#12 虎穴に入らずんば虎子を得ず



「本質を見極める……」窓に向けて放った言葉は、松川の耳にも入ったらしかった。

「ん?」

「母の手紙に、そう書いてあって。想像の範囲外にあることを理解しようと努めなさい、って」

「素敵な言葉ですね」

「ありがとうございます。……今日、遺した側と遺された側、それぞれの話を聞いて気持ちが揺れました。片方から見えている景色が、もう片方からだと違って見える。見えている景色はお互いに全然違っていて、……真実なんて、見方によって変わるものかもしれない。そう考えたら、本質を見極めるのはすごく難しいことなんじゃないかって」

「なかなか深いことをおっしゃる。僕もその意見には賛成です。人間、見えている側を事実ととらえがちです。しかも、その見えている部分ですら自分の都合の良いように切り取ったり、バイアス……偏見や偏向をかけてしまう」


 赤信号に捕まった。いささか急ぎみなブレーキに前のめりになる。

 焦って運転しているのかと思うほどだが、彼はいたって平静なようすで、このやや雑なドライビングが彼の通常運転のようだった。


「違う側面が見えてくれば正しく理解できるかと言われると、決してそうでもない。力を持つ人の言葉に従わざるをえない空気があれば、人は自分の見た事実を簡単に捨てもする。それに、間違った捉えかたをするようなトラップも世の中には多いです」

「トラップ?」

「たとえば、一定の方向に意見を集約させようとする動きです。ネットニュースの見出しなんか、そうじゃないですか? 有名人が何か意見を言ったときに、『疑問を呈した』という言葉を使うか、『不満タラタラ』という言葉を使うかで印象は大きく変わる。『不満タラタラ』だったら、コメントもネガティブなものが多くなるでしょうね」

「言われてみれば、そうかも」

「ただ、本質を見極めようと努力し、知らないものを知ろうとする気持ちがあれば別なんじゃないでしょうか」

「……」

 松川は信号が青になったと同時にアクセルを踏んだ。かくんと身体が揺れる。

「見えているものや聞こえてくるものから情報を収集し、いかに考え、想像するかという問題かもしれません。僕も、身内からそういった話を言いふくめられます」

「ご両親にですか?」

「いえ。……僕、上にひとりいるんです。二つ上だから、島崎さんと同い年。国家公務員でバリバリ働いています。昔、『誰しもみんな、ある種の地獄を持っている。その地獄の深さを勝手に決めるな』と言われたことがあって」

「なんだか哲学的だ」

 地獄、という言葉を小さく繰り返した。人それぞれの、地獄。

「でしょう? とても、子どものころ僕にさんざんプロレス技をかけてきた人の言葉とは思えない」

「うわあ」 気の毒そうな声を上げた夏目に、松川は笑って続けた。

「米のとぎ汁をカルピスだと言われて飲まされたことや、カエルを背中に入れられたこともあります。向こうのほうが口も達者で頭の回転も早いし運動神経も良かったので、たいがい敵わなくて」


 夏目の脳裏に、少年時代の松川がプロレス技をかけられて悶絶している姿や、カエルを背中に入れられて泣きべそをかいている姿が浮かんだ。


「それはそれは……」

「でも、僕がガキ大将からいじめられたときには仕返しに行ってくれました。あれは倍返しどころの騒ぎじゃなかったな。おかげでそれからは平和に過ごせました。……僕が大学を中退して今の会社に入ったころ、どうしても生活が厳しくて『5万でいいから貸してほしい』と頭を下げたら、ポンとその十倍の額を渡してくれたこともあります。稼げるようになって返そうとしたら、『貸した覚えがない』としらばっくれて、受け取ってくれなくて」

「優しいお兄さんですね」

「……引っかかりましたね」

「へ?」 松川を見る。彼はにこりと笑った。

「僕は『上に一人いる』と言いましたが、だとは一言も言っていませんよ」

「え、お姉さん、ですか」

「ええ。……バリバリ働いている、プロレス技を掛けてくる、カエルを背中に入れる、ガキ大将に仕返しする……僕は彼女に対する事実を言っているだけでも、夏目さんは情報から男だと誤認した。世の中には、こういうことがきっとたくさんあります」


 身をもって実感した。言葉ひとつ取っても、正しく理解することは難しい。

 では、死の淵にいる人が、残される人に送る手紙はどうか。

 齟齬そごのひとつもなしに正確に伝わるか。遺す側の意思を汲み、正しく伝えられるのは、託される島崎や自分なのではないか。勝手な使命感が胸にわきあがる。

 車がマンションの近くまで来た。ここでいいですと告げ、降りる。地に足をつけたらふらついた。そう長くはないドライブで、知らぬ間に酔ったのかもしれない。


「ありがとうございました。色々とお話を聞けて、参考になりました」

「こちらこそ。長い付き合いになるかと思います。どうぞよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 互いに一礼をし、静かにドアを閉める。去っていく車のテールランプを見えなくなるまで見送ってからマンションに入った。

 ただいま、と言っても誰も答えない空間が自分を迎える。

 だが、母が亡くなってからいだいていた、何となく部屋がだだっ広く感じられるあの喪失感は薄まっていた。

 洋室に直行し、線香をあげる。手をあわせ、問いかける。


 手紙を受け取りました。運んできたのは変な人で、変な人の仕事を見学して手伝うことになって、良い人とも知りあい、変な人が小説家で畠山桜子の弟だということを教えてもらいました。

 夏目は遭遇した出来事の妙に口角が上がるのを感じた。いつかこの日を振り返るときがくれば、なんて盛りだくさんな一日だと感服することだろう。

 白檀の香りが強まって、部屋を満たす。そっと立ちあがって本棚に近寄った。


――気になるなら、杏子さんの本棚を覗いてみたら?


 その発言の真意を確かめるべく、彼の本を手にとった。

 最新刊は新品同様の状態で、母が読んだかすら怪しかった。この本ではないのか、と諦めて次の一冊へ。ぱらぱらとめくるも、特に変わった点はない。

 適当なごまかしだったのかもしれない。自分をからかったのかも。思った以上にデリカシーがない人だ。

 そう思った矢先、最後のページまでめくった勢いでカバーが外れてしまった。

 つけ直そうとして、手が止まる。

 カバーの内側に、黒ペンでサインが書いてある。

 藤原雅之、と読める。

 日付は、この家に島崎が訪れていたころ。母がまだ自宅療養していた時期。

 夏目杏子様へ、と宛名があって、メッセージは何もない。

 なぜだか、サインを見たとたんに、自らの双眸そうぼうに込みあげるものを感じた。


「どう思っただろうなあ」


 憧れの作家本人の顔を拝めて、どう思っただろう。彼を思ってか、自分には何も言わなかった。文字通り、墓場まで秘密を持っていってしまった。

 何十年後か先にあちらで会ったとき、あなたが好きだった作家は実際はこんな人だった、と話ができればいい。作品も読んでみよう。新作がどう展開したか話してあげよう。刊行されたらサインをねだって、仏壇に供えてあげよう。

 ぽたぽたと雫が落ちた。

 水性ペンで書かれたサインにじんだ。しまった、と思ってから本を棚に戻して、胸に押しよせる寂寞せきばくをやりすごした。

 また書いてもらえばいいじゃない、と、母の朗らかな声が聞こえた気がした。


 一週間もしないうちに島崎から連絡があり、ふたたび事務所をたずねた。

 正式な労働条件を提示され、源一郎先生が分かりやすく説明をしてくれた。おおよその内容は島崎が言っていた通りで、アルバイトとしてはかなり高給だった。

 応諾して署名・捺印し、晴れて夏目拓未は島崎知聡が代表を務める株式会社デリバリーウィルのアルバイトとして採用された。


「よろしくね」

「よろしくお願いします、代表」

「固いなあ。島崎でいいよ」


 午後には松川が別件のに来、改めて挨拶をした。彼は真剣な顔で「本当に何かとお世話になると思います」とかしこまった口調で言い、紙袋を差しだした。包装紙を見て、夏目は感嘆の声をあげた。


「銀座千疋屋だ!」

「親子そろって甘党らしいと島崎さんからうかがったものですから」

「ありがとうございます。母にも供えます。きっと喜ぶ」

「どういたしまして。こちらこそ、なにかとお世話になるかと思いますので。……島崎さんと連絡が取れないときは、夏目さんに連絡させていただくかもしれません」

「分かりました、出来る範囲で居場所を情報提供できるように努めます」

「監視役が二人に増えた気分だな」島崎はぼやいた。「さすがはビッグ・ブラザー」


 依頼を遂行する日に給料が発生するが、事務所への出入りは好きにして構わない、と島崎は合鍵を渡してきた。

 母に関するもろもろの処理を済ませるあいま、家にひとりでいて気持ちが沈むときはなるべく事務所に顔をだした。

 時に松川がおり、時に誰もいない空間でコーヒーを淹れ、持参した本を読む。つかの間は孤独がまぎれた。秘密基地が出来た気分だった。


 採用されてから初の出勤日が発生したのは次の週、火曜日である。

 さいわい、その日唯一入っていた講義が休講だったたため、夏目は九時過ぎには事務所のドアを開いた。


「お疲れさまです」

「お疲れ。今日は配送1件。これから受取人の会社に行きます」

「はい。依頼人はどんな方ですか」

「身寄りのない爺ちゃん」

「身寄りがない……受取人は誰ですか?」

「赤の他人。受取人も爺ちゃんのこと覚えてないんじゃないかな」


 じゃ、行くよー。

 間のびした声をあげ、島崎はマスクを着けて玄関に向かった。

 身寄りのない老齢男性が、赤の他人に向けて遺言状を書く。

 いったいどんな状況なのだろう。夏目は島崎の背を追った。


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