#7 蛙の子は蛙



「DNA鑑定書って、誰と誰の」


 夏目の発した声はわずかに震えていた。

 車は徐行運転で出口に向かう。島崎は窓を開けて駐車券を滑り込ませ、手早く決済を終えた。かこんという音とともに、停止バーが上がる。

 精算機から発せられる「ありがとうございました」の音声は、ウィンドウが閉まるとともに遮られた。


「ねえ、誰と誰の」咎めるような声が出る。車はゆっくりと道路に出る。

「依頼人と春彦くんのDNA鑑定書」

「親子関係がないんですか」

「ない。依頼人とは」


 唖然とした顔を浮かべる夏目をよそに、島崎はハンドルをる。


 ――不思議と、人を吸い寄せる力がある子なの。吸い寄せるというより、心を開かせるというか。刑事とかカウンセラーに向いてそう。


 彼の亡き母が生前、息子について語っていた姿が思いだされた。

 窓から射しこむ残照を、夏目杏子はまぶしそうに、名残惜しそうに見ていた。

 あと何度この光を見ることが出来るかを考えているのだろうなと察して、島崎は背後からの光が作り出す己の影をただ黙して見ていた。


 会ったばかりの隣の青年は、年上の自分に気おくれすることも無礼な振る舞いをすることもなく、絶妙なラインで既知の仲のように振る舞っていた。

 その振る舞いがごく自然で、彼とは長い付き合いだと錯覚しそうになる。人の良さ、あるいは人の懐に知らず知らずのうちに入りこむすべを、夏目拓未は生まれもって身につけているように見えた。

 彼への依頼を遂行する際にもつい、不要なことを喋ってボロを出してしまった。これまでそんなことは一度もなかったのに。彼の母が言うように、人から言葉を引き出すなにかを持っている。

 今回の依頼も、自分ひとりで訪れていれば春彦少年はあそこまで話すことはなかったに違いない。その場にいるだけ、ただ聞き役に回っているだけで、夏目は人から言葉を引きだした。

 人の心を無意識に掌握する力と言うべきか、人たらしと言うべきか。

 島崎は夏目拓未の不思議な特性を頭のなかで言語化してみた。でなければ、依頼人――小野美佐代から自らが聞いた内容を彼に話すことに、得心のいく理由をあてがうことができなかった。


「父親とは親子関係が証明されている。じゃあ誰が本当の春彦くんの母親なのか」

 夏目は、エンジン音にかき消されるほど小さな声を出した。

「さっきのひと」

「そう」

 

 右足がゆっくりとブレーキを踏む。徐々に車は減速する。

 島崎は依頼人から聞いた内容を、なるべくそのまま話すように努めた。

 彼女が話した内容が、彼女の落ち着いたハスキーボイスで脳裏に再生される。




*****



 子どもは何度かさずかりました。同じ回数辛い思いをしました。どちらが原因か分かりませんでした。

 働きすぎだと言われましたが、私にとって仕事は楽しく、居心地がよくて、手放すつもりはありませんでした。

 仕事をせずにいることは悪いことだとも思っていました。私の父はむかし気質かたぎで、女は家を守るものだという意識がありました。ただそのいっぽうで、専業主婦の母を低く見てもいました。

 母さんは怠け者だなあ。一日家にいるのに何をしてるんだろう。

 母の事情を考えずに、母のまえで私たち姉妹に父はよく言いました。父に、子ども二人の面倒を見ることがいかに大変かを想像する力はありませんでした。

 私は一緒になって笑っていましたが、いま思えばそのころから、働いて金を稼がないと一人前ではないという思いが頭の中に芽ばえていたんだと思います。


 結婚しても仕事は続け、夫とすれ違いの生活が続きました。仕事の繁忙期も、生活リズムも違いました。

 姉は私たちを何度も手助けしてくれて、代わりに家事をこなしてくれました。

 散らかった部屋を片付け、洗濯物を干し、疲れて帰ってくる私や夫に温かい料理を作ってくれました。姉が手伝ってくれるたび、きちんとできない自分が情けなく思えて、相応のお金を渡して少しでも罪悪感を減らそうとしていました。

 姉の会社は不景気のあおりを受けて、経営がかんばしくなくて、彼女がこなす家事にお金を払うことで、稼がせてやっているんだ、と自分を安心させていました。……ああ、そういう意味では私は父とそっくりかもしれませんね。怖いなあ。蛙の子は蛙ですね。

 ただね、島崎さん。生々しい話をすることを、どうか許してください。

 私が姉に頼んだのは、部屋の掃除と洗濯、料理。それだけです。

 私の目を盗んで夫と寝てくれなんて、頼んだ覚えはありません。


 すべてが明らかになったとき、夫は私にすべてを打ち明け、謝罪しました。姉も泣いて詫びました。

 ですが、ふたりとも堕胎することには反対でした。夫は私との間に子どもをさずかることは難しいと考えていたようです。

 姉は姉で経済的に不安定で、シングルマザーとなっても苦しい生活を強いられるのは目に見えていました。

 私も姉も、30代後半でした。いま堕胎したとして、次にまた元気な子どもをさずかれるかどうかは分からなかった。

 夫も、私と離婚して姉と結婚すれば、いままで世間様を相手に積みあげてきた信頼が一気に崩れるということは言わなくても分っているようでした。

 子どもを養子に迎えようという提案は私からしました。いまとなっては、どうしてそうしたのか分かりません。

 姉には、これまで通りにうちの手伝いをしてもらえればいい、とかなんとか、相応のことを言いました。夫にも、姉の子にするよりもうちで育てた方がよいに違いない、このさき私たちが子どもに恵まれるかは分からないから、とそれらしいことを並べ立てて説きふせました。生まれてすぐ、養子に迎えました。


 ご存知かもしれませんが、養子には2種類あるんです。本当の親との関係を完全に断ち切り、戸籍に実子と記載される特別養子縁組と、一般的に広く知られている普通養子縁組と。

 普通養子縁組は、戸籍に養子と記載されます。私は特別養子縁組を希望しましたが、姉とこのさきも関わりを持つなら適切ではないと弁護士さんから言われて、普通養子縁組にしたんです。

 姉は出生届を出すとき、父親の欄を空欄で出しました。だから春彦の戸籍謄本には、私と夫は養母・養父と記載されています。

 成人を迎えるまでは黙っておこうという話で落ち着いていたので、どういう状況下で養子であることがバレるのか入念に調べ、対策を取ってきました。

 幸い、あの子が気づくことはありませんでした。


 姉は、罪悪感が大きかったんでしょうね。息子の面倒をよく見てくれました。実の子どもだっていうのもあるのかな。結婚もあきらめたみたいでした。甥っ子大好きな伯母さんとして関わり続けました。

 こくかもしれません。義理の弟と不倫して子どもを授かって、産んだ子は養子になって、妹が育てている。自分は足しげく妹の家に通っては家事を手伝って、実の息子と伯母として接するわけですからね。

 よく逃げなかったと思います。性格が悪い仕打ちをしたと思いました。

 夫も何も言いませんでした。きちんと父親としての責任を果たしていました。罪滅ぼしかもしれませんが、私の目から見ても、良い夫で良い父だったと思います。

 私だけがおかしかったのかもしれません。自分が産んだ子のように育てようと努めました。

 私が至らなかったから姉と夫が関係を持った、と自らを責めたこともあります。良い母、良い妻でいようといました。


 あの子がどんどん大きくなって、笑った顔が姉に似通ってきたとき、胸に寂しさがこみ上げました。

 どんなに愛情をそそいでも、この子の遺伝子は姉とつながっていて、私ではないんだな、と思ってむなしくなりました。

 せめて面影が母親に似るなら、価値観や考えかたは私のを受けついで欲しかった。


 間違ったことをしてほしくない。正義感を持った子になってほしい。

 生まれが生まれですから、特に徹底しました。思春期を迎えたら、仲の良い異性も出てきました。

 母として喜ぶべきなのに、怖くて仕方なかった。潔癖すぎると罵られてもいいから異性を遠ざけました。

 成長につれて、不安はどんどん大きくなっていきました。

 何かの拍子に自分が養子であることを知って、伯母と父の間に関係があったことに気づいたらどうしよう。

 打ち明けない方がいいのだろうか。

 この先も隠し通せるか。

 姉と遠ざけた方がいいのか。

 息子と引き離されたら姉は寂しいだろうか。


 心労がたたって仕事がうまくいかなくなりました。上司が心配して声をかけてくれたのはそんなときです。

 彼には詳しい話はしていません。あの家を離れて他愛もない話をしていると、気分が安らぎました。

 不倫をした夫と不倫相手、その子どもがいる家が、ときどき、すごく窮屈に思えました。誰にも言えませんでした。その環境を作り上げたのは私自身でもあったから、投げだしたいとか、逃げたいとか、そんなことはおくびにも出せませんでした。

 自分があの家でこなす役割を忘れて、普通に食事をして普通に笑うことが楽しかった。

 恋愛感情を抱いてもいました。それ以上の関係に及ぼうとは思いませんでした。自分が何より苦しめられている存在に、自分まで身を落としたくなかったからです。


 春彦へのしつけが厳しすぎたのを理解したのは、店を出てあの子に会ったときです。

 思い知らされた気分でした。やっぱり私は至らないんだなあ、なんて思いました。この子が歪んだのは私があの子をきちんと正面から見ず、姉や夫を通してでしか見ていなかったからで、しっぺ返しが来たんだと思いました。

 いっぽうで、何で私ばかり、という気持ちもありました。

 どうして私はただ上司と食事に行くことすら許されないのか。あの人たちは肉体関係もあったのに、と、子どもじみた我がままが浮かんで、しだいに感情がコントロールできなくなりました。

 そっけない態度をとる春彦と接するたび、本当のことを言ってしまおうと何度も思いました。すんでのところで踏みとどまってきました。

 でももう、誰に遠慮することも嫌になりました。

 春彦は好きです。愛しています。

 養子だとか関係なく、かけがえのない存在です。でも同じくらい憎いんです。二つの感情は私の中で同居していて、表裏一体なんです。

 私のおなかに宿ってくれていればと何度思ったか分かりません。


 選んだ道に苦しめられた一生でした。誰のための人生だったんでしょう。

 後悔はしていないのですが、どうしようもなく、気持ちがぽっかりとしているんです。

 穴があいていて、幸せだったことも、嬉しかった思い出も穴の中に入って消えていく。ああすればよかったかな、という思いだけ、穴のふちにへばりついて離れない。


 島崎さん。私がこれを同封するのを見て、どうお思いですか。最期まで最低最悪の母親だと思いますか。それとも、これくらいしても許されると思いますか。

 私は墓場までこの秘密を持っていくことはしたくない。何も考えずに一人になりたい。たとえあの人たちがどうなっても、です。

 ごめんなさい。こんな依頼人で。

 たぶんあの子は、私が死んでも私を許さないと思う。これも、開けずに捨てるかもしれません。

 それはそれでいいんです。いつか知られることなら、しかるべき状況で知った方がいい。

 ああもうダメですね。頭がぐちゃぐちゃです。読んでほしくて遺すはずなのに、読んでほしくない。


 島崎さん、最後にひとつだけお願いがあります。

 あの子がもし読むかどうか躊躇ためらっていたら、いまは読むな、と、それとなく言ってくれませんか。

 母としてできる、最後のおせっかいです。

 こんなおばさんのくだらない話、聞いてくれてありがとう。

 誰にも言えなかったことを打ち明けることが出来てよかった。

 では、私が死んで一か月経ったら、どうぞよろしくお願いします。

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