デリバリーウィル
須永 光
見知らぬ来客
#1 備えあれば憂いなし
静寂は空間を包まない。押しつぶすものだ。
住人がひとりいなくなっただけで、部屋に満ちていた柔らかな空気がどこかへ消えた。がらんどうで、寒々としていて、なにかが足りない。
整頓された部屋。この間まで、ここで寝起きをしている人がいたとは思えないほどきれいだった。住人は姿を消し、片隅に置かれた唐木仏壇と背の高い本棚が独特の存在感を
洋室には線香から立ちのぼる
同じ苗字だから親近感が湧くという理由で好んでいた夏目漱石をはじめとし、宮部みゆき、小野不由美、角田光代、舞城王太郎、東野圭吾といった作家らの本が並ぶ。数年前から特に熱心に収集していた藤原雅之の作品はコミカライズされたものから映像作品にいたるまで網羅されていた。
どうする? 私はもう読めないし、処分しておこうか。
あっけらかんとした口調で母は言った。
本棚をさす指は、記憶のそれよりずいぶん細くなっていた。
読書なんて大して好きでもないくせに、読んでみようという気になって、そっくりそのままにしてもらった。けれども今は読む気にはなれない。この先も読めるようになる日が来るのかすら分からない。
本棚からも視線を外す。窓から近くの公園の桜並木が見えた。この家では唯一、この部屋からしか桜が見えない。満開を迎える前に彼女は去った。
せっかくだし、私が死んだら桜の木の下に埋めてもらおうかな。
蕾が膨らんだころに冗談で言っていた声がよみがえり、そっとカーテンを引いた。部屋が薄暗闇に包まれる。蕾がほころび、花ひらいて少しもしないうちに彼女は倒れた。泣きそうな声で救急車を呼んだ。記憶を振りはらうように首を振る。この部屋にいると思い出すことに事欠かない。静かに部屋を出た。
リビングのソファに寝転ぶ。耳が自然と、洋室から音を拾おうとする。
たくみ、と、自分を呼ぶ声が聞こえるのではないかと思ってしまう。声の主はとっくに骨になり、壺に入って仏壇の前に鎮座しているのに。
「準備よすぎなんだよ」
不満が勝手に口から滑りでた。咳をしても一人。愚痴を言っても一人。
サイドボードの写真立てを見上げる。上下さかさまの母が、穏やかにこちらを見ている。脇には、彼女特製のマニュアルが一冊。
不貞を働いた夫に綿密な計画と行動で得た証拠をつきつけ、シングルマザーの道を選んだのが十年前。仕事に邁進し、順当に評価され大手文具メーカーの宣伝部長の座に就いたのが五年前。こつこつ貯めた金でファミリー向けマンションを購入したのが三年前。ろくに休日も取れない中、不調を見かねた息子に引っ張られるように病院を受診した二年前。
余命を告げられるなり、離婚で世話になった弁護士の伝手を頼って準備をはじめたのが一年前。仕事に私生活、自らの遺産にいたるまでの一切を処理し、「これでいつでも大丈夫だから、あとはこの本読んで」と特製のマニュアルを渡してきたのが二週間前。
二週間前まで穏やかな笑顔を浮かべていた彼女が、物言わぬ状態で仏壇にあることが夏目はいまだ飲みこめていない。
通夜も葬儀もつつがなく終わった。伯母たちと、在籍していた会社の社員が総出でサポートしてくれたおかげだ。
しっかりと生前分与や遺言書らの処理を担当弁護士の
マニュアルを手に取る。彼女が遺す財産の総額と使途についての指南が記載されていた。
額が多いのか少ないのか、大学生の夏目には分からない。だが源一郎先生は、女性がこの額を遺すのは並大抵ではないと言っていた。
でも、本人がいてくれたほうが良かったです。
思わず口から漏れた言葉に、彼は頷いた。そうだね、と言葉を落とした。
ページをめくる。
遺産は、当分は源一郎先生と伯母の管理で運用されていく。住宅ローンは完済しているが、固定で発生する費用や税金に関しては夏目が独り立ちするまでは伯母が代行する。毎年固定で発生する費用、マンションを売りに出した場合の予想査定額、保持に必要となる費用の概算。マンションの自治会に関する申し送り、隣人トラブルに巻き込まれた際の対処法。進路に迷ったら会社のこの人へ。話はつけてある、ただし礼を失することはないように。
息子の今後の生活を手取り足取り導こうとするものではなく、自立していくうえで必要になってくる知識や、大学三年生には分からない知識や常識を大人としてサポートするものに近かった。
君を信頼してのことです。分からないことがあれば、大人をどんどん頼りなさい。
源一郎先生の言葉が思いかえされる。
彼から言葉をかけられたとき、夏目の気持ちは上を向いていた。頑張れると信じていた。母親は、自分を右も左も分からない子どもではないと信じてくれた。彼女に応えるべくしっかりしなければ。
なのに、部屋にひとりでいると、どうしようもなく不安な気持ちが押しよせてくる。静寂が自分を押しつぶそうとしてきて圧に負けそうになる。負けじと行動を起こして、空回る。
母が遺した金にはあまり手をつけたくない。生活費は自分で稼ぎたい。アルバイトを探そうと思う。
夏目の申し出に、源一郎先生は困ったように眉を下げて言った。
そんなに急がなくてもいいんじゃないか。いまは精神的に不安定になっているかもしれない。少しゆっくりするといい。
落ち着いた声音で
自分は、どうしようもなく焦っている。頼りにしていた存在がいなくなって、どうやって一人で立てばいいのか分からないでいる。
自分がどこにいるかを自覚してから数日、夏目は何度も家じゅうの扉を開けては閉めている。
母は最期まで気丈で、いつも通りに振る舞っていた。身体は耐えられないほど痛いはずなのに日中は何ともないふりをしていて、夜、こちらが寝ただろうと見当をつけてから、ようやく小さな呻き声をあげて痛みに耐えていた。その声も、もうしない。
ベッドに横たわり、今だから言える話をしようと何か思いだしては楽しげに自分を呼んだ声も、笑うときに漏れる空気の音も、二度としない。
マニュアルを元に戻し、ローテーブルに
ピンポン。
軽快な音が来客を告げた。
慌てて身体を起こし、頬をつたう
今日はもう来訪の予定はなかったはずだ。伯母が今後の話をしにきたのか、母の会社の人が線香をあげにきたのか。
インターホンをのぞく。想像のどれにも当てはまらなそうな人物が立っていた。
眼鏡にマスクをした男。白いシャツに黒いジャケット、細身の黒いパンツ。年齢は自分より上だろうが、母の会社の若手社員と呼ばれる人たちよりは若そうだ。
いったい誰だろう。思うより先に、通話ボタンに指がかかる。
「はい」
『お届けものです』
「分かりました」
オートロックの解錠ボタンを押してから気づく。
配達員の恰好ではなかった。
物を持っている感じもなかった。リュックを背負っていたが、両手はがら空きだった。
強盗、という単語が頭をかすめる。
いや、インターホンを鳴らす強盗なんていないだろう。
疑念を打ち払いつつ、武器になりそうなものを探す。フローリングワイパーを手に取った。とても自分の命を守るに値するものではないが丸腰よりマシだ。
玄関のインターホンが鳴る。心臓が鼓動を打ちはじめる。熱を持つ手がチェーンに触れて冷たさを取り戻す。しっかりとチェーンがかかったのを確認し、小さくドアを開けた。
あたたかな、日の光をまとった風が入りこんでくる。
「夏目拓未さんですか」
不愛想というわけでもないが、いささか事務的な声色。仕事で何度もやってきたやりとりを、今日もまたこなしている、といったふうの。
「はい」
「お届けものです。夏目
「はい?」
思わず声がうわずった。
どうして、死んだ母から物が届くのだ。
こちらの困惑をよそに、男はつづける。
「夏目杏子さんから、あなた宛てに遺言状をお預かりしています」
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