イエス・マイ・ブルー

高村 芳

前編


 「それ。今度の課題の作品?」


 背後からぶっきらぼうな声が聞こえてきたが、最初は私に向けられた言葉だとは思わなかった。そのまま振り返らずに絵筆をカンバスに走らせていると、「ねえ!」といらだったような声に変わった。私はやっとそこで振り返る。後ろに立っていた人物が視界に入り、私は不愉快そうな顔にならないように気をつけた。

 私が通う芸大では、正門から一番遠くに位置しているこのB棟を油画専攻の学生が使うことが多い。油絵を描くための資材が多く集まっているからなのだが、その中でもとりわけ人気のない実習室がある。地下一階の実習室Aだ。普通教室が三つ分入るくらい広い部屋なのだが、地下なので暗く、埃っぽく、片付いていない。床には使われなくなった画材が散乱していたり、木くずが落ちていたり。何より、開校当時から何人もの学生にこぼされてきた油絵具が、床や壁や棚に難解な抽象画を描いている。この教室を「新進気鋭の抽象画家の作品だ」と嘘をついてしまえば、この世界で何人かは信じるかもしれない。今日は私の他に三名ほどが黙々と作業を進めていたはずだ。

 そんな教室に、なぜ彼女が――大塚千絵おおつかちえが? 両腕を組み、仁王立ちで私を見つめる彼女の質問の意図をくみとれないまま、とりあえずうなずいた。確かに、この絵は今月提出の課題作品として提出するものだったからだ。


 彼女は絵筆のように均整のとれた長い足で距離をつめてきた。カンバスの前に置いた丸椅子に座って描いている私の隣に立ち、ふたたび腕を組んでじっと絵を眺めている。カンバスに重ね塗った油絵具の絵肌の隅々まで観察されているようで、落ち着かない。彼女の視線は、一二号サイズのカンバスの上をせわしなく動いている。私は彼女にばれないよう、カンバスから彼女の横顔に目を移した。


 彼女は工夫のない言葉で表現すると、「天才」を言われる部類の人間だと思う。「思う」というのは、彼女のことを天才だとはっきり判断できるほど、私に絵の才能がないからだ。この芸大を受験するときも、実技試験の評価はギリギリで、なんとか普通科目を真面目にやっていたおかげで入れたという落ちこぼれ具合だった。そんな私とは対照的に、大塚千絵は入学時にはもう絵描きの世界に片足を踏み入れていた。今度、小さなギャラリーで個展をやると風の噂で聞いた。家には自分だけのアトリエがあるという。同じ時期、同じ場所で絵画を学んでいる学生だとは思えなかった。彼女と言葉を交わしたことは、今までなかった。

 彼女の声が、地下独特の湿っぽい空気の中で響く。


「描くのをやめたほうがいいんじゃない? このままだと、無理よ」


 彼女は眉をしかめて、はっきりとそう口にした。聞き間違いではなかった。頭の中でガラスが割れたような衝撃だった。

 描くのをやめたほうがいい。課題を提出して講評をうけるたびに、私自身思ってきたことだった。講評は学生たちの前で、評価の高かった作品から行われる。評価の高かった順に置かれた作品群の中で、大塚千絵の絵は常に上位に食い込んでいた。先生は、匿名で提出された課題の中で、彼女の絵を見つけ出す目を持っているんじゃないかと疑ってしまう。でも、そんなことは杞憂だ。私もわかるのだ。目の前に作品の数々が置かれ、課題のテーマも、サイズも、色も違うのに、どうしても惹きつけられてやまない作品がある。複数あるときもある。でも必ずその中に、彼女の作品はあった。先生や学生たちは彼女の作品を「美しい」「技術力が高い」「魅力的」と評価する。私が彼女の作品に抱く印象は、そのどれでもなかった。「強さ」だ。彼女の絵には力があり、世界がある。勝つ力ではなく、心を動かす力だ。彼女の絵を見ていると、叫び出したくなる。耳のすぐそばで誰かに叫ばれているような気分になる。そんな彼女の作品とは違い、私の「弱い」作品は、教室の隅のほうに置かれて、講評は一言だけ、ということがほとんどだ。

 これほどまでに「弱い」作品など、この世に生み出される意味があるのだろうか? それは私の心臓の底で、ずっとくすぶっている問いだった。


 大塚千絵は鋭い双眸で私を静かに射抜いていた。矢のきっさきを突きつけられているような気分だ。それほどに彼女の表情は引き締まっており、微動だにしていない。私の盾では歯が立たない。何も言えず、「あ」とか「う」とか言っているうちに、喉がじわじわと締まっていく感覚があった。息ができない。吐息のかわりに、涙がこみあげてくる。せめてこぼさまいと、私は彼女から視線をそらし、目の前のカンバスを見た。


 空を悠々と泳ぐ鯨がそこにいる。青空の中、乱立するビルの上に影を落とし、体をくゆらせる。本来は泳げない空を、どこか苦しそうで、もがいて泳ぐ鯨。そうか、私は私を描いていたのか。妙に納得してしまって、涙はどこかへ行ってしまった。


 途端、大塚千絵が勢いよく息を吐いた。今まで張り詰めていた空気が抜けていく風船のようにへたり込んだので、私は驚いた。手が汚れていたので肩をたたくこともできず、私はまた「あ、あの……?」と小さな声をかけて戸惑うだけだった。どうしようと思っていると、また大塚千絵が勢いよく立ち上がる。状況が次々と変わっていくので、私は何が何だかよくわからなくなっていた。ただ、こちらを見る彼女の表情が、先ほどとは打って変わって敵性を全く感じない、人間らしいものになっていた。


「ごめんなさい」

「え?」

「いつも言われるの。その言い方じゃ伝わらないよって。気をつけてるんだけど、絵のことになると考えるよりも早く言葉が出てきてしまって」


 大塚千絵がこんなに喋っているところを初めて見た。講評のときは先生の質問に一言二言で答えるか、聞き取れないくらいの音量で「ありがとうございました」とつぶやくくらいでしか声を聞いたことがなかった。


「大竹さん」


 彼女に名前を呼ばれて驚いた。まさか私なんかの名前を知ってるなんて。


「この世界に色は何種類あると思う?」


 予想だにしていなかった質問に、私は考え込んでしまった。色? 彼女は何を意図して聞いてるんだろう?

 色の三原色のことだろうか。

 それとも名前がつけられている色の種類?

 どこかの組織が規格で定めた色の種類?

 人間が認識できる色の種類?

 正解がわからず、首をかしげながらうんうんとうなって考えていたら、彼女に腕をいきなり掴まれた。


「ちょっと来て!」

「わ、ちょっと待って」


 彼女は私の腕をひっぱり、扉のほうに連れて行こうとする。落としそうになった絵筆とパレットを慌てて丸椅子の置いて、エプロンもつけたまま私たちは実習室Aを後にした。



   続

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