#16 類は友を呼ぶ


「こんにちは」

「こんにちは……」


 松川に続いて、そろそろと足を踏みいれる。

 階段や廊下とは雰囲気を異にし、室内は明るかった。

 さほど広くはない。カウンターが五席にテーブル席が四つ、それに一人掛けのソファがいくつか。こじんまりとした店だ。

 カウンターやテーブル、椅子は光沢のある黒で統一され、デザインもシンプルだった。ところどころに置かれたインテリアは鮮やかな赤で、空間に映えた。シックな黒と洗練された赤が溶けあって上品な雰囲気を醸している。

 各席にはランプが吊るされ、淡いオレンジ色がゆらめいている。ほどよく簡素で、ほどよく暖かさがあり、ほどよく清潔感があった。


 驚いたのは、カウンターの後ろに本棚があったことだ。こういう店ではさまざまなな種類の酒がぎっしり棚に詰まっているものだと思っていたが、酒やグラスの代わりに本が詰まっている。ハードカバーから文庫まで、所狭しと。

 カウンターの向こうにショートヘアの女性が座っていた。文庫本を読んでいたらしい彼女は、鐘のでこちらに顔を向けた。黒髪に黒いTシャツ、黒いエプロンをしていて、色白がきわだつ。


「いらっしゃい」

「どうも」


 松川はにこやかに挨拶をし、夏目を振り返った。「びっくりするでしょう」

 見知らぬ場所に連れてこられた猫のように周囲を見回していた夏目に、松川はカウンター席を示した。

 店内にはピアノ曲が流れていて、クラシックに疎い夏目でもそれが「ノクターン」であることはかろうじて分かった。

 ほかに客はいない。営業している店に来たというより、彼女の読書を邪魔してしまったように気にさえなる。

 カウンター席に着くと、にゅっと手が伸びてきてお絞りを渡される。


「後輩? なわけないよね」


 女性は静かだがよく通るハスキーボイスで言った。松川にも渡し、次いで冷やのグラスが静かにおかれる。

 化粧っ気はないものの色白の肌はきれいで目鼻立ちも整っており、島崎と顔の系統は同じであった。母だと言われても納得するくらいには似ていた。

 愛想笑いをするタイプには到底見えず、かけられた言葉もそっけなさを感じたが、なぜだか不躾だとは思わなかった。親しいがゆえのぞんざいさという言葉がふさわしい。


「いえ、あいにく違います。こちらは夏目拓未さん。大学生で、島崎さんの遺言配達業の助手になったばかりです。夏目さん、こちらが店主の塩田しおたいずみさん」

「はじめまして、夏目です」 軽く頭を下げると、彼女も礼で返した。

「はじめまして。知聡ちさととは、うまくやれてる?」

「いまのところは」

「いまのところは、ね」 そこで初めて彼女は笑みを見せた。笑うと少しだけ顔が幼くなる。「物怖じしない子だ」

「でしょう? 最初に僕と会ったときには、迷わず島崎さんの隠れ場所を教えてくれました」

「どうせ浴槽の中でしょ、いつまで経ってもチョイスがガキなんだから」


 塩田は黒いカバーのメニュー表を寄越よこした。

 コーヒーは10種類以上のラインナップがあり、ソフトドリンクや酒も充実している。反面、フードメニューはフライドポテトとホットドッグしかない。

 ランチメニューも「その時々のおすすめ」か「店長の気まぐれ」の二種しかなかった。いずれにも「その時々のおすすめドリンク」と「その時々のサラダ」がつくと書いてある。アレルギーと好き嫌いがある方はお申し出ください、と添えられていた。

 おすすめメニューについて、思い切って聞いてみることにする。


「あの、『その時々のおすすめ』ってなんですか」

「今日はオムライス」

「『店長の気まぐれ』は」

「今日はチキンライス」


 卵があるかないかしか違わないじゃないですか、という言葉が出かかったが、塩田が飄々と言ってのけるのでなにも言えない。

 こういうところは島崎と似ていると思った。松川が横から助け舟をだす。


「ホットドッグもおいしいですよ。ご飯ものは好きな量で作ってくれます」

「じゃあ、ホットドッグと、オムライスを少なめで」

「僕も同じもので」

「了解。君、炭酸は飲める? 甘いものは平気?」メニューを回収しつつ塩田は問う。

「飲めます。甘党です」

「よろしい。待ってて」


 彼女は言いのこし、カウンター奥の扉に引っこんだ。オーダー、と声をかける。

 彼女の低い声はよく通り、はいよ、と応じる野太い声がした。


「いま返事したのが、ジャーナリストの叔父さんですか」

「そうです。二人で経営しているお店で、半分道楽みたいな感じです」


 道楽みたいなもん。

 島崎も、遺言配達業をそう称していた。血筋なのか、島崎が塩田の影響を色濃く受けたのか。


「島崎さんは、よくここに?」

「ええ、食事がてらね。連絡がつかないときは、まずここを見に来ます」

「塩田さんと島崎さん、似ていますね。顔も雰囲気も」

「育ての親みたいなところもありますから」


 松川は、それとなく島崎の家庭事情を話した。

 彼の実父は、妻――島崎と畠山桜子の母でもあり、二年前の事故で他界した女性――との離婚後、島崎が中学にあがるころに再婚している。

 島崎と継母の関係は決して悪くはないが、彼のほうがなんとなく距離を置いており、父の再婚以降は塩田の元へ身を寄せることが多くなった。

 ともに子どもが苦手で、子どもを持たない方針を固めていた塩田夫妻は、すでに手のかからなくなった年齢の島崎が入りびたるようになっても特に気にせず店を営業した。置いている小説を彼が読むようになると、それとなく彼の好きそうなものを補充してやり、彼が書く側に回れば静かに見守っていた。

 家庭環境の変化が強い負担だったのか、いっとき島崎は日がな一日この店で読書をし、学校に行かない日が続いていた。

 塩田夫妻は息子を心配する兄(あるいは義兄)をなだめ、島崎のために店を開けていた。彼自身、そのことに感謝もしており、夫妻には頭が上がらない。


「この店で小説と出会い、この店で小説を書きはじめたそうです」

「藤原雅之としての原点なんですね、ここは」

「僕みたいなファンにとっては、ここは聖地です」


 真正面の本棚を見つめる。

 純文学から軽めの小説まで、国内外問わず色々なジャンルが揃っている。文学に疎い夏目でもタイトルくらいは知っている作品が並ぶ列があれば、作者名すら読めない列もある。


「本は読む?」


 塩田が小皿をふたつ載せたトレイを片手に、カウンターに戻ってきた。


「最近、島崎さんの本を読んでいます。母がファンだったので」

「どう?」

「まだ最初の二十ページくらいなので、なんとも」

「それは『読んでいる』とは言わない。『読みはじめた』と言う」

「本人にも同じことを言われました」

「面白い子」


 サラダがサーブされる。

 レタスやキャベツ、トマトにコーンが綺麗に盛られ、カボチャサラダが添えられている。


「どういう経緯で知聡のところに?」

 グラスとコーヒーカップを出しながら問うた彼女に、簡単に説明をした。

 彼女はなにも言わず聞いていたが、母が亡くなったことに触れるとコーヒーを淹れる手を止め、「なにかあったらいつでも来ればいいよ」と、素っ気ない口調で告げた。その気遣いが沁みた。


「後ろの本は島崎さんが読んだ本ですか」

「だいたいは。あとは、私と旦那の好きな本」

「母の本棚を制覇したら、おすすめを紹介してください」

「知聡のですらまだ二十ページでしょう? 何年かかるかな」


 コーヒーの香りが店内に満ちてゆく。

 流れているピアノ曲は激しい曲調のものに変わっている。

 ぷしゅ、と空気が漏れる音が彼女の手元で鳴った。

 身を乗りだして見てみると、グラスに炭酸水が注がれ、鮮やかな緑色が浮きあがるところだった。「その時々のおすすめドリンク」は、客に合わせて作ってくれるらしい。


「メロンソーダだ」

「好き?」

「発表会とか運動会で頑張ると、喫茶店に連れて行ってもらいました。メロンソーダとパフェを食べた思い出があります」

「そっか」


 塩田はバニラアイスとサクランボを手早く乗せ、ストローを挿しスプーンを添えてこちらにサーブした。ドリップしたコーヒーは松川のもとへゆき、彼女はメロンソーダを作るのに余った炭酸水を別のグラスに注ぐ。


「お母さんに」


 献杯の意をこめて彼女はグラスをかがげた。

 ほかの人間がすれば気障きざに見えるしぐさでも、彼女がすると格好良かった。夏目も、メロンソーダを持ちあげて応じた。

 ひさびさに飲んだメロンソーダは記憶以上に甘く感じられ、しゅわしゅわとした炭酸が口いっぱいに広がり心地がよかった。

 目を輝かせてごくごく飲んでいた幼いころの自分と、それを正面から見つめていた母が思いだされた。

 しばしして、奥から一人の男が出てきた。

 背が高く恰幅もよく、塩田と同じ服装をしているが、色白の彼女と対照的に肌は日に焼け健康的な色をしている。

 趣味でボディビルをちょっと、と言いそうな見事な肉体を黒い服に押しこめるようにしていた。力こぶを作ればシャツの袖がはち切れるのではないかと思うほどに。


「お待ち、おすすめとホットドッグ」


 ラーメン屋の店員を思わせる張りのある声でありながら、皿をおく手つきは丁寧だった。

 ワンプレートに小ぶりなオムライスとホットドッグが並んでいる。オムライスにはケチャップでネコが描いてあった。身体も声も手も大きい彼が、小さめのオムライスにケチャップでネコを描くところを想像すると不思議な心持ちになった。

 先にホットドッグを手にとった。千切りキャベツと焼いたソーセージを挟んだだけのシンプルなものだが、キャベツにカレー粉がかかっていて、スパイシーな香りと風味に食が進んだ。わずかな甘みはバターでソーセージを炒めているからかもしれない。塩コショウのアクセントもきいている。


「おいしい」するりと口から感想が漏れでた。口にするものがおいしいと感じられたのはしばらくぶりだった。男性は満足そうに歯を見せて笑う。

「知聡の好物だ。好きな作家の小説に出てくるメニューで、同じものを作ってくれとせがまれて再現してみた」

「そうなんですか。島崎さんは喜びましたか」

「『たしかによくできてる』って感心しながらペロッとたいらげた」

 

 いったい誰目線の感想なのだと思い、島崎らしい感想だとも思った。

 男はそこで塩田かおると名乗り、ジャーナリストとしての名刺を差しだしてきた。あわてて口のものを飲みこみ、夏目も名乗る。


「ホームレスの方に関する記事を書かれたと聞いています」

「書いた。俺はガタイがでかくて威圧感があるから、知聡に取材を手伝ってもらった。あいつが声をかけた方が、たいがいうまくいく」

 でしょうね、と口から出かけた言葉もホットドッグとともに飲みこむ。

「彼らに食料を提供したりボランティアをしていた人のなかに、赤いタオルを首に巻いたお爺さんがいたのは覚えてますか」

「ああ、いた。首にタオルがあるのに汗を拭くときは別のを使っていて、不思議に思って声をかけた。タオルはお守りだって言ってたな」塩田薫はカウンターに両手を置き、前に体を傾ける。隆々とした腕の筋肉が盛りあがりを見せた。「これを持ってると心がしゃんとするんだ、って言っていた」

「心がしゃんとする?」

「『寄る年波に勝てないときや、自分の行動ひとつじゃ何も変わらないじゃないかと無力感を感じたときは、このタオルを見る。そうすると、もう少し頑張るぞ、と思える』みたいなことを言っていた。ずいぶん大事そうにしていた」

「その人が、こんどの依頼人?」塩田泉の問いに、首肯する。

「受取人は、そのお爺さんのこと覚えていなくて。いま、思いだそうとご両親に聞いてもらってます」


 オムライスを掬って口に運ぶ。

 玉ねぎのしゃきしゃきとした触感が感じられ、味つけも夏目好みだった。ひとくち食べてから、そういえば自分はあの雇用主から、依頼人や受取人に関する守秘義務についてなにも聞かされていないことに気づいた。眼前の彼らに言ってよかったのかと不安がよぎる。


「依頼人の話、しちゃダメだったかな」 口をついて出た不安に、松川が微笑む。

「おふたりは口が堅い方ですから、ご安心を」

 その言葉に安心してもうひとくち、口にいれる。確かに、少しでも口が軽ければ島崎の正体はとっくに世間に知られているに違いない。

 とはいえ、次からは外部で安易に顧客の情報を漏らさないよう気をつけねば。

「……オムライスも美味しいです」

「いつ食べても変わらない味ですねえ。安心します」松川もしみじみ言った。

「出来あいのやつをレンジでチンしただけだからね」

 塩田泉がさらりととんでもないことを言うので夏目の手は止まった。

 慌てて塩田薫が「泉、この子が信じちまうじゃねえか」といさめ、冗談かと胸をなでおろした。

 冷静で落ち着いた雰囲気の彼女が言うと、冗談には聞こえなかった。松川は夏目の反応を見て声をあげて笑った。

 塩田薫が取材で聞いた内容、菊池氏と接触して覚えていることをできるだけ詳しく教えてくれるあいだ、夏目は時にうなずき、時に相槌を打ったり質問をしたりしつつホットドッグとオムライスを綺麗に食べ終えた。

 食後に、塩田泉がサービスだと言って小ぶりのパフェを振る舞ってくれた。ありがたくいただき、それを食べ終わるタイミングで入り口の鐘がカラコロと鳴った。


「疲れた、もう仕事したくない」


 開口一番に愚痴をこぼしながら入ってきた島崎に、塩田泉が「あんまり待たせるんじゃないよ、松川くんもヒマじゃないんだから」と釘を刺す。

 現に、夏目がデザートを食べているあいだに松川のスマートフォンは二度ほど鳴り、途中から彼はタブレットで何かしらのやり取りをしていた。


「これくらいは許容範囲内ですので、お気になさらず」 悠然と笑みをたたえる松川だが、かえって恐ろしいのか、島崎は深くお辞儀をしながら原稿を手渡した。

「こちらになります。あと、目を通して要望を入れたいところは入れたから」

「はい、おあずかりいたします」

「もっと計画的に仕事できないものかねえ」塩田泉はあきれ顔で甥を見つめる。バツが悪そうに島崎は顔をそらした。

「『言うは易く行うは難し』ということわざがありまして」

「あんたの場合は『絵に描いた餅』でしょ」


 ぴしゃりと塩田泉が指摘する。

 松川の隣に腰かけた島崎が「同じことを今日、夏目くんにも言われた」と苦々しくこぼすと、塩田夫妻は顔を見あわせて笑った。


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