鯛から逃げたい

水無月やぎ

鯛から逃げたい

 華金の19時30分。

 僕たちは職場近くの居酒屋にいた。居酒屋といってもチェーン店とか、椅子がビール瓶を入れるケースになってるとか、焼き鳥の煙がすごくて前がよく見えないとか、「いつもの!」という声が飛び交うような所ではない。最近できたばかりの綺麗な内装で、リーズナブルな値段の割にはお洒落なつまみを提供してくれる店である。

 僕がリーダーとなって進めていた企画が通ったことのお祝いだと言って、先輩が誘ってくれた。先輩には新人研修の時にお世話になった。今は違う部署だけど、出身大学が同じということから距離が縮まり、たまにこうして飲みに行く仲になっている。


「ささ、飲んで飲んで。今日はお前のお祝いなんだからさ」

「ありがとうございます。このお店、来たいと思ってたので嬉しいっす」

「予約取るのちょっと苦労したけどな、ははっ」


 僕の企画の内容や先輩の些細な愚痴などを互いに話していたら、この店イチオシのメニューがやってきた。


「お待たせしましたぁ! 旨味たっぷりアクアパッツァです! あっついから気をつけて欲しいんですけど、あっつい方が美味いんでどうぞお早めに!」


 深皿の真ん中に丸ごと置かれた、よく火の通った鯛。周りはアサリやミニトマト、玉ねぎ、パプリカ、ズッキーニなどで彩られていて、よく蒸されて滲み出た鯛の出汁とアサリの出汁、野菜の出汁、それに白ワインの風味がこの一皿にギュッと詰まっている。これは確かに、やけど覚悟で熱いうちに食べたほうがきっと美味い。


「アクアパッツァ美味しそうですね、先輩」


 先輩を見ると、彼のフォークが鯛の白目の周りをグルグルと回り続けていた。


「なぁ。この鯛はさ、自分で選んでここに来たんだと思う?」

「……え?」

「どの生き物もさ、行動を運命づけられてる気がしないか」


 先輩相手に、そんなのいいから早く食いましょうよ、とは言い出せず、ここは先輩の話に乗っかるしかないと思った。


「……どういう、ことですか?」

「さっき俺が言ってた会社が嫌って奴、なんだかんだで毎日出社してる。それって自分で選んでるんだよな、結局。この白目剥いてる鯛だってさ、なんだかんだで漁師の網に引っかかって、引き揚げられても逃げ出さずに恐らく豊洲に来てさ。そんでこのバルの店主に買われて焼かれて、8番テーブルの俺らの元に来て、俺らの栄養になることを選んでる。周り囲ってるアサリもきっとそう」

「でも、鯛はもう死んでますよ。わずかな意識が残ってたとしても、ここの店主に下ごしらえされる頃には完全に死んでます。焼かれて僕らのテーブルに来ることを選ぶなんてのは、絶対無理じゃないかと」


 先輩は、チッチッと人差し指を左右に揺らした。


「いや、魂はあるからな。魂には意思があるだろう。人間の魂が四十九日間、今世と来世を彷徨うなら、恐らく鯛も同じだ。こいつはまだ死んだばっかだし、きっと魂はこのバルのどこかにある。アクアパッツアはここのイチオシメニューだから、ここには何匹もの鯛の魂が彷徨ってるんだ。……ほら、隣のカップルも頼んでる。きっとこの2人の頭上にでもいるんじゃないか、魂が。……あぁ、彼氏の胃に入っちゃったよ。どう思ってんだろうな、当人は。ってまぁ、魚だから当人って言い方は良くないか」

「ちょ、先輩。そんなん言ったらめっちゃ食いづらいじゃないですか」

「はは、ごめんごめん。でも俺が言いたいのは、人間も含めた生き物の行動には全て、意思があるはずだということだ。最終的な決定権は自分にあるからな。それは鯛でもアサリでも一緒」


 そうして先輩は、向かいの僕に手招きをする。僕は顔を近づけるけど、胸あたりにある鯛の白目が気になってしょうがない。先輩は急に小声になった。


「隣のカップルだって、もしかしたら彼女は嫌々彼氏のデートの誘いに来たのかもしれない。じゃあ、なぜ来たのか? それはきっと、夕飯の食費が浮くとか、お洒落なアクアパッツァをインスタにあげればキラキラ女子になれるとか、彼氏の存在自体が彼女のステータスになって女友達の間でマウント取れるからとか、そういう理由があるかもしれない。……ほら、彼女、スマホで自撮り始めたよ。あれは十中八九インスタに載るぜ」

「失礼ですって先輩!」


 小声でたしなめて、僕は先輩との距離を離そうとした。でもその瞬間、先輩は机の上にあった僕の手を掴む。


「失礼なのはどっちだよ、お前」

「……は?」

「お前が俺とのサシ飲みに来た、それにも理由があるはずだ。お前には断る権利もあったんだよ? でも、是非行きたいです! って言って自分から日時指定してきたよな。……あぁ、積極的で可愛い後輩だと思ったよ。けどそんなお前にだって、隣の彼女みたいな理由があるだろ? 食費が浮くとか、予約困難の人気店に行けるとか、それ以外にも」

「それ以外、ってなんですか。てかそんなゲスみたいなこと思ってませんよ。先輩が誘ってくれたのが純粋に嬉しかったし、お話したいと思って」

「……お前、今言ったことこれに誓えるか」


 先輩はフォークで鯛を示した。その先端は白目にまっすぐ向かっている。僕はその白目が動き出すんじゃないかと思って、言葉を発することができなかった。


「誓えるわけねぇよな。だってお前、俺に怪しまれたくないだけだろ? だから可愛い後輩面して、今日も忠犬みたいに俺についてきた」


 …………まさか。


 1回だけのつもりだった。でも気づいたら、2回、3回とズルズル続いて……もう1年が経っていた。

 これは仕方ないことだったのか? 彼女の誘いを振り切れなかったのは、不可抗力だったのか?


——お前の意思だろ。お前が自分で決めたんだろ


 そんな声が、もう湯気の立たなくなった深皿から、聞こえた気がした。


「まぁ、気を許してお前を家にあげた俺も悪かったんだけどな。お前を信じる。嫁を信じる。って俺は自分で決めてたんだ。でもお前らは自分の意思で、俺を裏切り続けた」


 先輩のフォークが、真上から鯛の白目を刺した。その勢いがあまりにも強くて、煮汁がぴしゃんと飛び跳ねた。


「あぁ、跳ねちゃった! てか冷めちゃった! ごめんな、食おう食おう」


 急にアクアパッツァが来る直前のテンションに戻って、彼は甲斐甲斐しく鯛や野菜を取り分ける。何分も手を付けられていなかった鯛がものすごい早さでボロボロに崩れて、僕は熱気の籠る店内で一人、寒気がしていた。

 取り分けた小皿を僕に渡して、食えと先輩は言った。その笑顔に逆らうことなんか出来やしなくて、僕は白いサングリアと共に崩れた鯛を流し込む。鯛の魂を頭上に感じながら。


「どうだ、美味いか?」

「……はい」

「今度は俺が自分の意思で、お前を鯛にしてやるよ」


 先輩はボロボロの鯛と熱でぐしゃぐしゃのミニトマトを口に入れ、よく噛み、残りのモヒートを一気飲みする。無残な姿になった鯛は僕に裏切られた先輩に喰われて、一心同体になった。先輩の身体中に、鯛の意思がほとばしる。ダメ押しで流し込まれたモヒートが、それをさらに加速させる。

 先輩は再び僕に手招きをし、小声で「おい」と言った。深皿に残された鯛の白目が僕を捕らえる。その白目には先輩のフォークの跡がくっきりとついているのに、やっぱり動き出しそうな予感がした。穴の開いた白目と、頭上の鯛の魂が僕を挟み撃ちにする。僕はもう、鯛に支配されている。


「お前は自分の意思でここに来たんだ。どうなっても文句は言わせない。お前をよーく下ごしらえして、皮がバリッバリになるまでお前を焼いて、出汁の最後の一滴が出るまでよーくお前を煮込んで、最後に思いっきり白目剥かせてやるよ。……ははっ、不味くはしないから怯えんなってば」


 逃げればいいのに、逃げられなかった。座面と臀部でんぶが接着剤で固定されたみたいに動けなかった。

 冷めても美味いなこれ、と言って先輩は、さっきアクアパッツァを持ってきた店員を呼び止めた。


「すいませーん、モヒートおかわり! あと、本日の鮮魚のカルパッチョって何ですか?……え、真鯛? いいねぇ最高だ。それも追加で!」


 鯛と一体化した先輩は、この世の誰よりも強く見えた。

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鯛から逃げたい 水無月やぎ @june_meee

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