母の一生

#5 身から出た錆



「不倫」

「そう」


 不倫、ふりん、フリン。

 脳内で何度も繰り返していると、見透かしたように島崎は「初めて耳にしましたって顔してんね」と笑った。


「不倫とは、道徳に外れること。男女関係で、人の道に背くこと」辞書をそらんじるように彼は言ってみせた。

「それを依頼人さんが、してしまったと」

「息子はそう思ってる」


 島崎が依頼人のもとを訪れ、契約を締結したのは一年前。

 そのころにはすでに、依頼人――小野おの美佐代みさよと一人息子・春彦はるひこの間の溝はずいぶん深かった。

 たびたび彼女を訪ね、春彦とも数度か会った。

 病床の母親に必要最低限の言葉を敬語を用いてかけるその姿、母親を見る目、全体から醸される空気、いずれをとっても「反抗期」の一言で形容できるものではないのは明白だった。

 弁護士に席を外してもらい彼女の話を聞く段になり、島崎はそれとなく「息子さん、反抗期なんですかねえ」と水をむけた。

 彼女は困ったように笑い、幾たびか口をひらき、幾たびか閉じ、息子の態度の原因は自分にあると前置きしてから話を始めた。


 東北の片田舎で育ち、両親に反発して東京に出た。二歳年上の姉も東京で働いていて、同居して支えあうように暮らし、事務職の正社員として働くこと数年。知人の紹介で公務員の男性と知りあって結婚した。いちばん喜んでくれたのは姉だった。

 夫は多忙で、なかなか二人の生活を実感することがなかった。

 朝早く出勤し夜遅く帰る夫を支えるべく奔走ほんそうし、家事はすべてこなし、そのうえで仕事にも全力で向きあった。

 子どもを何度か授かったが、流産も同じ回数経験した。

 ストレスが原因になりうると諭されても、愛着のある職場を辞めることに踏みきれず、仕事と家庭を両立できるようつとめた。

 その背景には、彼女の父が専業主婦の母にたびたびはなっていた「誰のおかげで生活できてると思ってる」という言葉への潜在的な反発心があったが、彼女がその事実に気づいたのは島崎に身の上を話しているさなかだった。


 春彦を育てるにあたり、正社員からパート社員に代わった。

 もう子どもはいい。夫と話をしたわけではないが、互いにそう思っていた。

 そのぶん、息子への教育に力を入れた。夫のように曲がったことを許さない正義感あふれる人間になってほしいと思い、しつけも厳しくした。

 いまの世情で見れば虐待だと思われても仕方のないこともたくさんしてきた。ただ、おかげで息子は善悪をきっちりと区別し、たとえ車通りの少ない田舎道でも信号をきちんと守るような子どもに育った。

 どうしても手が回らないときは、姉が手伝いに来てくれた。

 乳飲み子のころから息子は姉にもよく懐いており、家族の一員同然だった。夫と相談して、姉が手伝ってくれたときには相応の額を支払った。

 姉の勤務先が業績不振により給与カットを余儀なくされたときには、金を工面したことも何度かある。


 息子が中学生になったのとほぼ同時期に正社員に復帰した。業務内容は時流にあわせて大きく変わっていて、パート時代のそれとは難易度も責任も段違いだった。ついていくのがやっとだった。

 音を上げそうになったが、毎日終電間際に帰ってくる夫に愚痴は言えない。息子をたびたび姉に預けている負い目もあり、そのぶんきっちりと働きで返さねばという強迫観念に似た思いもあった。

 姉はとうに結婚しない生活を選んでいて、気にしなくていいと常々言ってくれていたが、どうしても自分の中で譲れないものがあった。

 一人で踏ん張って仕事も家庭も両立させようとしていたころ、職場の上司――年上だが彼は未婚だった――が、見かねて声をかけてくれた。

 パート時代から頑張りを認めてくれる人で、ひとり相撲をしている自分の相談に乗ってくれた。

 食事に誘われ、何度かはその誘いに乗った。息子に留守番をさせたり、姉に息子を任せたりすることへ後ろめたさはあったが、彼と話していると自分の負担が消える気がした。心が安らぐと感じた。罪悪感と安心感を秤に乗せて、後者を選んだ。

 だが、何度目かの食事を終えて店を出たとき、息子が店の前で待っていた。その目は茫然としていて、その奥で燃え盛らんと渦巻く種火が見えた。

 十四歳。思春期真っ盛りで、不倫がなんたるかも心得ていた。


 ずっと前から不思議に思っていた。不自然に家を空ける日が多いから、実は病気で、治療をしているのかと思った。こんなことだなんて。


 店前にもかかわらず息子は大声をあげた。

 弁明を言えば言うほど火に油で、彼は泣きじゃくり、癇癪かんしゃくを起こして上司と自分をなじった。

 なんとか家に連れて帰り、仕事の相談を聞いていてもらっていたのだと言ってもダメだった。肉体関係はもちろんなかったが、息子に言うのははばかられた。生々しい話を聞くには彼は未成熟だった。

 芸能人の不倫の話題がテレビで持てはやされていた風潮も重なり、完全に息子は心を閉じた。

 大黒柱が働きに出ている間に道徳にもとる行為をした母親のことを、息子は夫に包み隠さず告げた。

 強く叱ってくれという思いが透けるような言い方だった、と夫は語った。

 夫は夫で、家事と育児の負担が妻にのしかかっていた現実に向き合わなかったことに気が咎めたのか、理解を示してくれた。抱え込ませてしまってすまない、と謝罪までしてくれた。

 上司も夫に軽率な行動を取ったことを詫び、夫は上司を許した。

 しかし上司は、ほどなくして人事異動で大阪へ転勤していった。彼が申し出たのか、ことが明るみになったのかは分からない。


 姉の耳にも話は伝わった。彼女もまた一言も責めることはなかった。

 唯一、息子だけが許さなかった。潔癖なところは自分に似て、正義感の強さは夫に似た。

 多くの時間を母親と一緒に過ごしたことで、彼は自分に絶大な信頼を寄せていたと思う。特別な存在だと思っていたに違いない。母親の言うことは素直に聞く子どもで、反抗期もなかった。それが、すべて崩れた。

 何か汚いものを見る目でこちらを見ている。返事もおざなりで、慇懃いんぎんな敬語で返ってくる。あからさまに無視をすることもある。

 これまでだったらきちんと注意も出来たが、その資格が自分にないように思え、張りつめていた気持ちがぷつんと途切れた。体調がかんばしくない日が続き、精神的なものだろうと心療内科に通った。

 身体の不調を心の不調とはきちがえていたのがたたり、気づいた時には病が身体をむしばんでいた。


「『身から出た錆だ』って」島崎はこぼした。「病気の話をしたとき、息子さんに言われた、って」

「そんな言い方ないでしょう」


 口調が尖ったのが自分でも分かった。

 いっぽうで、息子の言い分が潔癖な子どものワガママだと断じることもできなかった。


「亡くなるまでに、和解できたんですか」

「どうだろうね。俺もそのあと会ってないから。遺言状を差しだしてどんな反応をされるか」


 島崎は一軒の洋風建築の家の前で歩を止めた。

 瀟洒しょうしゃなデザインで、一目見ただけでこの家の住人がどの層に属するか分かる家だった。

 敷地は広いが、駐車場に車はない。表札には「小野」という毛筆の字があり、家のデザインとアンバランスだった。


「家には春彦くんしかいない。事前にアポは取ってる」

「アポを取って渡すときもあるんですね」

「依頼人と受取人があるていど見知った仲なら、遺言状を遺したことを言っておくパターンもある」


 島崎は躊躇いなくインターホンを押した。

 ややあって、声変わりを済ませた少年の声音で、はい、と返事があった。


「お約束していた島崎です」

『どうぞ』


 ややつっけんどんな言い方だったが、島崎は気にもせず玄関へと進んだ。夏目も遅れを取らぬよう続く。

 春彦少年は玄関を開けて待っていた。シャツにズボンというラフな格好にも関わらず、身に着けているものが上等であるのは衣服に興味の薄い夏目でもすぐ分かった。

 少年は島崎を見、それから夏目に視線を向けた。


「そちらの方は?」

「助手です。夏目といいます」

 島崎が手で指ししめす。夏目は小さく礼をした。おざなりな礼が返ってきて、中に通される。

 彼の態度は、顔や名前は知っているがさほど親しくない人間に接するときのそれと同じだった。


 リビングの調度品や家具はシンプルでありながら洗練されており、何より高価そうだった。夏目家の調度品の多くが全国展開の家具チェーンのもので占められているのとは大きな違いだった。

 例によって島崎は線香を上げたいと申し出、少年が飲み物を準備しているあいだに奥の和室に入った。立派な仏壇が鎮座しており、菓子や果物の供え物も多かった。

 遺影の小野美佐代はほほえんでいる。その笑みにどことなく寂しさが影を差していると直感的に思った。島崎の話を聞いたせいかもしれなかった。


 手前には、クリアフレームの写真立てが置かれていた。家族写真だった。

 小野夫妻、春彦少年、もう一人映っている美佐代氏に風貌の似た女性は、話で出ていた二歳上の実姉だろう。

 夫は白髪まじりの短髪で、神経質さと優しさが表裏一体になっている印象を受けた。

 姉妹はよく似ている。美佐代氏が黒髪であるのに対し姉は濃茶に髪を染めており、服装もあか抜けている印象で、姉と妹が逆のほうがしっくりくる。

 春彦少年の面立ちは父親似なのが写真を通して分かった。ただ、笑っている顔は母親の血が強い。

 彼が笑っているということは、もしかしたら逢瀬の現場に出くわす前に撮られた写真かもしれない――観察しながらも線香を上げ、一度も会ったことのない女性に手を合わせる。

 島崎も写真が気になるのか、手に取って眺めた。


「二年前に撮った写真です」


 背後から不意に声が響いた。振り向けば、春彦少年が立っていた。

 島崎は写真に目を落とし、見比べるように少年の顔を見た。


「似てますね、お母様と」

「そうでしょうか」

「笑った顔とか、そっくりだと思いますよ」

「……あんまり嬉しくないな」


 少年はそう吐き捨て、リビングに戻っていった。

 島崎の顔をうかがうと、彼はやれやれと言わんばかりに肩をすくめてみせた。

 その態度にはどこか他人事感があって、あなたが彼を不機嫌にさせたんですけど、と言いたくなった。

 揃ってリビングに戻る。二人がけのソファに座った。湯気の立つ紅茶が置かれ、焼き菓子が添えられる。ソファの座り心地があまりにもふかふかで、少年さえいなければその場でバウンドして感触を味わいたいところだった。

 春彦少年は正面でなく、直角に位置する一人がけソファに腰を下ろした。島崎が手早く依頼内容を説明する。夏目にしたのと同じようなもので、今回も契約書の控えを出した。証人欄は空白だった。


「美佐代様は、誰にも遺言状の件を言っていなかったみたいですね」

「はい。弁護士先生から、今日、あなたが来るということだけ聞かされていました」

「お父様や伯母様には伝えづらいことかもしれないと思って、あえてあなたしか在宅しない時間帯を指定しました。が、お渡しする遺言状に秘匿義務はありませんので、見た内容を誰に伝えても大丈夫です」


 では早速、と島崎が大封筒を取り出し、紐を手繰たぐって中から小さい封筒を取りだした。

 春彦少年が、あの、と声をあげた。


「何でしょう」

「それ、受け取り拒否ってできますか」


 受け取り拒否をされるかもしれない。

 道すがらの島崎の声がよみがえる。春彦少年は彼の手にある封筒でなく、彼自身に目を合わせていた。強い意志のやどった目をしている。

 島崎は一度まばたきしてからわずかに目を細めた。

 そう言われるのは想定内ですと言ったような一種の演技くささと、面白いことになってきましたと興を掻きたてられた好奇心が表れていた。だが春彦少年は気づいていない。


「理由を聞かせてもらえるかな」


 物静かに返すその声は、年長者が年少者をていよくあしらうときのそれに似ていた。

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