#6 知らぬが仏



「あの人、不倫してました」少年は目を伏せた。「裏切られた気持ちは消せませんでした」

「僕が病室を訪れていたのは知ってるね? そこで色々と話を聞いた」

「そんな、家の恥を他人に話すなんて……」


 少年は歯噛みし、苦々しい顔をした。

 母親への嫌悪の色も含まれているふうに見え、島崎が敬語を外しているのにも気づいていない様子だった。

 島崎は島崎で、少年の表情の変化など見なかったかのように言葉を継ぐ。


「家の恥、ねえ。上司と何回か食事に行っただけでしょ?」

「あれは不倫です」

「肉体関係がなくても?」

「そんなもの、どうとでも言い逃れできる」

「お母さんが話したことより、自分の想像を信じるんだね」

「あなたに何が分かるんですか」


 声量を抑えつつも、すごむような気迫が織りこまれた彼の声には、紛れもなく怒りがにじんでいる。島崎に殴りかかるのではと気が急いた。

 少年は、自らの言葉で感情がむき出しになりかけていることを自覚したようだった。さして知りもしない相手に感情をあけすけにすることを恐れたのか、右手で口元をおおい目を閉じる。


「分からないでしょう? 厳しくしつけられてきたんです。箸の上げおろしから部屋の出入りのしかたまで厳しかった。口答えしてひっぱたかれたこともありますし、ちょっとした嘘で真冬の夜に外に立たされたことだってある。でも普段は優しくて、ちゃんとしていたんです。いつも身ぎれいで仕事をバリバリこなして、家事も手抜きしなかった。尊敬していたから、厳しさに耐えられました。受験もあの人の勧める学校を選んだし、習い事は将来役にたつものを提示されていくつか習いました。尊敬する人だったんです。なのに、裏切られた」


 母親のことを「あの人」と呼ぶ彼の心中に渦巻く憤怒は、母親とのあいだに埋めきれない溝を彫ったままだった。

 少年はつづけた。独り言に近い。

 こちらが聞いているのかいないのか、それすら気にしていない。


「自分で言うのは恥ずかしいですが、モテるほうなんです。ラブレターをもらって、こっそりデートだってしました。けど、あの人にバレたら終わりでした。相手の親に電話をして、子どものうちから何をさせてるんだ、って怒鳴りつけるんです。どういう教育をしてるんだ、って、人が変わったみたいに。窮屈だ、とか、怖い、とか、馬鹿らしい、とか、色々なことを思ったけど、結局は我慢しました。あの人が言うならそうなのかもしれないとも考えていました。

 いつだか、美佐子みさこ伯母さんがあの人に言ったんです。『そんなに縛ることないじゃない、彼女くらい好きに作ったっていいでしょう』って。あの人がなんて返したか分かります? 『姉さんがそれ言うの?』って、小馬鹿にするような調子で言ったんです。伯母さんが結婚してないのを嘲笑うみたいに。伯母さんはなにも返せなかった。父もその場にいたのに、黙ったままでした。

 そのとき、あの人が……厳しいけど尊敬できる人から、僕を知らない場所に引きずりこもうとする悪魔みたいに思えて」

「それから、お母さんの行動が気になりはじめたの?」


 夏目がおずおずと問うと、春彦はこくりとうなずいた。


「あばたもえくぼ、って言うでしょ。僕はあの人に対してそうでした。神さまみたいに思っていて、欠点は見ないふりしていて。あれから欠点が目につくようになった。帰りが遅いのも、家事が手抜きになるのも、それを伯母さんがフォローしているのも気にいらなくて、ある日、会社の近くの駅で待ちぶせして後をつけました。

 何度か同じ男と食事しているのを見て、そのたび怒鳴りこもうかと思った。必死に我慢して携帯で写真撮って、何やってるんだろう俺、って意味分かんなくなったり。

 ……何回目かのとき、外で待ってたんです。出てきたところを写真撮ろうって。脅迫しようとかいう気持ちでもなくて、いつか叱られたときに反論の材料に使おうとか、そんな考えだったと思います。

 その日はすごく寒くて、待っている間に、自分が真冬に外で立たされていたことを思い出しました。鼻水垂らして凍えている俺を見て、ようやく許す気になったあの人がドアを開けてきたとき、ほんの一瞬だけ、汚いものを見るような目で俺を見たのも思い出しました。

 そしたらもう、頭がぐちゃぐちゃになって、許せないって気持ちでいっぱいになって、二人に詰め寄って。全部全部自分の中で黙っておけば良かったのに、父にも伯母にも言いました」


 彼は口をおおっていた手を外して腿のうえで組んだ。力をいれて握りしめているせいで、手の甲が白く変色していた。

 感情のよりどころがなくて苦しんでいる。夏目は春彦の心のうちおもんぱかった。

 島崎の話を聞いたときは、潔癖で完璧主義の長男が不寛容であると感じた。だが、春彦の話を聞くと、がらりと印象が変わった。


「……父も伯母も、許してあげようよ、って言ったんです。ふたりとも僕がどんなしつけをされていたのか知っていて、僕がどんな思いで怒ったのか言葉を尽くしても、人は間違うことだってある、と諭すんです。余命が宣告されても口をきこうとしない僕に、もう残り少ないんだから、と許すよう言ったこともあります。

 先が短いからなんですか? もうすぐ死ぬなら、やってきたことは許されるんですか?

 あの人は僕に謝ったけど、それは不倫していたことについてだけでした。僕の行動に干渉して制限したことや、行き過ぎたしつけを謝ろうとはしなかった。そこまで考えてなかったのかもしれません。謝って終わろう、って魂胆が見えて、それも許せなかった」

「この遺言状には、謝罪の言葉がつづられているかもしれないよ」島崎は茶封筒を彼の眼前で振ってみせた。しかし、春彦少年は力なく首を振る。

「いりません。読んだら最後、許してしまいそうで怖い。理解したくないんです。正当な理由があったと思ったら、自分がおかしくなりそうだ」


 島崎は「そうか」と静かにこぼした。「ただ、僕たちも配達が仕事なんだ。読まなくてもいい。すぐ破り捨ててもいい。受け取りだけお願いしてもいいかな」

「どうしても受け取らないといけないんですか」

「保管料をもらっている。受け取ってもらえないと延長料金が発生してしまう。これまでも読むのを拒否した人はいるけど、みなさん受け取りはしている」


 配達までの保管金、一日につき一万円は依頼主が前払いする。

 延長が発生したら誰がその金額を払うのだろう。それとも延長という制度は存在せず、たんに島崎が口から出まかせを言っただけなのか。

 夏目が考えているあいだに、春彦少年は仕方なさそうに首を振って封筒を受けとり、受領印にサインをした。優等生の字をしていた。


「じゃあ僕たちはこれで。あとは君の好きなようにどうぞ。破くなり燃やすなり、ご自由に」


 島崎は腰をあげて辞去の姿勢を見せた。夏目も座礼をして続く。

「あの」少年は手にした封筒をじっと見たまま声をかけた。「島崎さんは、内容を知っているんですよね」

「そうさせてもらってる。相続関連のことが書いてあると面倒になるから」

「僕は、これを読んだ方がいいと思いますか」


 島崎を見あげる彼の目は、すがるような必死さが浮かんでいた。

 少年の心は、崩れる直前のジェンガのように見えた。

 誰かに土台を埋めてほしい。彼の心の叫びが凝縮された問いに、島崎は小さく首を振った。


「読んで君の人生がどうなるかは分からない。僕は君のことを少ししか知らないからね。ただ、もし読むというのなら、少なからずいま読むことはおすすめしない。何が書かれていても大丈夫だと覚悟ができたときに読むといい。何年後かになるか分からないし、一生そのときが来ないかもしれないけど」

「そうですか」少年はどこか安堵の表情を浮かべた。「ありがとうございます」


 玄関まで見送るという彼の申し出を島崎は丁重に辞退した。

 門扉もんぴを開けようとしたところで、路地を歩いてきた女性がこちらを見て「あら」と声をあげた。


「春彦のお友達ですか?」


 両手にエコバッグを提げた女性は、仏壇の写真立てに映っていた依頼人の姉だった。エコバッグからはいくつかの食材が顔をのぞかせていた。妻を亡くした夫、母を亡くした息子に彼女がどう接しているのかはそれだけで分かった。

 島崎は会釈をし、亡くなった美佐代さんから頼まれて個人的なメッセージを春彦くんに届けたのだと話した。


「そうですか。どんな内容だったのかしら」

「さあ、分かりません。僕も中身は見ていないので」


 さらりと島崎は嘘をつく。

 思わずその顔をじっと見るも、彼はこちらの視線をものともせず続ける。


「芯の強い子でいらっしゃる。高校生とは思えないほど」

 甥を褒められた美佐子氏は顔をほころばせた。

「そうなの。しっかり踏ん張ってる」

「そういう伯母さまも、妹さんを亡くされてお辛いのに、春彦くんを支えようと頑張ってらっしゃる。美佐代様もきっと、お二人が誇らしいでしょうね」

「ありがとう」美佐子氏はふんわりと笑った。遺影で見た美佐代氏の笑顔と瓜二つだった。そして、なにかに気づいたような表情を見せ、島崎にたずねた。

「私や、義弟おとうと……信也しんやさんあての手紙はなかったんですか?」

「ええ、春彦くん宛の一通のみです。読むかどうかは本人にお任せしましたので。きっと何が書いてあっても、彼なら乗り越えられると会って確信しました。お母さまに似て、心根こころねの部分はお強いようですし」

「そう言ってもらえると、妹も喜びます。ありがとう」

「どういたしまして。それでは、お邪魔しました」


 丁寧に礼をして敷地を離れる。夏目も倣った。

 しばらく無言のが続いた。思い切って、気になっていたことを口にした。


「春彦くん、読みますかね」

「どうだろうねえ」

「いま読んだらショッキングなことが書いてあったんですか」


 桜並木のそばを通る。わずかな風に乗せられて、アスファルトの上を花びらがくるくると、踊るように転がっていく。


「いま読もうと明日読もうと来年読もうと十年後に読もうとショッキングな内容ではあった」

「そんなに?」

「うん」

「何が書かれていたんですか」

「何がと思う?」


 数人の小学生が目の前の横断歩道を横切っていく。黄色い帽子をかぶった新入生とおぼしき子どもたちは、上級生の後をアヒルの子のようにくっついていく。黄色のカバーをつけたランドセルは持ち主の背をおおい隠すほど大きく見えた。


「手紙でしょう。本当は不倫をしていた、という告白文ですか」

「ブッブー」


 ピピ、と電子音を立てて車のロックが開く。助手席に乗り込み、それ以外にどういったことが考えられるだろうと思案していると、運転席でシートベルトを締めた島崎がぽつりと言った。


「鑑定書」

「え?」


 彼はエンジンボタンを押す。静かな音を立てて、車は眠りから目覚める。


「DNA鑑定書が入ってる」

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