#8 覆水盆に返らず
長い話を終えるころには、車は事務所にたどりついていた。
事務所といってもマンションの一室である。島崎は隣どうしの2部屋を借り、片方を事務所、片方を自宅としていた。
駐車スペースに車を入れ、ギアをパーキングに入れてハンドブレーキを引く。エンジンを切る。
とたんに車内は静寂に包まれる。
エアコンが切れた車内が、ゆっくりと温度を手放していく。
「俺のしたこと、君はどう思う」
黙ったきりの夏目に問いかけた。
彼は話の途中で相づちを入れることもなく、ずっと聞き入り、考え込んでいた。
母の言葉通り、事実の裏にある本質なるものを見極めんとしているに違いない。
「あとで家まで送る。事務所を案内する」
言い置いて先にドアを開けた。夏目は黙ってついてきた。
オートロックのエントランスを抜け、エレベーターで5階へ。角部屋、501号室が株式会社デリバリーウィルの事務所だ。表札も何もない。
依頼人がここに来ることは多くはない。もっぱら大神源一郎氏や彼の所属する法律事務所関係者などが出入りする。
リビングに夏目を通し、ソファで待っているよう言った。
1LDKの間取りだが、たいていの用事はリビングで済む。洋室の方は事務仕事部屋にしているが、なくてもいいくらいだった。
キッチンでコーヒーを淹れる準備を進める。電動のコーヒーミルに豆を放りこんでスイッチを入れると、夏目が寄ってきた。
「春彦くんは、決断できないと思います」
ぽつりと彼が落とした声はコーヒーミルが立てる音にかき消されそうだったが、かろうじて聞きとれた。
「同感」ケトルにミネラルウォーターを入れてスイッチを入れ、棚からマグカップを取り出す。「あの子には決断力が欠けている」
これを読んだほうがいいか。
去り
事実、いまは読むなと言外に釘を刺した島崎に安堵じみた表情をむけた。
読む覚悟ができたそのときにも、誰かに聞くだろう。その相手は父かもしれないし、伯母かもしれない。
幼少からの厳しいしつけ、言われるがまま母に勧められた学校に進学したという経緯、抑圧された環境。彼が自分で決意したことが何度あっただろう。誰かの意思や指示が介在せず、彼自身が決断をくだしたことは何度あったろう。島崎は静かに思いをはせる。
夏目は静かな
「聞き終えたときは、島崎さんは酷い人だと思った」
「全部知っていて渡すわけだからね」
「けど、……みんながみんな酷いなとも思って」
ドリッパーにペーパーフィルターをセッティングする手をとめ、夏目を見やる。
成人しているとはいえ、まだ社会に出たことがないゆえの幼さを残した顔。
わずかに西日がさしこんで、その顔はオレンジがかっていた。
シュンシュンとケトルが立てる音だけが響く。島崎は小野家の面々の顔を順ぐりに思い浮べた。
子どもを抑圧し、縛り、正当化したがる母。
不貞行為に及び、息子を騙し続けている伯母。
妻の行動も、息子の義憤も止められない父親。
母の境遇を理解せず、許せずにいる潔癖な息子。
フィルターに湯を落としてドリッパーを温める。湯が底に落ちたときに立てるわずかな音が、島崎は好きだった。
そう遠くないいつの日か、訪れるか訪れないかもわからないその日、あの家の中で何が起きるだろう。
春彦少年は何を思うだろう。母の言動や行動に合点がいくだろうか。母への感情は変わるか。かえって憎むだろうか? 知りたくなかったと泣くだろうか。
島崎との会話でそれとなく探りを入れていた伯母が、どうにか春彦を言いくるめて中身を先に見、適当な理由をつけて破棄し、事実を永遠に葬り去るか。
いずれにせよ、もう島崎の関わり
すべてを知った春彦少年が何をしようと、島崎はただ遺言状を届けただけだ。何の
粉をドリッパーに入れ、ゆっくり湯をそそぐ。かぐわしい香りがたちのぼる。
「島崎さんは」夏目が、ぽたぽた落ちる黒い液体を見つつ言った。「なんでこの仕事を?」
「なんでだと思う?」
「……質問すると聞き返してくるのは癖ですか」むすっとした声が返ってくるが、怒りは感じられなかった。
「癖でもあるし、性格でもある。相手がなにを考えているか気になるだけ」
「島崎さんのほうが、よっぽど何を考えてるか分からない」
「よく言われる」
サーバーからマグカップにコーヒーを移して彼の前に出す。
律儀にいただきますと言ってから彼は一口飲み、うまい、と零した。
*****
どうする? バイトしてみる? こういうことがたくさんある仕事だけど。
島崎はマグカップ片手にソファに戻った。夏目は対面に腰かける。
口ぶりからして、彼は夏目がどちらの選択肢を選んでもかまわないようだった。
すすめるわけでもなく、止めるわけでもない。
助手はいれば嬉しいが、いなくても困らない。
曖昧に濁すのがうまい。どうしてこの仕事を始めたのかという問いをさらりとはぐらかした。本心が掴みづらいタイプに見えた。母とは正反対で、おそらく自分とも正反対のタイプだ。
手伝うことになって
「あの、待遇とかって」
「ああ、どうしよっかな」
島崎はマスクを下げてコーヒーを飲んだ。
室内でも外さない。部屋に入ったとき、花粉を払うそぶりも見せなかった。花粉症ではなく、やはり顔を見られたくないらしい。
窓の外を見るふりをしてこっそり顔をうかがう。眼鏡があるせいで思いだせないが、誰かに似ている。眼鏡を外せば、分かる気がする。
誰かに似てると言われませんか、と聞きたかったが、誰に似てると思う? と返されそうだと思いって、開きかけた口をつぐんだ。
「日給一万、交通費全額支給でどうかな」
「ずいぶん高いですね」
「相場が分かんないんだよ」
「拘束時間と出勤頻度はどれくらいですか」
「出勤は多くて週三か週四くらい? 拘束時間は長くても六時間とかかなあ。もちろん、残業代はきっちり出す。あとで源一郎先生と社労士の先生に相談して提示する。それから決めてもいいし」
「仕事の具体的な内容は」
「受け取りと配送。配送は今日やったやつ。受け取りは、事前に依頼人に説明をして契約して、身の上話を聞いて遺言状をあずかる。数日かかることもあるし、早ければ一日で終わる。……ここまで聞くってことは、興味があるのかな」
彼がマグカップをガラステーブルに置く。小気味よい音が響く。
夏目は小さく頷いた。
「島崎さんさえよければ、手伝ってみてもいいですか」
「いいよ。ただ、依頼人の多くは長く生きることが難しい。そういう人たちと接して遺言状をあずかる以上、心にくることもあるし喪失感も大きい。気を遣ううえに、会う人全員が気持ちに整理がついているわけじゃない。心無い言葉を浴びせられることもあることは覚悟してほしいかな」
「分かりました」
「どうしてやりたいと思ったの? 割の良い仕事だから? 内容が魅力的? それとも、俺の人間性に魅力を感じて一緒に働きたいと思った?」
「最後のやつは、冗談ですか」
「さあ、どっちでしょう」
にっこり笑って返される。
あらゆることを知っているような余裕を見せることもあれば、自分には関係ないと距離を置いて達観しているところもあり、こちらが何をどう選択するかを観察するようなところもある。
悪く言えば人を食ったような性格で、マイペース。
良く言えば干渉しすぎず、自由にさせてもらえそう。
「いろいろです。いろいろが絡み合って、興味があります」
その答えに、島崎は目を細めた。面白いことを耳にしたときの彼の癖なのだろう。
依頼人がなにを書くのかへの純粋な興味。
今日の依頼人ともっと早く、それこそ存命のあいだに会っていたら、なにか変えることができたのではないかという
母が自分に遺した手紙の真意が分かるのではないかという予感。
片方からの話を聞くだけでは分からなかった物事の本質を、遺す側と遺される側、双方を通して知りたいという期待。
島崎知聡という、素性の怪しい掴みどころのない男への好奇心。
複雑に絡みあったいくつもの要因が胸に根を張っている。それが表情や
「分かった。きちんとした契約内容の説明は後日にしよう」
そして彼は何の気なしに壁かけ時計に目をやって、ぎょっとした顔をした。
つられて夏目も時刻を確認する。17時すぎを指していた。
「やべ、急がないと。家まで送ってくよ」
「ありがとうございます」
コーヒーを飲みほしてシンクに置く。
不意に、軽快なメロディが部屋に鳴りひびいた。音の出所をさぐる。
インターホンが来客を告げていた。ちらりと覗き込めば、スプリングコートを着た若い男が映っているのが見えた。
島崎が小さく舌打ちをしてひとりごちる。
「うわ、来た。あとちょっとで留守にできたのに」
「会いたくない人ですか?」
「うん、取り立て屋」
え、と間抜けな声が漏れる。
モニターに映っていた男は、応答がないのを確認すると、エントランスをくぐり抜けてマンション内に入ってきた。
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