#2 寝耳に水
ドラマのワンシーンのようだ、と思った。
目の前に広がる光景はすべて組まれたセットで、母はまだ生きている。そんな考えにすがりたくなる自分がいる。
突然の来訪。見知らぬ来客だった。強盗だったらどうしようと思った。
しかし、その目に悪意はいっさい感じられなかった。
母からの遺言状をあずかっている。そう告げて、彼は名刺を差しだした。
「株式会社デリバリーウィル 代表
会社名と名前、所在地、連絡先だけが明朝体で書かれた簡素な名刺。
名刺の受け取りかたも分からず、長方形のそれをじっとながめた。
「母からの遺言状、というのは」
「私は遺言の配送業務を請け負っています。ご依頼主から遺言状をあずかり、指定された期間が経過したのち、しかるべき方にお届けしています」
「それを、母が利用したんですか。僕のために」
「ええ、契約書の控えもお持ちしました」
男はリュックからクリアファイルを取りだした。
契約書と書かれた紙には、依頼人、受取人、配達内容、配達先住所といった項目が並んでいて、いずれも母の自筆で記入されていた。
依頼人、夏目杏子。受取人、夏目拓未。依頼人との続柄、長男。配達内容、遺言状一通。
下部には
「怪しいとお思いでしたら、証人の方におたずねください」
母の署名の下には「証人」の欄があり、源一郎先生の署名があった。
配達にあたり受取人とのあいだにトラブルが生じた際に当該契約事項について受取人に説明する義務を負う、とただし書きがある。字も間違いなく彼の字だ。角ばっていて
源一郎先生が知っている内容なら大丈夫だろうと判断し、チェーンをはずして男――島崎を部屋に招きいれる。立ち話では終わらないと直感的に察した。
島崎は、線香をあげさせてほしいと言った。洋室へ案内して線香をあげる背をしばらく眺めてから、夏目はキッチンに立った。
二人分のコーヒーを淹れおえたところで、客が来たのだから洋室のカーテンを開ければよかったと気づいた。島崎は何も言わず、薄暗い部屋にたたずんで手をあわせていた。
所在なさげにリビングと洋室の境目に立っている彼をダイニングテーブルにつくよう促し、向かいに座る。
彼はコーヒーに口をつけるそぶりを見せなかった。マスクを外そうともしない。
コーヒーではなく紅茶派だろうか。それとも、マスクを外せない理由があるのか。
「こういう業者は、よくあるんですか」口火を切ると、彼は首を振った。
「どうでしょう、少し特殊なサービスなものですから」
「どういう点で?」
島崎は、業務内容を説明した。
依頼人から遺言状をあずかり、一定期間後に受取指定人へ配達する。
この「一定期間」の起算日は依頼人が死去した日、あるいは島崎が死去を確認できた日であり、生前に届けられることはない。
遺言状と銘打っているが、遺産相続や金銭・物品のやりとりが生じるものは受けつけていない。あくまで受取人への個人的なメッセージのみをあずかる。
そのため、遺言状はあずかったのちに中身を確認する。
トラブルが生じたときのために証人を立てることを推奨しているが、強制ではない。
夏目は証人欄にある源一郎先生の名をさして聞いた。
「先生も、遺言状の内容を把握しているんですか」
「いいえ、源一郎先生が把握されているのは契約内容のみです」
「そうですか」源一郎先生の温厚そうな顔が浮かぶ。「母が亡くなってから何度か会ったけど、知らなかった」
「ほかに何かご不明な点は」
つかの間、質問を探す。テーブルのかどに置いた彼の名刺に目がいった。
「……デリバリーウィルのウィル、って、なんて意味ですか」
どうでもいいことが口をついて出た。島崎は意にも介さず答えた。
「スペルはw-i-l-l。遺言、とか、遺書、という意味です」
未来形をあらわすwillと、もう未来のない人が残す遺言。それらが同じスペルだとはなんとも不思議だった。皮肉にも思えた。
「ほかには何か?」
すこし逡巡し、首を振る。
夏目の返事にうなずき、彼はリュックサックからクラフトパッカーを取りだした。紐をほどいて封を開け、小さな茶封筒を取りだし、テーブルに置く。
「夏目杏子様からおあずかりした遺言状です。先にサインをお願いします」
契約書をぱらりとめくり、複写式になっているそれの一番下に「受領者氏名」とあった。夏目拓未、と書きこんで返す。
「では、私はこれで失礼します」
島崎が席を立とうとするので、慌てて声をかける。
「もう帰るんですか」
「配達までが仕事ですので」
なに言ってんだお前、と言わんばかりの視線と声で返されるが、どうにも一人で開封する気にならなかった。
「読んでいるあいだだけ、座っててもらえませんか」
思った以上に情けない声が出た。
意外な申し出だったのか、彼の動きが数秒止まる。気持ちは分からなくもない。運送会社のドライバーに荷物の開封を終えるまで待っていてくれと頼む受取人がこの世に何人いるだろう。
だが、彼をこのまま帰す気にならなかった。すみませんけどお願いします、と言葉を重ねる。彼は手つかずのコーヒーに目をやり、座りなおした。
「じゃあ、コーヒーを飲みおわるまで」
「ありがとうございます」
急いで
死んだあとに配達を依頼するような手紙って、何だろう。
何を伝えたかったんだろう。
三つ折りの便箋を広げる。筆圧こそ薄くなっていたが、何度も目にした読みやすい母の字がならんでいる。
『拓未という名前は私がつけました。「未知を
常に本質を見抜ける子でいてください。与えられた環境に慣れないよう、未知の世界を切りひらく気持ちで、恐れず、見識を深めていってください。自分の想像の範囲外にあることを、理解しようと努めてください。
人の話をきちんと聞けるあなたなら大丈夫だと信じています。でも、感情移入しすぎてかえって自分が傷つかないかだけ心配しています。ときにはドライな気持ちでいることも大切です。
もっと何か、重大な告白があると思った? 残念。こういうサービスもあるんだって私も知りませんでした。人生、なにごとも勉強ですね。私がお骨になったあとこれを読むあなたの姿を想像してしまいました。不謹慎だけれど、少しワクワクします。
気持ちが落ち込んでいませんか。不安や焦りを感じていませんか。あなたはいま、母親がいない世界を生きているからです。これまでのあなたからすれば未知の世界ですね。
恐れず向かっていってください。拓いた道のさき、素晴らしい出来事がたくさんあなたを待っていますように。 夏目杏子』
文末まで文字を追って、最初から読み直して、また文末までたどり着いて、こわばっていた肩の力をそっと抜く。
まぎれもない母の字で、まぎれもない母の言葉だった。茶目っ気と冗談を忘れない彼女は、この世を去ってもなお、そのままだった。
節々にはさまれた彼女なりの心配に、涙腺が刺激される。目の前の島崎はキッチンのほうを向いてコーヒーを黙って飲んでいる。気づかれないように目をぬぐう。
未知を拓く。知らないことを知る。本質を見極める。書かれた言葉を反芻する。
言葉を咀嚼するようにうなずき、それからようやく島崎を正視した。
「読み終わりました」
「いかがでしたか」
「母らしい手紙でした。茶目っ気があって」
「私も、拝見したときそう思いました」
「島崎さんは、母と会ったことがおありですか」
「いえ、やり取りはすべて証人の方を通じてメールで」
「では、先生とは?」
「申し込みもネットからでしたので、証人の方ともお会いしていません」
「なぜ」
「つらくなるからです」島崎はわずかに目を伏せる。「依頼人の皆さんは、言い方は悪いですが、これから死にゆく人たちです。顔を合わせると情がうつってしまう」
「そうなんですね」彼の背後、開けはなたれた引き戸の先。
「よくできた息子さんだ、と。
「ありがとうございます、先生にもよく言われるんです。僕よりしっかりしているね、と褒めてもらったこともあります。でも、最近は助けられてばかりで」
「良い人なのでしょうね、その方も」
「良い人です。でも、センスが独特かも。趣味がレコード収集って言っていました」
「へえ、珍しい。あのお年でレコードとは」島崎はそこで言葉を切り、窓の外に視線をうつした。その目は、故人とのやりとりを追懐する色をたたえていた。
「夏目様はユーモアにあふれる方でした。『自分が死んだら桜の木の下に埋めてくれないかと息子に頼んだ』とメールに書いていたことがあります」
「言われました。ユーモアには思えなかったけれど。元になる話があるんですか、それ」
「梶井基次郎の『桜の樹の下には』という小説の書き出しに、『桜の樹の下には死体が埋まっている』という文があります」
「もうすぐ死ぬ人が言うにはブラックなユーモアですね」
「思えばそうかもしれません。桜が咲いているのを一目見ることができたのは、何よりだったのではないかと思います」
「ええ。満開のころじゃなかったのが残念です」
夏目がほほえむと、彼も目を細めた。コーヒーを飲むのにマスクを顎にかけていて、そこできちんと彼の顔のつくりを見た。
あらわになった顔のパーツは整っていて、誰かに似ている、と思った。
思い出そうとしているうちに彼はマスクをかけ直し、「では、そろそろ」と腰を上げた。
礼を言い、先導するよう先立って玄関に向かう。
未知を拓く。知らない世界を知る。本質を見極める。母の言葉がまた頭に浮かぶ。
「島崎さん」
「はい」
「最後にもうひとつ、質問いいですか」
「ええ、僕に答えられる範囲でよければ」
身を
「どうして嘘をついてるんですか」
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