エピローグ、朝早くと夕暮れの下駄箱にて



「――じゃあ島岡さん、明日もまた仲良くしてね」



 そう言って俺は、島岡さんを残して教室を出ていく。

 そのまま廊下に出た俺は、島岡さんの視界から外れたと感じた瞬間、駆け足ですぐさま同じ階のトイレに駆け込んだ。


 緊張で行きたくなったというわけでもないし、別に他の場所だってよかった。


 ただ、島岡さんが確実に訪れない場所が男子トイレくらいしか思い浮かばなかったのだ。


 トイレの個室に入って、すぐに鍵を閉める。

 駆け足のせいで荒くなった呼吸を整えて、俺は心から呟いた。



「緊張した………………っ!」



 前言撤回。本当は緊張で吐きそうだった。

 出すものは何もなかったけれど、俺は他に誰もいないのをいいことに、しばらく俺の事情を知らない誰かが聞いたら、体調を心配されるか霊の類かと思われるようなため息や独り言を、個室の中で吐き続けていた。



 それからしばらくして、最終下校時間を告げる音楽が校内に流れ始めたことで俺は顔を上げる。


 ああ、もうそんな時間かと思いながら、俺はトイレを出て教室に置いていた鞄を取り、帰るために玄関に向かった。


 向かった先、俺が今朝死ぬほど悩んで突っ立っていた下駄箱前で、偶然にも島岡さんと浬の二人と鉢合わせ、どきりとしてしまう。


 人のことは言えないが、二人ともまだ学校にいたのか、と思った。


 島岡さんはおそらく、俺が出ていってからも教室に残っていたのだろう。

 浬の方はこんな時間まで何をしていたのだろうか。でもまあ、七割くらい告白の呼び出しで残っていたのかなと思いながら、俺は二人に声をかけた。


「あれ、二人ともこんな時間にどうしたの」


 島岡さんについては理由を知っているのに白々しいなと思いながら口にする。

 そんな白々しい問いに答えてくれたのは浬の方だった。


「さっき教室で島岡さんに会ってね。どうせだから二人で少し予習してたんだ」


 そう言って浬が微笑む。

 こんなところで嘘をつく理由もない。おそらく本当のことなのだろう。

 浬の言葉に、島岡さんもゆっくりと頷く。


「うん、そう。順番的に、明日の数学で当たるのが私と島原くんだったから」

「そうだったんだ。じゃあ俺はまだ余裕があるな」

「今の内にやっておかないと痛い目見るよ?」


 俺の「余裕がある」宣言に、浬が呆れた笑みを浮かべる。そんな浬に対し、俺はこぶしをぐっと握り、堂々と告げた。


「その時は助けてくれ!」

「潔いなあ」


 浬の言葉に、島岡さんがくすくすと笑う。

 その仕草にやっぱり可愛いなと思いながら、俺は何かを言いたそうにしていた島岡さんの言葉を待った。


「……でも、少ししか予習できなかったね。途中で見回りしていた加治先生に『早く帰りなさい』って言われたから」


 加治という言葉を聞いて、ぎょっとして島岡さんの方を向く。しかし、当の島岡さんは淡々としていて、驚いた俺だけが一人浮いているみたいだった。


「どうしたの、航平」

 そんな俺を見て、浬が不思議そうに俺に尋ねる。


「……いや、あの人って、ちゃんと見回りとかしてたんだなと思って」

「先生だからそれはしてるでしょ」


 変なこと言っているなあという感じで浬から見られ、なんとなく居心地が悪くなってしまう。


 ……でも、そうか。あの人の話ばかりしていても怪しまれるけど、あの人の話をしなさすぎるのも怪しまれるのか。


 そう考えると、あの人の話題を出しても動じない彼女より、関係ないのに動じまくる俺の方が、よっぽどあの人のことが好きなように見えた。


 俺の反省をよそに、浬は俺から島岡さんに視線を向け、口を開く。


「島岡さん、一緒に帰る?」

「……邪魔じゃない?」


 さっき「加治」の言葉を出したよりも驚いたような表情で、島岡さんは口にする。


「むしろこんな時間に女の子が一人で帰る方が危なくない?」


 浬の言葉で、俺は玄関の外に広がる空を見上げる。

 確かに空は、浬が「こんな時間」と呼ぶのもうなずけるくらい薄暗くなっていた。


「……やっぱり浬は凄いわ、気遣いの鬼だね」

 俺がしみじみと口にすると、浬は苦笑いのような表情を浮かべた。


「せめてそこは鬼以外の表現にしてくれないかな」

「完璧超人がいいんじゃないかな」


 島岡さんも口にする。

 完璧超人。実際のところ浬は抜けているところも多いけれど、彼女から見て浬は完璧超人に見えているということなのだろう。


「島岡さんまで乗らなくていいよ」

 浬が心からおかしそうに笑う。


 やはり島岡さんとは、浬は他の女子よりリラックスして話せているような気がする。

 島岡さんは浬の人気に興味がない。その距離が心地いいのだろうなと俺は解釈した。


「じゃあ、一緒に帰ろう」

「……うん」


 そんな島岡さんだから、浬の親切もそのままの意味で受け取ることができる。

 笑って頷いた島岡さんは、少し吹っ切れたような表情をしていた気がして、俺も嬉しくなった。


 やはりあの時勇気を出してよかった、と思う。


 彼女が靴を履き替えて上履きを下駄箱に入れた時、俺は今日の朝早くそこに来て悩んでいた時のことを思い出したが、すぐに頭から振り払い、二人の背中を追って玄関を後にした。



 ――――――――――――――――――――



 前日、浬との登校を「用事があるから」と断り、俺は朝早くの人の少ない下駄箱の前に立っていた。


 用事を済ませたらすぐに立ち去るつもりだったのに、昨日書き上げた手紙を右手に抱えて、俺はどうしてだかその場からしばらく動けずにいた。



 人生でおそらく初めて、色々な思いを込めた手紙。その宛先は同じクラスの、島岡柚琉さんだった。



 彼女とはよく浬経由で話すことが多い。

 数少ない、浬にあまり興味のなさそうな女の子。

 その理由にも、俺は気付いているわけだけれども。


 でも、俺が気付けたのは半分くらいズルによるものだ。


 俺の叔父と島岡さんのお姉さんは近々結婚する。

 叔父は現在、俺たちのクラス担任をしているが、今まで俺や島岡さんの関係について誰かに話している場面は見ていない。

 だからおそらく、俺と島岡さん以外は、あの人が担当しているクラスに、自身の甥や恋人の妹がまぎれているなんてことを知らないはずだ。


 だから、というわけでもないが、俺は気付いている。

 島岡さんをよく見ていたから、気付いてしまっている。


 彼女はおそらく、叔父のことが好きだ。そして、そのことを負い目に感じている。


 だって俺も、島岡さんに対して、同じように考えているのだから。



 ――血のつながりと、人の好みというのは似るのだろうか。


 俺が叔父の恋人の妹を好きになるのは、俺と叔父の中に共通する遺伝によるもので、周りからは「まあ仕方ないよな」と言われてしまうものなのか。

 そんなことを、最近よく考えている。


 実際のところどうなのかは分からない。血を分けた兄弟でも趣味は全然違っている、なんて話は友達からよく聞くし、ただの偶然ってだけなのかもしれない。

 でも、遺伝と言われたらどこか納得できるのも事実だろう。


 結果的に俺と叔父の好みが近くなったのは、遺伝によるものなのか。

 それなら、好きになることは仕方のないことなのか。


 身内とタイプが同じなんて笑えない冗談だ。冗談だと思うのに、どこかそれを否定できない。


 あの人を叔父に持つ俺がそう思うのなら、あの人と近々結婚する姉を持つ彼女も、そう思っている気がしたのだ。


 でも、俺は島岡さんが叔父と呼ぶには若すぎるあの人を好きになる理由も、俺が島岡さんを気にする理由も、全部「遺伝」なんて言葉で片づけたくはなかった。


 だから俺は、同じような境遇にいる彼女にずっと伝えたかったのだ。

 そんなことはない、と。誰も知らないところで、彼女にそれを伝えて、少しでも彼女が楽になったらいいと思ったのだ。



 だからわざわざ、なるべく人が気付かないだろう手紙で呼び出す方法にしたんだ――と、俺は再び右手に持った手紙に意識を戻す。


 しかし言葉と違って、手紙は形に残る。

 詳しい内容は書いていないとはいえ、島岡さんの手に渡る前に、誰かに見られたりはしないだろうか。


 でも、島岡さんの下駄箱は一番上の列だから、同じ列でもない限り、一番上の下駄箱の中身なんてそうそう見ないかと思い直す。

 しかも、いつも手紙で埋められる浬の下駄箱は、島岡さんのすぐ下に位置している。手紙が気になって目を引くとすれば、明らかに浬の下駄箱の方だ。


 浬は良くも悪くも人目を引く。だから人によっては浬を贔屓したり、反対に邪険にしたりするということも多かった。

 しかし、島岡さんは他の人と同等の扱いで浬に接しているように見える。その姿は、浬の友達である俺から見ても、好意的に思えるものだった。


 だから浬も、島岡さんのことは好意的に見ていると思う。

 でも、それがどういう理由から来るものかは分からない。異性としてではなく、同級生として好きなだけかもしれない。

 もし、浬が本当に島岡さんを好きだったなら、俺に勝ち目はあるのだろうか。


 ……でも、島岡さんには好きな人がいることを、浬はきっと知らないんだろうな、と思う。

 でも、その恋はいずれ諦めなければいけないものであることも、俺は知っているわけで。

 だから、知っていても知らなくても、最終的に彼女が失恋しまうことを考えるなら、結局関係ないのだろう。

 俺もできる限り、隠しておこうとは思っているし。

 下駄箱の件は、普段困っている浬には悪いが、いいカモフラージュになるだろう。


 そんな風にしてどうにか自分を納得しようとするが、心のどこかで本当に大丈夫かと不安になってしまう自分がいることにも、本当は気付いていた。


 告白するつもりじゃないのに、手紙を入れるだけでもこんなに緊張するものなんだな、と思う。



 ――浬宛てに手紙を書いて下駄箱に入れていく女子たちも、こんな気持ちなのだろうか。



 ちゃんと島岡さんの下駄箱に入れたか、もう一度確認し、俺は踵を返す。



 できることなら誰にも知られず、穏便に彼女と話せたらと願いながら、俺は教室に戻っていった。





 END

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君の優しさが痛い そばあきな @sobaakina

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