後編

 ――きいん、と空気が透き通った昼下がり。雨が降りそうで降らない真っ白な空を窓から眺めながら、私は慣れないジャケットに身を包んでいる。ルームシェアをしているマーシャが私を頭から爪先までじっくり見定めた後、「取材を受けるならキレイめの格好のほうがいいんじゃない?」と提案されたので、彼女のジャケットを借りたのだった。今では借りたことを後悔している。肩周りがごわごわとしていて、しきりに肩を上下させずにはいられなかった。


「ミス・オータケ。どうしました?」

「いえ、何も」


 私は取材中だったことを思い出し、着心地の悪さを頭の隅へ追いやった。コーヒーの香りで落ち着こうと、カップに手を伸ばす。目の前のまだ若いそばかすがチャーミングな新聞記者は、眼鏡を何度も指で押し上げながら手元のメモを一枚めくる。赤い巻き毛が揺れる。


「では取材を続けますね。今回は新進気鋭のアーティストが集められた展覧会、『COLORS』に誘われたとき、どう思われましたか?」


 足を組むと余裕があるように見える、とマーシャが言っていたので実践してみる。初めての取材だということがバレバレかもしれないけれど。いつもより少し早い鼓動を押さえるように深呼吸してから、平常心を装って答える。


「もちろん驚きました。無名の私に声をかけてくださったんですから。ずっと前から、今回の展覧会のテーマに沿った作品づくりをしてきたので、それを認めてくださったのかな、と」

「確かに、ミス・オータケの作品は色が象徴的なものが多いですよね」


 彼女はノートから視線を上げて、ぐるりと周囲を見渡した。居住スペース兼アトリエには、今まで描いた作品が無造作に重ねて置かれている。マーシャからは「取材を受けるなら片付けなよ」と言われたが、限界があった。彼女も自分の彫刻作品を置いているのだから、おあいこだった。今日ここを初めて訪れた新聞記者は、私の作品を一枚一枚指を差しながら見つめていた。


「あ、私あれ大好きです。『鯨』シリーズ。図版で拝見しました」

「図版って、前に個展を開いたときのものですか?」

「ええ。その個展であなたの作品を知りましたから」


 日本から来た無名の画家の個展に足を運ぶなんて、若いわりにフットワークが軽い記者のようだ。自己紹介のときに趣味は美術展巡りと言っていたのも、あながち嘘ではないのだろう。この芸術家溢れる街で一人でも自分の作品を見てくれていることに、私の心は泉のようにすうっと水が透き通っていくような感覚を覚えた。

 大学を卒業して日本を飛び出して数年が経った。アルバイトをしながら、私はなんとか絵を描き続けていた。お金を貯めては芸術家仲間とグループ展を開いたり個展を開いたり。お世辞にも売れている画家とは言えないが、なんとか生活しながら絵筆を握ることができている生活を、私は気に入っていた。大学入学時の私が予想だにしていなかった日々を送っている。

 大塚千絵に叱咤激励されたことは、今でも思い出す。あの日以来、たまに話すようにはなったが、卒業してからは彼女と連絡をとらなくなった。日本でも注目度の高いアーティストとして認められ、忙しい日々を過ごしていると聞いた。

 あのとき描いていた鯨は、私の原点にもなっている。課題として評点は高くなかったけれど、あれ以来、あのときの感覚を忘れないように、鯨を描き続けることのがライフワークになった。青空を、森の中を、雪原を、崖を、小麦畑を、溶岩を泳ぐ鯨。何枚も何枚も描いた。どの鯨にも丁寧に、私の色をのせていった。カンバスは生きている色で満たされ、鯨は色の世界を力強く泳いでいく。


「特にあなたの青色の使い方が、何か他の人とは違って……」

「そう言っていただけると嬉しいです」


 私はもう一度コーヒーに口をつけた。その華やかな香りに、色をつけるとしたら何色がいいだろう。そんなことを考えていた。


「そういえば」


 記者は思い出したように顔を跳ね上げた。ソーサーにカップを置き、どうしました? と尋ねる。彼女の顔は記者らしくなく、大人びた表情もあれば子どものように輝く表情をすることもあって、飽きずに話ができる。今は、四つ葉のクローバーを探し当てた子どものような顔をして興奮した様子で話を続けていく。


「今度の展覧会、もうひとり日本人画家の参加が決まったようですよ。この時期に決まるなんて、よほど主催者は気に入っているようですね」

「このあたりだと……ミスター・ナガイでは? この間の個展でも大盛況だったと聞きましたよ。彼の原色の作品は目を引きますし、こちらでも人気の的ですよね」

「いえ、女性でしたね。あなたのお名前とよく似た……」


 その言い方に、肌がざわつくのを必死でおさえる。名前の似た日本人女性で、ニューヨークの有名キュレーターの絵画展に急遽アサインされる人物。私は心臓をなでられるような思いがする。その条件を考えると、一人しか思い当たらないからだ。

 彼女はノートをスマートフォンに持ち替えてページをスワイプしていく。「あったあった」と言いながら、眼鏡の縁を持ち上げて画面を見せてくれる。


「オーツカですよ。チエ・オーツカ。チエって、“thousand picture” って意味なんですね」 


 記者のジョークなのかわからない発言に、私は思わず笑ってしまった。

 千の絵を操る人。千の色を操る人。よくよく思えば、彼女は絵を描くために生まれてきた人だったのかもな。そんな思いを抱きながら、膝にかかえたクッションに頬杖をついて笑いをかみしめる。


「知人ですね。あの人の描く絵は素晴らしい。魅了されます」


 当たり障りのない返答をしてしまい、自嘲してしまう。私はまだまだ彼女に嫉妬している。鯨を自由に泳がせてくれた彼女に。私の道を拓いてくれた彼女に。私の何歩も先を進み、背中しか見せてくれない彼女に。尊敬と崇拝が入り交じるこの感情は、私だけのものだ。誰にも渡さないし、誰にも話さない。この感情が、描くときのエンジンとなることを、私はこの数年で血が滲むほどに学んできたのだった。


 記者はひとしきり大塚千絵の話をしていたが、自分の本分を思い出したのか、取材を再開した。「あちらに置いてある絵を見ても?」と尋ねたので、私は手で彼女にぜひにと勧めた。彼女は椅子から立ち上がり、作品に足をぶつけないよう注意しながら絵に近寄って真剣な眼差しで絵肌を見つめている。私はそんな一鑑賞者である彼女を見つめる。どうか、今は私の絵だけをみてほしい。私はいつもそう願っている。


「やはり、あなたの青は美しいですね」

ええ。私の青色ですからイエス・マイ・ブルー


 大塚千絵には、絶対出せない、青色。夢も絶望も、焦りも安堵も混ざった、私の青色。私はその色が色あせないようにと、これからも筆を走らせるのだろう。


 記者が鑑賞する「寂しさの中を泳ぐ鯨」は、優しい眼差しで私を見つめていた。



  了

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イエス・マイ・ブルー 高村 芳 @yo4_taka6ra

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