個人的に彼と親しかったようすの者もおり、死を悼み、遺骨の引きとり手がないことを残念がっていた。

 父母とともに公園付近を訪れ、ホームレスとおぼしき人々に声をかけて回った。警戒され話を聞くこともままならなかったが、気の良い老爺が話を聞いてくれた。赤いタオルの、と言うと、ああ、とすぐに菊池を想起したらしかった。

 しばらく見てねえと思ったんだよな。あの人は好きだった。恩をほどこしてやろうって感じじゃなかったもの。優しかった。

 クリスチャンであるという彼の荷物には聖書があり、名も知らぬホームレスの彼は、菊池のために神に祈りを捧げてくれた。


 森からの荷物の品名は「食品」とあった。島崎にうながされ、夏目が開封する。

 まず目に入ったのは白い便箋であった。島崎が背後に回ったので、彼にも読みやすいように掲げ、しばしのあいだ、ふたりで黙読する。

 綺麗な字で、依頼への謝意とその後の報告があった。


 メールを送ったあと、彼が勤務していた運送会社を突きとめることができた。勤務当時の話を聞き、彼の写真を貰うこともできた。

 社長はずいぶん高齢だったが矍鑠かくしゃくとしていて、菊池のことをきちんと覚えていた。中越地震の折に「世話になった人たちが困っているんです」と彼が頭を下げてきたことを話してくれた。

 物資を調達するためにどうしても給与を前借りしたいと申しでた彼に、社長はボーナスだと言ってその場でポンと彼の月給分の金額を出した。

 ここでも善意がめぐっていたのだと思い、丁重に礼を言った。社長もまた彼の死を知り、悔やんでくれた。良い奴ほど先に逝くんだなあと、社員旅行で撮ったという一枚の写真を眺めた。そこには、観光地の前でぎこちない笑顔を浮かべながらピースサインをする彼が映っていた。

 精力的にメディアに出ることにした、と森はしたためていた。取材を受けるたびに菊池の話をしているとも言った。このままでは無縁仏として合葬される彼が、せめて親族に引きとってもらえるよう、彼のことをどうにか取りあげてくれないかと話をしている。引きとり手が見つかったら、また連絡する。

 彼からの遺言状を受けとらなければ、記憶の底に沈んだまま、彼の存在も思いださずにいたと思う。

 私まで辿りつくまでも大変だったのに、お会いした際に礼を尽くさず申し訳ない。心から感謝している。ささやかながらお礼の品を送らせていただきたい。文章はそのような形で締められていた。


 読み終わってから、夏目は同封されていたものをひとつひとつ取り出していった。


「こんなにたくさん……」


 タイレイフーズで取り扱っている商品がひと通り、ふたりぶん入っていた。

 合わせ調味料や惣菜パン、鍋の素、チルド食品、飲料。それに新潟県の名産品がいくつか。こちらが恐縮するほどの量であった。


「申し訳ないくらいだな。遺言状を運んだだけなのに」島崎のげんに、夏目も頷く。

「俺なんて、話を聞いてもらい泣きしてただけですし」

「君が泣いてくれたおかげで、彼女も遠慮なく泣けたところもあるんじゃないの。知らんけど」

「……じゃあ、そう思うことにします」

「夏目くん多めに持って行っていいよ。俺、あんまり自炊しないし」

「せっかく送ってくれたのにそれはないですよ。これを機に自炊してください」


 夏目は「むしろ俺のほうが多くもらうのは気が引ける」と遠慮したが、島崎はきっちりと貰ったものを二等分にし、大きめのビニール袋に夏目のぶんを入れて渡した。


「お互い、人の善意はありがたく受けとることにしよう」

「そして、誰か別の人に巡らせる?」

「そういうこと」

「この部屋、鍋ありますか?」 突然の夏目の問いに、島崎はキッチンの棚からいくつかの鍋を取りだして見せた。

 フライパンに両手鍋、雪平鍋、小さめの寸胴。いずれも継母が独りだちをする自分を気遣い送ってくれたものだが、あいにくどれも新品同様だった。

 ラインナップを見ると夏目は頷き、「鍋、作りましょう」と言った。


「鍋」

「その料理名は初めて聞いた、みたいな顔してますけど大丈夫ですか」

「鍋なんてしばらく食べてないから、つい」

「鍋の素ありますし、具材もそろそろ旬が終わりそうですし。島崎さん自炊しないっていうなら俺が作ります。一緒に食いましょう」

「わあ、善意」島崎は小さく手を叩いて称賛の意を見せた。

「で、松川さんを呼んで振るまいます。いつもお世話になってるから」

「善意~」

「食材買ってきますけど、食べられないものとか苦手なもの、ありますか」

「パクチーと春菊、あとセロリ。アレルギーはない」

「了解」


 夜には松川が仕事終わりに訪れ、三人で鍋を囲んだ。

 味噌風味の鍋の素を使い、鮭をメインに据えた石狩鍋風の鍋は好評だった。


「おいしいですねえ。僕も鍋はよく作るんですが、石狩鍋は久々に食べたなあ」

「良かった。鍋の素使って、あとバターも足してみました」

「ねえ、なんで春菊入ってんの、苦手だって言ったじゃん」

「俺は好きなんで、春菊。安かったし」

「僕も好きです」

「別にいいけどさあ」

「ところで島崎さん、お願いしているエッセイの進みぐあいはいかがでしょう。もう間もなく初稿の締め切りですが」

「エッセイ……?」

一昨日おととい進捗をお伺いしたときには『四割書いた』とおっしゃっていましたよね」

「初めて聞いた、みたいな顔してますけど大丈夫ですか。勝手に記憶をなくさないでください」

「冗談だよ、たぶん予定通りに出せる。そうだ、夏目くんさあ、俺の本どこまで読んだの。あれからけっこう経ってるけど一冊くらいは読み終えてくれたかな」

「島崎さんの本……?」

「初めて聞いた、みたいな顔してるけど勝手に記憶をなくさないでくれるかな。さては読んでないだろ」

「冗談ですよ」


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