#17 浮き沈み七度



 島崎から電話が入ったのは翌日の夕方だった。

 受取人の森文香が、依頼人・菊池宗助のことを思いだしたというのだ。

 彼女は実家から取りよせるものがあるからと、次の火曜日の午後五時に最初に待ち合わせた喫茶店で落ち合う約束を提案してきた。 

 それまで別の仕事はないと言われ、夏目は大学生らしく勉学に励んだり、友達と遊んだり、家で静かに読書をするなどして過ごした。


 時間を持てあまして事務所に顔をだすときには、塩田泉の店にも寄った。混雑していた日もあれば、貸し切り状態の日もあり、閉まっている日もあった。

 彼女は食事代をすべて島崎のツケにするからといって支払いを受けてくれず、ただ飯状態だった。

 気を遣って菓子を買って差しいれた日に「まかないだと思えばいいから、気を遣わなくていい」と言われはしたものの、どうしても気が済まなかった夏目は、店内の掃除をすることを申しでた。

 店を訪れるうち、BGMが同じアルバムをリピートしていることに気づいた。有名なクラシック曲がピアノで奏でられてるそれは、店の雰囲気とマッチしている。


「この音楽、いつもかかっていますよね。お好きなんですか」

 ふきんでカウンターを拭きながら問うと、読書をしていた塩田泉は視線をあげた。

「曲というより、弾いている人が好き」

「誰だろう。俺でも知ってる人かな」

「フジ子・ヘミング。知ってる?」

「名前は聞いたことがあります」

「カッコいいババアだよ」


 ババア、といういささか過激な表現の裏には、敬意と愛情が含まれていた。

 既知の間柄のように彼女をババアと呼ぶ塩田は、「ラ・カンパネラ」をバックにぱらりと文庫本をめくる。「かっこいいジジイとババアは、見ていると希望が湧く」


「希望」

「老いることへの希望。こういう人がいれば、年を重ねるのも悪くないって思えるでしょう」

「そうかも」

「テレビでも、不倫や不祥事を取りあげるだけじゃなくて、もっとこういうカッコいい大人の存在を教えてくれればいいのに、って思う」

「同感です」 テーブル席の小物をひとつひとつけて、綺麗に拭きあげる。「人の失敗を指摘する話題のほうが視聴率が取れるのは、ちょっと悲しい」

「教育上問題のある表現はすぐに『子どもに悪影響だ』とか言って改めるのに、熱愛だとか不倫だとか、プライバシーに踏みいる報道は野放しだしね。なにより、他人のすべてを知り尽くさないと気がすまないっていう欲望が透けて見えるようで、私は嫌だな」


 ふきんの面を変えつつ、彼女を見た。

 いまは亡き姪のことを考えているのか、読書の手を止め、入り口のほうをぼんやりと見ている。


「姪御さん、この店に来たことあるんですか」 思いきってたずねる。彼女はかぶりを振った。

「ない。昔は遊んであげたこともあるけれど、兄が離婚してからは音沙汰なかったし、テレビでしか見たことがない」

「……すみません」

「どうして」

「軽率な質問だったかもしれないと思って」

「気にすることじゃない。もう二年になるしね」


 静かに告げ、ふたたび本に目を落とした彼女が、どこか寂しげな雰囲気をまとっているように思えて、夏目は何も言えずにテーブルを強く拭いた。

 同じ姿勢のまま、彼女がだしぬけに言った。


「『生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏み外した人の有様ありさまも思い浮べて、幸福な自分とてらし合せて見ないと、わが難有ありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない』」

「?」

 振り向いて正視する。そこで彼女は視線をあげ、互いの目線がかちあった。

「夏目漱石の文章」

「俺には、……すこし難しいです」

「その仕事をしていたら、いずれ分かるようになるかもね」


 彼女はゆるく笑み、なにごともなかったかのように読書を再開した。

 夏目漱石のどの作品だろう、あとで島崎に聞いてみよう。

 そう思考に留め、また手を動かす。




 *****




「『死んだ人のことを考えないと、自分が生きている価値も死んでいった人の気の毒さも分からない』とかなんとか、そんな感じの文章です」


 火曜日、事務所にきた島崎に聞いた。思い当たる作品にすぐ彼の思考は行きついたようで、ああ、と合点が行った顔をした。

「持ってこようか」

「うかがいますよ」


 じゃあ、ときびすを返す背を追い、事務所のドアを閉める。

 全く同じ間取りの隣の部屋、島崎の居住スペースに、その日はじめて足を踏みいれた。

 彼はいったん、廊下を右に行って洋室のドアを開けた。寝室兼作業部屋らしく、ベッドのほかに事務机と椅子があった。

 机は天板が可動式で、立ってちょうど良いくらいの高さに設定されていた。ゲーミングチェアと呼ばれる類の立派な椅子があり、デスクトップ型パソコンが置かれた机のうえには本と紙が散らばっている。

 机の左右を挟むかたちで背の高い本棚がふたつ。塩田泉の店で見た本棚同様、上段から下段まで、びっしりと本がおさめられている。

 ベッドの上には洗濯を終えた服が乱雑にほうってあり、机やベッドのうえは散らかっているのに床面には不要なものがいっさい落ちていないのがアンバランスだった。


「……本当に作家なんですね」

「さらっと失礼なことを言うね。あ、こっちじゃねえな」


 棚を一瞥して言うなり、彼はリビングに戻った。

 事務所ではテレビが置かれている場所に本棚が置かれ、ソファやローテーブルに読みかけと思しき本が積まれている。

 隅に小ぶりの机があって、Youtube動画で出てくるダックスフントのパペットがあった。こちらも洋室同様、テーブルの上は散らかっているが床の上は綺麗だった。

 彼は本棚を前にさぐるように指をさまよわせ、一冊の本を抜き取って渡してきた。「文鳥・夢十夜」と題されている。


「その中、『思い出す事など』ってやつに書いてある。エッセイみたいなもんだよ」


 該当するページを繰り、喫茶店に向かう車内で車酔いに注意しつつ読み進めた。塩田の言っていた文はほどなくして見つかった。序盤のほうに書かれていた。

 漱石が危篤状態に陥っていたあいだに、彼が世話になっていた人が亡くなった。危篤状態を脱した彼がそれを知り感じたことをつづる文章だった。


「泉さん、この仕事をしていれば、この文章の意味がそのうち分かるようになる、って言ってました」

「どうだかねえ。あの人もわりとテキトーなこと言うからさ」

「甥っ子に似て?」

「逆だろ、俺があの人に似た。……いや、似てない。俺は適当なことを言わない。発言するとき、つねに誠実を心がけている」

「誠実な人はそういうこと言わないと思いますけど」

「夏目くん、年上が言うことは時にそれが賛同しかねるものであっても頷いておくほうが良いときもあるんだぜ」

忌憚きたんなく意見の言いあえる風通しの良い職場にしようと思って」

「ああ言えばこう言うなあ、まったく」

「島崎さんには心を開いているから、何でも率直に口にしてしまうんですよー」

「だからなんで棒読み?」


 喫茶店に着く。森文香が待っていた。

 薄い青色のシャツにジャケット姿の彼女は、こちらに気づくなり手を挙げた。


「お待たせしてすみません」

「いえ、私が先に来ただけですから、どうぞ」


 前回同様にふたり並んで座る。彼女のぶんのコーヒーをサーブしたウェイターに注文を伝える。新人らしき彼がメモを取りながら席を離れるとすぐ、森はかばんから小さな封筒を取りだした。


「父と母に聞いてみたら、覚えていました。写真を見せたら、ああずいぶん老け込んだがこの人に違いない、と」


 茶封筒から取りだされたのは現像された写真だった。

 デジカメではなく、昔ながらのフィルムタイプのインスタントカメラで撮られたもので、右下には当時の日付がオレンジ色で記載されていた。


 映っているのは幼い少女と、その後ろで微笑む男性。店の前で撮られたもので、「定食の森」とのれんが出ている。平屋の和風家屋のこの店が森の実家のようだ。

 男性は前に立つ少女の肩に手をおき、もう片方の手でぎこちないピースサインをしている。肩には鮮やかな赤色のタオル。穏やかな雰囲気の笑顔、素朴な面立ち。二十年前の菊池宗助氏に間違いなかった。

 手前の少女は、赤いズボンに黄色のトレーナーを着、両手でピースサインをしている。子ども特有の紅潮した頬に小さな手指。あどけない姿は、見るものを微笑ましい気分にさせる。


「手前のお嬢さんは森さんですね。後ろが菊池さん」島崎が断定口調で言うと、森は頷いた。

「ええ、彼が映っているのはこの一枚だけでした。これ、前のお店なんです」

「前のお店?」 夏目が聞き返すと、森は目を伏せる。

「中越地震で、店が被害を受けまして。前のお店もインターチェンジの近くにあったんですけど、いま構えている場所とは距離があります」

「そうだったんですね」

「菊池さん、真冬の日にフラッとうちに食べにきたんです。父が様子がおかしいのに気づいたらしくて。ぼうっとしていたかと思うと急に涙をぬぐって、声を殺して肩を震わせていて、なにかあったに違いないと思った、と」


 森の父は、親しい人を亡くしたか、仕事を失ったのではないかと勘ぐった。

 やつれた顔をしていて、身なりもきちんとしていない。体臭こそしなかったが、がっつくように食事をたいらげ、食べながら肩を震わせ、しかし泣いていることが周りの客に気づかれないようにと肩をすぼめ、まるで自分がその場に存在しないように振る舞っている中年の男を、注意深く見守っていた。

 帰るまぎわになにか声をかけようと注視していたのだが、それよりも先に一人娘が彼に声をかけた。まだ小学二年の娘は、空気を読む行為がなんたるものかも知らない年頃で、その無垢さゆえに常連客から大層かわいがられてもいた。


『おじちゃん、どうしたの』


 あぐらをかいている男の横にちょこんと座って、大好きなアライグマのぬいぐるみを振り、娘は無邪気に問いかけた。男は言葉を継げずに、首をただ振っている。

 愛娘は男を不憫に思ったのか、元気づけようとしたのか、アライグマのぬいぐるみの細く小さな前足で男の肩をちょんちょんとつついて言った。


『お歌うたってあげる』


 ぬいぐるみをリズミカルに振り、学校で習ったばかりの「手のひらを太陽に」を男に歌って聞かせた。


 ぼくらはみんな生きている 生きているから歌うんだ、ぼくらはみんな生きている 生きているから悲しいんだ。


 幾人かの客は目を細め、歌に耳を傾けている。ちいさく口ずさむ者もいた。

 歌い終えると、よっ、と掛け声が店内から湧き、自然と拍手が巻きおこった。照れくさそうにする娘を見、男もなにか思うところがあったのか、幾たびか涙をぬぐった。


「父がそこで割って入って、それとなく事情を聴いてくれました。私は父の膝に座って、なんでこの人はこんなに泣いているのだろうと不思議な顔をしていたそうです」


 ――あんた、なんかあったか。思い詰めたような顔をしてるが。


 娘を膝に乗せ、娘はぬいぐるみを膝に乗せている。

 いやあ、と渋らせていた男も、抱えきれなくなったのだろう、息せき切って話しはじめた。

 会社が潰れ転職もままならず、妻と別れ家を手放した。ありていな話だと分かっているが、気持ちが塞ぐ。金も尽きてきたが、まだ働ける身体だから生活保護は申請できない。

 職種を問わず色々と受けたが、どこも応募が殺到していて自分はまず年齢で弾かれてしまう。貯金を切り崩して糊口ここうをしのいできたが、精神的にもう限界になって、なにも考えずに車を走らせてきた。

 知りあいの伝手つてを頼ろうにも、もっと切り詰められるだろう、この不況のなかじゃ、お前より苦しい生活をしている者はごまんといるのだと言われるばかりだった。なんとか堪えねばと思ってきたが、ぷっつりと気力が途切れてしまった。

 離婚し、両親も死に兄弟もおらず、親しい親戚もおらず、侘しくて寂しくて仕方がない。

 中年男がなにを言うかとあなたは怒るかもしれないが、もういっそ死んだほうが楽かもしれないと思って、死に場所を探してこのインターで下りた。

 最後に何かうまいものを食おうと入った店で、こんな可愛らしい子が歌ってくれて、なんだか泣けて仕方ない。いまさら命が惜しくて仕方がない。

 男はそんなふうなことを涙交じりに話した。娘がぬいぐるみの手にティッシュを持たせてあふれるそれをぬぐってやると、不思議と男の目からはとめどなく涙が流れ続けるのであった。


「父はおせっかいで世話焼きなもので、常連のドライバーさんがたに話を向けたのですが、すぐに紹介できる先はなくて。母と相談して、居候という形でうちの手伝いをしてもらうことにしました。ちょうどそのとき、パートで手伝いに来てくれていた方が産休に入ったのもあって、手が足りなくて」


 いいんですか。こんな私で、いいんですか。

 涙を浮かべて礼を言い、一生懸命に働きますと深く頭を下げた菊池氏の姿を、森の父は印象深く記憶していた。彼自身が、トラックドライバーから脱サラして店を始めた経歴の持ち主であったことも大きい。

 タイミングが合わなければ彼のように路頭に迷う生活をしていたのかもしれない。こうして妻子を養い店を営業できているのも単にひとつの巡り合わせであり、自らのあずかりしれぬ運の世界のものであり、決して自分が出来た人間であったり、優れた商才を持っているからではないということを、彼はじゅうぶんに心得ていた。


「半年ほど、菊池さんは家に住みこみで手伝いをしてくれました。私は彼に懐いていて、遊び相手をしてもらうこともあったし、歌を聞かせてあげることもありました」


 彼女は記憶をたどり、整理し、なるべく時系列順になるように話した。

 そして、菊池宗助氏が遺言状を遺すにいたる理由が明らかになっていった。

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