#11 人の口に戸は立てられぬ




「女優の、亡くなった、交通事故の、そっくり」

「あはは、思考がちょくで口から出てるよ」


 驚きのあまり大きな声を出した夏目を、島崎は笑ってからかった。

 あらためて彼の顔に目を向けた。

 目もとが似ている。眼鏡をかけていると印象が違って見え、気づかなかった。

 陰影のはっきりした顔つき、二重の幅、鼻筋のラインから輪郭にいたるまで、畠山桜子に似ている。

 しいて異なる点を挙げるならば、畠山桜子は意思や心根こころねの強さを反映したようなきりりとした面立ちで、喜怒哀楽の表情がはっきりしていた。澄んだ水を連想する静謐せいひつな美しさをたたえていた。

 島崎はそれに比べ、奥底の知れない深海を彷彿とさせる。笑っているようなそうでないような、曖昧な表情を浮かべることが多いせいかもしれない。

 しかし二人は、並んで立っていれば双子だと言われても頷けるほど似ていた。


「畠山桜子さんは、ご家族ですか」

「姉」


 島崎は簡潔に事情を説明した。

 彼が二歳のときに両親が離婚し、父親が島崎を、母親が四歳だった畠山桜子を引き取ったため、姉の存在は知りつつも没交渉だった。彼女が先に女優デビューを果たし、二年後に島崎も作家デビューした。気づかれると面倒ごとが増えるので覆面作家になった。

 世間話をするような軽さで説明しているあいだに彼は眼鏡を拭き終え、かけ直した。畠山桜子の印象がとたんに薄れる。


「似てるって言われませんか」

眼鏡これかけてるとそうでもない。たまーに、気づく人は気づくけど」

「似てますね、って言われたらなんて返してるんですか」

「『そうなんです~実は生き別れの弟で~』」


 彼は即座に表情と仕草を作り、芝居がかった高いトーンで答えた。質問した側が冗談だと思うこと間違いなしの返しだった。はいはいそうですか、他人の空似ってやつですね、と勝手に納得したくなるほどには。

 その返答で、島崎にはその場でどう振る舞うのが最適かを見極める機転と、それを即座に実現しうる演技力と度胸が備わっていることを夏目は確信した。

 受け取った原稿を鞄にしまった松川は帰り身支度を始めた。


「じゃあ、僕はこれで。残りの原稿もお待ちしています」

「がんばりまーす。夏目くん、松川さんが送って行ってくれるから」


 まだ聞きたいことはあったが、素直にリュックを背負って松川の後をついていった。おいおい知っていけばいい。

 去りぎわに連絡先を交換し、ひらひら手を振る彼にコーヒーの礼を述べ、松川とエレベーターに乗りこんだ。


「びっくりしましたか?」

 扉が閉まってからをおいて、松川が上部の階数表示が動いていくのを見つめたまま声を掛けてきた。控えめの笑みが口元に浮かんでいる。

「はい、とても。誰かに似ているとは思っていたけれど、気づけなくて」

「覆面作家を貫く理由も、納得いただけましたか」

「有名女優の弟だと知られたくないんですね」

「ええ。……人間はバイアスの塊ですから」


 エレベーターが静かに一階に到達する。松川はごく自然な動作で先に出るよう促した。ときおり開くエントランスのせいか一階の空気は上階よりわずかに冷えていて、外の花壇に植えられている花々の残香がほのかに漂っていた。

 人間はバイアスの塊。

 その発言が頭に引っかかった。駐車場に向かう彼についていく。銀色のステーションワゴンに近づくとオレンジのランプが明滅し、ロックが解除された。


「女優の弟だから贔屓ひいきされたと言いだす人が出るってことですか?」

「そうです。小説が評価されたのも、作品が続々と映像化されたのも、コネを使っただとか、業界内で忖度そんたくしたんだとか、根も葉もない噂を立てる人は出てきます。……そういう人に限って小説そのものを読んでいないことが多いんですけどね。ご自宅はどちらですか?」


 夏目が口にした住所をナビに入れ、松川は車を発進させた。

 丁寧な話しぶりや柔らかな物腰とは反対に運転はやや雑で、ブレーキを踏むたびに夏目の身体はほんのわずか、シートベルトに食い込んだ。

 日は落ち、空の大部分は鮮やかな水色から深い紺に色を変えつつある。西の空は橙をはらみ、ぼんやりと明るい。

 松川は続けた。


「正体が知られたら作家を辞めるというのも、作品に『女優の弟』という新しいキャッチフレーズがつけられるのが嫌だからかもしれません」

「プライドを持っているんですね。自分の作品に」

「ええ。ああいう人ですけれど」

「……お姉さんが亡くなったときは、どんな様子でしたか」

「ほとんどいつも通りでした。畠山さんと会ったのは数えるほどしかなかったと聞いています。彼女がデビューしたころに連絡を取り始めたらしいんですが、畠山さんはメールやラインのたぐいが嫌いで、やり取りは主に電話だったそうです。……見返すことのできるやり取りの記録がなく、亡くなったことを実感できなかった面もあるでしょうね」

「そうですか……」

「ご存知かと思いますが、あの事故ではお二人の実のお母さまも亡くなっています。ご家族二人を一気に亡くされたのに、世間が大騒ぎするせいで島崎さんは葬儀にも参列できませんでした」


 大通りを車が進む。コンビニやファストフード店の看板が流れてゆく。人々は足早に歩を進め、さえぎるように客寄せの店員が声をかけている。

 葬儀会場に、故人と顔のそっくりな青年が現れたら騒然とするに違いない。畠山桜子はバラエティ番組にほとんど出ることがなく、プライベートを明かすことを好まなかった。

 生き別れた弟がいるとなれば、勝手にマスコミが張りつき、勝手にストーリーを作り、勝手に島崎の感情を代弁し、勝手に衆目を集めるのは目に見えている。

 最後にひと目見ることもかなわなかった島崎の心情をおもんぱかり、胸がぎゅうと締めつけられる思いがした。

 自分が母の最期を見届け、棺におさめられた彼女を見、燃えて骨となってゆく彼女を見送って骨を拾っただけに、それが出来なかった島崎の無念を思った。


 あの綽々しゃくしゃくとした態度の裏に、こんな事情があったとは。そして、それがまた島崎知聡という男の輪郭にかすみをもたらしている。

 遺言配達の仕事を始めた理由にも、姉の死の影響があるのか。折りあいをつけようとしているのか、あるいはなにか納得のいく理由を探しているのか。


「あの事故、いろいろ騒がれていましたよね」

「ええ、途中からは真相解明に躍起になっている番組もありましたね。報道の本質とは何かを考えさせられるほどに」


 信号が青に変わる。対向車のヘッドライトがちかりと光ってすれ違う。

 畠山桜子死去の報が流れたのは、今よりもっと遅い時間だった。リビングにいた母が驚きの声をあげたとき、夏目は風呂から出たところだった。

 事故は二年前の三月二十八日、時刻にして夜の八時ごろに起きた。

 当時の天候は雨。傘を差さねばずぶぬれになる勢いの、篠突く雨が一日じゅう降っていた。

 現場は都内某所の交差点で、横断歩道はあるものの歩行者用信号が青になるまでかなり時間を要する場所。大通りを一本外れており、混雑を避ける車が流れてくる通りだと報道では伝えられた。

 見通しのいい片側二車線の直線道路は信号もまばらで自然とスピードが出やすい。周囲は商業ビルが多いながら、いくつかの飲食店も軒を連ねている。平時の人通りはそこそこあるが、当日は雨ということもあって通行人は少なかった。

 畠山桜子――これが芸名で、本名は高瀬たかせ聡美さとみということも夏目は報道で知った――とマネージャーを務める母・直江なおえは、横断歩道を渡っている最中に大型トラックにねられた。ともに、ほぼ即死だった。

 真っ先に疑われたのはドライバーの信号無視である。しかし、トラックと後続車のドライブレコーダーを調査した結果、車側の信号は青であったことが証明されている。

 歩道を渡りたかったふたりが待ちきれず横断を始め、雨で視界が悪くトラックとの距離感を測りかねたのではと交通事故の専門家は情報番組で持論を展開していた。


 自殺説が出たのは死からわずか三日後。週刊誌記者が彼女の所属事務所社員から、彼女の当日スケジュールを入手したことで巻き起こった。

 いわく、その日は事務所スタッフ同席のもとで既に主演が決まっていた映画の製作陣と食事会の予定であったという。彼女のスマートフォンには、同席者より八時半に赤坂集合の連絡が入れられていた。

 送迎車を向かわせる予定だったのを所用があるからと断ったのは畠山自身である。楽屋でなされた会話はヘアメイクアーティストも耳にしている。所用の内容までは言及せず、母とともにタクシーで向かうと言っていたらしい。

 事故現場の交差点から集合場所の赤坂までは車で三十分以上かかり、仮に事故直前にタクシーを捕まえていても間に合わない。

 畠山桜子は時間に几帳面で、自らの手落ちで遅刻をしたことはなかったし、時間に厳格であれというのは母・直江の教えであることも周知の事実だった。

 これらがつまびらかになったとたん、自殺説が一気に沸きあがったのである。

 真偽のさだかでない情報が次々に飛び交った。


 実は、ドライブレコーダーに母の手を無理やり引っ張って飛びだした畠山の姿が映っていた。

 会う予定だった製作陣のなかに、畠山へ一方的にアプローチをかけて迷惑がられていた者がいた。

 ドラマで共演していた若手俳優と内密に付き合っており、彼から突然別れを告げられ思い詰めた。

 過保護で過干渉な母と今後の活動方針をめぐって口論になり、衝動的に車道に飛び出だした。

 移籍をめぐって所属事務所と対立していて、母ともども殺された。


 あれこれ推測する記事や真偽不明の噂は、連日世間をにぎわせた。

 事件性がなく事故死と断定したのちも、救急車が到着するまでに大雨で決定的な証拠が流れたのだと主張する者、トラックドライバーと後続車のドライバーは共犯なのだと陰謀を主張する者など、こじつけに近い流言はしばらくの間止むことはなく、一部の熱狂的なファンはいまだに真相を知りたがっている。

 悲運だったのは彼女らを轢いてしまったドライバーで、現場に集まった野次馬の写真で社名が特定され、言われない非難を受け、一時期は休業にまで追いこまれていた。


「あのニュースを見て、まざまざと思い知らされました」

 松川は緩急をつけて車を右折させた。ぐるんと彼の方に身体がかたむく。

「何をですか」

「人間は、どれだけ動かせない事実があっても、信じたいものを信じる都合のいい生き物だということです」


 静かな彼の声音ににじむ感情を、夏目は探ろうとした。

 島崎のあの人となりに、姉の死が大きく影を落としているのではないか。

 二年前、姉がまだ生きていたころの彼は、どんな性格だったのだろう。

 あの性格は生まれつきだろうか。それとも。


 街灯の下を車は通り抜けてゆく。見通しのいい直線道路を車は進む。

 夏目の両目は知らず知らずのうちに歩道に向いていて、飛び出してくる者がいないか注視していた。

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