中編

 私たちはB棟の地下から階段を上がり、建物を出てA棟の前を横切っていく。強い日差しで目が痛い。額縁を持って歩く人、芝生で寝転がって本を読んでいる人、走って講義棟に向かう人が、視界に現れては消えていく。大学の敷地外まで何も会話をすることはなかった。ただ、大塚千絵の手は燃えるように熱かった。顔は見えなかったけれど、絶対眉は吊り上がり、頬は花火のように紅潮しているだろう。

 曲がりくねった石畳の坂道を足早に下る。つまずきそうになりながら、引っ張られるがままに足を運んでいく。行き着いたのは、寂れたマンションと雑居ビルの間にひっそりと息を潜めている、決して広いとは言えない公園だった。そのときには私は背中が少し汗ばんでいて、大塚千絵の骨張った肩は上下していた。

 公園には、すべりだいとブランコと砂場しかなかった。平日の昼間だったからか遊んでいる子どもは一人もおらず、私たちが二人だけだ。ようやく彼女は私の腕から手を離し、近場にあったベンチに座り込んだ。私以上に、彼女は体力がないらしかった。いつも教室で凜と佇む彼女の姿からは想像できなくて、思わず笑いそうになってしまう。私は顔を背けながら、彼女の左隣に腰を下ろした。


「色は何種類あるんだろう……」


 大塚千絵は天を仰ぎながらそう呟いた。彼女の前髪が汗で額に貼り付いている。私は思わず反射で彼女の横顔に言葉を返す。


「え、知らないの? 聞いてきておいて」

「知ってるわ。でも、わからない。色が何種類かなんて」


 彼女はふう、と一息ついてから髪を掻き上げ、私に視線を移した。今度はいたずらっこのような顔をして、口角を引き上げる。その表情も、今まで見たことはなかった。彼女はいったい、いくつもの顔を持っているんだろう。いつの間にか、私は彼女から目を離せなくなっていた。


「色の三原色はもちろん、イエロー・マゼンタ・シアンの三色。日本工業規格では二六九色。人が名前をつけている色は二千色以上。弁別力べんべつりょく――人が見分けられる色の種類は二百万色から一千万色……」

「全部覚えてるの?」


 順番に指を折りながら色の種類をすらすらと空でいえる彼女の目はまっすぐ前を見ていた。でも彼女の目が捕らえているのは、おそらくペンキの剥げたすべりだいでも、寂れたマンションの壁でも、規則正しく並んでいるエアコンの室外機でもない。彼女がその爛々とした瞳で見すえるのは、この世界を構成する無限の色――そんな気がする。私も彼女の隣に座って、同じ方向に顔を向けている。でも、決して彼女と同じものは見えていない。古くからあるマンションの黒い雨染みが目に留まるだけだった。彼女は続ける。


「まさか。色なんて、覚えるものじゃないわ。見るもの、でしょ?」


 彼女は私の表情をうかがってから、見えるもの一つひとつを指差していく。


「すべりだいの側面はダークスレートグレイ、ブランコの座面はライトピンク、砂場の砂はバーリーウッド、ブロンズ、バフ、エクルベージュ、ジャスミンイエロー、オーカー……だめ、やっぱり数え切るのなんて無理よ」


 天才と呼ばれる彼女の理由がそこにはあった。私は、それほどの色の名前をいえるだろうか。そこまで色を意識して、今までパレットに油絵具を盛ったことがあっただろうか。もちろん、色を意識しない日はなかった。でも私は、そこにその色があるはずだと思っていた。空には水色、郵便ポストには濃い赤色。。そう見ようとしていただけで、本当は私だけが見える色が、そこにはあったんじゃないだろうか。

 見たままのものを自分の歪んだフィルターを介さずに言語化できる彼女は、カンバスを目の前に重装備している兵士と一緒のことだった。そして私は彼女と同じ戦場で、槍一本で闘おうとしているのだった。世界の見え方が違うのではなく、が決定的に異なっているのだ。自分が恥ずかしくなり、頬の温度が一気にあがっていくのがわかった。


「私がなんで、あなたに声をかけたのか、わからないでしょう? あなたの描く青色が、私には生み出せないと思ったから。あなたしか、生み出せないと思った。フェルメール・ブルーね、まるで」


 風が私たちの間をせわしく通りすぎ、公園の周りの街路樹を揺らす。

 フェルメール・ブルー。十七世紀のオランダの画家、ヨハネス・フェルメールの代名詞と言われる、その鮮やかな青色。フェルメールがこだわった、高価な鉱石・ラピスラズリを用いて生み出された、フェルメールの色。誰もが憧れる、この世で唯一の青。


「買いかぶりすぎよ」


 彼女の言いたいことが理解できず、私はそう吐き捨てた。彼女は、私がカンバスにのせる色の何を知っているというのだろうか。入学する前から、落ちこぼれていた私。周囲は絵だけに人生を賭してきた、描かずにはいられない努力者たち。その中の一握りの、“強い何か”を生み出せる人たち。その差はどこで、どう生まれるものなのだろう。環境。親。絵との出会い。目。絵筆を持ち続けた時間。どれをとっても、私は恵まれていなかった。


「そんなことない」


 大塚千絵は私の右腕をふたたび掴んだ。その顔は真剣そのもので、何者かに追われているような表情だった。なぜ、彼女がそんな苦しそうな表情をしているのだろう。私は彼女に責められているような気分だったし、この場限りの慰めなど必要なかった。

 大塚千絵はぽつりと呟く。


「私、入学して初めての課題で、あなたの作品を見たわ」


 初回の課題。今でも覚えている。テーマは「自分」。自画像を描く人間が多い中、私は海の中に沈む自分を描いた。深い深い海の中に、溺れゆく自分。やっと飛び込めた世界は、まだ浅瀬で遊んでいただけだと気づいた。一歩ずつ沖に出れば、その深みに足をとられていく。そして、簡単には岸にたどり着けない。周りの才能にただ圧されておいた当時の気持ちを、殴り描きしたような絵だった。自分でも、陰鬱でひどい作品だったと思う。


「それがどうしたの?」


 大塚千絵が私の絵を覚えているはずがない。彼女の絵はクラスの中で抜きん出ていた。彼女の提出した絵には、形がなかった。自分の容姿でもなく、自分が目指す指標でもなく、ただただ提示された課題どおり、彼女自身を表現していた。赤とオレンジと黄色で構成された、画面一杯の張り巡らされた糸のようなもの。彼女が胸に秘めている、情熱のかたちをうつしとったようなカンバス。溺れ行く私と対照的な、“力”に満ちた作品だった。


「あなたの描く青色が、あなただけが表現できる青色だったのよ。上手くいいあらわすことができない。フェルメール・ブルーは、“ウルトラマリン・ブルー”と名前がついてる。でもフェルメール・ブルーなのよ。あなたが描く青色も、きっと誰かがつけた名前がある。でも、それはあなたが生み出した青色なのよ。私には、そう見えたわ」


 私の描く色。考えたこともなかった。私は、油絵具が織りなす色を作り出してきただけだ。ペインティングナイフで混ぜ合わせて、絵筆でカンバスに置く。それだけの色だった、のに。

 興奮気味だった彼女は、そこまで独り言のように語った後、肩を落とした。


「でも、最近その色がくすんできたのよ。わかる? よく見て。あなたの描く色って、あの色じゃないはず。もっと、あなたが思う世界を描きたいって、そう思っているんじゃないの?」


 彼女の眉が寄って、哀しそうな表情に見えた。彼女は上を指差した。つられて、私は空を仰ぐ。

 空は、青色ではなかった。強い白色をはじける小麦色と黄色がかたどっている。周囲に少しシアンが混ざっている。太陽の光が強くて、空には無数の色がきらめいてゆらめいて、あの色に名前などつけることはない。

 私がB棟の地下に閉じこもったのは、大学一年の冬のことだ。そうしないと、描き続けることはできないと思ったからだ。誰も来ることのない実習室Aで、自分だけの絵を描きあげる。それだけに没頭したかった。何本もの絵具のチューブを使いきり、何本の絵筆を使い潰してきたことか。でもそのたびに、絵画は色を失っていくのだ。暗くくすみ、光を亡くしていくそれは、まさしく私のようだった。

 実習室Aで寂しく泳ぐ鯨に、私はなんと声をかけてほしかったのだろう?


「私、世界にこんなに色があったなんて忘れてた」


 いつから青空には青色をのせればいいと思い込んでいたのだろうか。私の目から見た色を、そのままカンバスにのせればよかっただけなのに。


「私の、色」


 私は太陽に手をかざす。肌色と白が混ざった手のひらに、淡い赤とピンクとオレンジの血管を見いだす。色は、無限大だ。私の語彙では、表現できない。私が表現できる唯一の方法は、カンバスの目地に擦り込む顔料の組み合わせだけだった。


「そう。あなたの青色」


 大塚千絵の顔は、今まで見たことのない柔らかな表情だった。世界のすべてを慈しむ口元。その目は、この世でまだ名前のつけられていない色をしていた。私の心の中で、小さな蝋燭に火がともったような気がした。公園には相変わらず人の姿はなかったが、遠くから人々が生活を営む声が届いてきた。



   続

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